第21話 三人目の証人
時は少し遡り、同じ日の朝。
いつもの待ち合わせ場所が見えた時、レイグは足を緩めた。
曇り空の下、ネルトアの通りは朝から人で混み合っている。荷車が石畳を鳴らし、店先では商人が木箱を運び、前線拠点へ向かう探索者たちが武器を背負って歩いていた。
人波の向こうに、石壁にもたれた大柄なダルクと、その隣で退屈そうに立つフィエラが見える。
二人ともいる。当たり前のように、生きている。
レイグの胸が一度だけ軽くなった。
「遅え!」
その直後、ダルクの怒声が飛んできた。
「何時だと思ってんだ」
「まだ馬車には間に合うだろ」
「俺が待った時間の話してんだよ」
フィエラがレイグを見て笑う。
「ちなみに私はそんなに待ってないよ」
「お前まで俺より後に来たからな」
「じゃあレイグだけ悪いね」
「何でだよ」
「二対一」
「多数決で遅刻が決まるのか?」
「多数決なんだから公平でしょ」
「意味分かって言ってんのか」
いつもの二人だった。
声も、顔も、フィエラがダルクをからかい、ダルクが大声で怒るところまで、何も変わっていないように見える。
だからこそ、二人の笑い声を聞くほど、雨の一日を覚えている自分だけが同じ輪の外へ押し出されるようだった。
前の一日、この二人と雨のカレグノスへ入った。
兵舎を調べ、早めに撤退した。前線拠点で金貨に傷をつけ、紙にはその日の出来事を書いた。最後にはフィエラが自分の名前まで残した。
そして三人で、次の朝に確かめようと話した。
ダルクもフィエラも覚えていない。目の前にいるのは間違いなく同じ二人なのに、雨の一日だけが二人の中から抜け落ちている。
「レイグ?」
フィエラの声で我に返った。
「何、その顔」
「……なあ」
「何?」
「昨日のこと、覚えてるか」
フィエラが瞬きをし、ダルクも怪訝そうにこちらを見た。
「昨日?」
「ああ」
「何の話だ?」
やはり、そうだった。今朝、傷をつけた金貨も紙も消え、母もネリナも何も覚えていなかったのだから、分かっていた。
それでも二人だけは、もしかしたら。そんな期待が、自分の中にまだ残っていたらしい。
「……そうか」
「何だよ」
ダルクが眉を寄せる。
「朝から気持ち悪いぞ、お前」
「昨日も言われた」
「誰に」
「お前に」
「は?」
フィエラは笑みを消し、レイグの顔を覗き込んだ。
「何かあった?」
その目を見て、胸が痛くなった。前の一日でも同じように見られた。
自分が死んだと話し、何が起きているのか分からないまま、必死に前の一日を説明した時のことだ。フィエラだけは、話の内容より先にレイグの恐怖を見ていた。
「話がある」
レイグは言った。
「長くなる」
「馬車の時間あるぞ」
ダルクが言う。
「歩きながら話す」
三人は馬車乗り場へ向かった。
最初の数十歩、レイグは何から話せばいいのか分からなかった。全部話せば長いし、どこから始めれば信じてもらえるのかも分からない。
「俺は一度、カレグノスで死んだ」
結局そこから話し始めると、ダルクの足が止まりかけた。
「……は?」
「最後まで聞いてくれ」
「いや、最初からおかしいだろ」
「おかしいのは承知してる。だから最後まで聞け」
「承知してる奴は朝から自分が死んだとか言わねえ!」
通りの人間が振り返り、フィエラが片手を上げた。
「二人とも声」
ダルクが舌打ちする。
「続けろ」
レイグは歩きながら話した。
最初の一日、三人でカレグノスへ入り、黒い霧に追われた。瓦礫に挟まれたネヴァルを助けるために戻り、最後にはレイグ一人がスケルトンジェネラルを止めるために残った。
そこで死んだ。
次に目を覚ますと、また同じ月曜日の朝だった。今度は雨が降っていた。
傷も、拾った武器も、使った薬も、すべて出発前の状態へ戻り、ダルクとフィエラは何一つ覚えていなかった。
「待て」
ダルクが止める。
「その時の俺も?」
「ああ」
「フィエラも?」
「ああ」
「で、その俺たちに今みたいな話をした?」
「した」
ダルクが額に手を当てた。
「頭痛くなってきた」
「まだ続きがある」
「嫌な予感しかしねえ」
フィエラが小さく言った。
「私は聞く」
レイグが彼女を見ると、フィエラはもう笑っていなかった。
「続けて」
レイグは頷いた。
雨の日の三人は兵舎へ行き、前に持ち出したはずの武器が元の位置へ戻っていることを確かめた。
ダルクが簡単には信じないまま、三人は黒い霧が石橋に届く前に撤退し、前線拠点で金貨に二本の傷をつけた。
「二本?」
ダルクが聞いた。
「ああ。お前がつけた」
「俺が?」
「一本だけじゃ元からあった傷かもしれないって」
ダルクの顔が微妙に歪んだ。
「……言いそう」
フィエラが横で吹き出す。
「細かいもんね」
「うるせえ」
「紙にもその日のことを書いた。最後にフィエラが名前を書いた」
「私?」
「ああ」
「何でダルクじゃなくて?」
「字が汚いから」
「おい」
ダルクがレイグを睨み、フィエラは笑いかけたものの、レイグの表情を見てやめた。
「それで?」
「家へ帰って、深夜まで起きてた。金貨も紙もその時までは残ってた」
十二回の鐘。
突然消えた雨音。
落ちた暗闇。
そしてまた朝。
「今朝、金貨も紙もなくなってた。母さんは金を受け取ったことまで忘れてる。昨日のことを覚えてるのは、俺だけだった」
レイグは右手を握った。
今朝、白い翼の者を問い詰めた後、腹立ちまぎれに石壁を殴った右の拳が、まだ少し痛んでいる。
ダルクが長く息を吐いた。
「……夢だろ」
その一言で、レイグの中の何かが切れた。
「昨日は信じたんだよ!」
ダルクが目を見開く。
「知らねえよ」
「そうだよ」
レイグは足を止めた。
「お前は知らない! 昨日あれだけ一緒に調べたのに、何も覚えてない!」
ダルクも止まる。
「俺が忘れたみたいに言うな」
「忘れてるだろ」
「俺には最初からそんな昨日がねえんだよ!」
二人の声がぶつかった。
通りを歩いていた者たちが二人を避けていく。フィエラも今度はすぐ止めなかった。
「俺は昨日、お前と話してる! フィエラとも! 三人で生きて帰った!」
「だから知らねえって言ってんだろ」
「今のお前に責任がないのも知ってるよ」
「知ってんなら、そんな顔で俺を責めんな!」
言葉に詰まった。
ダルクが怒るのは当然だった。今の彼にしてみれば、身に覚えのないことを「忘れた」と責められている。レイグ自身、それは分かっている。それでも腹が立った。
昨日、自分がどれだけ苦しんだか。二人に信じてもらえた時、どれほど安心したか。
一緒に金貨と紙を用意し、次の朝に答え合わせをしようと話したことまで、今は全部、自分一人にしか残っていない。
「レイグ」
フィエラがレイグの前へ出た。
「ダルクだけじゃなくて、私にも腹立ててるでしょ」
「あいつが今、夢だって――」
「私も覚えてないよ。聞いてるだけで、思い出してるわけじゃない」
レイグはフィエラを見た。
「それでそんな顔されても、私にはどうしようもない」
その言葉が胸に刺さった。
「二人のせいじゃない」
「うん」
「それでも、昨日の二人がいなくなったみたいで……」
レイグが続きを口にできずにいると、ダルクがまだ苛立った顔のまま言った。
「だったら証明しろ」
レイグは顔を上げた。
「本当に俺たちと一日過ごしたって言うなら、何か知ってんだろ」
蜘蛛との戦いのあとに目にした、盾を持つダルクの指の震えが脳裏に蘇った。本人が隠していた恐怖だ。
前にも、ダルクは同じように証明を求めた。そしてレイグは、それを口にした。
『そこまで言う必要あるか』
あの時はダルクに怒鳴られ、胸を押された。フィエラにも、信じてもらいたいからといって、ダルクが知られたくないことまで勝手に使うのは違うと責められた。
「お前は――」
レイグは言いかけた。ダルクが待つ。
「何だよ」
喉まで出た言葉を飲み込んだ。
「……それは使わない」
「は?」
「昨日、お前を信じさせるために、言わなくていいことまで言った」
ダルクの眉間に皺が寄る。
「何の話だ」
「覚えてないなら、それでいい」
「全然よくねえよ! 何だ、その気持ち悪い言い方!」
レイグにも苛立ちが戻った。
「だから言わないって言ってるだろ」
「だったら最初から匂わせんな」
「聞いたのはお前だ」
「また喧嘩始めない!」
今度はフィエラが二人の間に割って入った。
「さっきより酷くなってるから」
「こいつが――」
「ダルクも」
フィエラが指を突きつけると、ダルクは口を閉じた。レイグも一度息を吐く。
「……別の方法で確かめられる」
「あるのかよ」
「ああ」
三人はまた歩き出した。
「カレグノスの兵舎に武器庫がある」
「それくらい知ってる奴はいるだろ」
「扉の下側が歪んで、枠に食い込んでる。押すなら下だ」
ダルクの目が少し細くなる。
「中身は?」
「右奥の棚。その下の方にスチール製のウォーハンマーがある」
今度はダルクがはっきりと反応した。
「使えるのか?」
「そこだけ食いつくの?」
フィエラが呆れる。
「大事だろ」
「状態はいい。少し重いけど、お前は気に入った」
「俺が?」
「前の二日ともな」
ダルクは黙った。
「ただし」
レイグは続ける。
「俺たちより先に誰かが武器庫へ入ったら、もう持ち出されてるかもしれない」
「じゃあ証拠にならねえじゃねえか」
「だから急ぐんだよ。場所も扉の癖も知ってる」
フィエラが首を傾げる。
「つまり、何が起こるかは分からないけど、どこに何があるかは分かる?」
「少なくとも、俺たちが前に確かめた物はな」
「それなら使えそう」
ダルクがフィエラを見る。
「もう信じてんのか?」
「まだ全部は」
「じゃあ何で」
「外れてたら笑えばいいじゃん」
フィエラはレイグを見る。
「ね?」
「笑うのかよ」
「だって『死んで同じ朝に戻った』より、『武器庫のことを前から知ってただけでした』の方が平和でしょ」
言われてみれば、その通りだった。レイグが返事をしないまま歩いているうちに馬車乗り場が近づき、御者たちは出発前の荷物を積み、探索者たちが列を作っている。
ダルクは少し先へ行き、荷袋を開いた。
「出る前に確認する」
「また始まった」
フィエラが言う。
「水、包帯、薬、食料」
「入ってるって」
「お前の『入ってる』が信用ならねえんだよ」
二人の声を聞きながら、レイグは少し歩みを遅くした。
「ねえ」
フィエラも足を緩める。
「何だ」
「昨日の私も、信じたの?」
「ああ」
「すぐ?」
「全然」
フィエラの口元が少し緩む。
「そこは私らしいかも」
「最初はダルクよりましだった」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「微妙だなあ」
ほんの少しだけ胸が軽くなったところで、フィエラは先を歩くダルクの背中を見てから声を落とした。
「昨日の私、最後に何か言った?」
レイグは答えるまで少し迷った。
「明日の自分が忘れてても、その日の自分は俺を信じるって」
フィエラの歩みが止まりかけた。
「……私が?」
「ああ」
「そんな格好いいこと言ったの?」
「言った」
「うわ」
フィエラが顔をしかめる。
「何で嫌そうなんだよ」
「覚えてない自分の格好いい台詞聞かされるの、結構恥ずかしいよ」
「俺は助かったけどな」
フィエラはレイグを見て笑いかけたが、やめた。
「じゃあさ」
「ん?」
「昨日の私がそう言ったからって、今日の私も信じなきゃ駄目?」
レイグは、フィエラがわざわざ「今日の私」と言い分けたことに戸惑った。
「どういうことだ」
「だって、昨日の私は昨日の私でしょ。私は覚えてない」
レイグは黙った。
「……そうだな」
「でしょ」
フィエラは少し考えてから、レイグをまっすぐ見た。
「だから今日は私が決める」
そこにいつもの軽い笑みはなかった。
「レイグの話が全部作り話だとは思わない」
「フィエラ」
「話はむちゃくちゃだけどね」
「むちゃくちゃなのは認める」
「でも、レイグがこんな顔してまで私たちを騙す理由も分かんない」
フィエラは肩をすくめた。
「だから一緒に確かめる。それならいいでしょ」
昨日と同じ言葉ではなかった。だからこそ、今日のフィエラが自分で選んだ言葉だと分かった。息を吸うと、朝から浅かった呼吸が初めて腹まで届いた。
「ああ」
レイグは頷いた。
「ありがとう」
「まだ早いよ。外れてたら笑うから」
「それはやめろ」
「じゃあちょっとだけ」
「量の問題じゃない」
「おい」
先からダルクが怒鳴った。
「二人で何してんだ! 馬車出るぞ!」
フィエラが走り出し、レイグも追った。ダルクは荷袋を背負い直しながらレイグを睨んだ。
「行くぞ」
「……信じるのか?」
「信じてねえ」
即答だった。
「お前な」
「ただし」
ダルクがレイグの言葉を遮る。
「本当だった時に何も確かめねえのは馬鹿だ。今日はお前の話も頭に入れて動く」
レイグが目を瞬くと、ダルクは指を一本立てた。
「その代わり条件がある」
「何だよ」
「昨日はどうだったとか、前はこうだったとか、そればっか見んな」
レイグは黙り、雨の朝に城門をくぐった時のことを思い出した。最初の一日と同じ場所から敵が来るのを待ち続け、その間に反対側から襲われた。
「今日見えてるもんを優先しろ」
「ああ」
「危ねえと思ったら戻る」
「ああ」
「霧が早けりゃ予定も変える」
「分かった」
「あと王城見て『もう少しだけ』とか言い始めたら止める」
「まだ何も言ってないだろ」
「言う前に言ってんだよ」
フィエラが横から顔を出す。
「殴るの?」
「必要ならな」
「何で殴る前提なんだよ」
「お前が言葉だけで止まらねえからだ」
「前は止まっただろ」
「知らねえよ」
また同じところへ話が戻り、レイグが言い返しかけて思わず笑うと、ダルクは怪訝そうにレイグを見た。
「何笑ってんだ」
「いや」
昨日の約束は、二人の中には残っていない。
それでも今のダルクは、疑いながら来ると決めた。フィエラも、自分の言葉で一緒に確かめると決めた。
「何でもない」
「朝からそればっかだな、お前」
「今日は本当に変だよね」
フィエラが言う。
「お前に言われたくない」
「私はいつも通り」
「それはそれで問題だろ」
探索者たちが次々と乗り込む乗合馬車へ三人も向かい、曇った空の下、街道の先にはカレグノスへ続く道が伸びていた。
ダルクに続いてフィエラも馬車へ上がり、入口からレイグを振り返った。
「ねえ。もし本当に、また私たちが全部忘れるならさ」
声を落としたフィエラに、奥からダルクが言う。
「そういう話は座ってからにしろ。後ろが詰まってんだよ」
フィエラは入口から動かなかった。
「今度は、何を決めておけばいい?」
レイグは馬車に足を掛けたまま、答えられなかった。
御者が出発を急かす声を上げ、フィエラはようやく奥へ進んだ。レイグも何も言えないまま、馬車へ乗り込んだ。




