三 インタビュー
録音機材のスイッチを入れた私は、手元の資料へ目を落とした。
「取材を始める前に一つだけ。事前にお送りしていた質問項目に沿って、お話を伺わせて頂こうと思います。もちろん、話が脱線しても構いませんし、答えにくい内容がありましたら遠慮なく仰ってください」
東野さんは柔らかく微笑んだ。
「ええ、承知しています。よしなにお願いします」
「ありがとうございます。それでは、始めさせて頂きます」
私は、改めて資料を確認した。
「では、まず一つ目の質問です。この集落に伝わるしっぺい太郎伝説について、改めてお聞かせ頂けますか」
東野さんは頷いた。
「基本的な筋は有名な伝承と同じですよ。昔、この地域では毎年若い娘を山の神へ捧げなければならないとされていました。その正体は猿の魔物だったとも、狒々だったとも言われていますね」
「やはり猿神伝説の系統なんですね」
「ええ、そうですね。生贄の娘を納めた櫃を山へ運ぶ。そして夜になると魔物が現れて食べてしまう。そうした犠牲が長く続いたと伝承されています」
東野さんは、湯呑を手に取り、それを一度傾けた後で、話を続ける。
「ところが、ある年のことです。旅の僧がその話を知るんです。すると魔物たちが『しっぺい太郎に知られるな』とはやしているのを耳にする。そこで遠方からしっぺい太郎という犬を連れてきて、生贄の代わりに櫃へ入れる。そしてしっぺい太郎が単体で、あるいは、しっぺい太郎と僧が協力して、魔物たちを退治する……概ねそういう内容ですね」
「この地域独自の特徴はありますか」
「ありますよ。古い聞き取り記録では、魔物が住んでいたとされる山の場所がかなり具体的に指定されていました。ここから女性の足でも三十分程のところです。山道も整えられていますから、子供たちの遠足でも利用されていますが、昔の人は伝説として語りながら、『あの山には近づくな』と現実の戒めとして扱っていました」
私は、東野さんからその具体的な場所を聞き取り、素早くメモに取った。
「では二つ目です。東野さんご自身は、この伝説をどのように考えていますか」
東野さんは少し考えてから答えた。
「私は、伝説の核になった出来事は実際にあったのではないかと思っています」
「実際の出来事……ですか?」
私は、意外そうな声を出してしまった。
「もちろん猿の魔物がいたという意味ではありませんよ」
東野さんは苦笑した。
「昔の山村では、山は生活の場であると同時に危険な場所でもありました。山賊は出るし、遭難もあれば、獣害もありました。時には犯罪だって行われていたはずです。そうした恐怖が『猿神』という形で語られるようになった可能性はあると思っています」
「なるほど」
「それと、人身御供の部分ですね」
東野さんは席から立つと、本棚に近づき、そこから一冊の資料を取り出した。
「日本全国を見ると、生贄伝説そのものは珍しくありません。実際に生贄が行われた証拠は少ないのですが、共同体が危機を説明するための物語として繰り返し生まれています」
「災害や疫病の説明ですね」
「そうです。そして、しっぺい太郎という存在は外部から来る救済者なんですよ」
「外部から来る救済者ですか……」
「閉鎖的な共同体が抱える問題を、外から来た何者かが解決する。実は世界中の民話で見られる構造なんです。ただ、私は、この点について、少し違う見方をしています」
東野さんはそう言って湯呑みに手を伸ばした。
「閉鎖的な共同体というのは、良くも悪くも均衡状態にあるんです。長く続いてきた価値観や慣習、人間関係によって安定している反面、その内部だけでは問題を解決できなくなることがあります」
私は頷いた。民俗学でもよく語られる話であり、私が住む京都では、京都市内のような都心部でさえ、同様のことが起きている。
「そこで現れるのが、しっぺい太郎のような外部の存在です」
「均衡を崩す役割を持つ存在……」
「ええ、そうです。少し変わった言い方になるかもしれませんが、それは膠着した状態に変化をもたらし、エントロピーの増大を図る存在と言えるかもしれません」
私は思わず笑った。
「文化人類学者の説明とは思えませんね」
「よく言われます。実はこれ、私の知人の受け売りなんですよ。曰く『ヒーローの定義』とのことです」
東野さんも笑う。
「もっとも、ここから先は私の持論ですよ」
そう前置きしてから続けた。
「私は、人は人を助けることはできないと思っているんです」
意外な言葉だった。
「助けることは、できない?」
「ええ。本当の意味で自分を救えるのは、いつだって本人だけです。他人が代わりに人生を生きることはできませんから」
私は黙って耳を傾けた。
「ただ、人は時として、自分を助ける方法そのものが分からなくなる。どう行動すればいいのか分からない。何を信じればいいのか分からない。そういう状態になると、不安や絶望に飲み込まれてしまう」
「それは共同体にも当てはまる、と」
「そうです」
東野さんは頷いた。
「私は、民話に登場する英雄や救済者という存在は、その状況を打破するための象徴だと思っているんです」
「象徴、ですか」
「ええ。彼らは人々を直接救うのではない。むしろ、人々に新しい視点や選択肢を示すんです。行動のきっかけを与えると言ってもいい」
私はメモを取り続けた。
東野さんは更に続ける。
「だから私にとってヒーローとは、誰かを救う超人ではありません。不幸な状況に陥っている人々に対して、情熱や希望、あるいは具体的な解決策を示し、行動を促す者です」
「パッションとソリューションを与える存在ということですか?」
「そう。結果として人を救うことはあるでしょう。でも実際に立ち上がるのは本人なんです」
東野さんは微笑んだ。
「しっぺい太郎も同じですよ。犬そのものが村人全員を救ったわけではありません。旅の僧が動き、村人が決断し、皆で状況を変えた。その象徴として、しっぺい太郎という存在が語り継がれているのではないでしょうか」
私はしばらく言葉を失った。
それは民俗学というより、人間そのものについての話のように思えたからだ。その視点はなかった。私は思わず感心した。
東野さんは、独自の価値観と大胆な発想を併せ持つ稀有な研究者のようだった。
そういえば、富樫教授は以前、彼女のことを「自分より優れた研究者だ」と断言していた。
私はその言葉を半ば謙遜だと思っていた。いくら優秀であっても、一介の郷土文化の研究家が大学教授を上回るなど、そうそうあることではない。
だが、実際に話を聞いてみると、その評価もあながち誇張ではないように思えた。
豊富な知識や調査経験はもちろんだが、それ以上に、物事の本質を捉えようとする視点が鋭い。
長年現場を歩き続けてきた人間だからこそ辿り着ける境地なのかもしれない。
それであればこそ、次の質問を投げかける価値がある。
「三つ目です。昨今、日本各地で報告されている怪奇現象について、文化人類学者としてはどのようにお考えですか」
東野さんは少しだけ表情を引き締めた。
「増えているのは事実でしょうね」
「やはりそう思われますか」
「ええ。ただし、怪異そのものが増えているのか、人々が怪異として認識する事例が増えているのかは分けて考える必要があります」
「と、仰いますと?」
「現代は情報伝達が速いですから。昔なら村の噂で終わった話が、今では数時間で全国へ広がる。そうなると、人は既存の伝説や都市伝説の枠組みで現象を理解しようとするんです」
「認知の問題ということですね」
「そうですね。ただ……」
東野さんは少しだけ言葉を切った。
「説明しにくい事例があることも、事実です」
「説明しにくい事例?」
「聞き取り調査をしていると、どう考えても作り話とは思えない証言に出会うことがあるのです」
「それは……一体?」
私は固唾を呑んで尋ねた。
「ですが、その先は私の専門ではありません」
東野さんは穏やかに笑った。
「文化人類学者は、怪異が実在するかどうかを研究するものではないと思っています。私たちが見るのは、人々が怪異をどう語り、どう信じ、どう受け止めているかです」
東野さんは湯呑みを手に取った。
「例えば河童が実在するかどうかは、本来あまり重要ではありません。なぜ河童という話が生まれたのか。その話が地域の人々にどんな影響を与えたのか。そちらの方が文化人類学の関心事なんです。文化人類学は、人間社会の複雑さを理解しようとする学問ですからね。信仰や伝承、儀礼や風習を通して、人々が何を考え、どう生きてきたのかを見ていく必要があるわけです」
そう言って東野さんは微笑んだ。
「ですから、怪異が実在するかどうかについては、私はあまり積極的に語りたくありません」
「説明のつかない事例があったとしても、ですか?」
「ええ。説明できないから怪異だ、と決めつけるのも乱暴ですし、逆に全部作り話だと切り捨てるのも乱暴でしょう」
東野さんは肩をすくめた。
「その手の研究は、神秘家や超常現象研究家に任せるべきだと思っています」
そして少しだけ真面目な表情になる。
「ただ、人々が怪異を信じ、恐れ、何百年も語り継いできた。その事実自体には大きな意味があります」
「文化人類学者としては、そこを研究する、と」
「そういうことです。怪異そのものよりも、怪異を語る人間の方が、私にはずっと興味深いんですよ」
私は少し残念に思いながらも頷いた。
確かに、東野さんの言うとおりだった。
気を取り直して、私は最後の質問へ移った。
「では四つ目です。すみません、これは三つ目の取材項目と一部被っているところもあります」
東野さんは私の表情を見て、小さく笑った。
「しかし、それが貴女の本命の質問なのですね?」
「分かりますか?」
「富樫先生から聞いていますから」
私は咳払いした。
「私の仮説なんですが……有名な伝説ほど、現代の怪奇現象として現実化しやすい傾向があるように思うんです」
東野さんは黙って続きを促した。
「もしそうだとすれば、全国的に有名なしっぺい太郎伝説も、何らかの形で現実化する可能性があるのではないかと」
数秒の沈黙が流れた。
東野さんは微笑んだまま答える。
「白石さんらしい仮説ですね」
「恐縮です……やはり、否定されますか?」
「ええ」
即答だった。私の表情は少し強張ったかもしれない。ただ、東野さんは、もったい付けたように言葉を繋げた。
「……少なくとも現時点では……」
「……理由を伺ってもよろしいですか?」
「有名だから怪異になるという因果関係を証明する手段がないからです」
私は黙って聞いた。
「しっぺい太郎は全国的に知られたお話ではありますが、桃太郎や浦島太郎は、それ以上に有名なお話しでしょう? けれど、鬼ヶ島や竜宮城は出現していません」
「確かに」
「有名であることと、現実に何かが起きることは別問題です」
東野さんはそこで言葉を区切った。
「ただし……」
「ただし?」
「伝説には、人が長い時間をかけて蓄積した恐怖や願望が閉じ込められています」
彼女は窓の外の山を見た。
「ですから、人々がその物語を信じ続ける限り、伝説が現代に影響を与えることはあるでしょうね」
「心理的な意味でということですか?」
「ええ。少なくとも私は、そう考えています」
その口調は穏やかだった。
しかし、何故か、その瞬間だけは質問を打ち切られたような気もした。
まるで、それ以上は話したくないことがあるかのように。
これはあくまで勘なのだが、もしかしたら、この人は、本当の怪奇現象に遭遇したことがあるのではないだろうか。
私の勘は昔からよく当たるのだ。神かがっていると言われたことは一度や二度じゃない。母の家系に神職がいたことが影響しているのかもしれない。
追究しようとも思ったが、これは無理だなとすぐに諦めた。
東野さんの顔は笑っているが、目は笑っていないのだ。とても、強い目だった。
軽いためいきをついて、私は録音機材を止めた。
「本日は本当にありがとうございました。とても参考になりました」
「お役に立てたなら良かったです」
しばらく雑談を交わした後、私は手帳を閉じた。
今日の取材は一旦終わりだが、私は長期戦を視野に入れている。東野さんと親睦を深め、彼女から徐々に情報を引き出すのだ。
そう思ったときだった。
「白石さん」
東野さんが、不意に私を呼び止めた。
「はい?」
先ほどまでの柔らかな笑顔は変わらないが、その目に漂う光は針のように鋭かった。
「一つだけ、お節介を言ってもいいですか」
「ええ、もちろんです」
東野さんは小さく息を吐いた。
「あなたは、怪奇現象そのものに興味があるのでしょう?」
私は思わず苦笑した。
「分かりますか?」
「分かりますね。伝承を調べたい人の目と、伝承の向こう側を見たい人の目は、少し違いますから」
東野さんは少し考えるように視線を落とした後、静かに言った。
「私は、怪異の実在を積極的に信じているわけではありません。けれど、文化人類学の調査を長く続けていると、不思議な縁というものを感じることがあります」
東野さんは机の引き出しを開け、一枚のチラシを取り出し、それを私の前へ差し出した。
私はチラシを受け取り、まじまじと見つめた。
そこには、ゴリラのように屈強な体格の老僧と握手を交わす、金髪碧眼の小柄な青年の姿が写っていた。
青年は、今どき博物館でしか見かけないような回転ダイヤル式の赤い電話機を手に持ち、受話器を耳へ当てる仕草をしている。
率直に言って、どうかと思う広告センスだった。
さらに問題なのは、その余白に記載されたキャッチコピーである。
『天然宗の強利羅大僧正もそこそこ称賛! お化けが出たとき、問題児に頭を悩ませたとき、紛争に巻き込まれたとき、ビジネスを始めたいとき、邪神に世界を滅ぼされそうになったとき、お気軽に弊社までお電話ください。S&K・ソリューション・サービシズ』
私はしばらく黙ったままチラシを見つめた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「何ですか、これ?」
思わず、突き放すような口調になってしまった。
私が中学生の頃に参加した学園祭の広報チラシの方が、まだ洗練されていたと思う。
少なくとも、邪神による世界滅亡への対処を宣伝文句に使うことはなかったはずだ。
「もし、あなたがどうしても怪奇現象について深く知りたいと思うのであれば、そして、ある程度の危険に身を晒す覚悟があるのなら、この人を訪ねてみるといいかもしれません。チラシに住所は書かれていませんが、あなたが必要だと思えば、きっと住所が浮かんでくるはずです」
「浮かんでくるとは、どういうことですか?」
「言ったとおりの意味です。そのチラシは、そういう風に出来ているそうです。持ち主の求めに応じて、内容が変わるそうです。私は専門外で分かりませんが、そのような特殊な塗料と印刷技術が使われているとのことです。精神感応技術の応用とか転用とか……」
何だか眉唾な代物だが、東野さんから渡されたものなので、受け取っておこうと思う。
「それで、この会社は?」
「私の知人が経営している会社です。代表者は、僧で、教師で、傭兵で、ビジネスマンで、騎士とのことですが、私も詳しくは分かりません」
東野さんはそれ以上詳しく語ろうとしなかった。
私はチラシを裏返したり表返したりしながら首を傾げる。
「この会社の代表者なら、怪奇現象について何か知っているんですか?」
「さあ、どうでしょう……」
東野さんは肩をすくめた。
「少なくとも私よりは詳しいでしょうね」
曖昧な答えだったが、その言葉には妙な確信があった。
更に東野さんは続けた。
「あるいは、奈良へ行くという手もあります」
「奈良ですか?」
「ええ。奈良に総本山を置くとある仏教宗派があります。そのチラシにも書いてある『天然宗』がそれです」
私は思わず身を乗り出した。正体不明な会社の代表者よりも、仏教宗派の方が、その話に信憑性がある。
「有名なお寺ですか?」
「一般にはあまり知られていませんね。ただ、歴史はとても古く、鎌倉新仏教と同じぐらいとも言われています。平安時代のような神秘の気配が色濃くあった時代から怪異や伝承との関わりが深いと言われています。もちろん表向きは普通の宗教団体ですよ」
その言い方は、まるで何か含みがあるようにも聞こえた。
「もっとも……」
東野さんはそこで言葉を切った。
「私はあなたに、そうした場所へ行くことを勧めているわけではありません」
「……何故ですか?」
「好奇心というのは大切です。でも、世の中には知らないままの方が幸せなことも、たくさんあります」
穏やかな口調だったが、その言葉には妙な重みがあった。
私が何かを言おうとすると、東野さんは笑みを浮かべた。
「まあ、これは年寄りの戯言だと思ってください」
私は曖昧に笑い返した。
そして、改めて確信する。この人は、やはり何かを知っている。
怪奇現象そのものか、それに近い何かなのかは分からないが、長年の調査の中で、私の知らない世界を垣間見たことがあるのだろう。だからこそ、それ以上は語ろうとしない。
私はチラシへ視線を落とした。胡散臭いにも程がある。
だが、東野佳奈ほどの人物が、何の意味もなく私に渡したとは思えなかった。私はチラシを折って、鞄の奥底にしまい込んだ。




