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七 白狒々

 怪物たちが東野家の庭へ足を踏み入れた瞬間、言葉では説明できない圧力が周囲へ広がった。

 

 空気そのものが重くなり、全身にのしかかってくるような感覚だった。

 

 胸の奥を巨大な手で押し潰されるような圧迫感。

 

 呼吸をするだけでも苦しい。

 

 妖怪が放つ妖気というものの影響なのだろうか。そう考えれば辻褄は合う。人間に害意を持つ妖怪は、そこに存在するだけで周囲の人間を精神的に圧迫し、言動や行動の自由まで奪ってしまうのかもしれない。


 その時の私には確証などなかった。


 ただ、得体の知れない恐怖に全身を締め付けられながら、必死に呼吸を整え、心身の自由を取り戻そうともがいていただけだった。


 誰も動けない。


 誰も声を出せない。


 猟銃を構えていた男たちでさえ引き金に指を掛けたまま固まっていたようだ。


 車のエンジンは動いているし、ヘッドライトも点いている。


 しかし、誰一人としてアクセルを踏めなかった。クラクションを鳴らすことすらできずにいた。ただ、皆で怪物たちを見つめるだけだった。


 白い狒々がゆっくりと私の入る檻へ近づいてきた。


 そして、檻を覆っていた白布を乱暴に引き剥がした。


 檻の中に月明かりが差し込んだ。

 

 白狒々の顔が見えた。その顔には獣の凶暴さと、人間のような知性が同居していたように思えた。


 「ふむ、ほぉ、ふむ……」

 

 白狒々が私を値踏みするかのように見下ろした。獰猛な表情が歪み、卑しい笑みが浮かんだ。黄色い歯が並んでおり、口臭が届いた。酷い臭いだった。


 「愉快、愉快だぁ。なかなかに上等な娘っ子じゃねぇかよぉ」


 白狒々は、黒狒々よりずっと流暢な人語を操った。人間のような複雑な表情まで顔に浮かべている。知能が高いのだ。恐らく、人間と同等、あるいはそれ以上だ。


 私は思わず息を呑む。


 白狒々が私を値踏みしている間、黒狒々たちは、滑るような足取りで音も無く、檻の周囲をぐるぐると回り続けていた。


 「信濃の国の光前寺、しっぺい太郎に知らせるな。今宵今晩このことは、しっぺい太郎に知らせるな」


 不気味な歌は止まらなかった。


 このまま黙っていると、恐怖に呑み込まれ、正気を失ってしまいそうだった。


 私は心に残った勇気をかき集め、震える喉を無理やり動かし、必死の思いで口を開いた。


 「どうして……どうして、生贄を求めるんですか……?」


 声はどうしようもないほど震えていた。泣き声に近かったかもしれない。


 白狒々は一瞬だけ目を見開いた。まさか、生贄が話しかけられるとは思っていなかったのだろう。


 しかし、次の瞬間、白狒々は、喉の奥から奇妙な笑い声を漏らした。


 そして大きく体を仰け反らせ、腹を抱え、夜空を見上げながら大笑いした。


 「ケヒヒッ!」


 その笑い声は森中に響き渡った。


 黒狒々たちも釣られるように笑い始める。まるで面白い冗談でも聞いたかのようだった。


 「決まってるだろうがよぉ、若ぇ娘を喰うと力と精がつくからだぁ!」


 「そんなことあるわけ……」


 「おめぇはよ、人間を喰ったことがあるのかぁ?」


 白狒々は、あからさまに私を嘲笑した。


 私は言葉に詰まった。人間が人間を食べることなどあるはずがない。当然のことだ。


 だが、それを理解してなお、胸の奥に別の感情が湧き上がる。


 (猿が……私を馬鹿にしている?)


 恐怖は消えていなかった。むしろ全身は震え続けている。それなのに、頭の中では煮えたぎるような怒りが溢れてきていた。ただ、その感情は大き過ぎるため、私には制御できず、発するべき言葉を失った。


 「ねぇだろうがよぉ! 人間は人間を喰わねぇからなぁ!」


 白狒々は檻を叩いた。ガァン、と耳をつんざく音が響く。


 鉄格子が大きく歪んだ。信じられない怪力だ。


 「おれはよぉ、お前らよりずっと賢ぇんだ!」


 黄色い歯を剥き出しにして、白狒々は笑う。


 「何も知らねぇ小娘風情が、おれに説教なんぞ許さねぇぞぉ!」


 更に檻を叩く。鉄が悲鳴を上げた。


 「知った風な口をよぉ、利くんじゃねぇよぉ!」


 白狒々の怒鳴り声は夜気を震わせた。その声には獣の咆哮と、人間の悪意が同時に混じっていた。

私は思わず息を呑んだ。こいつはただの獣ではない。知能を持つだけでなく、誇りがある。


 そして何より、人間に対する強烈な害意を持っている。それが何よりも恐ろしかった。


 やがて白狒々は、自慢げに自分の来歴を語り始めた。


 自画自賛ばかりの話で、正直なところ聞いていてうんざりする内容だったが、その一方で、語られる内容そのものには研究者として強い興味を惹かれた。


 白狒々は、もともとは山に棲む一匹の猿だったという。


 ところが、ある日、山奥で不思議な光る石を拾い、それを口にした。すると体は巨大化し、知能は飛躍的に向上し、人語を理解する力まで獲得した。


 そして、人を喰い殺した時、自らが妖怪へと変貌したのだという。


 妖怪となった瞬間、白狒々は自分の中に特殊な力が芽生えたことを悟ったらしい。それは妖怪となった自分だけが持つ固有の性質であり、能力と言い換えてもよいものだったという。


 獲物を喰えば喰うほど妖力を増大させ、更には自らの眷属さえ生み出せるのだという。


 実際、庭を取り囲んでいる黒狒々たちは、その能力によって生み出された配下らしい。


 白狒々は、配下を誇るように胸を張った。


 まるで王が自らの軍勢を見せびらかしているかのように。


 そして、その視線の先には、自らが率いる黒狒々の群れだけではなく、いずれ支配するつもりでいるこの土地そのものが映っているように見えた。


 「おれはなぁ、まだ始まったばっかりなんだぁ!」


 白狒々は満足そうに笑った。


 「いずれは、この山の神も喰うぞぉ!」


 巨大な腕を広げ、夜空を指差す。


 「神を喰って、土地の神になるんだぁ!」


 その口調は荒唐無稽だったが、冗談には聞こえなかった。


 目の前の怪物なら、本気でそれを成し遂げようとするだろう。


 「そのためによぉ……若ぇ人間が百人は欲しいんだよなぁ!」


 白狒々は舌なめずりをした。


 そして、ゆっくりと東野家を見回す。まるで品定めをするかのように。


 「娘っ子を出せやぁ!」


 私を指差し、白狒々は宣告する。


 「今日は、この女を喰うぞぉ!」


 そして指を二本立てる。


 「二十日後は二人だぁ!」


 次は三本立てる。


 「三十日後は三人!」


 最期に四本。


 「四十日後は四人だぁ!」


 最後に拳を握り締めた。


 「逆らうなら、ここの連中は皆殺しだぁ!」


 家の中から誰かの嗚咽が聞こえた。


 私は唇を噛み締める。交渉の余地など最初からなかった。こいつは支配者気取りの暴君だ。欲しいものを奪い、従わない者を殺す。それだけの存在だった。


 そして、絶望的な事実を十分に見せつけたうえで、怪物たちは、更なる遊びを始めたではないか。


 「さてよぉ、生贄の娘は最後だぁ……見るからに気の強ぇ娘だよなぁ。せっかくだからよ、おめぇには、自分がどうやって喰われるのか、最後まで見物してもらおうじゃねぇか? おめぇらぁ! 山ん中で獣を捕まえてこいやぁ!」


 白狒々の指示を受けた四体の黒狒々が、風のような速さで森に消えた。


 五分も経たず戻ってきた黒狒々たちが肩に担いでいたのは、山で捕らえたと思われる猪と熊だった。どちらも百キロ以上はある大物だ。二頭の獣は、腹から大量に血を流しながら、まだ生きていた。


 猛烈に嫌な予感がした。


 白狒々は、私の恐怖を視認して、ニヤリと獰猛で残虐な笑みを浮かべた。


 私の予想は当たった。


 狒々の怪物たちは、猪と熊を、生きたまま素手で解体し、喰らい始めたのだ。


 二頭の獣の悲鳴と断末魔。


 血、内臓、骨。


 月明かりの下で、地獄絵図が展開した。


 熊はオスで、猪はメスであった。


 何故、そんなことが分かったのか?


 簡単だ。怪物たちは、わざわざ自分たちが獣を喰らう様子を、私に見せつけたのだ。


 白狒々は、熊の股間に齧りつき、一口で股間の陰茎と睾丸を食い千切り、グチャグチャと咀嚼して、それを美味そうに吞み込んだ。それからポカリと開いた内臓奥への黒血の穴に向かい嬉々として鼻面を押し込み、湯気が立つ内臓を直接貪っていく。


 腸を引きずり出すと糞が詰まった部分はブッと吐き出し、残り部分をまるで麺を啜るように口にしていく。

 

 ズチュズチュと内臓探索は続く。白狒々の口が肝臓に辿り着くと、その表皮部分を前歯で噛んで熊の身体からズルリと引き出すや否や、熱々の鍋をつついている人間のような幸せな表情を浮かべながら、ホフホフ顔で肝臓の肉塊を頬張り、噛みしめる。


 直視できない陰惨な光景でありながら、私は視線を逸らすことが出来なかった。


 周囲から嘔吐する音が聞こえた。無理もない。今の自分が汚物まみれになっていないのが不思議でしょうがなかった。


 黒狒々は集団で猪に齧りついていた。


 力任せに猪の四肢を引き千切り、その一本ずつに黒狒々二頭が殺到した。半ば以上喧嘩をしながら、猪の血肉と骨を取り合い、仲間であるはずの相手を威嚇している。


 腹に齧りついた黒狒々も多くいた。強力な顎の力で肋骨を噛み砕き、その奥にある内臓を引きずり出して食い千切っていく。


 猪の下腹部に埋まっていた子宮を奪い合う黒狒々を見て、吐き気を伴う強い嫌悪感を覚え、それ以上にとても強い憤りを覚えた。


 分かった。


 この狒々共は、食事をしているのではない。命を蹂躙しているのだ。


 邪悪。


 遭遇したならば、人間として、命を懸けて撃滅を目指さなければならないほどの邪悪。


 込み上げる胃液に嘔吐を促されながら、必死にそれを耐えつつ、私は白狒々を睨みつけた。


 白狒々は、私の視線に気づき、ニタニタと笑っている。あいつは、明らかに、私の反応を楽しんでいた。


 「いい顔になってきたじゃねぇかよぉ……」


 口元についた血のソースを手の甲で拭いながら、白狒々は指先で私が入った檻をつついた。

ミシリと、鉄が歪む。溶接部分が簡単に剥がれ落ちていく。


 熊用の檻など、まるで意味をなさなかった。


 私は、最後の抵抗を試みた。


 「観念しなさい! ここにしっぺい太郎を連れてくるわよ!」


 狒々たちは大笑いした。


 「いる訳ねぇだろぉ! 伝説を真似してるだけだぁ! しっぺい太郎なんざ、とっくにいねぇよぉ!」


 白狒々は嘲笑を高めたが、その最中、一頭の黒狒々がポツリと呟いた。


 「でもよ、頭領……光前寺にいるポチは怖ぇよなぁ……」


 瞬間、白狒々の拳が、その黒狒々の頭頂部に振り下ろされた。


 黒狒々の頭が、まるで豆腐のように潰れた。


 「余計なことを言うなよなぁ! 三下ぁ!」


 気のせいだろうか。白狒々の顔色から血の気が引いていたように見えた。


 気を取り直した白狒々の手が、私の入る檻に伸びてきた。溶接された鉄板や鉄筋が砂糖菓子のように易々と引き剥がされていく。


 白狒々の巨大な手が檻の鉄格子を掴んだ。


 ミシリ、ミシリと、太い鉄格子が飴細工のように歪められていく。


 もう駄目だ。そう思った。


 いや、違う。理解したのだ。


 私は死ぬ。死んでしまう。


 つい数時間前まで、自分は怪異との対話を試みる勇敢な研究者なのだと思っていたのに、文化人類学の歴史に名を残す発見をするかもしれないとも思っていたのに、死ぬのだ。


 つまり、私はただの馬鹿だった。


 目の前の存在は研究対象ではない。


 災害だ。地震や津波と同じ、理不尽な破滅そのものだった。


 白狒々の顔が近づき、獣臭い息がかかった。


 「いい顔だなぁ」


 白狒々は嬉しそうに笑った。


 「そういう顔を見るのが、たまらなく好きなんだぁ」


 私は動けなかった。指一本動かすことができなかった。


 震える右手が、無意識のうちに、左手首に巻き付かれた数珠を握り締めた。


 瞬間、東野さんの言葉が脳裏をよぎった。


 ‐本当に危ないと思ったら『助けて』と強く念じて

 ‐きっと、あなたを助けてくれるから


 そんな馬鹿なことがあるものかと思ったが、それ以外に、今の私に出来ることがなかった。

祈った。生まれて初めて心の底から。


 (助けて……)


 白狒々の指が私の身体へ触れた。


 (助けて!)


 その瞬間だった。紫水晶が砕け散った。


 同時に、私の左手から眩い緑色の光が噴き出した。


 雷鳴にも似た轟音と衝撃が、東野家の敷地全体を揺らした。


 「イギャァァァァッ!」


 最初に悲鳴を上げたのは白狒々だった。緑光に触れた右腕が燃えている。


 火傷ではない。何か別の力によって肉そのものが崩壊している。


 黒狒々たちも同じだった。悲鳴と絶叫を上げ、身体を掻き毟りながら地面を転げ回っている。


 緑色の光は庭全体へ広がり、怪物たちを容赦なく焼き払っていった。


 「な、何だこれはよぉ!? まさか法力か? ああ、何てこった法力だ! 天然宗だ! 天然宗の坊主共の法力だぁ! げぇっ! 天然宗の坊主共めぇ!!」


 白狒々が絶叫する。焼け爛れた腕をおさえながら後退していく。


 黒狒々たちも次々と倒れていく。


 中には身体の半分が吹き飛び絶命している者もいた。


 「どうしてこんなもんが、ここにあるんだよぉ、畜生ぉ!?」


 白狒々は地面を叩きながら吠えている。初めて恐怖した顔を見せた。


 血まみれの口から唾を飛ばしながら、白狒々は吠えた。


 「野郎共! ずらかれ! あいつらが近くに隠れてるかもしれねぇ!」


 残存の黒狒々たちは、慌てて立ち上がった。


 傷ついた仲間を抱えることもしない。半死半生の者を背負うこともしない。


 自分のことだけを考え、各々が独自に、森へ向かって逃走していく。


 白狒々が殿だった。


 去り際、奴は振り返り、血走った真っ赤な目で、私を睨み付けた。


 「だがよ! 諦めねぇぞ!」


 怪物の怒号が、夜空を震わせた。白狒々の巨大な指が東野家を指す。


 「明日、また来るぞぉ! 生贄を用意しとけよぉ! この集落の女全員だぁ!」


 東野家の人々が息を呑む。


 白狒々は牙を剥いた。


 「用意してなかったら、ここにいる人間共を、この熊や猪のように全員食い殺してやるからなぁ!」


 呪詛を吐くだけ吐いて、怪物たちは森の闇へと姿を消した。


 静寂が場を支配した数秒後、パッと照明が点灯した。


 テレビが騒ぎ出し、ラジオが復活した。


 世界に戻ってきた。まるで先ほどまでの出来事が悪夢だったかのようだ。


 私は檻の中でへたり込んだ。全身から力が抜けて指一本動かせない。


 視線だけを自分の左手首に送った。紫水晶の数珠があった場所には何も残っていなかった。全て砕け散っており、細かな砂のようになっていた。風に吹かれて消えていく。


 私は震える指で、その残骸を拾い上げようとしたが、掴めなかった。


 張り詰めていたものが限界を迎えた。


 私はその場で顔を伏せ、声を上げて泣いた。

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