五 生贄
東野家は大騒ぎになった。
当然だろう。東野さんの目の前で飼い犬が食い殺されたのだ。それも熊や猪ではない。人語を解する巨大な狒々の怪物によってである。
悲鳴を聞きつけた娘夫婦が飛び出してきた。
集落の住民も次々と集まってくる。
東野さんは警察へ通報したが、現場に残されたのはタロウの左後ろ脚だけだった。
警察官たちは困惑していた。彼らは、大型獣による被害の可能性を口にしていたが、私も東野さんも、あれが獣などではないことを知っている。
警察は役に立たないと、私は直感で悟った。
結局、日が暮れる前には、東野家の居間に集落の主だった人々が集められていた。そこで私は一つの事実を知ることになる。
何と、今回の事件は初めてではなかったのだ。
「うちの鶏もやられた」
「私の家じゃ猫が消えた」
「裏山で見たよ、黒い巨人だった」
口々に証言が飛び交う。
それらを総合すると、ここ数か月の間に何度も目撃情報があったらしい。
最初は誰も本気にしていなかった。
しかし、被害が増えるにつれ、住民たちも無視できなくなったのだろう。そして、今度の騒ぎが決定打になったのだ。
ただ、私が私興味深いと思ったのは、その解釈だった。
私は当然、熊や大型類人猿の誤認説が出るものと思っていたのだが、違っていた。
「ありゃ猿神様だ」
「しっぺい太郎の話に出てくる奴だ」
「間違いねぇ、モノノ怪の類だ」
誰一人として、その存在を妖怪変化以外のものだとは考えていなかったのである。
私は内心驚いた。
しかし、よく考えれば当然かもしれない。
彼らは生まれた時からこの土地で暮らしているのだ。しっぺい太郎伝説は昔話ではなく、生活の一部なのだ。私のような大学院生よりも、彼らの方がずっと真剣に伝説を受け止めているのだ。
私は部外者だったが、東野さんの客人という立場もあって、その話し合いに参加させてもらっていた。
もちろん、発言は一切せず、黙って話を聞いている。
まずは情報を集める。それがフィールドワークの基本だからだ。
やがて話題は自然と東野さんへ集中した。
「佳奈さん、どうすればいい?」
「何か考えはねぇか?」
「昔の記録に残っていませんかね?」
住民たちが次々と意見を求めている。
東野さんは単なる郷土文化の研究家ではない。どうやら、この集落において相当な発言力を持っているらしい。やはり、大した御仁なのだ。
東野さんはしばらく考え込んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「警察は役に立たないでしょう」
誰も反論しなかった。むしろ当然という顔をしている。私も同感だ。
「こういうことを専門にしている人たちを私は知っています」
室内が静まり返った。
「天然宗です」
その言葉を聞いた瞬間、住民たちの表情が変わった。
「ああ、天然宗のお坊さんたちか」
「そりゃあ、そうだな」
驚くほどあっさり受け入れられた。
私は一人だけ取り残された気分だった。
天然宗。
それは東野さんから聞いたばかりの名称である。
しかし、この集落の人々にとっては既知の存在らしい。
もしかすると、過去にもこの集落は別の怪奇現象に襲われたことがあり、それを対処してくれたのが、天然宗なのではないだろうか。そうであれば、東野さんの取材時の反応も腑に落ちる。
「問題は今夜だ」
老人の一人が、低い声で言った。途端に空気が鉛の重さになった。
「今夜?」
思わず私が尋ねると、全員の視線がこちらへ向いた。
老人は答える。
「しっぺい太郎の話じゃ、白羽の矢が立った家から娘を出す」
私は思わず息を呑んだ。玄関脇の壁に突き刺さっていた白羽の矢が脳裏に浮かんだ。
「伝説では八月十日の真夜中に見付天神へ供えることになっているようだが、今は五月だ……あんなバケモノが八月まで待ってくれるとは思えねぇ。それどころか、今夜の内に来るかもしれんぞ」
老人は呻くように語る。
「いや、来ると思った方がいいだろうな」
誰かが言った。そして、誰も否定しなかった。
沈黙が落ちる。
「だからって、生贄なんか出せる訳ねぇだろ。今は、江戸時代じゃねぇんだ!」
別の男が吐き捨てた。
「当たり前だ!」
「そんなことできるか!」
皆が口々に言う。
現代社会で育まれた倫理観は高潔だ。
だが、ではどうするのか。その答えは誰も持っていなかった。
重苦しい沈黙が場を支配した。
私は周囲を見回した。このとき、何故か、私の脳裏に東野さんが言っていた『ヒーローの定義』が浮かんだ。
面白い。一つなってやろうじゃないか。膠着した状態に変化をもたらし、エントロピーの増大を図る存在というものに。
私は、ゆっくりと手を挙げた。
全員の視線が私へ集まる。
「私が生贄になります」
静まり返る室内。
東野さんが目を見開き、頭を抱えていた。
「……白石さん、あなた、何を言っているの?」
「東野さん、落ち着いてください。別に本当に食べられるつもりはありません」
「説得力がないわ。あなたも見たでしょう、あの恐ろしい怪物の姿を」
即答だった。
私は軽く咳払いをした。
「この集落に熊捕獲用の檻はありませんか?」
数人の住民が顔を見合わせる。
「ああ、あるな」
「猪用と熊用のやつが、ウチの倉庫に入ってる。かなり頑丈なやつだ」
私は頷いた。
「それです。私がその中に入ります」
「却下です」
東野さんが即答した。
「最後まで聞いてください」
「聞くまでもありません。却下です!」
私は構わず続けた。
「奴らが本当に伝説どおりの行動を取るのか確認したいんです。もし生贄を求めているなら現れるでしょうし、そうでないなら別の対応を考える必要があります」
「だからって、あなたが入る必要はないでしょう」
「では、誰が入るんです?」
東野さんが言葉に詰まった。
私は周囲を見回す。
東野さんの娘と近所の若い女性たちが、不安そうな表情を浮かべている。
「私は部外者です」
そう言うと、東野さんが顔をしかめた。
「そんな言い方は……」
「ですが、事実です!!」
私は遮った。
「皆さんには家族がいます。でも私は、この集落に家族はいません」
もちろん本心ではなかった。私にだって家族はいる。京都には心配性の両親がいるし、友人や恩師もいる。
しかし、この場にいる人々と比べれば、私が失うものは遥かに少ない。少なくとも私はそう考えた。
「白羽の矢は東野家に刺さっていました。伝説に従うのであれば、この家から生贄を出さなければならないのでしょう。でも、それはできませんよね?」
私は東野さんを見た。
「お孫さんはもちろん、娘さんだってそうです。生贄にするなんて無理な話のはずです」
「生贄は、私がなります」
東野さんはきっぱりと言った。
その目に迷いはなかった。感心した。大した勇気だと思う。自分の娘や孫を守るためとはいえ、人間を喰らう怪物の前へ進み出る覚悟など、誰にでも持てるものではない。
だが、それでも私は首を横に振った。
「それは無理だと思いますよ」
「どうして?」
「東野さんには大変失礼な言い回しですが、伝説では、求められているのは若い娘です」
東野さんの表情が僅かに曇る。
「もし相手が、本当にしっぺい太郎伝説をなぞっているのなら、生贄の条件にも意味があるはずです」
私は言葉を選びながら続けた。
「東野さんが申し出ても、受け入れられない可能性があります。下手をすれば、相手を怒らせることになるかもしれません」
室内が静まり返った。
誰も反論しなかった。皆、その可能性を否定できなかったかからだ。
私は更に畳み掛けた。
「私も、当然死ぬつもりはありません」
「本当に?」
「本当です! 檻を庭の真ん中に置いてください。そして皆さんには周囲を固めてもらいます」
「固める?」
「見張るんです」
私は住民たちへ視線を向けた。
「録画もお願いします。できれば複数台。それから、いざ危なくなったら、男の人たちの奮闘を期待します」
数人の男たちが顔を見合わせた。
「おいおい、無茶言うなあ。相手はあの化け物だぞ」
男たちは、口ではそう言いながらも、その顔には覚悟が見えた。
やがて一人の男が立ち上がる。
「俺の家には猟銃がある」
別の男も続いた。
「俺ん家にもある。爺さんのものだがな」
「弾もたっぷりとあるぞ」
「皆で囲めば何とかなるかもしれんな」
次々と声が上がる。
「明日になれば天然宗も来るんだろう? なら、今夜だけだ」
「今夜、朝まで耐えりゃいい」
話がまとまり始めていた。
私は胸を撫で下ろした。これで、私の研究は大幅な進歩を見せる。命を懸ける意味があると、私は思っている。
気になったのは、東野さんが黙ったままだったことだ。
彼女はこの場におけるリーダーだ。
彼女の発言が、この一団のこれからの行動を決定づけることになる。
長い沈黙。誰も彼女を急かさない。
やがて東野さんは深く息を吐いた。
「……分かりました」
彼女の声は酷く疲れていたが、私は心の中でガッツポーズをした。
「白石さんの案を採用しましょう」
住民たちはざわめいたが、何人も頷いている。
しかし、東野さんの表情は晴れない。これは当然だろう。自分の家に招いた大学院生を、化け物の前へ差し出すのだから。しかも、それが現状で最善策に思えてしまっている。
東野さんは私を見た。
その目には感謝も安堵もなかった。
あるのは暗い後悔だけだった。まるで毒を飲んだ後のような顔をしている。
「絶対に無茶はしないでください」
「はい」
「危険だと思ったらすぐ逃げること」
「はい」
「約束できますか?」
私は笑顔で頷いた。
「もちろんです」
その答えを聞いてもなお、東野佳奈の表情は少しも晴れなかった。
私ばかりが、表情を輝かせていたと思う。




