第27話 銀の欠片
淡い銀色の線は、レイグが目を凝らしても消えなかった。
王城地下の古い礼拝堂。その最深部に置かれた石の祭壇には、長い年月を経て色褪せた紋様が刻まれている。
壁に残った彫刻も、崩れかけた柱も、床に積もった埃も以前と変わらない。違うのは、古い溝の中を細い糸のように走り、消えかけては明るさを取り戻す銀色の光だけだった。
「本当に、前は光ってなかったの?」
フィエラが聞いた。
「ああ。ずっと前に来た時は、ただの古い祭壇だった」
ダルクが大盾を壁に預け、祭壇へ一歩近づいた。
「じゃあ今日は何が違うんだ?」
「分からない」
「早いな」
「本当に分からないんだよ」
レイグは振り返り、ここまでの道筋を頭の中で辿った。
兵舎へ入り、装備を整えた。予定していなかったゴブリンの待ち伏せに遭い、その後はカルゼンたちを助けるため地下水路へ向かった。
カルゼンから抜け道を教わり、そこを使えばもっと早く王城地下へ入れたはずだったが、途中でネヴァルが戦っているところを見つけた。
仲間を逃がすため一人で残り、魔物に囲まれていたネヴァルを助けるため、三人は王城地下への道を外れた。
そのせいで時間を失った。ヒールポーションも使い、フィエラの矢も減っている。レイグ自身も魔力を消耗していた。
それでも、ようやく辿り着いた祭壇が今は光っている。
「道も違うし、着いた時間も違う。倒した魔物だって違う」
レイグは祭壇を見ながら続けた。
「カルゼンたちとも一緒に戦ったし、ネヴァルも助けた。持ってる装備も、ここへ来た時の状態も前とは違う」
「違うところだらけだね」
フィエラが矢筒へ手をやり、いつもより軽くなった中身を指先で確かめた。
「それじゃ、どれが原因か分からないか」
「ああ」
レイグが再び祭壇を見ると、銀色の線はまだ消えていなかった。
「でも何かある」
「そりゃ光ってるからな」
ダルクが言った。
「問題は、それが金になるかだ」
レイグとフィエラが同時にダルクを見る。
「何だよ」
「いや」
フィエラが肩をすくめた。
「そこへ行くんだなと思って」
「王家が探してる遺物かもしれねえだろ」
ダルクは祭壇を指した。
「王家があれだけの金を出すんだぞ。普通の石ころじゃねえ。こういう、明らかに変な物の方が怪しいに決まってる」
「でも光だぞ」
レイグが言う。
「持って帰れるのか?」
「だから調べるんだろ」
ダルクはしゃがみ込み、祭壇の下へ顔を近づけた。
「隠し棚とかないのか」
「急にやる気出たね」
フィエラはもう壁際へ歩いていたが、ダルクはその背中にも指を向けた。
「うるせえ。フィエラ、お前は壁見ろ。レイグは床だ」
「壁なら今から見るよ」
フィエラは振り返らずに答えた。
「俺の分まで勝手に決めるなよ」
レイグが言うと、ダルクが顔を上げた。
「この前決めただろ。一人で勝手に決めないって」
「こんなことで使う約束じゃねえ」
壁際でフィエラが吹き出した。
「でも覚えてたね」
「今朝決めたばっかりだろ」
三人の声が、静かな礼拝堂に響いた。
少し前まで魔物と戦っていたせいか、こうして言い合えることが妙にありがたかった。レイグも思わず口元を緩め、祭壇の脇に膝をついた。
「分かった。俺は床を見る」
「金になるかもしれねえんだぞ。真面目にやれ」
言った本人は、もう二人を見ていなかった。ダルクは祭壇の下を覗き込み、隠し棚を探して手を伸ばしている。
祭壇は腰ほどの高さで、大きな石材をいくつも組み合わせて作られている。ダルクはその端に指を掛け、持ち上げようとした。
「ふんっ……」
腕に力が入り、首筋の筋まで浮いたが、祭壇は少しも動かない。
「無理だ」
ダルクはすぐ手を離した。
「諦めるの早くない?」
「腰やったら誰が盾持つんだよ」
「自分の限界を知ってて偉い」
「馬鹿にしてんだろ」
「ちょっとだけ」
フィエラは壁に残った古い彫刻を指でなぞり、石材の継ぎ目へダガーの先を軽く差し込んでいる。だが、隠し戸らしい隙間は見つからなかった。
「こっちも何もないよ。崩れてるところはあるけど、普通に崩れてるだけ」
「床も同じだ」
レイグも祭壇の周囲を回り、ひびの入った石板を軽く叩いてみた。
下に空洞があるような音はしない。人が動かした跡もなく、隠された蓋や仕掛けらしいものは見当たらなかった。
「だったら祭壇そのものか」
ダルクが銀色の紋様を覗き込む。
「削るなよ」
「誰が削るって言った」
「お前、値がつくと石まで剥がしかねねえからな」
「そこまではしねえ」
「持って帰れる物なら持って帰るんだろ」
「持って帰れるなら持って帰る」
ダルクは開き直った。
「王家の報酬だぞ。レイグ、お前も欲しいだろ」
その言葉に、レイグは少し黙った。
欲しい。
母の古くなった上着と、何度も繕い直したネリナの靴が浮かんだ。
「欲しいよ」
レイグは答えた。
「でも、持って帰れても、次の朝には消える」
その先は言わなかった。夜明けが二人の記憶までさらっていくことを、また声にしたくなかった。
フィエラがレイグを見る。何か言いかけたが、その時だった。
「待って」
声が変わった。
レイグも祭壇を見る。
銀色の線が、先ほどより明るくなっていた。
「動いてる」
紋様の溝に沿っていた光が、ゆっくり祭壇の中央へ集まっていく。
ダルクがすぐ一歩下がった。
「触るなよ」
「今は見るだけだ」
「だったら手ぇ引っ込めてろ」
三人は祭壇を囲んだまま、息を潜めた。
細かな銀色の粒が一つずつ石の中から浮かび上がり、初めは表面を這っていた光が、やがて指一本ほどの高さまで離れていく。
「……何だ、あれ」
ダルクが呟いた。
レイグにも分からない。
宙へ集まった銀色の粒は細長くまとまり、一方を緩やかに広げながら、先端だけを細く尖らせていった。
一瞬、それは小さな羽根の欠片のように見えた。
「羽?」
フィエラが息を潜めて言った。
レイグの胸が強く鳴る。
理由は分からない。
だが、何度も同じ朝へ戻り、同じ城塞都市へ入り、それでも一度も見たことのなかったものが目の前にある。
何かが変わった。
何かが、自分の知らないところで動いた。
レイグは手を伸ばした。
「おい」
ダルクの声が飛ぶ。
それでも指先は銀色の光へ近づいていた。
あと少しで触れる。
そう思った瞬間、羽根の形が崩れた。
「なっ……」
銀色の粒が細かな霧のようにほどけ、レイグの指の間を抜けていく。
反射的に両手を閉じた。
何も掴めない。
慌てて手のひらを開いても、皮膚の上には何も残っていなかった。床にも落ちておらず、祭壇を走っていた銀色の紋様さえ、すでに古びた石の色へ戻っている。
「……消えた」
フィエラが祭壇へ近づいた。
「今の、何だったの?」
「分からない」
「だから触るなって言っただろ」
ダルクがレイグの肩を掴む。
「お前、正体も分からねえもんに何でいきなり手出すんだ」
「消えそうだったからだ」
「実際消えただろうが」
「触る前に消えたんだから同じだろ」
「そういう問題じゃねえ」
「二人とも」
フィエラの声で、レイグは口を閉じた。
ダルクも言葉を止める。
「喧嘩してる間に、もう一回出るかもしれないよ」
その一言で、二人とも祭壇へ向き直った。
しばらく待ったが、何も起こらなかった。
レイグは恐る恐る紋様に指を触れ、先ほど光が集まった辺りまで指先を滑らせる。石は冷たいだけで、銀色の光が戻る気配はない。
反対側を覗き込んでいたダルクも首を振った。
「隠し物が動いた感じもしねえな」
「壊さないでね」
フィエラが言った。
「誰が壊すか」
「さっき持ち上げようとしてたじゃん」
「あれは確認だ」
「王家の遺物だったら、壊した瞬間に一生働いても払えないかも」
ダルクの手が祭壇から離れた。
「……触るのやめる」
「急に慎重」
「金の問題は大事なんだよ」
レイグは二人の会話を半分も聞いていなかった。
前に来た時には何もなかったのに、なぜさっきだけ光ったのか。
通った道か。到着した時間か。カルゼンから聞いた抜け道か。それとも途中で戦った魔物や、装備、残っている魔力が関係しているのか。
ネヴァルの顔まで浮かんだが、どれも今日という一日の違いにすぎず、今のレイグには一つへ絞る理由がない。
その時、礼拝堂の空気が変わった。
冷えたわけではない。音が消えたわけでもない。
ただ、誰かに見られている。
その気配に、レイグの背筋が冷えた。
レイグは振り向いた。
「……お前」
崩れかけた礼拝堂の入口近くに、白い翼の者が立っていた。
黒い霧の中で死にかけた時にも、今朝、人通りの少ない路地で問い詰めた時にも現れた、同じ姿だった。
汚れのない大きな白い翼と、人に似た顔。その目は静かにこちらを見ているが、怒っているのか、哀れんでいるのか、それすら読み取れない。
「誰?」
フィエラが小さく言った。
ダルクがすぐ大盾へ手を伸ばす。
「知り合いか?」
「違う」
レイグは白い翼の者から目を離さなかった。
「俺が死んだ時にいた」
「は?」
ダルクの手が止まる。
レイグは一歩前へ出た。
「今のを知ってるんだろ」
白い翼の者は答えない。
「あの銀色の光だ。前に来た時はなかった」
沈黙したままだ。
「王が探してる物なのか?」
やはり答えない。
腹の奥が熱くなった。
「何で何も言わないんだよ」
レイグはさらに近づいた。
「お前、前にも俺が聞いたことに答えなかったよな。何で俺だけ覚えてるのかも、この一日が何なのかも」
ダルクとフィエラは、後ろで黙っている。
「でも知ってるんだろ!」
声が礼拝堂へ響いた。
「今の光も知ってる。違うのか」
白い翼の者は祭壇へ視線を向けなかった。
ずっとレイグを見ている。
やがて静かに口を開いた。
「あなたが得たのは、それですか」
「……何?」
レイグは祭壇を振り返った。
銀色の光はもうない。
「今のことか?」
返事はない。
「得てない。触る前に消えた」
白い翼の者は黙っている。
「だから聞いてるんだ。それが何なのか――」
言い終わるより早く、白い翼の輪郭が薄くなった。
「待て!」
レイグが踏み出す。
「またそれかよ! 答えろ!」
伸ばした手が届くより先に、白い翼の者は空気へ溶けるように消え、礼拝堂には三人だけが残された。
「……何なんだ、あいつ」
ダルクが低く言った。
「話す気があるのかないのか分かんないね」
フィエラは、白い翼の者が立っていた場所を見つめていた。
「でも、知らない人の聞き方じゃなかった」
レイグは答えなかったが、それは自分も感じていた。
あの者は銀色の光を見ても驚かず、その正体を尋ねることもなかった。それどころか、祭壇ではなくレイグ自身を見ながら問いかけた。
『あなたが得たのは、それですか』
「……知ってる」
レイグは呟いた。
「絶対に知ってる」
遠くで重いものが崩れる音がし、三人が同時に顔を上げた。
王城のどこかで、まだ戦いが続いている。
ここは地下なので、黒い霧がどこまで進んでいるか直接見ることはできない。それでも正午をとうに過ぎており、正体の分からない光を待ち続けていられる時間ではなかった。
ダルクが大盾を背負い直す。
「出るぞ」
「でも」
「でもじゃねえ。光は消えた。あの白いのもいなくなった。ここで待って霧に追いつかれたら、何も分からねえまま死ぬだけだ」
レイグは祭壇を見た。
正しい。
フィエラも残った矢を確かめ、コンポジットボウを持ち直した。
「帰り道でも何か分かるかもしれないしね」
「ああ」
そう答えたものの、レイグはすぐには動けなかった。
以前は何もなかった祭壇が、今日だけ光った。
その光は羽根の欠片のように形を作り、触れる前に消えた。そして、あの白い翼の者まで現れた。
「レイグ」
ダルクが呼ぶ。
「行くぞ」
レイグはようやく祭壇から目を離して二人の後を追い、数歩進んだが、礼拝堂の出口へ着く前にもう一度振り返った。
祭壇は暗く、銀色の光など最初から存在しなかったように、古びた紋様だけを残していた。
「また来る」
ダルクが顔をしかめた。
「ここに?」
「ああ」
「また同じ道を?」
「同じ道じゃなくてもいい」
レイグは光の消えた祭壇を見つめた。
「次にここへ来た時も、同じことが起きるか確かめたい」
「次って……」
ダルクが何か言いかけ、フィエラは黙ってレイグを見ていた。
次の朝になれば、この二人は今日ここへ来たことも、祭壇を調べたことも、銀色の光を見たことも忘れるかもしれない。白い翼の者の言葉まで含め、この一日を覚えているのはまた自分一人になる。
隣にいる二人は、今ここで交わした言葉さえ、次の朝には忘れてしまう。そう考えると、祭壇から離れる足がすぐには出なかった。それでも今は、銀色の光の正体を知りたいという思いの方が強かった。
レイグは祭壇へ背を向ける。
「行こう」
三人は並んで礼拝堂を離れた。
その足音が地下通路の奥へ遠ざかっても、背後に残された祭壇が再び銀色に輝くことはなかった。




