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四 白羽の矢

 東野さんは玄関まで私を見送ってくれた。


 「これからどうされるんですか?」


 「せっかくここまで来ましたからね。近くの寺社仏閣を回ろうと思っています。しっぺい太郎伝説に関する古い資料が残っていないか探してみるつもりです」


 「ああ、なるほど」


 東野さんは納得したように頷いた。


 「この辺りなら、見付天神は外せませんね。あとは古い寺院にも縁起書が残っているかもしれません。少しは効果があるかもしれませんので、私からの紹介だと伝えてみてください」


 「ありがとうございます」


 私は軽く頭を下げた。


 「それと……もし追加でお聞きしたいことが出てきたら、また伺ってもよろしいでしょうか」


 東野さんは少しだけ呆れたように笑った。


 「嫌だと言っても来るのでしょう?」


 「バレましたか」


 私も思わず笑う。

 

 「また、お伺いしますので、その時はよろしくお願いします」


 「こちらこそ」


 そんなやり取りを交わしながら玄関を出る。

 途中、この地域の名物料理の話になった。


 「せっかく来たんですから、お店で食べるなら自然薯料理と椎茸料理がおすすめですよ」


 「自然薯と椎茸ですか。取材より食事が楽しみになりそうですね」


 「それもフィールドワークの醍醐味です」

 

 東野さんが笑った。


 私も笑い返した。


 そして、次の瞬間、私たちの笑顔がピキッと凍り付いた。


 東野家の玄関脇の土壁。


 そこに、白い矢が一本、深々と突き刺さっていた。

 

 いいや、違う。


 今、まさに、素手で矢を突き立てている者がいた。


 それは巨大な腕の持ち主だった。


 大きい。本当に、とにかく、大きい。


 身長は三メートルを優に超えている。


 猿だった。


 いや、猿という言葉では到底表現できない。全身を黒褐色の体毛に覆われた異形だ。


 異様に長い両腕。筋肉で膨れ上がった胴体。


 そして、人間のようでありながら、左右非対称に歪んだ不気味な顔。口元には鋭い牙が何列も並び、獣とも人ともつかない笑みを浮かべていた。


 私は動けなかった。

 東野さんも同じだった。


 怪物は白羽の矢が壁に突き立ったことを確認してから手を離すと、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。


 目が合ってしまった。その瞬間、背筋に氷水を注がれたような戦慄が襲った。


 怪物が五指を開き、こちらへ腕を伸ばした。

 

 まるで品定めでもするように。私と東野さんを行ったり来たりしている。


 あの手の動きが止まったとき、私か東野さん、あるいは二人の命が潰えることを本能が告げていた。


 その時だった。


 ワン!


 鋭い犬の鳴き声が響いた。


 庭の隅で寝ていた老犬タロウが立ち上がっていた。

 

 どこにそんな力が残っていたのか、首輪に繋がれた鎖を力任せに引き千切り、一直線に怪物へ飛び掛かった。

 

 タロウの牙が、怪物の脹脛へガブリと食い込む。


 怪物の視線が、私たちから犬へと移った。


 私は息をすることさえ忘れていた。


 怪物はゆっくりとタロウを見下ろしていた。


 そして、まるで虫でも摘まみ上げるように、その体を片手で持ち上げた。


 「やめて……」


 東野さんの声。


 しかし、遅かった。


 怪物は人間一人を丸ごと飲み込めそうなほど大きく口を開いた次の瞬間、


 グチャ、ボリン。


 生々しい咀嚼音が響く。

 

 タロウの姿が消えた。

 

 怪物の口元から血が飛び散り、細かな肉片がこぼれ落ちる。


 怪物は不快そうに顔をしかめると、歯の間に挟まった何かを長い舌でほじくり出し、ペッと地面へ吐き捨てた。そこに転がったのは、血まみれになったタロウの左後ろ脚だった。


 東野さんの顔から血の気が引く。

 私も動けなかった。


 ほんの数秒前まで庭先で昼寝をしていた老犬が、今は脚一本を残して消えている。


 現実感がなかった。

 怪物は何事もなかったかのように踵を返した。

 そして、ぼそりと呟いた。


 「……やっぱりよ、犬は嫌いだぁ……」


 私は息を呑んだ。東野さんも同じだった。


 私たちは互いの顔を見た。


 「……喋った?」


 自分でも間抜けだと思う声が出た。


 だが、そう言うしかなかった。


 怪物が、人間の言葉を喋ったのだ。


 しかも、まるで近所の人間が愚痴をこぼすかのような自然さで。


 巨大な怪物が存在するだけでも理解を超えているのに、その怪物は人語を解し、自分の意思で言葉を発したのである。


 それは獣ではない。少なくとも、私たちが知る動物ではない。


 怪物は振り返ることもなく歩き続け、数歩で雑木林へ入り、その巨大な背中は木々の向こうへ消えていった。


 静寂。


 先ほどまでの惨劇が嘘だったかのような静寂が、その場を支配していた。


 あまりにも静かな時間。蝉の声が聞こえ、鳥の声が聞こえる。


 空は青く、風が吹いている。太陽の位置は高く、とても眩しい。


 何一つ変わっていない。


 まるで今の出来事だけが、この世界から切り離されていたかのようだった。


 東野さんは、その場に跪くと、両手で顔を覆ってから、思い出したかのように甲高い悲鳴を上げた。


 私はその場に立ち尽くし、東野さんの悲鳴を聞きながら、転がる犬の脚を見つめていた。


 怪異は夜に現れる。


 怪異は闇を好む。


 怪異は人目を避ける。


 そんな話を何度も聞いてきた。


 だが、どうやら全部嘘らしい。


 私は苦笑しながら、呆然と、そんなことを考えていた。

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