六 猿神
それからの数時間は、まるで戦支度だった。
集落全体が、一つの目的のために動き始めたのである。
まず行われたのは徹底した檻の強化だった。
倉庫から引っ張り出された熊捕獲用の大型檻に、集落の男性たちが総がかりで、鉄柵や鉄板を次々と檻に溶接していった。
農機具置場から持ち出された資材まで投入され、檻は見る見るうちに異様な姿へ変わっていった。
「これならヒグマが十匹掛かっても壊れねぇぞ」
誰かがそう言った。
私はその檻の中へ入る予定だった。同時に、白いカーテンを何枚も縫い合わせた巨大な布が作られた。生贄を覆うための白い覆いである。
次に行われたのは包囲網の構築だった。
トラック、トラクター、四輪駆動車。
とにかく馬力のある車が東野家の周囲へ集められた。いざという時は車両ごと怪物に突っ込ませる。そんな物騒な相談まで真顔で交わされている。
並行して、女性たちは炊き出しを始めていた。
闘いは恐らく夜通しになる。腹が減っては戦えないため、巨大な鍋で豚汁が煮込まれ、おにぎりが次々と握られていく。
一方で、子供たちは近隣集落の親戚宅や公民館へ避難させられた。もちろん本当の理由は伏せられている。
大人たちは「熊が出た」とだけ説明していた。それでも子供たちは不満そうだった。
事情を知らされていない東野さんの九歳の孫娘などは、
「おばぁちゃん、何でタロウはいなくなったの? みんな、熊に食べられって言っているんだけれど、本当なの?」
と、首を傾げていた。その言葉には、東野さんだけでなく、私も顔を背けた。
そして、遂には死に組まで編成された。
口には出さないが、誰もが理解していた。
怪物が本気で襲ってきたら、誰かが時間を稼がなければならない。猟銃を持つ男たちが集まり、黙って各々の役割を確認していた。
私はその様子を見ながら、おにぎりを食べていた。
夕食のおにぎりと豚汁は、不思議と美味しかった。
「酒を出せ」という声を上げる男たちもいたが、他の男たちが「馬鹿言うな」と怒号を上げて封殺した。
酔った状態で化け物と戦えるはずがない。至極当然の怒りだった。
食事が終わる頃には、何人かが遺言書を書き始めていた。
東野さんもその一人だった。
机に向かい、便箋へ静かに何かを書き続けている。恐らく娘さんや孫娘への言葉だろう。
その後も集落の人々は眠らなかった。
各家は部屋の電気を全て点け、家中のテレビを大音量で流す。ラジオもつけた。
騒音は集落を埋め尽くしていたが、誰もそれを気にしていない。
大人たちは雑談を交わしている。必死に話題を探して、口を動かし、音を出し続けた。
とにかく静寂を作らないようにしていた。静かになると、不安と恐怖が襲ってくるためだ。
時刻は午後十一時三十分。
私は東野家の庭へ運び込まれた檻の前に立っていた。
周囲では最後の確認が続いている。男たちは猟銃の点検を行い、車両の配置を見直し、録画機材の動作確認を繰り返していた。
いよいよだ。私は必死に勇気を奮い立たせた。
その時だった。
「白石さん……」
東野さんが私を呼び止めた。振り返ると、彼女は何かを握っていた。
「これを受け取ってください。お守りよ」
差し出されたのは紫色の数珠だった。
透明感のある紫水晶で作られており、月明かりを受けて静かに輝いている。
「お守りですか?」
「ええ。天然宗のお坊さんが作った特製の数珠です」
私は思わず苦笑した。
「騙されたと思って持っていって」
東野さんは珍しく真剣な顔をしていた。
「こういう時に神頼みは良くないのかもしれないけれど、私はこれで助かった人を知っているの」
「……分かりました」
正直、半信半疑だった。科学的根拠はまったく感じられないからだ。
しかし、東野さんは続けた。
「常に身につけておいて。そして、本当に危ないと思ったら『助けて』と強く念じて」
「念じる?」
「ええ」
東野さんは頷いた。
「きっと、あなたを助けてくれるから」
その口調は冗談には聞こえなかった。私は数珠を受け取った。紫水晶はひんやりとしていて、手に吸い付くような感じがした。
「分かりました。お預かりします」
私は数珠を左手首へ巻き付けた。
東野さんは、まだ何か言いたそうだったが、結局、「絶対に無茶しないで」と、それだけを何度も念押しするように繰り返した。
私は笑顔で頷く。
「善処します」
そう答えるしかなかった。
もっとも、檻の中へ入ってしまえば、私に逃げ場はない。後は、この集落の人々が総力を挙げて強化した檻の強度を信じるしかないのだ。
それに、私は怪物との意思疎通に賭けていた。
あの黒い怪物は、確かに人語を話していた。それならば、会話が成立する可能性もあるはずだ。
なぜ生贄を求めるのか。本当に人間を食べなければならないのか。
もし餌が目的なら、別の解決策を提示できるかもしれない。
交渉によって平和的な着地点を探ることも不可能ではないだろう。
そして、何より、私は、怪異そのものから話を聞いてみたかった。
怪奇現象とは何なのか。
妖怪とは何なのか。
なぜ伝説は現実となって現れるのか。
その答えを、当事者自身の口から聞き出せるかもしれないのだ。
危険なのは百も承知だった。
しかし、それでも挑む価値はある。私はそう確信していた。
上手くいけば、これは文化人類学のみならず、人類史そのものを書き換える発見になるかもしれない。
そして、その発見を成し遂げた研究者として、私の名前は世界中に知られることになるだろう。
そんな考えが頭をよぎり、私は思わず苦笑した。
恐怖がないわけではない。
だが、それ以上に好奇心と功名心が勝っていた。
私は高揚感を抑えきれないまま、意気揚々と檻の中へ足を踏み入れた。
鉄格子の扉が閉められ、重い鍵が掛けられる。鍵はそのまま溶接され、更にその上から鉄板などを張り付けていく。
この期に及んでも、私に恐怖がなかったのは本当に不思議だった。自分は思ったより、肝が太いのかもしれない。意外な長所だった。
私は小型のノートパソコンを開き、記録を付け始めた。
時刻は午後十一時五十分。
あと十分で日付が変わる。
あの怪物が午前零時ちょうどに姿を現す保証はなかった。
それでも、その場にいた誰もが、零時を境に何かが起こると予感していた。
だから、誰もが時計を見つめている。私も同じだった。いいや、私の場合は予感というより確信に近かった。
昔から時々あるのだ。上手く説明はできないのだが、直感で『分かる』のだ。
何かが近づいてくる。
目には見えないし、音も聞こえない。それなのに、確かに近づいてくるのが分かる。
胸の奥がざわつく。背筋を冷たい指でなぞられているような感覚が消えない。
それは恐怖というより警告だった。
巨大な何かがこちらへ向かっている。
人間の意思や理屈ではどうにもならない、圧倒的な何かが。
まるで沖合から押し寄せる津波のように。まだ水平線の向こうにあるはずなのに、その存在だけははっきりと感じ取れる。逆らうことも、止めることもできない超自然的な暴力の気配だ。
時刻は午後十一時五十八分。
私の中の特別な感覚が、狂ったように警鐘を鳴らしていた。
(来る。もうすぐだ)
理由は分からないが、確信だけはあった。
そして、時計は零時を示した。
刹那、集落中の電気が消えた。
テレビとラジオが沈黙し、家々の照明が一斉に落ちたが、それだけではない。
庭を囲むように配置されていた軽トラックや四輪駆動車のエンジンまでもが、まるで見えない手によって首を絞められたかのように停止したのである。
エンジン音が次々と消えていく。ヘッドライトも消えた。
闇が広がった。
ただの闇ではない。何も見えない。まるで両目に墨汁を流し込まれたかのような、深く濃い闇だった。
そこかしこで、恐怖に耐えきれなくなった女性たちの悲鳴が上がる。
「停電か!?」
誰かが叫んだ。
(いいや、違う!)
私は直感で理解した。これは停電などではない。
この集落だけが切り離されたのだ。まるで世界から隔離されたかのように。
その時だった。遠くでセルモーターの音が響いた。誰かが必死になって、再び、エンジンを掛けようとしている。続いて別の場所からも同じ音が聞こえた。
キュルルルル、キュルルルル、ブォン!
最初の一台が息を吹き返した。
直後にヘッドライトが点灯して、闇の中へ白い光が一本走った。
続いて二台目、三台目と続き、力強いエンジン音が周囲に響き始めていく。
ヘッドライトに光がともった。
数秒前まで完全な闇に支配されていた庭へ、わずかな光が戻った。
しかし、それは決して安心をもたらす光ではなかった。
むしろ、人々は見てしまったのだ。その光の中に立つ異形の姿を。
遂に、彼らはやって来た。
ズシン。
最初の足音だけで地面が揺れた。
ズシン。ズシン。ズシン。ズシン。
重い足音が続くたびに、大地が震える。
そして何より恐ろしいのは、その足音が一つではなかったことだ。
森の奥から現れた怪物は、一体ではなかった。
二体でもない。
十体。
黒い狒々の怪物が九体。月明かりの下、まるで訓練された兵士のように整然と列を成して歩いている。
そして、その中央には更に巨大な影があった。
全身の毛が雪のように白い。
身長は四メートル近いだろうか。黒い怪物たちより頭二つは大きい。
王だ。そう呼ぶ以外に表現のしようがなかった。
黒い怪物たちを従えた、群れの支配者。間違いなく、あれが首領だと思った。
私を含め、誰一人として声を発することができなかった。
異形たちはゆっくりと東野家へ近づいてくる。
やがて立ち止まり、そして、口を揃えて歌い始めた。まるで何百年も前から繰り返されてきた儀式のように。
「信濃の国の光前寺、しっぺい太郎に知らせるな。今宵今晩このことは、しっぺい太郎に知らせるな」
ぞっとするほど揃った声だった。
祈りのようにも聞こえるし、呪詛のようにも聞こえる。
いや、そのどちらでもあったのかもしれない。
私は檻の中で震える指を握り締めた。
歯が痛かった。
顎が信じられない速さで上下に震え、カチカチと歯を打ち鳴らしていたからだ。当然寒さによるものではない。恐怖によるものだった。それは生まれて初めて味わう、本能そのものが悲鳴を上げるような恐怖だった。
私は唐突に理解した。
伝説は終わっていない。あれは昔話などではなかったのだ。
私の眼前には、人を喰らう恐ろしい怪物がいる。
そして今、その怪物たちは、私を迎えに来たのだった。




