第22話 昨日の約束
乗合馬車がネルトアを離れてから、しばらく誰も口を開かなかった。
車輪が街道の石を踏むたび、座席の下から細かな振動が伝わってくる。
窓の外には重い雲が広がっていた。雨は降っていないが、レイグにとっての昨日とは違う、灰色の朝だった。
向かいではダルクが腕を組み、その隣でフィエラは窓の外を眺めている。
いつもの二人だ。
それなのに、昨日一緒に過ごした時間を覚えているのはレイグだけだった。
さっきのフィエラは、前の自分の言葉に従ったのではない。今日の自分の意思で、もう一度レイグの隣に立ってくれた。
その選択さえ、次の朝にはレイグの中にしか残らないのかもしれない。
「で」
ダルクが口を開くと、レイグは顔を上げた。
「何だ」
「今日、どうする」
「カレグノスへ行く」
「それは見りゃ分かる」
ダルクの眉が寄る。
「どこへ行くかって聞いてんだよ」
「兵舎」
レイグはすぐ答えた。
「前の一日と同じなら、武器庫にスチールロングソードがある。お前が使ってたウォーハンマーもだ。フィエラの矢も補充できる」
ダルクが腕をほどいた。
「ウォーハンマー」
「そこだけ反応するんだ」
フィエラが窓の外を見るのをやめ、二人へ向き直る。
「だって、いい武器だったんだろ?」
「お前、覚えてないだろ」
「だから今日、俺の手で確かめる」
「前向きだねえ」
「武器の話だからな」
少しだけいつもの調子が戻り、レイグの口元も緩みかける。だが、ダルクはすぐ真顔に戻り、指を立てた。
「道も武器の場所も、覚えてることは使え。でも敵まで昨日と同じだと思うなよ」
「分かってる」
答えると、ダルクが嫌そうな顔をした。
「その言葉、信用できねえんだよな」
「何でだよ」
「何回『分かってる』って言って奥へ行こうとした」
「数えてない」
「俺は数えてる」
「暇なの?」
フィエラが聞く。
「お前らが数えさせてんだ」
「私も?」
「お前は別口で多い」
「何の回数?」
「知らねえよ」
フィエラが笑い、レイグも今度は少し笑えたが、ダルクは面倒そうに息を吐く。
「とにかくだ。昨日の知識より、目の前を優先する」
「人もね」
フィエラが言った。
「私たちだって昨日と同じ動きしてないんでしょ?」
「ああ」
レイグは頷いた。
「昨日のお前は、馬車でダルクのパンを食ってない」
「私、偉い」
「食ってないのが普通なんだよ」
「でも前は食べたんでしょ?」
「二口な」
レイグが言うと、ダルクがこちらを見た。
「パンを何口食われたかまで覚えてんのか」
「俺しか覚えてないからだよ」
口にした途端、空気が少し変わり、レイグは視線を落とす。何気ない会話をしていても、結局そこへ戻ってしまう。
自分だけが覚えている。
「……まあ」
フィエラが座り直した。
「今日の私は食べてないから、今日の私を褒めて」
「嫌だ」
「即答された」
「人の飯を盗まなかっただけで褒められると思うな」
「厳しい世の中だねえ」
鼻を鳴らしたダルクの横顔を見ながら、レイグは少しだけ肩の力を抜いた。
「あと一つ」
ダルクは今度はレイグを正面から見て言った。
「勝手に一人で決めるな」
レイグの眉が動いた。
「何の話だよ」
「分かってんだろ」
「分からない」
「ネヴァルだ」
瓦礫の下から伸びていたネヴァルの手と、背後から迫った黒い霧が、言葉より先に浮かんだ。
あの時、三人で霧に逆らって戻り、瓦礫に挟まれた脚を救い出した。その後、道を塞ぐようにスケルトンジェネラルが現れた。
「助けたことを言ってるのか?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「そういう言い方すんな」
ダルクの声が強くなる。
「俺がネヴァルを見捨てろって言ってるみてえだろ」
「あの時は行くぞって言ったじゃないか」
「お前の話じゃ、そうなんだろ」
馬車の中で、何人かがこちらを見る。
ダルクは少し声を落としたが、怒りまでは引っ込めなかった。
「霧も魔物も迫ってたんだろ。そんな所へ戻ろうとしたら、今の俺だって止める。俺らまで死ぬかもしれねえじゃねえか」
「だったら同じだろ」
「違う」
ダルクが膝を叩いた。
「最後の話だ!」
レイグは口を閉じる。
「その後、お前が一人で残るって決めたんだろ」
「ネヴァルを運ぶにはお前が必要だった」
「そういうことじゃねえ」
ダルクの声がまた大きくなった。
「お前が勝手に決めたことに腹立ってんだよ!」
レイグの胸にも熱が上がった。
「あの時は時間がなかった」
「だからって俺らに何も決めさせなかっただろ」
「全員残ったら全員死んでた」
「それをお前一人で決めんなって言ってんだ!」
レイグも言い返しかけた。
「私も怒ってるからね」
フィエラは笑わずに割って入り、レイグは彼女を見た。
「お前まで?」
「お前まで、じゃないよ」
「でも――」
「私、レイグが残るって決めた時、どうしたの?」
聞かれて、言葉に詰まった。
最初の一日、フィエラは戻ろうとした。ダルクに止められても、最後までレイグから目を離さなかった。
『追いつくって、ちゃんと言って』
そう言われて、レイグは追いつくと約束した。
守れなかった。
「……戻ろうとした」
「でしょ」
「でも、お前らまで残したら――」
「そうじゃないよ」
フィエラの声が少し強くなった。
「私にも言わせてよ。レイグを置いていくなんて、勝手に決めないで」
同じことを二人から言われ、レイグは黙った。腹は立つし、あの場ではあれしかなかったと思っている。
それでもダルクとフィエラの顔を見ていると、自分だけが正しかったと言い張る気にはなれなかった。
「……悪かった」
「軽い」
ダルクが言う。
「じゃあどう言えばいいんだよ」
「知らねえ」
「面倒くさいな」
「お前に言われたくねえ」
フィエラが小さく吹き出した。
「じゃあ決めようよ」
「何を?」
「勝手に一人で決めない」
レイグは顔をしかめた。
「それ、ほとんど俺向けじゃないか」
「そうだな」
ダルクが即答した。
「お前向けだ」
ダルクは指を一本立てた。
「助けに戻るのも、奥へ進むのも、帰るのもだ。決めるのは三人」
「分かった」
フィエラも頷いた。
「あと、一人で勝手に消えないこと」
「分かれるなら、どこへ行くか先に言え」
「お前らもだからな」
「私はそんなことしないよ」
「屋根の上を一人で走ってリュシェナ追いかけただろ」
「私、そんなことしたの?」
「薬を盗られたって、止める間もなく飛び出した」
「……それは追いかけたくなるでしょ」
フィエラの視線が斜め上へ逃げた。
「昔のことを持ち出す男は嫌われるよ」
「前にも同じこと言ってたぞ」
「何の時?」
「矢を半分忘れた話になった時」
フィエラの顔が固まり、ダルクが吹き出す。
「それも覚えてんのか」
「笑うな」
「無理だ。半分だぞ」
「今は持ってる」
フィエラは自分の矢筒を抱えた。
「ちゃんとあるから」
「知ってる。さっき確認した」
「じゃあもう言わないでよ」
三人の声が重なった。御者が前から怒鳴る。
「さっきからうるせえぞ」
「すみません」
レイグとフィエラが同時に答え、ダルクだけが少し遅れた。
「何で俺まで……」
「一番うるさかったから」
「お前だろ」
「また怒られるよ」
ダルクが口を閉じた。
しばらく三人とも黙り、馬車は蹄と車輪の音を街道へ響かせながら、灰色の空の下を前線拠点へ進んでいった。
少しして、ダルクが低い声で言った。
「まあ……最悪、死んでも次があるんだろ」
レイグが顔を上げると、ダルクは窓の外を見ている。
「今までの話が本当ならな」
声だけ聞けば何でもないことのようだったが、膝の上に置かれた右手はほんのわずかに震えていた。
地下水路で、レイグは同じ震えを見ている。ジャイアントスパイダーの毒牙を受け、洗い終わった盾を抱えていた時だ。指の震えを見られたダルクは、持ち手を強く握り込んで隠した。
前の一日では、レイグは反復を証明したいあまり、その恐怖を勝手に口にしてしまった。
ダルクが怒ったのも当然だった。
今度は何も言わない。
レイグが視線を外すと、反対側のフィエラも一瞬だけダルクの手を見ており、気づいたらしい。
「じゃあ」
フィエラが明るい声を出した。
「死ぬ時も盾はちゃんと持っててね」
ダルクが振り向く。
「は?」
「高いから」
「何で俺が死ぬ前提なんだよ!」
「だって今、自分で死んでも次があるって」
「最悪の場合の話だ」
「盾なくしたらもったいないじゃん」
「どうせ朝になったら元に戻るだろ!」
フィエラが瞬きをした。
「あ」
「何だよ」
「そうだった」
「お前、本当に話聞いてたか?」
「聞いてたよ。ちょっと忘れただけ」
「今の一日の中でも忘れてんじゃねえか」
馬車の中に笑いが起き、周りの探索者まで何人かつられて笑った。
ダルクは周囲を見回して顔をしかめる。
「何で知らねえ奴らまで笑ってんだよ……」
「人気者だね」
「嬉しくねえ」
ダルクが怒鳴ってもう一度前を向くと、膝の上の手はさっきほど震えていなかった。
「……戻るからって、死にたくねえけどな」
今度はフィエラもすぐには茶化さず、ダルクは窓の外を見たまま低い声で続ける。
「痛えのは痛えだろ」
「ああ」
レイグは答えた。
大剣に脇腹を貫かれ、息ができなくなった時の恐怖は、朝に戻ったからといって軽くなったわけではない。
「俺も死にたくない」
「私も」
フィエラも言った。
「痛いの嫌だし。怖いし」
ダルクが横目で見る。
「お前は怖い時ほど喋るもんな」
今度はフィエラが言葉を失った。
「……誰から聞いたの?」
「昔から知ってんだよ」
「レイグじゃなくて?」
「俺を何だと思ってんだ」
「鈍い盾」
「盾は鈍くていいんだよ」
「そういう意味じゃないけど」
三人に、また笑いが戻った。
今ここで、ダルクは死ぬのが怖いと言い、フィエラも自分も怖いと認めた。そのうえで三人は、誰か一人だけで勝手に決めないと約束した。
けれど、この会話も次の朝には残らないのかもしれない。
「なあ」
フィエラが言った。
「何?」
「この約束、次の私たちにも残せないの?」
レイグはすぐに答えられなかった。
紙に書いても消えた。金貨につけた傷もなくなり、持ち帰った武器も朝には元の位置へ戻った。身体に受けた傷まで消えるのだから、文字や印を残す方法を変えたところで同じだろう。
「……たぶん無理だ」
「壁に彫っても?」
「戻ると思う」
「服に書く」
「服も戻る」
「身体に書く」
「傷まで消えるんだぞ」
「じゃあ駄目か」
フィエラは背もたれに身体を預け、少し残念そうに天井を見た。
「合言葉くらい残せたら楽なのに」
「合言葉?」
ダルクが聞く。
「今決めたやつ」
フィエラはレイグを見る。
「『一人で決めない』」
「それ、合言葉っていうのか?」
「細かいなあ」
「意味違うだろ」
「通じればいいじゃん」
ダルクは何か言い返しかけたものの、口をつぐみ、少ししてからレイグを見た。
「次の俺は忘れてるんだろ」
「ああ。たぶん」
「フィエラも」
「ああ」
「なら、お前が覚えとけ」
レイグは顔を上げた。
「何を」
「今の話、全部だよ」
「全部?」
「俺らが忘れるんだろ」
ダルクは面倒そうに言った。
「だったら一人くらい覚えてる奴がいた方がましだ」
「でも次のダルクは、そんなこと言ったのも知らないよ」
フィエラが言う。
「知るか。次の俺に文句言え」
「本人なのに他人みたいに言うね」
「覚えてねえなら、俺だって知らねえよ」
乱暴な言い方だったが、次の朝になればダルクもフィエラも忘れてしまうと思うと、レイグには笑えなかった。
同じ声で話し、同じ顔で笑う二人から、この馬車で交わした言葉だけが抜け落ちている。
「レイグ?」
フィエラが顔を覗き込む。
「また難しい顔してる」
「……覚えとくよ」
「何を?」
「全部」
レイグは言った。
「お前らが忘れても、俺は覚えてる」
ダルクが鼻を鳴らす。
「大げさなんだよ」
「お前が言ったんだろ」
「そうだけどよ」
フィエラが少し笑った。
「じゃあお願い」
「ああ」
もう、反復を証明するための材料として覚えておきたいのではなかった。
今日のダルクが何を怖がったのか。
今日のフィエラが何を笑ったのか。
二人とどんな約束を交わしたのか。
それを覚えている者が自分だけになるのなら、せめて自分だけは忘れずにいようと思った。
その時、馬車が大きく揺れ、御者が前から声を上げた。
「前線拠点だ! 降りる奴は準備しろ」
三人は顔を上げた。
*
馬車を降りると、曇り空の下に前線拠点が広がっていた。
鍛冶屋からは鉄を打つ音が響き、ポーション屋の前では探索者たちが小瓶を光に透かしている。食堂から流れてくる焼いた肉の匂いの向こうでは、《王家臨時館》へ向かって書類を抱えた伝令が走っていた。
何度も見た景色だったが、レイグには以前とは違って見えた。
ここから古い石橋を渡り、崩れた城門を抜ければ兵舎へ向かえる。前の一日で使った道より一本手前を曲がれば無駄な遠回りも必要ない。
兵舎へ着けば、訓練場の右奥に武器庫がある。
扉は下側が歪んでいるため、そこに力を集中させれば昨日より早く開けられる。その先にはスチールロングソードがあり、右奥の棚にはダルクが気に入ったウォーハンマーも残っているはずだ。フィエラが使える矢を見つけた場所まで覚えていた。
昨日まで、こうした記憶はレイグを苦しめるばかりだった。
死んだ時の痛みも、自分だけが取り残されたような孤独も、同じ朝へ戻された恐怖も消えてはいない。
けれど今なら、その記憶を三人が生き残るためにも使える。
「前より早く兵舎へ行ける」
レイグが言うと、ダルクが即座に振り向いた。
「ハンマーもあるんだな?」
「同じ場所に戻っていればな」
「よし」
ダルクの歩く速度が途端に上がり、フィエラが呆れた。
「話の余韻、一瞬で終わったね」
「何の余韻だ」
「私たちの約束とか」
「約束と武器は別だろ」
「今、武器が勝ったように見えたけど」
「勝ち負けじゃねえ」
レイグは笑った。
三人で前線拠点の通りを進むと、やがて古い石橋と、その向こうに灰色の空を背負ったカレグノスの巨大な城壁が見えてきた。
橋の手前で、フィエラが立ち止まった。
「レイグ」
「何だ?」
フィエラが人差し指を立てる。
「一人で決めない」
以前の自分が何度も押し切った時と同じ返事が喉まで出た。レイグはそれを飲み込み、橋へ出しかけた右足を引いて、二人の間まで戻った。
「先に動く時は、二人に言う」
隣でダルクが顔をしかめた。
「言って終わりじゃねえ。俺らの返事を待て」
「そこまでが約束だ」
「なら覚えとけ」
「俺しか覚えてないんだから、忘れようがないだろ」
「次の俺が忘れるなら、今日の俺の分まで念を押す」
「理屈おかしくない?」
フィエラが笑った。
「まあいいじゃん。行こう」
三人は古い石橋へ足を踏み出し、レイグは少し前を歩く二人の背中を見た。
次の朝になれば、二人とも今日のことを忘れるかもしれない。
それでも今は、同じ約束を覚えた二人が自分の隣にいる。
レイグは足を速め、ダルクとフィエラの横に並んだ。




