第18話 深夜の暗転
雨は夜になっても止まず、屋根を細かく叩く音が家の中まで絶え間なく響いている。
レイグは自室の椅子に腰掛け、机の端に肘をついていた。
手持ち無沙汰になった右手が、また金貨をしまった箱へ向かった。
二本の傷を爪でなぞる。別に隠した紙も引き出すと、折り目の下にフィエラの名前が見えた。何も変わっていない。レイグはどちらも元の隠し場所へ戻し、今度は自分の胸を押さえた。
心臓は動き、息もできる。壁際には、今日はちゃんと持ち帰れたスチールロングソードがある。母と妹も、同じ家で眠っていた。
死んだことが原因で戻ったのなら、今夜は越えられるはずだ。白い翼の者が関わっているのか分からなくても。
このまま夜が終わり、今日ではない朝が来てくれれば、それだけでよかった。
「……それでいいんだ」
誰に言うでもなく呟いた。
前に経験した一日が何だったのかは分からない。
幻でも、呪いや悪夢でも、何でもいい。
明日が来るなら。
廊下から床板の軋む音がして、レイグは顔を上げる。軽い足音ではなく、ネリナではないと分かった。
しばらくして扉が二度、小さく叩かれた。
「レイグ?」
「母さん?」
扉が開き、肩に薄い上着を掛けたミレサが顔を出した。
「まだ起きてたの?」
「ああ」
「もう遅いわよ」
「深夜の鐘を聞いたら横になるよ」
ミレサの視線が机へ落ち、それからレイグの顔へ戻る。
「まだ今日のことを考えてるの?」
「……少しだけ」
ミレサの眉が寄った。レイグは朝からずっと、死んだと言い、暦を疑い、ネリナともぶつかって、彼女を心配させている。
それでも今日、ちゃんと帰ってきたことで、夕食の頃には朝ほど張りつめた空気ではなくなっていた。
元に戻ったわけではない。
母はまだ、レイグを見るたびに何かを確かめるような目をしている。
「今日はもう休みなさい」
「もう少ししたら寝るよ」
「せめて今夜くらい、心配せずに寝かせてちょうだい」
レイグは苦笑しかけたが、ミレサは笑わなかった。
「明日は休みなさい」
その一言にレイグが息を詰めると、ミレサが気づいた。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「カレグノスへ行くのは駄目よ。少なくとも一日は休んで。それでまだ変な夢や今日みたいなことを言うなら、治療師にも診てもらうから」
「分かった。明日は休む」
ミレサはまだ戸口を離れなかった。レイグがもう一度頷くのを見て、ようやく扉に手を掛けた。
「じゃあ、ちゃんと寝るのよ」
「うん」
扉が閉まり、廊下を歩く足音が遠ざかるなか、レイグはその扉を見つめた。
明日。
母は何の疑いもなく口にした。
明日は休め。
普通なら、それだけの言葉だ。
だが、母が何気なく置いていった「明日」だけは、扉が閉じても部屋から出ていかなかった。
「……来いよ、明日」
小さな呟きに、雨音だけが答えた。
*
時間がひどくゆっくり流れるなか、レイグは何度も眠気に襲われた。
そのたびに立ち上がり、冷たい水を飲み、窓の隙間から外気を入れた。
雨の匂いがする。町はもう静かで、通りを歩く人の声はほとんどない。
時折、遠くで馬が鳴き、どこかの家の戸が閉まる音がする。風が吹けば、軒先から落ちる水の音が少しだけ強くなった。
普通の夜だった。
何も起こらない。
レイグは金貨を隠した場所を確かめた。
そこにある。
紙をしまった場所も確かめると、紙は残っている。レイグは指先へ目を向けたが、血も傷もなかった。
「……やっぱり」
声と一緒に、噛みしめていた歯の間から長い息が漏れた。金貨の縁も紙の端も、確かに指へ触れている。
「死んだからだったのか?」
そうなら、前の朝へ戻った理由は分からないままでも、少なくとも今日から先へ進める。
死ななければいい。危険な場所へ近づかなければいい。
明日になれば、ダルクもフィエラも今日のことを覚えているはずだ。そうなれば、今日までに起きたことを三人でもう一度整理できる。
「そうだよ」
レイグは机に肘をついた。
「それでいい」
少し笑いそうになった。その時、窓の外に何か妙なものを感じた。
音ではない。
光でもない。
レイグは立ち上がって窓へ近づき、木板を少しだけ開くと、冷たい雨が頬にかかった。
「……何だ?」
夜のネルトアには、家々の屋根と暗い通りが沈んでいる。
そのさらに向こう、カレグノスのある方角だけが、雨雲に覆われた夜よりもなお濃く黒ずんで見えた。
黒い雲ではない。
空そのものが暗くなったような、妙な黒さだった。
レイグの背中を冷たいものが走った。
あの日、外周から押し寄せてきた黒い霧。
人も魔物も逃げ、最後には守備隊詰所の中庭まで流れ込んできた。
「まさか……」
遠すぎて、ここからカレグノスの通りまで見えるわけはなく、あれが黒い霧なのかどうかも分からない。
それでも、目を離せなかった。
その時。
ゴォン――。
町の鐘が鳴った。
レイグの肩が跳ね、二度目の鐘が続く。
深夜を告げる鐘だ。
レイグは窓から離れた。
三度目。
隠してある金貨を確かめると、傷は残っている。別の場所にしまった紙も確かめる。消えていない。
レイグは椅子に腰を下ろした。
鐘が夜の町へ響くたび、胸の鼓動が速くなった。
大丈夫だ。
自分は生きている。
傷もない。
今回は違う。
八度目、九度目、十度目と、鐘は止まらず続いた。
十一度目の音が雨の向こうへ消えていく。
金貨も紙もある。
十二度目。
ゴォン――。
長い音が響き、ゆっくりと夜へ溶けていった。
レイグは息を止めた。
待つ。
何も起こらない。
一呼吸。
もう一呼吸。
雨は降っている。
部屋も変わらない。
「……終わった?」
肩から力が抜けかけた。
その時だった。
雨音が消えた。
レイグは顔を上げる。
「……え?」
窓を見る。
雨が止んだのか。
違う。
さっきまで聞こえていた家の軋みも、風の音も、遠くで時折聞こえていた馬の声も消えている。
静かな夜なのではなく、世界から音そのものだけを抜き取ったようだった。
レイグは椅子を蹴るように立ち上がった。
椅子が床を擦ったはずなのに、手応えだけが脚から伝わり、音は返らない。耳の奥が詰まり、自分の鼓動ばかりが首筋を内側から叩いた。息を吐くと、吐息は聞こえる。部屋が静かなのではない。自分の身体の外から来る音だけが、一つずつ切り離されている。
「母さん?」
声は出た。
自分の声だけが、異様に近く聞こえる。
「ネリナ?」
返事はなく、寝ているだけかもしれない。そう思った直後、机の上の油灯が揺れた。
風はないのに、炎が細くなる。
「待て」
レイグは証拠をしまった場所へ身体を向けた。
「待て、待て……」
炎が消えた。
暗闇。
レイグは机の縁へ手を伸ばした。指が木へ届くはずの距離を過ぎても、何にも触れない。踏ん張ろうとした足の裏から、床の硬さが薄い布を引き抜くように消えた。
胃が持ち上がり、落ちるはずの身体はどこへも落ちなかった。手を胸へ当てようとしても、腕が動いたのかさえ分からない。最後まで残ったのは、母と妹の名を呼ぼうとする喉の震えだけだった。
*
レイグは息を吸った。
「っ」
身体を跳ね起こすと、見慣れた木の天井、自室の壁、窓から入る朝の薄明かりが目に飛び込んできた。自分の身体を受け止めているのは寝台だった。
レイグは両手で敷布を掴んだ。
「……何で」
昨夜は椅子に座っていて、眠っていない。鐘を聞き、音が消えた。
それなのに今、自分は寝台の上にいる。
レイグが窓を見ると、雨音がない。木板を開くと、外は朝だった。
だが晴れておらず、厚い雲がネルトアの空を覆っている。昨日の雨とも、最初に死んだ日の晴天とも違う。
「……また」
喉が鳴った。
レイグは寝台から飛び降り、そのまま金貨を隠した場所へ向かい、隠し場所を開けて手を入れた。何もない。
「ない……」
奥まで探る。
ない。
縁に傷をつけた金貨。
昨日カレグノスから戻り、換金して得た金貨そのものが存在していない。
爪で板の隅を掻く。金貨を押し込んだ時についたはずの擦れも、丸い縁が残した窪みもなかった。隠した品だけを抜き取られたのではない。金貨を隠した時についた痕跡まで、すっかり消えている。
レイグはすぐ、紙をしまった別の場所へ向かった。
「紙は……」
開く。
ない。
床へ落ちたのかと周囲を見る。
ない。
紙を二つに折って差し込んだ狭い隙間にも、折り目の紙屑一つ残っていなかった。レイグは指を差し入れすぎて爪の脇を木に擦った。小さな痛みが走ったが、それだけは今朝の身体に残った。
「嘘だろ」
もう一度、指先で隅まで探っても、何も出てこない。
「書いたんだぞ……」
今日の日付、雨、カレグノス、兵舎、撤退、金貨――全部書き、何度も読んだ。
深夜の鐘が鳴る直前にも、確かに残っていた。
それがない。
レイグはその場に両手をつき、肩で息をする。
「違う」
右脇腹に手を当てた。
最初に死んだ時はここを大剣に貫かれたため、朝へ戻ったのだと思った。
だが昨日は違う。
死んでもいなければ、黒い霧に呑まれてもいない。カレグノスから撤退して古い石橋を渡り、ネルトアまで帰った。
夕食を食べ、母と話し、深夜まで生きていた。
それでも戻った。
「……死んだからじゃない」
声は震えたが、頭の中にはすべて残っている。
最初に死んだ日の晴れた空、ネヴァル、スケルトンジェネラル、白い翼。
次の朝に降っていた雨、信じないダルク、顔を覗き込んだフィエラ、兵舎へ戻っていた剣。
霧が来る前の撤退、傷をつけた金貨、書き残した紙、十二回の鐘、そして突然消えた雨音。
金も紙も消え、夜には椅子のそばにいた自分まで朝の寝台へ戻った。
何かが消されたというより、金を得る前、文字を書く前、傷を負う前の時点へ、物も身体も押し戻されたようだった。
それでも、この記憶だけは一つも失われていない。
その時、家の奥から声が聞こえた。
「レイグ、起きてる? 朝ご飯にするわよ」
レイグの身体は扉へ向きかけた。昨夜、薄い上着を肩に掛けて部屋を訪ね、「明日は休みなさい」と言った母の顔が浮かぶ。駆け寄って確かめたい衝動と、何も知らない母の手首をまた強く掴むかもしれない恐れが同時に込み上げた。
扉の向こうで、椀を卓へ置く音がした。母はそこにいる。けれど昨夜の言葉は、金貨や紙と同じように母の中から消えている。
レイグは開きかけた指を握り、返事をしなかった。
空になった隠し場所を見てから、曇った空を映す窓へ目を向けた。
昨日は死ななかった。
それなのに、目を開ければまた同じ日の朝だった。
レイグの口から、かすれた声が落ちる。
「……また、同じ朝だ」




