第19話 残らない文字
擦った爪の脇を、レイグは親指で押さえた。小さく血が滲んでいる。
大剣に貫かれた傷は消えたのに、紙を探してつけたばかりの傷は痛む。開け放した隠し場所を前に、レイグは寝台へ腰を落とした。眠ってもいないのに、雨のカレグノスを歩いた疲れすら残っていなかった。
『明日は休みなさい』
昨夜の母の声だけが、その身体に残っている。
「レイグ?」
部屋の外から声がした。
「起きてるの?」
ミレサだった。
「朝ご飯できてるわよ」
その声を聞いた途端、胸が詰まった。昨夜の母は自分に明日は休めと言い、今日はその明日のはずだった。
「……今行く」
どうにか答えたものの、普通の声に聞こえたかは自分でも分からなかった。
*
食卓へ行くと、薄いパンを片手に椀の中を覗くネリナが先に座っていた。
「今日、肉少なくない?」
「同じよ」
鍋を置きながらミレサが答える。
「絶対少ない」
「昨日と比べたの?」
「見た感じ」
「その見た感じが信用できないの」
「ひどい」
ネリナが不満そうに口を尖らせた。
レイグは入口に立ったまま、二人を見ていた。普通だった。あまりにも普通だった。
「兄さん?」
ネリナが気づく。
「何してるの?」
「……いや」
「座れば?」
「ああ」
椅子を引く。
最初の朝とも、雨の朝とも違う会話だった。
だが、豆と野菜のスープがあり、薄いパンがあり、つま先を繕ったネリナの靴が足元にある。
また同じ朝の食卓が、何事もなかったようにそこにあった。
「兄さん、今日静かだね」
ネリナが言った。
「そうか?」
「うん。いつもなら私が肉少ないって言ったら、食いすぎだって言うじゃん」
「昨日は言ってなかったぞ」
そう口にすると、ネリナが瞬きをした。
「昨日?」
レイグの手が止まった。昨日――雨の朝、自分は取り乱し、ネリナを怖がらせ、ミレサとも言い争った。その日の夕方には、早く家へ帰った。
『……本当に帰ってきたんだ』
ネリナはそう言ったあと、最後に小さな声で「おかえり」と付け加えた。
そのやり取りを全部覚えているのに、目の前の妹は何も知らない。
「昨日が何?」
ネリナが聞いた。
説明しようと思えばできる。昨日も、その前も同じ月曜日で、自分は一度死に、昨日は死ななかったのに、それでも朝へ戻ったのだと。
だが口にすれば、またネリナの顔を曇らせ、怖がらせ、母には治療師へ連れていかれそうになる。
そして、もし次の朝も同じなら。
そこまで考えて、レイグは言葉を飲み込んだ。
「何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
「寝不足だ」
「じゃあ寝ればよかったのに」
「そうだな」
ネリナがまだ疑わしそうに見ているなか、ミレサがレイグの前に椀を置いた。
「本当に大丈夫?」
「ああ」
「顔色がよくないわよ」
「ちょっと眠れてないだけだ」
嘘ではない。昨日の夜は眠っていない。ただし、それは母が知っている昨日の夜ではなかった。
「今日はカレグノスへ行くの?」
ミレサに聞かれ、レイグは口を開いたまま止まった。昨夜の母なら、今日は休めと言っていた。その声を覚えているのは、向かいに座る母ではなく自分だけだ。
「……まだ決めてない」
「珍しいわね」
「そう?」
「いつもなら、もう荷物まで用意してるでしょう」
何気ない言葉に、レイグは壁際の荷袋へ目を向けた。水筒も包帯も薬も朝の状態へ戻っている。
母に渡した生活費も――。
そこで顔を上げた。
「母さん」
「何?」
「昨日、俺から金を預からなかったか?」
ミレサの手が止まる。
「金?」
「ああ」
「何の?」
膝の上に置いた手から力が抜けた。
昨日、自分は確かにここに金を置き、ネリナの靴代の足しにしろと言った。母は受け取ったのに、そのやり取りまで消えている。
「……いや。何でもない」
「レイグ?」
「忘れてくれ」
ミレサの眉が寄り、ネリナもこちらを見た。
「やっぱり変だよ、兄さん」
「昨日、ここに金を置いた。母さんは受け取ったんだ」
「また昨日の話?」
「今はいい」
少し強く言ってしまい、ネリナが口を閉じた。
まただ。また妹を怖がらせる。
レイグは謝りかけたが、言葉に詰まった。昨日も謝ったが、ネリナは怒った。それでも少しずつ話せるようになったのに、それもなくなった。
今また謝って関係を戻しても、次の朝には全部忘れられるのか。
「……ごちそうさま」
レイグは半分ほど残った椀から手を離した。
「兄さん、ほとんど食べてないじゃん」
「腹が減ってない」
「それでも少しは食べなさい」
ミレサが言う。
「朝から何も食べずに出たら――」
「食べるよ」
今度は声を抑え、パンを一枚取って無理やり噛んだが、味はよく分からなかった。
*
家を出ると、空は一面の雲に覆われていた。雨は降っていないが、最初の日のような青空もなく、重い灰色の空の下でネルトアはいつもの朝を始めている。
パン屋から煙が上がり、水桶を持った女たちが井戸へ集まる。荷車を引く男が道を空けろと声を張る横で、店の木戸も次々と開いていく。
この朝を見るのは三度目だった。それでも一度目とも二度目とも同じではなく、人々の言葉も歩く順番も天気も違う。なのに、また同じ月曜日が始まっている。
「……本当に俺だけなのか」
レイグは呟いた。
ミレサもネリナも覚えていない。昨日、一緒に確かめたダルクとフィエラはどうかと考えただけで、胸が重くなった。会えば分かるが、おそらく二人も忘れている。
また最初から説明するのか。また信じてもらうのか。
「くそ……」
レイグは足を止め、誰か一人くらい昨日のことを知っていてもいいはずだと思った。
その時、視界の端で白いものが動いた。
レイグは顔を上げた。
路地の奥、朝の薄暗さの中に白が見えた。
布ではない。鳥でもない。翼。
「……おい」
白い翼の者が、路地の角を曲がった。
レイグの身体が先に動いた。
「待て!」
レイグは通りを横切った。
「ちょっと」
荷車を押していた男が怒鳴った。
「悪い」
振り返らずに白い翼を追い、狭い路地へ入って洗濯物を干す縄の下を抜ける。
さらに石壁の角を曲がったところで、レイグは足を止めた。
そこには、黒い霧の中で見た時と同じ白い翼の者が立っていた。人に似た身体の背から伸びる大きな翼には、汚れ一つない。
あの時は、死にかけた自分を静かに見ていた。
『あなたは、その選択まで手放すのですか』
声まで鮮明に覚えている。
「お前……」
レイグは息を整える暇もなく詰め寄った。
「お前、あの時いたな」
白い翼の者は何も言わない。
「俺が死んだ時だ」
返事はない。その静けさが腹立たしかった。
「何なんだよ」
声が路地に響く。
「何で俺は覚えてる!」
白い翼の者の表情は変わらない。
「最初は死んだ! だから戻ったのかと思った! でも昨日は死んでない!」
一歩近づく。
「石橋を渡って帰った! 家まで帰った! 金も残した! 紙にも書いた!」
さらに声が大きくなる。
「それでも全部消えた」
白い翼の者はただレイグを見ており、その静かな目が今はひどく癇に障った。
「何で俺は覚えてる」
レイグは自分の胸を叩いた。
「お前が何かしたのか?」
ようやく白い翼の者が口を開いた。
「記憶があるからといって、理解したことにはなりません」
レイグは、自分の胸を叩いた手を下ろせなかった。死んだ時の痛みまで覚えていて、金貨が消えたことも自分の目で確かめた。それなのに、何も分かっていないと言われた気がした。
すぐに怒りが込み上げる。
「だったら何を理解しろっていうんだ」
返事はない。
「ふざけるな」
レイグはさらに一歩踏み込んだ。
「俺は二回も同じ日を過ごしたんだぞ」
声がかすれる。
「最初は死んだ。昨日は生きてた。それでも朝に戻った」
白い翼の者は動かない。
「傷も消える! 武器も戻る! 金も、書いた文字も残らない! 一緒にいた奴らまで何も覚えてない!」
喉が痛くなる。それでも止められない。
「俺だけなんだよ」
声がひっくり返った。
「昨日を覚えてるのは、俺だけなんだ!」
白い翼の者は慰めなかった。否定もしなかった。レイグは荒く息をした。
「……本当に俺だけなのか?」
今度の声は低かった。
「この町で、昨日を覚えてるのは俺だけなのか」
答えはない。
「答えろよ」
白い翼の者は静かにレイグを見返す。
「知ってるんだろ」
沈黙。
「俺が何でこうなったかも、この一日が何なのかも」
沈黙。
「答えろ!」
怒声が石壁へ跳ね返った。
路地の入口で、誰かがこちらを見る気配がした。
レイグが一瞬そちらへ顔を向け、すぐに戻した。
白い翼の者はいなかった。
「……は?」
左右を見回し、路地の先や屋根の上、壁際まで探したが、どこにも姿はない。
「おい」
角まで走る。
「どこ行った」
返事はなかった。
レイグはその場で立ち尽くした。
「何なんだよ……」
拳が震えた。隣の石壁を殴ると、鈍い痛みが指から腕へ走った。
「ふざけるな……」
もう一度殴りそうになり、やめた。
痛い。当たり前だ。
今の身体は傷つけば痛む。その痛みも次の朝には消えるのかもしれない。そう思うと、余計に腹が立った。
自分の痛みさえ、昨日が存在した証拠にはならない。
家族は昨日を忘れ、物は朝の状態へ戻り、書いた文字まで消える。答えを知っていそうな相手は何も教えない。
壁に背を預けたレイグの耳に、路地の向こうから人々の声が届いた。
「明日の分も頼むよ」
「明日はもう少し早く来い」
「この雲じゃ午後まで持つかねえ。明日は晴れてくれりゃいいが」
明日。
また、その言葉だった。
誰も疑わず、当然のように今日の次を話している。
レイグはゆっくり顔を上げた。
前の朝は人に日付を聞いて回り、今日は月曜日で昨日は日曜日だと言われた。王家の布告も、同じ日付で貼り直されていた。
だが、それだけでは足りない。
日付を聞くだけでは、この町の何が戻り、何が変わっているのか分からない。
市場や教会、役所には人が集まり、関所へ行けば町を出入りする御者の話も聞ける。誰か、自分と同じ異常を感じている者はいないのか。毎回同じ内容で出される王家の布告も、もう一度見ておきたかった。
レイグは壁から背を離した。殴った手の関節が、じんじん痛んでいる。
答えはもらえなかった。
なら、自分で探すしかない。
路地から大通りへ出ると、曇った空の下でネルトアは何も知らない顔をして動き続けていた。
「誰も教えないなら……」
市場の向こうには教会の鐘楼が見え、さらに先には役所へ続く道がある。レイグは歩き出した。
「俺が確かめる」




