八 光前寺のポチ
翌朝。
集落の空気は重かった。誰もが昨夜の出来事を深刻な恐怖として記憶していた。
あの記憶は間違いなくトラウマとなるだろう。私もきっと例外ではない。
餌食となった熊と猪の縋るような視線。生きたまま喰われた獣たちの断末魔。それらは今も私の脳裏に焼き付いて離れなかった。
更に恐ろしいことに、あの怪物たちは今夜再びやって来る。
我々に対抗できる術はない。
絶望と残虐な死が、すぐそこまで迫っていた。
そんな中で、唯一の希望が、天然宗だった。
昨日までの私なら、聞いたこともない宗教団体など頼りにしなかっただろう。
しかし、昨夜、東野さんから渡された紫水晶の数珠は、確かに奇跡を起こした。
あの白狒々と黒狒々の群れを退けた緑光。あの光には、常識では説明できない力が伴っていた。
そして、その数珠を作ったのが天然宗の僧だという。
確かに、彼らならば、あの怪物たちに対抗できるかもしれない。
私は、半ば藁にも縋る思いで、その可能性に期待していた。
いいや、私だけではない。ここにいる全ての人間が、天然宗に期待していた。
東野さんは、朝一番で天然宗へ連絡を取った。
だが、返ってきた答えは、最低最悪のものだった。
「今は行けません」
それだけだったのだ。
「ふざけないでください!」
受話器を握り締めた東野さんが、珍しく声を荒げた。
「昨夜、怪物は本当に来たんです! 人的被害が出なかったのは奇跡だったんですよ! あいつらは今夜も来ると言っていました。このままでは確実に人が死にます!」
「本当に申し訳ありません」
電話の向こうの男は苦しそうな声で答えた。
「ですが、どうしても……そちらへは行けないのです」
「助けてください!」
「申し訳ありません」
「私たちに死ねと言うんですか!?」
一瞬の沈黙。
そして返ってきたのは、やはり同じ言葉だった。
「……申し訳ありません……」
まるで壊れた機械のようだった。
東野さんが電話相手をどれだけ問い詰めても、返ってくる答えは変わらない。
‐今は行けない。
‐申し訳ありません。
馬鹿のように、その言葉を繰り返している。
理由を尋ねても答えない。何か事情があるのかもしれない。
だが、この時の私にはそんなことを考える余裕はなかった。
昨夜、天然宗の僧が作った紫水晶の数珠は、確かに奇跡を起こし、白狒々たちを退けた。
だからこそ、私は信じていたのだ。天然宗ならば、この状況をどうにかしてくれるのではないかと。
それだけに、裏切られた気持ちは大きかった。
「……もういいです……」
東野さんが電話を切った。彼女自身、不毛なやり取りに疲弊していた。
室内には重苦しい沈黙だけが残る。
私は苛立ちのまま鞄から例のチラシを取り出し、勢いよく引き裂いた。
紙片が床へ舞い落ちた。
一瞬だけ、チラシの内容が以前と変わっているような気がした。
まるでこちらへ連絡を求めるかのような文面が増えていた気もするが、そんなことはどうでもよかった。
天然宗と関係があるというのなら、この会社の性質も同じだろう。つまりは腰抜けだ。
助けを求めても来ない。こんな連中に期待する価値などない。
こうして、私たちが最後の希望としていた救いの手は失われたのである。
集落には、改めて絶望が広がった。
しかし、それでも、この集落にいる人間は、誰一人として諦めていなかった。
暗黒の極限状態の中、人間の勇気だけが輝いていた。
勇気こそが、人間の最大の武器なのだと、私は知った。
男たちは猟銃の整備を始めた。
車のフロントには先端を尖らせた竹槍や金属パイプを取り付け、即席の装甲車のようなものを作る者もいる。
鍬や鎌の刃は研ぎ直され、鎌には長い白木の柄が継ぎ足された。少しでも怪物と距離を取って戦うためだ。
近くのホームセンターではピッチフォークが大量に買い占められ、各家へ配られていた。
男たちは例外なく腰にナイフか鉈を提げた。
剣道の防具や野球のキャッチャープロテクターを持ち出し、その上から真竹を縛り付けて決戦用の防具に改造している者までいる。
農薬や除草剤を集める者もいたが、それはまだ穏当な方だった。
野草から毒を抽出しようとする老人まで現れたのである。
恐ろしいことに、煙草を大量に煮込んでいる者さえいた。
何に使うのかは誰も尋ねなかった。
怪物への対抗策の一つかもしれないが、恐らく、それだけではないだろう。
いざという時、自分や家族に使う自決用の毒薬でもあるはずだ。
誰も口にはしないが、皆、静かに理解していた。
娘を差し出し、昨夜の熊や猪のような最期を迎えさせるくらいなら、自らの手で安らかに逝かせる方がまだ慈悲深い。そう考えている者が少なからずいた。
自滅上等。そんな悲壮感が集落全体を覆っていた。
私も覚悟を決める時だった。
逃げることはできる。故郷の京都へ。
だが、あの怪物たちは追ってくるかもしれない。
ならば、迎え撃つ。今日、決着をつけるのだ。
私は私なりに対抗手段を見つけようと思った。
そして、皆で協力して、あの怪物たちを打ち倒すのだ。
危険は承知の上だ。
しかし、もし、それが実現できたなら、私はこの一連の出来事を論文や書籍として発表することができるだろう。
伝承と怪奇現象の関連性、妖怪変化の実在、現代社会の裏側で起きている超常現象。
それらを客観的に証明した文書ができたならば、文化人類学どころか学問の歴史そのものを書き換える発見になるかもしれない。
そう、私は歴史に名を残せるのだ。
世界中の研究者が私の名を知ることになる。
昨夜、死の恐怖を味わったばかりだというのに、その考えに至った瞬間、私の全身は興奮で震えていた。
私は、興奮を抑えながら、東野さんへ言った。
「私、光前寺へ行きます」
「光前寺……ですか?」
「はい」
私は頷いた。
「白狒々は、しっぺい太郎なんて存在しないと言っていましたよ。敵の言うことを信じる気はありませんが……しっぺい太郎なんて、とうてい信じられませんよ」
「私も同感です。白狒々は、自慢話の中で、自分は猿から妖怪に転生して、伝説になぞって活動していると言っていました。つまり、人間を使って遊んでいるだけのゲスな輩です。伝説とは直接関係ありません。従って、奴らを討てる力を持つ霊犬は、この世に存在しないということになります」
「そこまで分かっているなら、何故、わざわざ光前寺へ?」
私は昨夜の出来事を思い出した。
「昨夜、白狒々に頭を潰された黒狒々が一頭いましたよね?」
グロテスクな記憶を思い起こしたのか、東野は顔をしかめながら頷いた。
「あのとき、檻にいた私には聞こえました。黒狒々はこう言ったんです。『光前寺のポチは怖い』と。ええ、そうです。黒狒々は、確かにそう言っていました。白狒々はその言葉に反応して、手下の黒狒々を殺したんです。いま、思い返してみると、あのとき白狒々はとても慌てていました……もしかすると、怖がってさえいたのかもしれません」
東野さんの表情が変わる。少しだけ明るくなったように見えた。
今はどんなささやかでもいいから希望が欲しいのだ。もちろん、私も同感だ。
「だから、光前寺に行って、そのポチが何なのかを確認したいんです」
「逃げる気か!」
私と東野さんの会話を聞いていた誰かが、そう怒鳴った。
しかし、次の瞬間。
「黙りなさい!」
東野さんが、その誰ともわかない相手に一喝した。
室内が静まり返る。
「白石さんは、この集落の人間ではありません」
その声は冷たかった。
「それにもかかわらず、一番危険な役目を引き受けてくれました」
誰も反論できない。
「文句を言う資格がある人なんて、一人もいません」
場に、重い沈黙が落ちた。誰もが視線を伏せている。
怒りや焦りをぶつける相手を探していただけで、本当は分かっているのだ。
今の状況が絶望的であるということを。
警察は当てにならない。
頼みにしていた天然宗は来ない。
そして、今夜、あの怪物たちは再びやって来る。自分と自分の大切な存在を貪りに。
残された時間は、もう半日もない。
重苦しい沈黙の中、やがて一人の老人がぽつりと呟いた。
「……集落を捨てることも考えなきゃならんかもしれんな」
誰も否定しなかった。
ただ、それでどうなるという思いがあった。
これだけの人間がどこに逃げればいい。
仮に、逃げ場を見つけたとしても、奴らは、間違いなく追ってくる。
逃走は、根本的な解決にはならないのだ。
私は胸の奥が痛くなった。
昨夜までは、長閑で平和な集落だった。それが、たった数頭の怪物のせいで、一日にして滅亡寸前へ追い込まれている。こんな理不尽が、許されていいはずがない。
「東野さん、私、行きます!」
決意を新たにした私は、東野さんから車を借りると、一人で光前寺へ向かった。
ナビによれば、片道約二時間。
急がなければならない。目的地で使える調査時間は、恐らく一時間もないだろう。
移動中の時間も無駄にはできない。
山道を走りながら、私は昨夜の出来事を何度も反芻していた。
白狒々は言った。
自分は元々ただの猿だったが、山奥で拾った光る石を食べたことで妖怪へ転生したのだと。
果たして、そんなことがあり得るのだろうか。
もちろん私は妖怪が誕生する仕組みに詳しいわけではない。
そもそも、そんなものを研究している学問分野が存在するかどうかも怪しい。
だから、それが通常なのか異常なのかは分からない。
だが、どうしても引っ掛かる。あまりにも都合が良すぎるのだ。
山で拾った不思議な石を食べただけで、巨大な力を手に入れられる。
果たして、そんな話があるだろうか。
白狒々は知能が高かったが、疑うということを知らない生き物のようにも見えた。
これは知能の高低の問題ではない。単純に経験の差だ。
人間ならば誰もが考える。そんな上手い話はない、と。
そして、もし本当にあるのだとすれば、必ず何らかの代償や見返りが存在するはずだ、と。
では、白狒々が食べたという、光る石とは何だったのか。
私はハンドルを握りながら考える。
あの異常なまでの残虐性。それと人間に対する強烈な害意。
白狒々が獲得したという他者を喰らうことで力を増すという性質。
それらを考えると、その光る石が、自然に発生した物質とは思えなかった。
むしろ、生命を凶暴化させるために、何者かの手により意図的に作られた物質ではないだろうか。
だとすれば、一体誰が、何のために作ったのか。
テロリストの類とも違う気がした。
直感だが、国家転覆などが目的ではない気がする。もっと大きくて、禍々しい何かだ。
日本各地で続発する怪奇現象。伝承と現実の奇妙な一致。
そして、妖怪へ変貌した一匹の猿。
それらが全て無関係だとは思えなかった。
私には、きっとまだ全体像が見えていないのだ。
まるで山の麓に立ちながら、その頂上を見上げているような気分だった。
そこに巨大な何かがあることだけは分かる。
だが、その正体も、その大きさも、今の私にはまだ見えていなかった。
一つだけ確信に近いものがあった。
白狒々は、原因ではない。あれは結果だ。
何者かによって生み出された現象であり、あるいは、その大きな流れの末端に過ぎない。
だとすれば、その背後には必ず誰かの意志がある。
私はハンドルを握る手に力を込めた。
昼過ぎ。
私は長野県の光前寺へ到着した。歴史を感じさせる古刹だった。
参道には観光客もいる。
夫婦。家族連れ。外国人観光客。老人の団体。
誰もが穏やかな顔をしている。
私は少し苛立った。
まったく呑気なものだ。昨夜、人食い妖怪の群れに襲われた人間がここにいるというのに。
もちろん理不尽な八つ当たりだということは分かっていたが、それだけ私も限界に近かったのだ。
ランチを楽しむ時間など私にはなかった。
ここへ来る途中に立ち寄ったコンビニで買ったおにぎりを胃へ放り込みながら、私は寺の関係者を捕まえて、半ば強引に聞き込みを続けていた。
「ポチという名前の犬について、何か思い当たることはありませんか?」
だが、返ってくる答えはどれも私の望むものではなかった。
「ポチ伝説? しっぺい太郎伝説ではなくて? さぁ、知りませんね」
「ポチという名前の寺宝や器物なら、聞いたことはありませんね」
「この辺りに、ポチという名前の犬がいるか、ですか? う~ん……私は聞いたことがありませんね」
収穫はなかった。
ある程度は予想していた結果だったが、それでも肩透かしを食らえば苛立ちは募る。
時間だけが無情に過ぎていった。
気が付けば、太陽は少しずつ西へ傾き始めている。
焦りが募った。
私は当初、光前寺に伝わる伝説や寺宝の中に『ポチ』の正体があるのではないかと考えていた。
あるいは、寺で飼われている犬の名前か、あるいは周囲の家で飼われている犬の名前かもしれない。そう思って寺の関係者にも聞いて回ったのだが、結果は全て空振りだった。
このままでは何の成果も得られないまま集落へ戻ることになる。
そして今夜、あの怪物たちが再び現れる。
そう思うと、胸の奥がじわじわと冷えていくような気がした。
その時だった。
一台の乗用車が、慌ただしく駐車場へ入ってきた。
車には詳しくないが、一目見て年季が入っていると分かる白いセダンだった。
家族旅行の一団なのだろう。
車が止まるや否や、押し出されるように五人の人間が降りてきた。
眼鏡を掛けた中年男性。父親だろう。
恰幅の良い中年女性。母親に違いない。
いかにも財布の紐を握っていそうな老婆。祖母だろうか。
中学生くらいのニキビ顔の朴訥そうな少年。長男かもしれない。
そして、小学校低学年くらいの元気いっぱいの少女。長女だろう。
本当に、どこにでもいそうなごく普通の家族だった。
怪異とも伝説とも無縁そうな、平凡な旅行者一家である。
当然、その家族自体に私の興味は向かなかった。
私の視線を奪ったのは、車のトランクが開いた瞬間だった。
そこから、一匹の犬がひょいと飛び降りてきたのである。
白黒の斑模様。
小柄。
貧相な体格。
やたらと長い尻尾。
お世辞にも利口そうには見えない。
目付きは悪く、どこか世を拗ねたような顔をしている。
赤い革の首輪をしており、左前脚の足首には不釣り合いなほど豪華な黒い金属製の輪が嵌められていた。
「お父さん! ポチが勝手にトランク開けた!」
少女の声が響き、私は固まった。今、確かに聞いた。
ポチ。
そう呼んだ。
私は思わず眉をひそめた。
いや、まさかとは思うが、光前寺のポチというのは、この犬のことなのだろうか。
気になった私は、半信半疑で、偶然近くを通りかかった僧侶へ、あの家族のことを尋ねてみた。
「ああ、あのご家族ですね」
おかしそうに笑いながら、その人は、私に対して昨日起きた珍事を話してくれた。
あの一家は、昨日の夕方に光前寺へやって来たらしい。
本来は善光寺へ向かう予定だったそうだが、道に迷った挙句、間違えて光前寺へ到着してしまったのだという。
しかも、参拝を終えてから、ようやくここが目的地ではないことに気付いたらしい。
更に悪いことに、その場で宿の予約が取れていないことまで発覚したのだという。
父親は予約したつもりだった。母親は予約完了の連絡が来ていないことを不思議に思っていたらしい。
祖母は「じゃけぇ、確認せぇ言うたじゃろうが」と追い打ちをかけた。
結果、駐車場で大喧嘩になったそうだ。
ちなみに、長男と長女は、近くの自動販売機でジュースを買って飲みながら、「お腹空いた」と大合唱していたらしい。
見かねた僧侶が近隣の宿へ連絡したところ、たまたま空室があり、何とか一泊できたらしい。
そして今朝。一家は、今度こそ長野の善光寺へ向かったそうだ。
「それにしても、なぜ戻ってきたのでしょうか?」
僧侶が不思議そうに首を傾げた。
すると、父親が私の隣にいる僧侶に気付き、手を振りながら近づいてきた。
「いやぁ、どうも、どうも。昨日は大変お世話になりました」
父親は、私が僧侶と話している最中だと思ったのか、私にも軽く目礼した。善良な人物なのだろう。
「善光寺へは行かれたのですか?」
「ええ。ただ、その前に、静岡県にあるしっぺい太郎伝説の神社にも行ってきました」
「ほう。それは見付天神矢奈比賣神社ですな。ここから三時間近くはかかるはずですが、何故またそんな遠くまで?」
「縁……ですかね? 私たち家族は善光寺と間違えてこちらへ来てしまいましたが、そのおかげでしっぺい太郎伝説を知りましてね。息子と娘が『しっぺい太郎はウチのポチに似ている』と言い出したんですよ。それならこれも何かの縁だろうと、神社まで足を延ばしてみたんです」
父親は苦笑した。
「もっとも、その途中でも道に迷ってしまいましてね。昼頃まで静岡県内をぐるぐる回っていました。途中で食堂を見つけられたのは幸運でしたよ。それから善光寺へ行って、こうして戻ってきたんです」
「そこが一番気になりました。何故、ここに戻ってこられたのですか?」
「ああ、それはですね」
父親は照れ臭そうに頭を掻いた。
「ウチの女性陣が、『間違えたまま参拝したんじゃ失礼でしょう。ちゃんとお参りしないといけない』と言うものですから。それもそうだなという話になりましてね。昨日の宿に確認したところ、幸運にも今夜も泊まれることが分かりましたので、こちらでもう一泊することになったんです。今日はもう遅いですから、明日の朝、改めてお参りさせていただこうと思っています」
「そうでしたか。それは大変ありがたいことでございます」
僧侶は合掌して頭を下げた。
父親も慌てて頭を下げる。
普段であれば、微笑ましい旅先の一幕として眺めていただろう。
だが、この時の私には、そんな家族旅行の顛末などどうでもよかった。
このとき、私の視線と関心は、ただ一匹の犬へと注がれていた。
ポチは家族の輪の外にいた。
父親が僧侶と話している間も、母親や祖母、長男が荷物を整理している間も、長女が境内を駆け回っている間も、退屈そうに地面へ寝そべっている。
そして時折、「フンッ」と、悪態をつくような鼻息を漏らしていた。
犬らしい愛嬌はまるで感じられない。
むしろ、世の中の全てを面倒臭がっているように見えた。それが妙に気になった。
私は少し距離を取りながらポチの様子を窺った。
すると、不意にポチが顔を上げた。
こちらを、私を見ている。
決して気のせいではない。明らかに私だけを見ていた。
艶のない黒瞳が、じっと私を観察している。
私は思わず身構えた。まさか私は、あの貧相な犬に怯えているのだろうか。
だが、ポチは何事もなかったかのように大きな欠伸を一つすると、億劫そうに立ち上がった。
そして、歩き出す。音もない足取りだった。
時折、私を振り返りながら、ゆっくりと進んでいく。
それは、まるで私を誘っているかのような歩行速度だった。
私は周囲を見回した。
家族は誰もポチの動きに気づいていなかった。
というより、誰も気にしていないようだった。
無視しているというわけではなく、そういう生き物だととっくに承知しているように思えた。
ただ一人、長女だけが、「ポチー!」と叫んでいた。
だが、ポチは耳を一度だけ動かしただけで、長女の呼びかけを無視した。
「もう、また勝手なことして! 晩ご飯までには帰ってきなよ!」
少女も慣れているらしく、それ以上追い掛けようとはしなかった。
ポチは境内の端にある雑木林へ向かっていた。
私は迷っていた。
正直、馬鹿げていると思う。あの犬は単に用を足しに行くだけかもしれない。
昨日までの私なら、間違いなく無視していただろう。
しかし、今は違う。
昨夜、私は常識を根底から覆す出来事を目の当たりにした。
妖怪は実在する。
怪奇現象は現実の問題だ。
私が持つ全ての常識を疑い、目の前一つ一つの事象を慎重に確認しなければならない。
昨夜の黒狒々の言葉が、脳裏に蘇る。
‐光前寺のポチは怖い‐
あの貧相な黒ぶち雑種犬が、本当に妖怪たちに恐れられる存在なのかを確認したかった。
何より、一人の研究者として知りたいと思った。
ポチの後を追うことを決意して、私は歩き出した。
雑木林の中を進むポチは、一度もこちらを振り返らない。
だが、私が付いてきていることは分かっているように思えた。
やがて境内の喧騒も届かなくなった。
観光客の姿はない。聞こえるのは鳥の声と木々のざわめきだけだ。
ポチは一瞬だけ足を止めた。
まるで周囲を確認するように。
そして、念を入れるかのように、更に奥へ進んだ。
完全に人目の届かない林の中まで入ると、そこでようやく足を止めた。
私は息を整えながら立ち止まった。
ポチがゆっくりと振り返った。
光を映さない黒瞳が私を凝視している。犬の目とは到底思えなかった。
人間のような目をしている……いいや、違う。人間よりもずっと知的な目をしている。
私は唾を飲み込んだ。
酷く不気味な犬だと、改めて思った。
心臓が嫌な音を立てている。
まさか……。本当に……。そんなはずは……。
ポチは私を見つめたまま、「フンッ」と例の悪態をつくような鼻息を漏らした。
そして、心底鬱陶しそうに言った。
【それで、何の用だ?】
私は凍りついた。
ポチは首を傾げている。
【こちらの声は聞こえているのだろう? 回答しろ】
口は動いていない。
だが、確かに声が聞こえた。金属同士を擦り合わせたような、不思議な声だった。
怪奇現象の発生に対して覚悟はしていた。それでも、私は言葉を失った。
犬が喋った事実は、狒々の怪物が喋った事実より、何故か衝撃的だった。
ふと気付くと、周囲から一切の音が消えていた。
鳥は押し黙り。風は止み。木々の梢さえ硬直しているように見える。
まるで自然そのものが、私の目の前にいる一匹の貧相な雑種犬を恐れているかのようだった。




