第17話 持ち帰った金
城門へ戻る道は、行きより空いていた。
レイグが歩幅を広げると、前を行くダルクも同じだけ速くなった。追いついて何か言うのはやめた。雨に霞む王城の尖塔には背を向けたまま、盾の下で揺れるウォーハンマーを追う。
フィエラは二人の間を歩いていた。旧市街を抜ける途中、何組もの探索者とすれ違う。これから奥へ向かう者もいた。
雨を避けるように外套を頭まで被った男が、三人を見るなり笑った。
「もう帰るのか? まだ昼過ぎだぞ」
ダルクが何か言い返しかけたが、それより先にレイグが答えた。
「ああ。今日はこれで十分だ」
男が肩をすくめて仲間と王城方向へ歩いていくと、フィエラが隣から顔を覗き込んだ。
「珍しいこと言ったね」
「何が」
「今日はこれで十分、って」
「俺だって帰る時は帰る」
「その台詞、母親の前でも言え」
ダルクが言った。
「言ってるよ」
「言うだけだろ」
「うるさいな」
言い返しながらも、レイグ自身、さっきの言葉が胸に残っていた。
これで十分。
そう思えた。
剣も、換金できそうな品もあり、何より、三人とも生きている。
昨日はそれでは足りず、もっと稼ぎたい、もう少し奥へ行けると考え続けた先で、自分は死んだ。
城門が見えてきた。その向こうには雨に濡れた古い石橋が伸び、まだ黒い霧は橋に届いていない。
「行くぞ」
ダルクが言った。
三人は橋へ出た。
濡れた石は朝と変わらず滑りやすい。行きより人が少ないぶん歩きやすかったが、レイグたちは急がなかった。
足元を確かめながら進み、橋の半ばで、レイグは城塞都市を振り返った。
崩れた城壁と黒く開いた城門、その奥には巨大な王城がある。
昨日、自分はあの中で死んだ。
今日は違う。
雨が頬を伝うが、痛みはなく、右脇腹にも傷はない。
自分の足で、橋の外へ出ようとしている。
「レイグ」
フィエラが少し先から呼んだ。
「置いてくよ」
「ああ」
レイグが前を向いて橋を渡り切ると、石畳の色が変わり、前線拠点の建物が近づいた。
靴底が橋ではなく前線拠点の石畳を踏んだところで、レイグの肩がようやく下がった。左腕には盾の重さがあり、隣では二人の足音が途切れずについてくる。
帰れた。
今度は本当に、生きてカレグノスから出られた。
*
「安い」
「この状態でその値段なら十分だ」
「どこがだ。刃は生きてる」
「刃だけだろう」
「柄を替えれば使える」
「じゃあ自分で使え」
「それができるなら売りに来てねえよ」
遺物買い取り所の台を挟んでダルクと買い取り人が睨み合い、フィエラは少し離れた場所で腕を組んでいる。
「始まった」
「何がだ」
「ダルクと買い取り所の戦い」
「俺は正当な値段を要求してるだけだ」
「毎回それ言うよね」
「毎回安く買おうとするからだ」
レイグは思わず笑った。
換金用に選んで持ち出した予備の武器と、途中で拾った小さな遺物が台の上に並んでいる。どれも王家が求めるような大物ではないが、三人で分ければ今日の稼ぎとしては悪くない。
しばらく粘った末、ダルクはようやく提示された額で折れた。
「絶対もう少し出せただろ」
「十分じゃない?」
「お前は金のありがたみを分かってねえ」
「ありがたいから、値段の交渉はダルクに任せてるんじゃん」
「それ褒めてんのか?」
「半分くらい」
「残り半分は何だ」
受け取った金を三人で分けると、レイグの手のひらにも金貨と銀貨が落ちた。小さいが、確かな重さがある。
昨日もカレグノスでは武器や薬を手に入れたが、それを前線拠点まで持ち帰ることすらできず、自分は城塞の中で死んだ。
そして今朝、兵舎で拾った剣も、使った薬も、何一つ手元には残っていなかった。
今日は違う。
拾った物を自分の足で外へ運び、売り、金に変えた。
レイグは自分の取り分から金貨を一枚抜いた。
「これ、使わないで残す」
ダルクが見る。
「何でだ」
「明日の朝まで残るか確かめる」
二人の表情から笑いが消えた。
「死んだから全部戻っただけなのかもしれない」
レイグは金貨を指先で転がした。
「今度は俺たち全員、生きて帰ってきた。これが明日の朝にも残ってたら……」
「少なくとも、前とは違うってことか」
フィエラが続けた。
「ああ」
ダルクが周囲を見回した。
「場所変えるぞ。こんなところで金に印つけてたら、別の意味で目立つ」
三人は買い取り所を離れて食堂の軒下へ移ると、雨音に紛れ、周囲の話し声も遠くなった。
ダルクが小さなナイフを取り出した。
「貸せ」
「俺がやる」
「お前一人でやった傷より、三人で見た傷の方がましだ」
レイグから金貨を受け取ると、ダルクは縁に刃先を当てた。き、と金属を擦る小さな音を立て、浅い傷を一本、少し間を空けてもう一本刻む。
「二本?」
フィエラが覗き込む。
「一本じゃ最初からあった傷かもしれねえだろ」
「細かいねえ」
「こういう時は細かくていいんだよ」
「ダルクが初めて役に立った」
「今まで何だと思ってた!」
「盾?」
「役割じゃねえか」
レイグは二本の傷を指でなぞった。確かにダルクがつけた傷があり、フィエラも見ている。
「紙も残そう」
食堂の店主に頼み、紙と筆記具を借りた。レイグは雨のかからない台に紙を置き、今日の日付、月曜日、雨と書いた。
さらに、兵舎の武器が元の場所へ戻っていたことと、ダルクとフィエラに昨日の話をしたことを記す。三人でカレグノスへ入り、黒い霧が来る前に石橋を渡って生きて帰ったこと、金貨の縁に二本の傷をつけたことも書いた。
「フィエラ」
「何?」
「最後に名前書いてくれ」
「私?」
「ああ」
「ダルクじゃなくて?」
「字が汚い」
「おい」
フィエラが笑いながら筆記具を受け取った。
「じゃあ綺麗に書いてあげる」
紙の下部に自分の名を書き、その文字をしばらく見ていた。
「……明日の私、これ見ても何のことか分かんないのかな」
レイグは答えられず、ダルクもすぐには何も言わなかった。
今朝の二人は、昨日のことを何も覚えていなかった。
今日こうして一緒に調べたことも、明日になれば消えるかもしれない。
「それを確かめるんだろ」
ダルクが言った。
「今から暗い顔してどうすんだ」
「そうだけど」
フィエラは紙をレイグに返す。
「明日、来るといいね」
何でもない言い方だった。
レイグの胸が少し詰まった。
「来るだろ」
ダルクが言う。
「普通は」
フィエラが小さく笑う。
「普通ね」
少し間を置いて、レイグを見る。
「でも、もし明日の私が忘れてても、その日の私はレイグを信じるよ。今日みたいに」
三人とも、それ以上は言わなかった。
*
ネルトアへ戻る乗合馬車を降りた頃には、雨は細くなっていた。ダルクとフィエラに別れを告げ、レイグは一人で家へ向かった。
家の扉を開ける。
「ただいま」
奥から物音がして、ネリナが顔を出す。
「……兄さん?」
「ああ」
「もう帰ってきたの?」
「今日は早く帰るって決めたからな」
ネリナは返事をせず、驚いたようにレイグを見ている。
その後ろからミレサも出てきた。
「まあ。ずいぶん早かったのね」
「雨もひどかったし」
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
ミレサが近づき、濡れた外套と顔を見た。
「本当だ」
今朝のように母の手を掴んだりはしなかった。
ネリナも少し離れたところに立っている。朝に自分が怒鳴り、死んだと言って剣まで抜いたことは、なかったことにはなっていない。
ネリナが小さく言った。
「……本当に帰ってきたんだ」
レイグは答えに詰まった。自分ではずっと帰るつもりだったのに、妹には、そう言わせるほど信用されていなかった。
「ああ」
ようやく答える。
「帰ってきた」
ミレサが濡れた外套を受け取った。
「まず着替えなさい。話はそれから」
いつもの母の声を聞くだけで、少し安心した。
着替えを終えたあと、レイグは今日の取り分から、生活費に回す分を卓上に置いた。
「これ、今日の分」
ミレサが目を丸くする。
「もう換金までしてきたの?」
「ああ。今日は奥へ行かなかったから、大した額じゃないけど」
ネリナの足元へ目を向けると、何度も繕われた革靴が見えた。
「これなら靴代の足しにはなるだろ」
ネリナも自分の靴を見たが、すぐには嬉しそうな顔をしなかった。
「靴はいいよ」
「欲しいって言ってただろ」
「今日は、もう出ていかない?」
「出ないよ」
「本当に?」
「ああ」
レイグが即答すると、ネリナはしばらくレイグを見ていた。
「なら……今日はそれでいい」
その言葉の方が、金より重かった。
レイグは視線を落とす。
「朝は悪かった」
「それ、朝も聞いた」
少し刺のある言い方だった。
「……そうだな」
ネリナはまだ怒り、怖がってもいる。
それでいい。
今朝の自分を考えれば、すぐ元通りになる方がおかしい。
ミレサが金をまとめながら言った。
「朝の話は、まだ何も分かっていないのでしょう?」
「ああ」
「なら、明日は休みなさい」
レイグの動きが止まった。
明日。
何でもない言葉。
母にとっては、今日の次に当然来るもの。
「……そうするかもしれない」
「かもしれないじゃなくて、休んで」
「考えるよ」
「ほら、また」
ミレサが呆れると、ネリナがほんの少し口元を緩め、レイグもつられて笑いそうになった。
ネリナは一度口を閉じ、それからぼそりと言った。
「……おかえり」
「ただいま」
今度は迷わず返せた。
*
夜、ミレサとネリナが眠ったあとも、レイグは一人で起きていた。
確かめるための金貨を取り出すと、縁には間違いなく二本の傷があった。金貨は衣服を入れた箱の底に隠した。
紙を折る前に、最後の名前へもう一度目を落とす。自分の字で詰め込んだ記録の下に、フィエラの整った文字がある。明日の二人に見せるなら、まずこの名前からだ。
紙は金貨とは別の場所にしまってから、レイグは窓際の椅子に腰を下ろした。眠るつもりはなく、細い雨が屋根を叩くなか、家の奥からはかすかな寝息が聞こえる。
何も起こらず、ただ時間だけが過ぎていく。
「……死んだからだったのか」
小さく呟いた。
昨日は自分が死に、そのあと朝へ戻った。もしそれだけなら、今夜を越えればいい。
傷をつけた金貨も、紙も、母へ渡した金も残る。
そして今日の続きとして、明日が始まる。
それだけのことだ。
昨日までなら、考えもしなかった。
遠くで夜番の鐘が鳴ったが、レイグは椅子から動かず、眠気が来ても目を閉じない。
今度こそ、今日が終わって明日が来るところを見届ける。
深夜まで、あと少しだった。




