第14話 雨の石橋
濡れた石に体重を乗せた途端、靴の裏がわずかに滑り、レイグは反射的に足に力を入れた。
「うわ、嫌だな、これ」
隣でフィエラが言った。
雨は途切れる気配がない。橋の石材には薄く水が流れ、長い年月で丸くなった部分ほど光っている。
昨日は乾いていた橋も今日は濡れ、探索者たちは昨日より明らかに遅く進んでいた。
前を歩く男が欄干側を避け、中央へ寄る。後ろの一団もそれに合わせるため、人の列が自然に狭くなっている。
フィエラはコンポジットボウを外套の内側へ寄せた。
「弦までびしょびしょになったら困るんだけど」
「だから雨の日は嫌なんだよ」
ダルクが大盾を背負ったまま答える。
「お前、前見ろ。落ちても拾わねえぞ」
「橋の下まで?」
「無理に決まってんだろ」
「じゃあ落ちないようにする」
「最初からそうしろ」
いつものやり取りだったが、レイグは笑えず、雨に霞む橋の先を見ていた。
崩れた城門とその奥に広がる旧市街には見覚えがあるのに、昨日とは何かが違う。
「レイグ」
ダルクが横目で見る。
「また昨日のこと考えてんのか」
「……少しな」
「少しって顔じゃねえぞ」
「放っとけ」
「今のお前を放っとけるか」
レイグが言い返そうとした、その時だった。
「危ない!」
前方から声が上がった。
探索者の一人が大きく足を滑らせ、身体が横へ傾いて、片腕が崩れた欄干の外へ出た。隣を歩いていた仲間が、その腕を掴む。
「うおっ……」
二人とも膝をついた。
後ろから歩いてきた人間が止まり、さらに後続が詰まる。
「止まるなよ」
「だったら押すな」
「前が滑ったんだ」
怒鳴り声が飛び交う。
ダルクがすぐ盾の肩紐を掴み、前へ身体を入れた。
「押すな! ここで重なったらまとめて落ちるぞ!」
大声が橋の上へ響いた。
「今日も声大きいね」
「こういう時は大きくていいんだよ」
やがて転びかけた男が立ち上がり、人の流れが再び動き始めた。ほんの短い出来事だったのに、レイグは周囲を見回した。
「……いない」
「何が?」
フィエラが聞く。
「カルゼンたちだ」
昨日なら、この辺りを歩いていたはずだった。
古い石橋を渡る直前にも、兵舎の取り合いになるかもしれないとダルクが警戒していた。
だが今は見当たらず、橋を渡る順番一つから、もう昨日とはずれている。
「先に行ったんじゃない?」
「そうかもしれない」
「後ろかもしれないし」
「ああ」
分かっている。
それでもレイグは、雨の向こうにカルゼンの革鎧を探してしまう。見つからないたび、知っていたはずの道から足場を一枚ずつ抜かれるようだった。
同じ日。
同じ城塞都市。
同じ三人。
だが昨日の場所に、昨日いた人間がいない。
「昨日どおりじゃないって、馬車で分かっただろ」
ダルクが言う。
「分かってる。もう探さない」
「なら今日を見ろ」
「見てるよ」
レイグが少し強く返すと、ダルクも眉を寄せた。
「だったらいい」
三人はそれ以上言わずに雨の石橋を進み、やがて頭上を覆う巨大な城壁の下で、崩れた城門をくぐった。
厚い石壁の下へ入った瞬間だけ雨音が少し遠くなり、再び外へ出る直前、レイグは右手を上げた。
「待て」
ダルクが止まり、フィエラも足を止めた。
「何?」
「この先だ」
レイグは城門の向こう、右前方にある崩れた壁と、その下に積み上がった瓦礫を指した。
昨日、槍が飛び出してきた場所だった。
「あそこからスケルトンが来る」
ダルクが背中の大盾を外した。
「槍持ちか?」
「ああ。最初に一体。そのあと二体出てきた」
フィエラも弓を構える。
「どの辺?」
「瓦礫の右」
三人は警戒したまま進んだ。
一歩。
二歩。
レイグは昨日と同じ距離を意識した。
そろそろだ。
槍が来る。
三歩目。
何も起きない。
さらに進む。
「……来ないね」
フィエラが小声で言った。
「まだだ」
レイグがバックラーを少し高くすると、雨粒が革帯を伝った。
さらに一歩進んだところで、ダルクが何かを見つけた。
「おい」
ダルクが指す瓦礫の陰には、白い骨が転がっている。レイグたちが近づくと、それはスケルトン兵だった。
頭蓋の右側は大きく砕け、胸当ても裂けており、錆びた槍が数歩先へ転がっていた。
「これか?」
ダルクに聞かれ、レイグは答えるまで少し時間がかかった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「兜も槍も同じだ」
「昨日は生きてたんだな」
「ああ」
「なら誰かが先に倒したんだろ」
簡単な答えだった。
ダルクは周囲を確認しながら続ける。
「橋で時間食っただろ。俺らより先に入った奴がいてもおかしくねえ」
「分かってる」
「またそれか」
「何だよ」
「お前の『分かってる』は信用ならねえ」
昨日なら笑っていたかもしれないが、今は腹が立った。
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「知らん。とにかく右ばっか見んな」
「見てない」
「見てるだろ」
「ダルク」
フィエラが二人の間から顔を出した。
「ちょっと静かにして。雨だけでも聞こえにくいんだから」
ダルクは鼻を鳴らした。
「こいつが――」
その瞬間。
雨音に紛れて、硬いものが石に触れた。
レイグが左を向く。
半壊した家の入口から、剣を持ったスケルトン兵が飛び出した。
「左!」
ダルクが叫ぶ。レイグにも敵は見えていた。ロングソードを抜きながら踏み込んだが、右足が滑った。
「っ」
完全には転ばなかったが、踏み込みが浅くなり、スケルトンの剣が肩口へ落ちてくる。
そこへダルクが割り込み、大盾へ刃が叩きつけられた。
「昨日じゃなく、今を見ろ!」
「見てる」
「だったら足元も見ろ」
「雨なんだから滑るだろ」
「だから見ろって言ってんだ」
スケルトンが盾から剣を引き、もう一度振り上げる。
「二人とも、今それやる?」
フィエラが矢をつがえようとしたが、レイグとダルクが前を塞ぎ、さらに雨で視界も悪い。
フィエラは弦から指を離した。
「邪魔」
「誰がだ」
「二人とも」
フィエラは右手を前へ出し、短く集中する。
風が彼女の周囲へ集まり、外套の裾を持ち上げた。
「ウィンドカッター」
圧縮された風が横からスケルトンの剣腕を打った。
白骨の腕が大きく外へ流れる。
「今!」
レイグは今度こそ足元を確かめ、濡れた石に靴底をしっかり置いて、一気に間合いを詰める。
ロングソードを首元へ振ると、一撃目で骨に亀裂が入る。
スケルトンが向き直ろうとしたところへ、ダルクが盾を突き出した。
「倒れろ!」
白骨の身体が石畳へ転がり、レイグがもう一度剣を振り下ろすと、首の骨が砕け、目のくぼみの青白い火が消えた。
「……終わった」
レイグは最初に骨が鳴った左の戸口へ剣先を向けた。ダルクは盾を上げたまま、向かいの窓から軒下へと目を走らせる。フィエラは二人の頭越しに屋根の崩れ目を狙い、雨垂れ以外の動きを探した。
しばらくして、ダルクがようやく盾を下げた。
「今度は大丈夫そうだな」
「今の、昨日もいた?」
フィエラが倒れたスケルトンを指した。
「いなかった」
レイグは即答した。
「昨日は右から三体だ。左からは来てない」
「じゃあやっぱり違うんだね」
「……ああ」
フィエラは弓の弦についた水滴を布で軽く拭った。
「昨日のこと知ってるの、便利そうだったけど」
レイグを見る。
「今日の敵は、昨日の通りには動いてくれないね」
責める声ではなかっただけに、胸に残った。レイグは倒れたスケルトンを見る。昨日なら、ここにはいなかった敵だ。
昨日なら生きていた右側のスケルトンは、すでに誰かに倒されていた。
どちらも事実だ。
「行こう」
レイグは剣についた雨水を軽く払った。
「兵舎へ」
「本当にあるんだろうな?」
ダルクが聞く。
「ある」
「武器庫も?」
「ああ」
「いい武器も?」
声が少し変わった。
フィエラが笑う。
「そこだけ食いつくんだ」
「確認だ」
「昨日、いいの拾ったよ」
レイグが言うと、ダルクがこちらを見た。
「何を」
「ウォーハンマー」
「どんな」
「スチール製。少し重い。でも骨や鎧を砕くには使いやすそうだった」
ダルクの歩く速度がわずかに上がった。
フィエラがレイグを見る。
「ほら」
「何が」
「昨日と同じ」
「何がだ」
「武器の話だけで速くなるところ」
「雨だから早く屋根のある場所へ行きてえんだよ」
「じゃあ兵舎じゃなくてもいいよね?」
「うるせえ」
三人の間に少しだけいつもの空気が戻った。そのまま、旧市街を兵舎方面へ進んだ。
しばらくすると前方から数人の探索者が歩いてきて、先頭の男を見たレイグは足を緩めた。
カルゼンだった。
昨日は橋の手前で会ったのに、今日はもう城門の中だ。昨日と同じ時刻なのかどうかも、もう分からない。しかも、カルゼンの左腕には包帯が巻かれている。
雨に濡れ、白い布の一部が赤く滲んでいた。
レイグが思わず見ていると、カルゼンが眉を寄せた。
「何だ」
「その腕」
「これか?」
カルゼンが自分の腕を見る。
「朝に少しやられただけだ」
「誰に?」
「何でお前に説明しなきゃならない」
言われて、レイグは口を閉じた。当然だった。カルゼンは昨日のレイグを知らない。今日のレイグとも、今この通りで初めて言葉を交わしたばかりだ。
「悪い」
カルゼンは怪訝そうにこちらを見たが、それ以上は何も言わず、仲間と通り過ぎていった。
ダルクが振り返る。
「昨日は怪我してなかったのか」
「ああ」
「また違うな」
フィエラの声がした。
「ねえ。あそこ」
フィエラが指した崩れた建物の向こうでは、軽装の女――リュシェナが、庇の下から次の庇へ素早く移っていく。
昨日は屋根の上を走り回っていた。
今日は濡れた瓦を避け、崩れた回廊と建物の庇を使っている。
「屋根、走らないんだ」
フィエラが言った。
「昨日は走ってた」
「この雨だよ?」
フィエラが空を見上げる。
「私でもやらない」
何でもない言葉だった。
レイグは雨の中を移動するリュシェナを見た。
「……何なんだ」
思わず声が漏れた。
「何が?」
ダルクが聞く。
「同じなのに、違う」
「そりゃ雨も降ってりゃ変わるだろ」
「そうじゃなくて……」
説明できない。何が同じで、何が違うのか、自分にもまだ分からなかった。
「もういい。行こう」
三人は兵舎へ向かった。
*
兵舎の訓練場へ入った時、レイグはまた足を止めた。
宿舎、崩れた食堂、右奥の武器庫は、どれも昨日と同じ場所にある。ただ、散らばっている骨の位置は違った。
別の探索者が通ったのだろう。訓練場の端には、新しく倒されたスケルトンが一体転がっている。
「武器庫は?」
ダルクが聞く。
「あれだ」
レイグが右奥にある窓の少ない石造りの建物を指し、三人で近づき、扉の前で立ち止まる。扉は閉まっている。
昨日三人で押した時には木が軋み、最後には枠の一部が割れて、扉が内側へ開いた。
そのはずだった。
「……おい」
ダルクが扉を見る。
「お前の言う昨日も、ここに入ったんだよな?」
「ああ」
「どうやって」
「扉を押した。歪んでて開かなかったから、三人で」
「枠は?」
「最後に少し割れた」
ダルクは扉の周囲にある木枠と石壁を見たが、昨日割れたはずの場所にも傷らしいものはなかった。
「割れてねえぞ」
「昨日の割れ目が、一本もない」
自分でも声が低くなったのが分かる。レイグは枠に手を当てる。
昨日、ここで木が割れる音を聞き、勢い余って三人とも武器庫の中へ入ったことまで覚えている。
だが目の前の枠には、その痕跡が見当たらない。
「本当にここか?」
ダルクが聞く。
「間違いない」
「じゃあ開ける?」
フィエラが扉に手を置いた。
「昨日はどこを押したの?」
レイグは扉の下側を見る。
「こっちだ。下の方が枠に食い込んでる」
ダルクも確認した。
「確かに歪んでるな」
「昨日は上ばっか押して時間かかった」
「じゃあ今日は最初から下だ」
ダルクは盾を外し、壁に立てかける。
「フィエラ、お前もちゃんと押せよ」
「昨日も言われた?」
「言ってた」
レイグが答える。
「ほら」
「何がほらだ」
三人で扉に身体を当てる。
「せーの」
木が軋んだ。
一度目では動かない。
「もう一回」
今度は下側に力を集中させる。
ぎぎ、と重い音がして、扉が内側へ動いた。
「開くぞ!」
ダルクがさらに押すと、木枠が大きく割れる前に、扉が隙間を作った。
最後はレイグが肩を入れ、三人で押し開ける。
扉が開いたのは昨日より早かった。ダルクが荒い息を吐いた。
「お前の言う『昨日』が本当なら、こういうところは使えるな」
「まだ信じてないのか?」
「全部信じるには話がでかすぎんだよ」
「ここまで来て?」
「ここまで来てもだ」
フィエラが二人の間から、開いた扉を覗き込んだ。
「せっかく開いたのに、入口で喧嘩する気? 私も中を見たいんだけど」
「お前は気楽だな」
「二人が塞いでるんでしょ」
ダルクは口を曲げたまま、扉から身をずらした。
薄暗い武器庫へ入ると、湿った鉄と木の匂いがした。壁沿いの武器棚や、床に散らばった錆びた槍や剣は、昨日とよく似ている。
ただ、レイグは昨日見た武器の一本一本まで覚えているわけではない。
ここにある物がすべて昨日と同じなのかどうかは、まだ判断できなかった。
それでも一つだけ確かめられる物があり、レイグは部屋の奥へ進みかけた。
「おい」
ダルクが呼ぶ。
「敵いないか見てから行け」
レイグは足を止めた。
「ああ」
三人で武器棚の陰や部屋の奥を確認したが、誰もおらず、骨の擦れる音も聞こえない。
それからレイグは、昨日自分が剣を見つけた武器棚へ向かった。そこには、汚れて革の一部が剥げた一本の鞘が立てかけられている。
見覚えがあった。レイグの足が止まる。昨日、この鞘に収まった剣を棚から取り、何度も振ってスケルトンを斬り、追い詰められても握り続けた。
最後には、スケルトンジェネラルの首元へ突き刺したまま、自分の手を離れた。
その剣が、今は目の前の武器棚にある。
フィエラとダルクが後ろから来た。レイグは鞘へ触れず、伸ばしかけた手で二人にそれを示した。
「……あの剣だ」
「知ってる武器か?」
ダルクに聞かれ、レイグはようやく頷いた。
「昨日、俺が拾った剣だ」




