第23話 最短の武器庫
崩れた城門をくぐると、前線拠点のざわめきが分厚い城壁の向こうへ遠ざかった。
曇り空の下、カレグノスの旧市街は薄暗い。崩れた家々の窓には人影がなく、石畳の隙間から伸びた雑草だけが風に揺れている。
レイグは先頭を歩いた。
「右」
角へ差しかかる前に足を止める。
ダルクもすぐに止まり、左腕の大盾を少し上げた。フィエラは二人の間から、曲がり角の先を覗く。
「前の一日も右?」
「道はな」
「敵も?」
「それは知らない」
レイグが即答すると、フィエラの口元が少し緩んだ。
「ちゃんと覚えてた」
「何をだよ」
「前と同じって決めつけないこと」
「もう懲りた」
雨の石橋では予想を外し、城門をくぐった直後には、前の一日にはいなかったスケルトンに襲われた。人も魔物も、同じようには動かない。
だが、地形まですべて変わるわけではない。
この角を右へ曲がれば兵舎方面へ続く。左へ入れば崩れた家が多く、通れたとしても遠回りになる。さらに先の広い通りまで抜ければ、兵舎を囲む低い石壁が見えるはずだった。
「先、見るね」
フィエラは一歩前へ出ると、目を閉じて短く息を整えた。
「サーチ」
周囲に集まった風に髪の先がわずかに持ち上がり、しばらくしてフィエラは目を開いた。
「近くに大きい反応はなし。建物の中に小さいのはいるけど、こっちへ来てる感じじゃない」
「行こう」
三人が角を曲がっても、レイグは歩く速度を落とさなかった。
最初にこの道を通った時は、崩れた入口を見るたびに中を覗いた。錆びた武器が落ちていれば使えるか確かめ、遠くで物音がするだけでも足を止めていた。
今日は、周囲を見なくなったわけではない。警戒すべき場所が分かっているのだ。
人や魔物が飛び出してきそうな建物や横道、死角になる窓や屋根、足を取られる瓦礫を順に確認しながら、それ以外の場所には余計な時間を使わない。
「……速えな」
後ろでダルクが言った。
「何が?」
「進むのがだよ。もう兵舎の近くじゃねえか」
フィエラも周囲を見回した。
「ほんとだ。いつもなら、まだどこかでダルクが鉄屑拾ってる頃じゃない?」
「拾ってねえ」
「錆びた斧を持って悩んでたことあるじゃん」
「売れるか見てただけだ」
「似たようなものでしょ」
「違う」
レイグは振り返らずに笑った。
こんなふうに笑えたのは、同じ朝へ戻るようになってから初めてかもしれない。
昨日まで、記憶が残るということは、死んだ痛みや忘れられた言葉を自分だけが抱え続けることだった。
だが今は違う。
自分が覚えているから、三人とも迷わず進めている。
「止まれ」
前方に兵舎を囲む低い石壁が見えたところで、レイグは手を上げた。
訓練場の向こうには長い宿舎があり、その右奥に窓の少ない石造りの武器庫が残っている。
「前はこの辺にスケルトンがいた」
レイグが言うと、ダルクが大盾を構えた。
「今日は?」
「知らない」
「それでいい」
フィエラが二人より半歩だけ前へ出る。
今度は魔法を使わず、訓練場の端から建物の入口、壊れた窓、積まれた瓦礫まで順に確認した。
「見える範囲にはいない」
ダルクも耳を澄ませたが、骨の擦れる音も、武器が石に当たる音も聞こえなかった。
「じゃあ行くぞ」
三人は訓練場へ入った。
最初に来た時なら、ここまで辿り着くだけでも肩に力が入っていた。
今日は違う。
レイグは迷わず右奥の武器庫へ向かった。
「もう武器庫?」
フィエラが言う。
「ああ」
「なんか、ずるしてるみたい」
「何がずるだ。こいつが死んだ分まで覚えてんだろ」
ダルクの言葉にレイグの足が一瞬だけ鈍ると、ダルク自身もそれに気づき、すぐ顔をしかめた。
「……悪い。言い方が悪かった」
「いや」
レイグは武器庫へ向き直った。
「その分、使う」
今は、それでよかった。
*
武器庫の分厚い扉はまた閉まっており、湿気を吸って歪んだ木の下側が枠に強く食い込んでいる。ダルクが肩を回した。
「また三人で押すのか」
「上じゃない」
レイグは扉の下側を指した。
「最初からここに力をかける。前は上を押して時間を無駄にした」
「便利だな、おい」
「前のレイグ、働くねえ」
「今日の俺も働いてるだろ」
「今のところ案内役」
「十分働いてる」
三人で扉に身体を当てた。
「せーの」
木が低く軋む。
「もう一回」
今度は下側に力を集中させた。ギギ、と重い音を立てながら扉が動く。
ダルクが肩を入れ、レイグも押した。フィエラも横で歯を食いしばっている。
木枠が割れるより先に、人一人が通れるほどの隙間が開いた。
「早っ」
フィエラが息を吐く。
ダルクは扉を押さえたままレイグを見た。
「前は?」
「もっとかかった」
「どれくらい」
「お前が途中でフィエラに、ちゃんと押せって怒鳴るくらい」
「今回も押してた」
フィエラが先に怒った。
「何で私が疑われるの」
「俺、まだ何も言ってねえだろ」
レイグは二人を横目に、薄暗い武器庫へ入った。
湿った木と古い鉄の匂いが鼻に入る。壁沿いの棚や、床に散らばった錆びた槍と剣も、すでに見慣れたものになりつつあった。
だからレイグは迷わず左側の棚へ向かい、何本かの古い剣をどかして目当ての鞘を掴む。
スチールロングソードだった。
刃の状態だけ手早く確かめると、朝から使っていたロングソードを外し、代わりに腰に差す。
「早いね」
「もう何度も見てるからな」
「感動は?」
「最初ので使い切った」
「寂しいこと言うなよ」
そう言ったダルクも、すでに右奥へ向かっていた。
「そこ」
レイグが指す。
「下から二段目。奥」
「聞いてる。さっきからそこしか見てねえ」
「まだ見えてないだろ」
「あるって聞いたから見えてる気がする」
「何だそれ」
ダルクが錆びた斧と折れた槍の柄をどかすと、やがて奥からスチール製のウォーハンマーを引き出した。
動きが止まる。
「……いいな、これ」
レイグは思わず笑った。
「三回目だぞ」
「俺には初めてだ」
「また同じ顔してる」
フィエラが覗き込む。
「してねえ」
「してる」
「どんな顔だよ」
「いい物拾った子供」
「前にもそれ言われた気がして腹立つ」
「覚えてないのに?」
「何となくだ」
ダルクは文句を言いながらも、ウォーハンマーを何度か軽く振り、重さと握り具合を確かめている。やはり気に入ったらしい。
腰のバトルアックスを外して空いた棚に置くと、代わりにウォーハンマーを吊り具に固定した。
「斧は置いてくの?」
フィエラが聞く。
「両方持ったら邪魔だし重い。持ち帰って売るために動けなくなったら意味ねえだろ」
「前のダルクより成長してる」
「前の俺を勝手に作るな!」
「作ってないぞ」
レイグが言った。
「お前、前も似たようなこと言ってた」
「お前まで乗るな」
フィエラは笑いながら、床際の箱を開いた。
「矢は?」
「その奥。上の束は軸が曲がってる」
「下?」
「ああ。ただし全部使えるとは限らないから、自分で見ろよ」
「そこはちゃんと今日を見るんだ」
「当たり前だ」
フィエラは数本ずつ取り出し、床へ転がして曲がりを確かめる。矢じりにも緩みがないか見たうえで、状態のいいものだけを矢筒に加えた。
「これとこれ……この一本もいける」
「もっと持てば?」
「重くなるし、変なの混ぜたくない」
「正解」
ダルクが頷く。
「何でダルクに褒められると腹立つんだろ」
「知らねえよ」
レイグはさらに奥の棚へ進み、小さな扉に手をかけた。
「ここには三本ある。奥の一本は使うな」
「何で?」
フィエラが寄ってきた。
「中身が濁ってる。底に黒い沈殿がある」
棚を開けると、並んでいた小瓶のうち一本だけ液体が濁っていた。残る二本には赤みがかったヒールポーションが入り、封も破れていない。
ダルクが一本を光に透かす。
「こっちは問題なさそうだな」
「二本だけ持っていこう」
「異議なし」
濁った一本はそのまま棚に残した。
以前なら、棚を端から探り、使えるか分からない物まで抱え込んでいた。今は違う――そう考えかけて、レイグは武器庫の入口で足を止めた。
曇った訓練場には、まだ午前の光が残っている。レイグは左腕を回し、スチールロングソードを一度抜いて鞘へ戻した。痛みも息切れもなく、身体を巡る魔力も朝からほとんど変わっていない。
背後ではダルクが新しいウォーハンマーの留め具を締め、フィエラが加えた三本の矢を指で弾いた。荷袋を肩へ戻すと、薬棚から持ち出した二本が中で触れ合った。
「……早いな」
「お前が覚えてた場所へまっすぐ来たんだ。傷まで増やしてたら割に合わねえ」
ダルクが訓練場の空を顎で示す。
「まだ午前だ。薬も二本そのまま」
「私は矢が三本増えた」
フィエラが矢筒を軽く揺らした。
「今度は本数、忘れんなよ」
「今日の私は忘れてないよ」
ダルクの声を聞きながら、レイグはスチールロングソードの柄を握った。剣の重さを確かめると、先へ進む自信が湧いてきた。
「これなら、もっと先まで行ける」
ダルクの手が止まり、フィエラもこちらを見た。レイグは腰の剣へ目を落とす。ダルクだって、さっきまでハンマーを握って笑っていたくせに。
「何だよ。装備もいいし、まだ疲れてないだろ」
「王城の方角へ足を向ける前に、外を見ろ」
ダルクがハンマーを肩へ担ぎ直した。
「分け前を数えてるうちに、帰り道を見失う奴だからな、お前は」
「ひどいな」
「行けるのと、行くのは別だからね」
フィエラは荷袋を背負った。レイグが答える前に、その脇を通って入口を見渡す。
「止めなきゃ、報酬の高い方へ足が向くんだから」
「先に訓練場と霧の位置を見る。それから決めるぞ」
言い返しながら、レイグは王城のある方角を意識した。武器庫の中から王城は見えなくても、その方角は分かっている。
金だけを持ち帰っても、次の朝には消える。
それでも、何度も繕われたネリナの靴と、冬の薪代を数える母の横顔は、胸から消えてくれなかった。
王家が求める遺物がこの反復を終わらせる鍵なら、その先で初めて、二人を楽にできる。
レイグはスチールロングソードの柄を握った。冷たい感触が手のひらに返る。
兵舎で迷わなかった分だけ、王城へ向けて使える昼が残っている。危険な曲がり角の位置も、いくつかは知っている。もう少し先まで進むことが、以前ほど無茶には思えなかった。
レイグは剣から手を離さないまま、入口にいるフィエラの後へ続いた。
*
武器庫の扉から外へ出る直前、フィエラが足を止めた。
「待って」
フィエラの低い声にレイグも足を止め、ダルクはすぐに大盾を左腕に通した。
「何だ」
「静かすぎる」
レイグが訓練場へ目を向けると、さっき入った時も静かではあったが、今は何かが違う。
遠くから聞こえていた探索者の声や金属音が消え、風に揺れる雑草の擦れる音ばかりが妙にはっきり耳に届いていた。
「サーチする」
フィエラがコンポジットボウを持ったまま目を閉じ、短く集中する。
集まった風が髪を揺らし、数秒後、フィエラの目が開いた。
「いる。小さいのが何体も、すぐ近くにいる」
ダルクが大盾を上げた。
「どこだ」
「右」
レイグは武器庫から半歩だけ外へ出た。
訓練場の向こうには宿舎と崩れた食堂があり、その間には瓦礫が積み上がっている。さっき確認した時には何もいなかった場所で、小柄な影がわずかに動いた。
緑がかった顔が瓦礫の陰から覗く。
ゴブリンだった。
一体目はすぐに頭を引っ込めたが、別の瓦礫の裏からも影が現れ、宿舎脇でも何かが動いている。
「一体じゃない」
レイグはロングソードを抜いた。
姿を見せたゴブリンたちは素手ではなかった。
片方は錆びた剣を握り、別の一体は古い傷の入った小盾を持っている。倒れたスケルトンや、この辺りを通った探索者から拾ったのだろう。
さらに奥から出てきた一体を見た瞬間、レイグの背中が冷えた。
クロスボウを抱えている。
小柄な身体には大きすぎる人間用の武器だったが、間違いなく三人に向けられていた。
「さっき訓練場を確認した時、あそこにはいなかった」
自分たちが武器庫の中にいる間に移動してきたのだ。
ダルクが一歩前へ出て、大盾でレイグとフィエラを庇う。
「レイグ、盾の後ろだ!」
「ああ」
フィエラもすぐ左へ動き、射線を確保しながら矢をつがえた。
レイグは盾の脇から敵の位置を確認する。
ゴブリンも動いた。
クロスボウを抱えた一体の指が、引き金にかかる。
弦が鳴った。




