第16話 信じない友人
雨はまだ降り続き、兵舎の軒から落ちた雫が石畳を絶え間なく叩いている。
少し前までそこにいたネヴァルたちは、もう雨の向こうへ消えていた。
左脚に傷はなく、レイグたちに助けられたことも知らない。
昨日、血まみれで瓦礫の下にいた男が、今日は何事もなかったように歩いていった。
レイグはその背中が消えた通りを見たあと、ダルクとフィエラへ向き直った。
ダルクの手には、武器庫で見つけたスチール製のウォーハンマーがある。
昨日も同じ武器を見つけ、同じように重さを確かめて、同じように気に入っていた。
レイグ自身の腰にも、昨日使ったものと同じスチールロングソードがある。
「言ってみろよ」
ダルクはレイグから目を逸らさなかった。
「物じゃねえ。昨日の俺を見てなきゃ分からねえことがあるんだろ」
レイグは息を吸った。怒鳴り返す声は喉に残っているのに、次の言葉だけが出てこない。
「ダルク」
フィエラが止めようとした。
「いい。言わせろ」
レイグは答えられなかった。昨日のダルクなら、いくらでも思い出せる。
兵舎でウォーハンマーを見つけて子供のように喜び、蜘蛛と戦い、霧から逃げた。ネヴァルを助けるために戻った自分に本気で怒り、最後には、自分を置いていけないと叫んだ。
そして、蜘蛛との戦いが終わった後。
「お前……手が震えてた」
ダルクの表情が固まった。
「何?」
フィエラが隣へ目を向けたが、ダルクは答えなかった。
「蜘蛛の毒牙を盾で受けた後だ」
レイグは続けた。
「洗い終わった盾の持ち手を握ってただろ。その指が震えてた」
「……黙れ」
低い声だったが、レイグは止まらなかった。
「お前、寒いだけだって言っただろ。俺もそれ以上聞かなかったけど――」
「黙れって言ってんだよ!」
怒声が兵舎の軒下に響き、レイグは口を閉じ、フィエラも驚いたようにダルクを見た。
「私、それ知らなかった」
「隠してきたんだよ、前から! 死にそうになるたびに手が震えるなんて、言えるか!」
ダルクは振り向いて怒鳴ると、すぐレイグへ向き直った。
「そこまで言う必要あるか」
「証明しろって言ったのはお前だろ」
「だからって何でも言っていいわけじゃねえ」
「じゃあどうすれば信じるんだよ!」
レイグも声を上げた。
「剣が戻ってても駄目! 薬の中身を当てても駄目! ネヴァルが何も覚えてなくても駄目! 何を見せても、お前はまだ信じないって言うじゃないか!」
「おかしいことは分かった」
ダルクが一歩踏み込んだ。
「昨日のことは覚えてねえ。だからって、俺が前から隠してきたことまで勝手に使うな!」
「他にどうしろってんだよ」
「知らねえよ! でも俺に当たんな!」
胸を強く押され、レイグの身体が半歩下がる。
反射的にダルクの腕を払いのけた。
「昨日を覚えてるのは俺一人なんだよ!」
言葉が飛び出すと、ダルクの顔が変わる。
レイグは止まれなかった。
「母さんもネリナも知らない! 町の奴らも知らない! お前らまで何も覚えてない! 俺が死んだことも、お前らと逃げたことも、全部俺にしか残ってないんだ!」
「だから俺のこと勝手に喋っていいのかよ」
「そんなこと言ってない」
「やってるだろうが」
「二人とも」
割って入ったフィエラの声には、今度は怒りが滲んでいた。
「レイグ。それは違う」
「何がだよ」
「信じてもらいたいからって、ダルクが隠したかったことまで勝手に使うのは違うでしょ」
「じゃあどうすればよかったんだ」
「知らないよ」
フィエラが声を張った。
「私だって分かんない! 昨日死んだって言ってる友達を、どう信じればいいのかなんて知らないよ!」
レイグは言葉を失い、フィエラは息を荒くしていた。
「分かんないから、朝からずっと聞いてるんでしょ!」
「……フィエラ」
「ダルクが信じないのも普通だよ。私だって全部信じてるわけじゃない」
胸に刺さった。分かっていたが、それでも、はっきり言われると痛かった。
しばらく誰も口を開かず、屋根を叩く雨音だけが続くなか、ダルクはレイグから顔を背けたままだった。
「私のことは?」
フィエラが突然聞いた。
「何?」
「昨日の私」
レイグを見る。
「ダルクだけじゃないんでしょ。私もいたんだから」
黒い霧、負傷したネヴァル、道を塞いだスケルトンジェネラル。レイグが一人で残ると決めた時、昨日のフィエラは、怖い時ほど喋るはずなのに、笑いもせず言葉を失っていた。
「お前は……俺に言った」
「何て?」
「『追いつくって、ちゃんと言って』って」
フィエラの目が揺れた。
「俺がスケルトンジェネラルを引きつけて、お前らを先に行かせようとした時だ」
喉が乾いた。
「お前は戻ろうとした。ダルクに止められて、それでもずっと俺を見てた」
フィエラは何も言わない。
「俺は追いつくって言った」
追いつけなかった。
そのあと死んだ。
レイグが続きを口にできずにいると、フィエラは視線を落とした。
「……言いそう」
小さく呟いた。
「私、それ言いそうだね」
「証拠にはならねえ」
ダルクはまだ怒ったまま吐き捨てた。
「フィエラがそういうこと言いそうなのは、俺だって分かる」
「それだけで信じろとは言わない」
レイグも答えた。
「ただ、昨日のフィエラが残した言葉なんだ」
再び沈黙が落ちた。遠くでは、王城へ行くか、市場跡を探すか、地下へ入るかと、探索者たちが今日の予定を話している。
「私さ」
フィエラが口を開いた。
「全部は分かんない」
レイグは顔を上げる。
「レイグが死んだから戻ったのか、朝そのものが戻ったのか、何かの魔法なのか。それは分かんない」
足元の石を靴先で押す。
「でも、もう偶然だけで片づけるのも無理だと思う」
ダルクがフィエラを見る。
「信じるのか?」
「そういう言い方されると難しいな」
フィエラは眉を寄せ、少し迷ってからレイグを見た。
「今日は、レイグが見た昨日が本当にあったものとして動く」
「何だそりゃ」
「だって、本当にあった時に無視して死んだら嫌じゃん」
「……それはそうだが」
「でしょ?」
フィエラはレイグを見る。
「だから付き合う。少なくとも今日は」
朝から噛みしめていた奥歯が、ようやく離れた。息を吐くと、自分がずっと肩を上げていたことにも気づいた。
「ありがとう」
「まだお礼言うところじゃないよ」
フィエラの声は冷たかった。
「ダルクにはちゃんと謝って」
レイグがダルクを見ると、ダルクは顔を背けていた。
「……悪かった」
「今は聞きたくねえ」
その即答にレイグが口を閉じると、ダルクは大盾を引き寄せ、左腕に通した。
「俺も全部信じたわけじゃねえ」
「ダルク」
「ただ、お前が何か知ってるのは認める」
盾の革帯を締める。
「それと、今日のお前を一人にするのは危なすぎる」
「そこまでかよ」
「朝からの自分を思い出して言え」
言い返せなかった。
フィエラは、武器庫で得た二本のヒールポーションが収まった荷袋を背負い直した。
「それで、次は何を確かめるの?」
レイグは少し考えた。
「昨日、俺は死んだ」
「それはもう何回も聞いた」
ダルクが言う。
「死んで、次に気づいた時には朝だった」
言葉にすると、改めて奇妙だった。
「だったら」
ダルクが続ける。
「死んだから戻っただけって可能性は?」
レイグは黙った。死の直前に聞いた、白い翼を持つ者の言葉が関係しているのかもしれない。自分だけに何かが起きたのかもしれない。
「分からない」
「なら確かめりゃいい」
ダルクが言った。
「今日は死なねえ」
フィエラが瞬きをする。
「簡単に言うね」
「言い方だ」
「すごく大事なところ雑だったよ、今」
「意味は分かるだろ」
ダルクはレイグを見る。
「今日は霧が石橋を覆う前に帰る。危ない場所へ突っ込まない。王城にも行かない」
最後だけ、はっきり強く言った。
「そのまま夜まで生きる」
「それで普通に明日が来るか確かめる」
レイグが続ける。
「ああ」
普通の火曜日が来れば、死んだことが原因だった可能性は残る。もしまた同じ月曜日へ戻るなら、そこから先は、まだ分からない。
「じゃあ決まり」
フィエラが言った。
「明日の朝、答え合わせね」
「ああ」
レイグが頷くと、ダルクも何も言わず、三人は兵舎を出た。雨脚は少し弱くなっていたが、午後を迎えようというのに空はまだ暗い。
今ならまだ、黒い霧に道を塞がれる前に石橋まで戻れる。
レイグは旧市街へ続く道へ足を向けかけたが、その先、雨に霞んだ建物の向こうに王城の尖塔が見え、足を止めた。
昨日より多くのことを知っている。兵舎の武器庫へ早く入り、スチールロングソードも手に入れた。
ダルクにはウォーハンマーがあり、フィエラの矢は増え、ヒールポーションも二本増えた。まだ大きな傷も負っていない。
今なら、昨日よりずっと奥へ行き、王家の求める遺物を探せるかもしれない。
多額の報酬。
母。
ネリナ。
繕い直された靴。
もう少しだけなら――。
レイグは目を閉じた。
今朝はネリナを怖がらせ、昨日は帰ると言って帰れなかった。
大剣に脇腹を貫かれた感触が蘇る。
「レイグ」
フィエラは急かさず、ダルクも何も言わず、二人ともレイグがどちらへ進むのかを待っている。
レイグは王城から目を離した。
「……帰ろう」
ダルクは少しだけ目を見開いてから、鼻を鳴らした。
「最初からそう言ってんだよ」
ダルクの声にはまだ怒りが残っており、レイグも何も返さなかった。
三人は王城へ背を向け、雨に濡れた旧市街を、古い石橋へ向かって歩き出した。




