九 魔犬ポチ
【回答なしか。犬が喋ったと思えば無理もない反応だな】
ポチの足元から、金属質な声が響いた。
【だが、認識に誤りがあるので訂正する。喋っているのは、この犬、ポチではない。私だ】
「……え?」
私は思わず周囲を見回した。ポチ以外、誰もいない。
【下だ】
声に促され、私は視線を落とした。
ポチの左前脚。そこに嵌められていた黒い金属製の輪が、微かに明滅している。
「まさか……その輪が?」
【ようやく理解したか】
機械的な声が続いた。
【発声主体は私だ。私の名称はアスドラ。ホルダーの活動援助と成長促進を目的とする人工知能、ホルダー発達幇助用インターフェイスシステムだ】
私の脳は、その言葉の意味を処理できなかった。
「ホルダー……?」
【ポチのことだ】
私は絶句した。
頭の中で、「人工知能」という言葉だけが浮かんでは消えていく。
妖怪や怪異なら、まだ理解できる。
昨夜の出来事で、この世にそうした存在があることは嫌というほど思い知らされたからだ。
だが、犬の足輪に人工知能が搭載されているなど、私の知る科学とも怪異とも結び付かない。
理解が追いつかなかった。
【信じられないという顔をしているな】
「当たり前です! え? 人工知能って、AIのことですよね!?」
【そのようなものだと思っておけばいい】
アスドラは淡々と答えた。
【ちなみに、ポチとの会話は諦めろ。こいつは人間とは会話をしない】
ポチが「フンッ」と鼻を鳴らした。
私は頭痛を覚えた。
喋る人工知能を搭載した黒い輪。
そして、喋りはしないものの、明らかに超常的な雰囲気を漂わせる犬。
昨日までの私なら、こんな話は到底信じなかった。
錯覚か、誰かの悪質な冗談だと切り捨てていただろう。
しかし、今は違う。
昨夜、私は妖怪を見て、その妖怪に喰われかけた。もはや、私の常識は跡形もなく崩れ去っていた。
だからこそ、どれほど常識外れの出来事であっても、頭から否定することはできなかった。
それでも、せめて頭を整理する時間は欲しかった。
ただ、残念なことに、相手はその時間的猶予を与えてくれなかった。
【さて、こちらからも質問がある。心して答えろ】
アスドラが言った。黒い輪が微かに光る。
【何故、ポチを見ていた?】
「え?」
【お前の体には、強力な妖怪の妖気がこびりついている】
私は思わず息を呑んだ。
【それに法力の残滓もあるな】
砕け散った紫水晶の数珠が脳裏に蘇る。
【お前は超常現象に巻き込まれているな? だから、私は声を掛けた】
アスドラは断定した。
「私のことが気になったんですね?」
【自惚れるな。私が若干の鬱陶しさを覚えただけだ。ポチは気にも留めていない】
アスドラの言葉は辛辣だったが、我慢はできた。
だが、ポチが欠伸ばかりしていることには、少なからず傷ついた。
この犬は、本当に私など眼中にないのだ。
昨夜、人食い妖怪を相手に命懸けのやり取りをした人間が、今度は一匹の雑種犬に完全に無視されている。研究者としても、一人の人間としても、自尊心が深く傷ついた。私は思わず頭を抱えてしまった。
しかし、現時点で救いとなる可能性を持つのは彼らだけだ。
手ぶらで集落へ帰るわけにはいかない。
何より、私自身の命も懸かっている。
私は矜持も体面もかなぐり捨て、堰を切ったようにこれまでの経緯を語り始めた。
昨夜の出来事。
白狒々と黒狒々。
白狒々が食べた光る石。
天然宗。
生贄。
そして、今夜にも滅ぶかもしれない集落のこと。
知っていること、分かっていることを、私は一つ残らず話した。
途中から、冷静に事実を伝えようという意識は消えていた。
ポチたちの情に訴えようとする、ただの命乞いだった。
アスドラは最後まで無機質に聞き続け、ポチは終始、面倒臭そうな顔をしていた。
そして、私が話し終えると、しばしの沈黙が流れた。
【なるほど】
アスドラが言った。
【黒狒々はともかく、その白狒々は危険だな】
私は身を乗り出した。
「やはり強いんですか?」
【強い。妖怪として、極めて強力な個体だ】
即答だった。
【お前たちのような普通の人間が百人集まったところで勝負にならない】
私は息を呑んだ。
「ひゃ、百人いても?」
【全員死ぬ。漏れなく狒々共の餌だ】
感情のない声だった。だからこそ、重かった。
【対抗したければ、天然宗の坊主共でも呼べ。あの連中が、人間にとって唯一の対抗手段になるだろう】
「その天然宗が来ないんです!」
私は叫んだ。
「あの人たち、急に来られないと言い出したんです! 怖くなったんです、きっと!」
すると、ポチが初めて顔を上げた。
アスドラも沈黙した。
【……怖くなった? 天然宗が? あの男が?】
確認するように、アスドラが尋ねた。
今まで無機質だった声には、初めて疑念の色が滲んでいた。
「はい! 今朝の電話で言っていました。そちらに行けなくなったと」
ポチは自分の足のリングにボソボソと何かを語っており、アスドラはそれに応えている。
声が小さいこともあるが、使っている言葉が聞いたこともない言語であり、何を話しているかはまるで分からない。ただ、互いに何かを確認しているようだった。
やがて、アスドラが小さく呟いた。
【ああ、そうか。なるほどな。そういうことか】
その声には、僅かな納得が混じっていた。
「何か分かりましたか?」
【静岡県への家族旅行だ】
「え?」
【天然宗に連絡をしたのは、今朝だと言ったな?】
「はい」
【時間は?】
「詳しい時間帯は覚えていませんが、七時から九時までの間であったかと」
【では、間違いないな。我々は、その時間帯には、既に静岡県にいた。だから、天然宗は依頼を断った。静岡県に足を踏み入れれば、たちまち命を落とすどころか、最低でもこの星の大陸の半分が消失してしまうからな】
私は首を傾げた。
センスの悪い冗談みたいなことを言っている。
アスドラが何を言っているのか、私には、意味がまるで分からなかったからだ。
【ポチ、今、メールを確認したぞ】
アスドラの声に、ポチが耳をピクリと動かした。
【私宛に大量に来ているな。内容は全て同じだな。『早く静岡県から出ていけ』とのことだ】
私は固まった。
AIが管理しているのだろうが、犬がメールアドレスのIDを持っていることに普通に驚いた。
【知ったことではないな。まったく鬱陶しい話だ。ポチ、君がどこを旅行しようと、それは君の自由だ。その結果、一つの集落が妖怪に滅ぼされたところで、それが何だというのだ】
アスドラの言葉に、私はショックを受け、同時に理解した。
アスドラとポチは、決して人間の味方という訳ではないのだ。
【ただ、これで解決だ。我々は今、長野県にいる。今頃、天然宗が動いているだろう。ポチ、君は家族旅行を続ければ良い。さて、行こう】
アスドラが断言した。
そして、話は終わりだと言わんばかりに、ポチが歩き出した。
来た道を帰っている。
私は慌てて追い掛けた。
「待って! 待ってください!」
ポチは振り返らない。
「天然宗は信用できません!」
【その点は、私も同感だ】
アスドラが即答した。
「貴方たちにも不思議な力があるんでしょう!? お願いです! 助けてください!」
【知ったことではない】
案の定、彼らは味方ではなかった。
絶望により視界が狭く、暗くなる。
だが、心を折るときではない。私は必死に食い下がった。
「女子供が狙われているんです!」
【天然宗を頼れ。我々は関与しない】
間髪入れないアスドラの回答。
【それが嫌ならば、勝手に狒々どもの餌になればよい。私たちには関係がないことだ】
私は歯を食いしばった。
もう理屈ではない。
何でもいい。
この二人を動かさなければならない。
情に訴える情報をぶつけるのだ。
【九歳の子供もいるんです!】
ポチの耳が僅かに動いた。
しめた。
私は続けた。
【岡山から来た子です。名前は……】
私が東野さんの孫娘の名前を口にした瞬間だった。
ポチが止まった。
ぴたりと、時間が止まったように歩みを止めたのだ。
私は息を呑んだ。
もしかしたら、という期待が、華のように胸に咲いた。
ポチは振り返らなかったが、その場から動きもしない。
アスドラと何かを確認しているようだった。
少しして、私の耳が微かな囁きを捉えた。
雑木林が不気味なほど静まり返っていたからこそ聞こえた、虫の羽音にも似たアスドラの声だった。
【確認できた。間違いない。あの子の友人だ】
私にはアスドラの言葉の意味が分からなかった。
しかし、ポチは「フンッ」と、大きく鼻を鳴らした。
それは、心底面倒臭そうなため息にも聞こえた。
それから、首をくいっと傾けた。
【奇跡が起きたぞ】
アスドラの声には、これまでになかった驚嘆が滲んでいた。
「……え?」
【ポチが、狒々どもを始末してくれるらしい】
私がアスドラの言葉の意味を理解するより早く、ポチの体に異変が生じた。
ボコリ。
何かが弾けるような音が響いた。
水音にも似ていたが、もっと重く、粘ついた響きだった。
まるで重油の浮いた水面が沸騰しているかのような、不気味な音である。
私は思わずポチを見た。
ボコッ。ボコボコッ。ボコボコボコボコッ。
破裂音は次々と鳴り響いた。そのたびに、ポチの全身が膨れ上がっていく。
筋肉が盛り上がり、骨格が軋む。
小柄だった体は見る間に巨大化し、もはや犬という枠組みから外れ始めていた。
ポチの全長は、一気に五倍以上へ達した。
白地に黒ぶちのあった毛並みは、鈍い金属色の黒一色へと変貌した。
さらに毛先は針のように鋭く変化し、危険な輝きを放っている。
赤い光を宿した両目が、私を見つめていた。
目の前にいたのは、漆黒の巨大な狼だった。
私は言葉を失った。
両膝が震え、全身の筋肉が硬直する。
恐ろしい。
そう思う一方で、その姿の美しさに心を激しく揺さぶられてもいた。
私は、何か言おうとしたが、声が喉を通るより早く、ポチの長い尾が伸びて私の身体に巻き付いた。
(……え?)
頭に疑問符が浮かんだ瞬間、雑木林の光景が視界から消えた。
直後、大地が爆発したかのような轟音が追い掛けてくる。
気が付けば、視界は空で埋め尽くされていた。
眼下には山々の稜線が広がっている。
自分の身に何が起きたのか、まるで理解できなかった。
足は大地に触れていない。
絶望的な浮遊感が全身を襲った。
それから、たっぷり五秒ほどかけて、私はようやく現実を理解した。
ポチが跳んだのだ。
たった一度の跳躍で、山々を見下ろす高度まで、私を連れてきたのだ。
しかも驚いたことに、まるで地面の上に立っているかのように、ポチは空中に静止していた。
一方で、私は本能のまま足をばたつかせた。
接地感が欲しかったのだ。
死にたくない。
大地が恋しい。
死の恐怖から逃れるように、私はポチの黒い尾へ全力でしがみついた。
幸い、ポチはそれを振り払わなかった。
【ポチ、こちらだ】
アスドラが進路を示した瞬間、景色が線になった。
視界が真っ白に染まる。恐らく雲を突き抜けたのだろう。
そして、その直後、ポチはさらに加速した。
風どころか、音さえ置き去りにする速度だった。
もはや私の目は景色を捉えられない。
不思議なことに風圧も感じなかった。
恐らくポチかアスドラが何らかの力で守っているのだろう。
もちろん私への優しさなどではない。
何か役割があるから生かされているだけだ。
ただ、それでも構わない。
あの狒々の群れと戦ってくれるのであれば、この程度の扱いなど甘んじて受け入れよう。
私の悲痛な覚悟など意にも介さず、アスドラは平然と言った。
【ポチ。先に伝えておくが、現在の時刻は午後四時四十五分。一家の夕食は午後七時からだ。それまでには終わらせて帰ろう。あの一家は君がいなくても大して騒がないだろうが、今日の夕食を逃す手はない。何せ、君の好物の魚のアラ汁が出るそうだからな】
「フンッ」
ポチは再び鼻を鳴らした。
相変わらず不機嫌そうな態度だった。
だが、気のせいだろうか。
ほんの少しだけ、私には、ポチの巨大な背中が嬉しそうに見えた。




