第20話 明日は来ない
「明日の朝には、もう一箱届くよ」
その言葉に、レイグの足が止まった。
ネルトアの市場は、曇り空の下でも朝から人が多かった。
野菜を積んだ籠や焼いたパン、干した魚、革製品、薬草が店先に並び、木箱を運ぶ商人たちの声が通りのあちこちから飛んでくる。
レイグが見ている先では、店主が年配の女のために芋を袋に詰めていた。
「今日はこれだけ?」
「ああ。昼までにはなくなるだろうね。欲しいなら明日また来な」
「もう少し多く仕入れておいてよ」
「天気に言ってくれ」
店主が笑い、女も笑って金を払った。ただそれだけの、誰もおかしなことを言っていない会話で、昨日までのレイグなら聞き流していたはずだった。
明日。今日が終われば夜になり、眠れば次の朝になる。それが当たり前だった――昨夜までは。
レイグは人の流れから外れ、店の脇へ寄った。
路地で壁を殴った右手の関節が、まだじんじんと痛んでいる。
今朝ついた傷だから、痛みはまだ残っている。だが、深夜を越えれば――。
少し先では、荷車を押す男が仲間に言っている。
「明日は北の農場だ。朝早く出るぞ」
「分かったよ」
返事をした男が荷車の横へ回り、二人で人波の先へ進んでいった。
「……でも」
昨夜、自分には明日が来なかった。深夜の鐘が鳴ったあとに雨音も灯りも消え、次に目を開けた時には、また同じ日の朝だった。
レイグは痛む右手を握った。
経験したのは、まだ二度だけだ。それだけで、この先ずっと明日が来ないと決めつけることはできない。死んだから朝へ戻ったのではないことだけは確かめたが、その先はまだ何も分かっていなかった。
「兄ちゃん、邪魔だよ」
横から声をかけてきたのは、野菜籠を抱えて困った顔をした少年だった。
「あ、悪い」
レイグが道を空けると、少年は軽く頭を下げ、そのまま市場の奥へ走っていった。レイグも歩き出した。
今日は何日か、昨日は何曜日だったかと聞いて回るだけでは、もう意味がない。知りたいのは、その先だった。
自分以外にも、明日が来ることを疑っている者はいないのか。
市場を抜ける途中、教会の前を通ると、開いた扉から若い聖職者が蝋燭の束を抱えて出てきた。
「それは奥に置いておいて」
中から年配の聖職者の声がした。
「明日の朝の祈祷で使うから」
「はい」
若者が何の疑問もなく答えるのを聞きながら、レイグは足を止めなかった。
祈りにも仕事にも、食事にも誰かとの約束にも明日があり、この町では誰もが当たり前のように今日の先を用意している。
*
役所の中には、紙と墨の匂いがこもっていた。若い役人が机の上へ帳面を積んでいる。
「残りは明日だ。そっちは戻しておいてくれ」
声をかけられた別の役人が、紐でまとめた紙束を棚へ運ぶ。レイグはその間に割って入った。
「明日の朝も、その書類はここにあるのか?」
若い役人の手が止まる。
「お前、何を聞きたいんだ」
レイグは紙束を見た。今夜また戻れば、処理した仕事まで消え、彼らは同じ帳面を開く。それでも本人は初めての仕事だと思うのか。
「届出なら向こうだ」
「届出じゃない」
「だったら何だ。朝から明日の書類の心配なんかして」
「……悪かった」
レイグが引くと、役人は止めていた手を動かした。
「心配なら今日のうちに用事を済ませろ。明日は明日だ」
返す言葉を探したが、役人はもうこちらを見ていなかった。
役所を出ても、紙束を戻した棚の形が頭から離れない。そのまま町の関所まで歩くと、一台の荷馬車が衛兵の前で止まっていた。
「西街道。向こうで塩を積む」
「今日戻るのか?」
「無理だな。明日の昼には戻るよ」
御者の男が笑い、衛兵は門を閉める前に来いとだけ言って通した。荷馬車が関所を抜けると、馬の蹄と車輪の音が少しずつ遠ざかっていった。
レイグは門の内側で立ち止まった。今夜また朝へ戻れば、あの男は明日の昼まで街道を進めるのか。それとも、何事もなかったようにこの関所を通るのか。
ここから荷馬車を見送るだけでは、町の外まで異常が及んでいるのかは分からなかった。カレグノスも、前線拠点も、街道も、すべてが同じ朝へ戻っているとしたら――。
「そこまで決めるな」
声に出して、自分を止めた。
『分からねえことを、分かったことにすんな』
雨の兵舎でダルクに言われた時は腹が立った。その声にまで追いつかれた気がして、レイグは痛む右手を握る。
門を抜ける次の荷車に道を空けながら、町の中へ向き直った。
*
大通りへ戻ると王家の紋章が目に入り、掲示板には今日も布告が貼られていた。
カレグノスから王家の求める遺物を持ち帰った者には、多額の報酬を与える。
レイグは人垣の後ろから紙を見た。
最初の朝は晴れていた。この布告を見て、家族を楽にできるかもしれないと思った。次の朝は雨だったが、それでも役人は同じ命令を読み上げた。そして今日も、ここにある。
「……何を探してるんだ」
小さく呟いた。
布告には「遺物」とあるだけで、それ以上の説明はない。価値のある物なら何でもよいわけではなく、王家が求めている何かがある。
レイグは紙を見つめた。
この異常と関係があるのか、それとも何の関係もないのかは分からない。それでも一度気になれば頭から離れず、白い翼の者が何も教えない以上、自分で確かめていくしかなかった。
レイグは掲示板を離れた。
広場へ出ると、子供たちが木片を剣のように振り回して遊んでいる。
「俺が騎士な!」
「さっきもお前が騎士だっただろ」
「今日はずっと俺」
「じゃあ俺、魔法使い」
笑い声が響くなか、やがて一人が家から呼ばれた。
「もう帰る」
「早くない?」
「母ちゃんに怒られる」
少年は走り出し、途中で振り返った。
「また明日な!」
「おう」
「明日は俺が騎士だからな!」
「嫌だ」
子供たちの笑い声が響く中、レイグだけが動けなかった。
『明日は休みなさい』
昨夜のミレサの声。
『明日の朝、答え合わせね』
前の一日にフィエラが言った言葉。
傷をつけた金貨も、書き残した紙も、十二回の鐘も、その直後に消えた雨音も覚えている。その果てにあったのは、また同じ朝だった。
少年たちはもう別の遊びを始めていたが、何の疑いもなく明日になればまた集まるつもりなのだろう。レイグだって同じだった。今日の次には明日があるなど、疑う理由すらなかった。
だが、自分はまだ一度もそこへ行けていない。
曇った空を見上げる。
「……明日は」
「明日」という言葉が、喉の奥で他人の言葉のようにつかえた。
「明日は、来ないのか」
答える者はいなかった。
*
夕刻。
カレグノスの前線拠点に建つ《王家臨時館》では、その日の探索報告が次々と運び込まれていた。
豪華な装飾はほとんどなく、石造りの壁に囲まれた室内の中央には大きな机が置かれている。その上にはカレグノスの地図が広げられ、旧市街、市場跡、兵舎、教会、貴族街、王城の各地区に、探索者たちから集めた情報が書き込まれていた。
ヴァレド・ヴェルナは机の向こうで報告書を読んでおり、少し離れた席には王妃イセラ・ヴェルナがいる。
「本日の探索についてご報告いたします」
王家の役人が一礼した。
「持ち込まれた遺物はいずれも確認を進めておりますが、陛下がお求めの物は見つかっておりません」
ヴァレドは顔を上げない。
「続けろ」
「王城方面まで進んだ探索者からも、該当する遺物の報告はありません。負傷して引き返した者も出ております」
「……そうか」
役人は次の報告書を見る。
「外周では黒い霧の侵食が始まっています。石橋はまだ通行できますが、帰還するなら急ぐ必要があります」
ヴァレドの指が、紙の上で止まった。
「……またか」
役人が顔を上げる。
「陛下?」
一拍の間を置き、ヴァレドは報告書を机に置いた。
「いや。続けろ」
「はっ」
役人は少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに報告に戻り、やがて一通りの説明を終えた。
「以上です」
「分かった。下がれ」
「はっ」
役人が頭を下げ、護衛とともに部屋を出ていった。
重い扉が閉まると室内は静かになり、外から探索者や商人たちの声だけがかすかに届いた。
イセラは机の端に置かれた報告書を一枚引き寄せた。雨で滲んだ前の紙ではない。今日、運び込まれたばかりの紙だ。負傷者の数と、霧の手前で戻らなかった一団の印が、乾ききらない墨で記されている。
「褒賞を増やしたのですね」
「前は、旧市街で引き返す者が多すぎた」
ヴァレドは地図の兵舎から王城へ向かう道に、小さな黒い駒を置いた。今日の報告だけで作った道筋ではない。どの通りが先に霧へ沈み、どの階段なら長く残るかを、指は迷わず選んでいく。
「ですから、知らない者をさらに奥へ誘うのですか」
「名を伏せているのは、橋を渡る前から奪い合いを始めさせないためだ」
「何を求めているかも知らせず、莫大な金だけを見せて。それを選ばせたと言うのですか」
ヴァレドの指が、王城の手前で止まった。
「王命で鎖につないだ者はいない」
「けれど、戻らない者が出ると知っている」
イセラは報告書を裏返さなかった。乾ききらない墨で記された負傷者と未帰還者の数を、二人の間に残した。
「次の朝、彼らは今日の傷を覚えていません。それでも、今日ここで受けた痛みまで無かったことにはなりません」
「布告を止めても、朝は越えられない」
ヴァレドは黒い駒を王城へ一つ進めた。
「我々まで手を止めれば、同じ場所へ戻るだけだ。せめて覚えている者が、今日得た情報を次の探索に使う」
「そのために、覚えていない者を同じ危険にさらし続けるのですね」
責める声は静かだった。ヴァレドは否定しなかった。握り込んだ駒の角が手のひらへ食い込み、やがて地図の王城手前へ硬い音を立てて戻る。
イセラは今日の負傷者が記された紙を机へ置いた。二人の間に、城外のざわめきだけが残った。やがて王妃が口を開いた。
「あと何度」
ヴァレドは動かなかった。
「あと何度、同じことを続けるのです」
ヴァレドは問いに驚く様子もなく、ゆっくり顔を上げた。疲れの滲んだ目で妻を見て、短く答えた。
「見つかるまでだ」




