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明日のないカレグノス  作者: Aramaki_mai
第二部 昨日のない町
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19/68

第19話 残らない文字

挿絵(By みてみん)

擦った爪の脇を、レイグは親指で押さえた。小さく血が滲んでいる。


大剣に貫かれた傷は消えたのに、紙を探してつけたばかりの傷は痛む。開け放した隠し場所を前に、レイグは寝台へ腰を落とした。眠ってもいないのに、雨のカレグノスを歩いた疲れすら残っていなかった。


『明日は休みなさい』


昨夜の母の声だけが、その身体に残っている。


「レイグ?」


部屋の外から声がした。


「起きてるの?」


ミレサだった。


「朝ご飯できてるわよ」


その声を聞いた途端、胸が詰まった。昨夜の母は自分に明日は休めと言い、今日はその明日のはずだった。


「……今行く」


どうにか答えたものの、普通の声に聞こえたかは自分でも分からなかった。


*


食卓へ行くと、薄いパンを片手に椀の中を覗くネリナが先に座っていた。


「今日、肉少なくない?」


「同じよ」


鍋を置きながらミレサが答える。


「絶対少ない」


「昨日と比べたの?」


「見た感じ」


「その見た感じが信用できないの」


「ひどい」


ネリナが不満そうに口を尖らせた。


レイグは入口に立ったまま、二人を見ていた。普通だった。あまりにも普通だった。


「兄さん?」


ネリナが気づく。


「何してるの?」


「……いや」


「座れば?」


「ああ」


椅子を引く。


最初の朝とも、雨の朝とも違う会話だった。


だが、豆と野菜のスープがあり、薄いパンがあり、つま先を繕ったネリナの靴が足元にある。


また同じ朝の食卓が、何事もなかったようにそこにあった。


「兄さん、今日静かだね」


ネリナが言った。


「そうか?」


「うん。いつもなら私が肉少ないって言ったら、食いすぎだって言うじゃん」


「昨日は言ってなかったぞ」


そう口にすると、ネリナが瞬きをした。


「昨日?」


レイグの手が止まった。昨日――雨の朝、自分は取り乱し、ネリナを怖がらせ、ミレサとも言い争った。その日の夕方には、早く家へ帰った。


『……本当に帰ってきたんだ』


ネリナはそう言ったあと、最後に小さな声で「おかえり」と付け加えた。


そのやり取りを全部覚えているのに、目の前の妹は何も知らない。


「昨日が何?」


ネリナが聞いた。


説明しようと思えばできる。昨日も、その前も同じ月曜日で、自分は一度死に、昨日は死ななかったのに、それでも朝へ戻ったのだと。


だが口にすれば、またネリナの顔を曇らせ、怖がらせ、母には治療師へ連れていかれそうになる。


そして、もし次の朝も同じなら。


そこまで考えて、レイグは言葉を飲み込んだ。


「何でもない」


「何でもない顔じゃないけど」


「寝不足だ」


「じゃあ寝ればよかったのに」


「そうだな」


ネリナがまだ疑わしそうに見ているなか、ミレサがレイグの前に椀を置いた。


「本当に大丈夫?」


「ああ」


「顔色がよくないわよ」


「ちょっと眠れてないだけだ」


嘘ではない。昨日の夜は眠っていない。ただし、それは母が知っている昨日の夜ではなかった。


「今日はカレグノスへ行くの?」


ミレサに聞かれ、レイグは口を開いたまま止まった。昨夜の母なら、今日は休めと言っていた。その声を覚えているのは、向かいに座る母ではなく自分だけだ。


「……まだ決めてない」


「珍しいわね」


「そう?」


「いつもなら、もう荷物まで用意してるでしょう」


何気ない言葉に、レイグは壁際の荷袋へ目を向けた。水筒も包帯も薬も朝の状態へ戻っている。


母に渡した生活費も――。


そこで顔を上げた。


「母さん」


「何?」


「昨日、俺から金を預からなかったか?」


ミレサの手が止まる。


「金?」


「ああ」


「何の?」


膝の上に置いた手から力が抜けた。


昨日、自分は確かにここに金を置き、ネリナの靴代の足しにしろと言った。母は受け取ったのに、そのやり取りまで消えている。


「……いや。何でもない」


「レイグ?」


「忘れてくれ」


ミレサの眉が寄り、ネリナもこちらを見た。


「やっぱり変だよ、兄さん」


「昨日、ここに金を置いた。母さんは受け取ったんだ」


「また昨日の話?」


「今はいい」


少し強く言ってしまい、ネリナが口を閉じた。


まただ。また妹を怖がらせる。


レイグは謝りかけたが、言葉に詰まった。昨日も謝ったが、ネリナは怒った。それでも少しずつ話せるようになったのに、それもなくなった。


今また謝って関係を戻しても、次の朝には全部忘れられるのか。


「……ごちそうさま」


レイグは半分ほど残った椀から手を離した。


「兄さん、ほとんど食べてないじゃん」


「腹が減ってない」


「それでも少しは食べなさい」


ミレサが言う。


「朝から何も食べずに出たら――」


「食べるよ」


今度は声を抑え、パンを一枚取って無理やり噛んだが、味はよく分からなかった。


*


家を出ると、空は一面の雲に覆われていた。雨は降っていないが、最初の日のような青空もなく、重い灰色の空の下でネルトアはいつもの朝を始めている。


パン屋から煙が上がり、水桶を持った女たちが井戸へ集まる。荷車を引く男が道を空けろと声を張る横で、店の木戸も次々と開いていく。


この朝を見るのは三度目だった。それでも一度目とも二度目とも同じではなく、人々の言葉も歩く順番も天気も違う。なのに、また同じ月曜日が始まっている。


「……本当に俺だけなのか」


レイグは呟いた。


ミレサもネリナも覚えていない。昨日、一緒に確かめたダルクとフィエラはどうかと考えただけで、胸が重くなった。会えば分かるが、おそらく二人も忘れている。


また最初から説明するのか。また信じてもらうのか。


「くそ……」


レイグは足を止め、誰か一人くらい昨日のことを知っていてもいいはずだと思った。


その時、視界の端で白いものが動いた。


レイグは顔を上げた。


路地の奥、朝の薄暗さの中に白が見えた。


布ではない。鳥でもない。翼。


「……おい」


白い翼の者が、路地の角を曲がった。


レイグの身体が先に動いた。


「待て!」


レイグは通りを横切った。


「ちょっと」


荷車を押していた男が怒鳴った。


「悪い」


振り返らずに白い翼を追い、狭い路地へ入って洗濯物を干す縄の下を抜ける。


さらに石壁の角を曲がったところで、レイグは足を止めた。


そこには、黒い霧の中で見た時と同じ白い翼の者が立っていた。人に似た身体の背から伸びる大きな翼には、汚れ一つない。


あの時は、死にかけた自分を静かに見ていた。


『あなたは、その選択まで手放すのですか』


声まで鮮明に覚えている。


「お前……」


レイグは息を整える暇もなく詰め寄った。


「お前、あの時いたな」


白い翼の者は何も言わない。


「俺が死んだ時だ」


返事はない。その静けさが腹立たしかった。


「何なんだよ」


声が路地に響く。


「何で俺は覚えてる!」


白い翼の者の表情は変わらない。


「最初は死んだ! だから戻ったのかと思った! でも昨日は死んでない!」


一歩近づく。


「石橋を渡って帰った! 家まで帰った! 金も残した! 紙にも書いた!」


さらに声が大きくなる。


「それでも全部消えた」


白い翼の者はただレイグを見ており、その静かな目が今はひどく癇に障った。


「何で俺は覚えてる」


レイグは自分の胸を叩いた。


「お前が何かしたのか?」


ようやく白い翼の者が口を開いた。


「記憶があるからといって、理解したことにはなりません」


レイグは、自分の胸を叩いた手を下ろせなかった。死んだ時の痛みまで覚えていて、金貨が消えたことも自分の目で確かめた。それなのに、何も分かっていないと言われた気がした。


すぐに怒りが込み上げる。


「だったら何を理解しろっていうんだ」


返事はない。


「ふざけるな」


レイグはさらに一歩踏み込んだ。


「俺は二回も同じ日を過ごしたんだぞ」


声がかすれる。


「最初は死んだ。昨日は生きてた。それでも朝に戻った」


白い翼の者は動かない。


「傷も消える! 武器も戻る! 金も、書いた文字も残らない! 一緒にいた奴らまで何も覚えてない!」


喉が痛くなる。それでも止められない。


「俺だけなんだよ」


声がひっくり返った。


「昨日を覚えてるのは、俺だけなんだ!」


白い翼の者は慰めなかった。否定もしなかった。レイグは荒く息をした。


「……本当に俺だけなのか?」


今度の声は低かった。


「この町で、昨日を覚えてるのは俺だけなのか」


答えはない。


「答えろよ」


白い翼の者は静かにレイグを見返す。


「知ってるんだろ」


沈黙。


「俺が何でこうなったかも、この一日が何なのかも」


沈黙。


「答えろ!」


怒声が石壁へ跳ね返った。


路地の入口で、誰かがこちらを見る気配がした。


レイグが一瞬そちらへ顔を向け、すぐに戻した。


白い翼の者はいなかった。


「……は?」


左右を見回し、路地の先や屋根の上、壁際まで探したが、どこにも姿はない。


「おい」


角まで走る。


「どこ行った」


返事はなかった。


レイグはその場で立ち尽くした。


「何なんだよ……」


拳が震えた。隣の石壁を殴ると、鈍い痛みが指から腕へ走った。


「ふざけるな……」


もう一度殴りそうになり、やめた。


痛い。当たり前だ。


今の身体は傷つけば痛む。その痛みも次の朝には消えるのかもしれない。そう思うと、余計に腹が立った。


自分の痛みさえ、昨日が存在した証拠にはならない。


家族は昨日を忘れ、物は朝の状態へ戻り、書いた文字まで消える。答えを知っていそうな相手は何も教えない。


壁に背を預けたレイグの耳に、路地の向こうから人々の声が届いた。


「明日の分も頼むよ」


「明日はもう少し早く来い」


「この雲じゃ午後まで持つかねえ。明日は晴れてくれりゃいいが」


明日。


また、その言葉だった。


誰も疑わず、当然のように今日の次を話している。


レイグはゆっくり顔を上げた。


前の朝は人に日付を聞いて回り、今日は月曜日で昨日は日曜日だと言われた。王家の布告も、同じ日付で貼り直されていた。


だが、それだけでは足りない。


日付を聞くだけでは、この町の何が戻り、何が変わっているのか分からない。


市場や教会、役所には人が集まり、関所へ行けば町を出入りする御者の話も聞ける。誰か、自分と同じ異常を感じている者はいないのか。毎回同じ内容で出される王家の布告も、もう一度見ておきたかった。


レイグは壁から背を離した。殴った手の関節が、じんじん痛んでいる。


答えはもらえなかった。


なら、自分で探すしかない。


路地から大通りへ出ると、曇った空の下でネルトアは何も知らない顔をして動き続けていた。


「誰も教えないなら……」


市場の向こうには教会の鐘楼が見え、さらに先には役所へ続く道がある。レイグは歩き出した。


「俺が確かめる」


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