二 郷土文化の研究家
集落は、私が想像していた以上にのどかで平和な場所だった。
舗装された道路はあるものの、車の往来はほとんどない。
耕運機がドコドコドコと、固いタイヤをアスファルトにこすりつけて、決して比喩ではなく牛歩の速度で進んでいく。
道沿いには手入れの行き届いた畑が広がり、各家の庭先には色とりどりの花が咲いている。軒先で洗濯物を干している老人や、畑仕事に精を出す住民の姿も見えた。
少子高齢化が進む典型的な山村ではあるのだろうが、どこか活気がある。
過疎化した集落特有の寂れた雰囲気はあまり感じられなかった。それは、活発な子供たちの存在が、理由の一つであったと思う。
畑の脇を通りかかったとき、中学年の小学生くらいの男の子と女の子たちが、歓声を上げながら駆け回っている姿が目に入った。
あぜ道を全力で走っている子供たちがいる。用水路を飛び越えようとして友達に止められている子供たちがいる。
虫取り網を振り回しながら何かを追いかけている子供たちもいた。
都会ではなかなか見られない光景だった。
子供たちの笑い声は遠くまで響き、周囲で農作業をしている大人たちも、それを当たり前の風景として見守っている。
私は思わず苦笑した。
私自身は京都市内で育った人間であるため、あの子たちのように田畑や野原を駆け回った記憶はない。そのため、大自然の中を全力で走り回る子供たちを見ると、どこか牧歌的な別世界に迷い込んだような気分になる。
怪奇現象の調査で訪れたはずなのに、目の前にある集落の風景は、平和そのものだった。私は集落の様子をゆったりと観察しながら、教授から紹介された人物の自宅へ向かった。
今回の調査では、まず郷土文化の研究家から話を聞く予定になっていた。
集落の中心部から十分ほど歩いた頃、私は目的地へとたどり着いた。
東野佳奈さんの家は、集落の端に建っていた。家の周囲には畑や雑木林が広がり、その向こうにはなだらかな山並みが見える。家の前には広い庭があり、季節の花々や植木が丁寧に手入れされていた。
庭先では、一匹の柴犬が気持ちよさそうに寝そべっている。口元や眉の毛は白くなり、年老いていることが一目で分かった。
それでも、私に気付くとゆっくりと立ち上がり、尻尾を小さく振って穏やかに迎えてくれた。犬小屋のネームプレートには、「タロウ」と書いてあった。
東野家は、築四十年以上は経っていると思われる木造の日本家屋である。
瓦屋根を載せた平屋建ての母屋は堂々としており、長年の風雪に耐えてきた年月を感じさせる一方で、不思議なほど傷みが少ない。
柱や外壁は定期的に補修されているらしく、古びてはいるものの荒れた印象はなかった。
「失礼しま~す」
細い声で挨拶の言葉を述べながら、私は、東野家の庭に足を踏み入れた。
大きな縁側が南向きに伸びており、障子越しに見える室内には続き間らしき和室も見えた。
民俗学のフィールドワークで各地の農村を訪れることはしばしばあるが、家そのものから地域の特徴や状況が見えてくることがある。
ここへ来る途中、既に何軒かの空き家を見かけていた。庭木が伸び放題になった家もあれば、雨戸が閉じられたままの家もあった。いずれも人の気配が消えて久しいと思われる家だ。
地方の山村では、決して珍しくない光景だ。
少子高齢化と人口流出。この集落もまた、その問題と無縁ではないのだろう。
しかし、東野さんの家に限って言えば、少なくとも、私の目に映る範囲では、そうした陰りは感じられなかった。
庭は綺麗に掃き清められており、家庭菜園には瑞々しい野菜が育っていた。軒先にはサッカーボール、野球グローブ、野球ボール、バッド、そして縄跳びが置かれ、物干し竿には多くの洗濯物が風に揺れていた。
多くの人間がこの家で暮らしている。家族が集まり、賑やかで温かな日常が営まれているのだ。
私は家の玄関前で足を止め、表札を確認した。
そこには、『東野』の二文字が掲げられていた。どうやら間違いないらしい。
私は軽く身なりを整えた後、インターホンを鳴らした。
「はい、どちら様でしょうか?」
応答はすぐにあった。女性の声だ。とても落ち着いた声だった。
「こんにちは。本日、お約束させて頂いております取材の件で参りました」
「取材の件ですか?」
「はい。私は、洛央大学大学院の白石綾乃と申します。富樫教授からご紹介頂きまして、この地域に伝わるしっぺい太郎伝説に関する聞き取り調査でお伺いしました」
一瞬の間を置いて、相手の声が少し明るくなった。
「ああ、白石さんですね。失礼しました。富樫教授からお話は伺っています」
どうやら無事に話は通じたらしい。私は胸を撫で下ろした。
「助かります。もしよろしければ、東野佳奈様にお取次ぎ頂けますでしょうか?」
すると、インターホンの向こうから小さな笑い声が聞こえた。
「あら、その東野佳奈は私ですよ」
「えっ!? 失礼しました。てっきりご息女だとばかり……」
思わず間の抜けた声が出てしまった。
富樫教授の同級生だと聞いていたので、教授と同じ六十代後半の人物だと想像していたのだ。
東野佳奈さんの声は、予想よりずっと若々しかったので、本当に驚いた。
「よく間違われるんですよ」
東野さんは嬉しそうに続けた。
「少し待っていてください。今、玄関に行きますね」
ほどなくして玄関の木製引き戸が開いた。
そこに立っていた女性を見て、私は思わず目を瞬かせた。実際に目の前に現れた東野さんは、私の想像よりもずっと若々しかったのだ。
白髪はほとんど見当たらず、肩口で揃えられた髪には艶がある。背筋も真っすぐ伸びており、立ち姿には不思議な張りがあった。
年齢を知らずに街中ですれ違ったなら、五十代前半と言われても疑わないかもしれない。
顔立ちは派手ではないが整っており、柔らかな笑みを浮かべるとどこか親しみやすい印象を受ける。
もっとも、私が最も強い関心を持ったのは、彼女の容姿そのものではなかった。
その目である。
穏やかに笑っているのに、目の奥には鋭い知性が宿っていた。長年にわたり資料を読み、人の話を聞き、土地を歩いてきた研究者特有の眼差し。相手の話を聞き漏らすまいとする観察者の目だった。
私はその瞬間、この人が単なる郷土文化の研究家ではないことを改めて理解した。
教授が何十年も交流を続けている理由も、少し分かった気がする。
東野さんは、優しく微笑み、「遠いところをお疲れ様でした」と声をかけてくれた。その口調は近所の人を迎えるように気さくだったが、私は内心で少し緊張していた。
この人は、私がこれから調べようとしている土地を三十年以上見続けてきた人物なのだ。そして、おそらく私などより遥かに多くのことを知っているのだ。
私は慌てて頭を下げた。
「本日はお時間を頂き、ありがとうございます。白石綾乃と申します」
「こちらこそ。東野佳奈です。富樫先生からお話は伺っています。こんな山奥まで大変だったでしょう」
「いえ。むしろ思っていた以上に良いところで驚いています」
「あら、それなら良かったです」
東野さんは柔らかく微笑んだ。
そのときだった。
家の奥から、「おばあちゃーん!」という元気な声が聞こえてきたかと思うと、小さな影が廊下の向こうから勢いよく飛び出してきた。
「遊びに行ってくるね!」
女の子は私の脇を風のように駆け抜け、そのまま玄関へ向かう。
「あっ、こらっ! 靴をちゃんと履きなさい!」
東野さんが声を上げる。
「大丈夫だよぉ!」
女の子は元気よく答えると、今度は庭先の柴犬を指差した。
「ねえ、おばあちゃん! タロウも連れて行っていい?」
柴犬は日陰で気持ちよさそうに寝そべっていた。
「だめですよ。タロウはもうおじいちゃんなんだから。あんまり歩かせちゃ、かわいそうでしょう」
「ちょっとだけ!」
「その『ちょっとだけ』が長いんです」
東野さんが苦笑する。
女の子は不満そうに口を尖らせたが、やがて諦めたらしい。
「じゃあ行ってきまーす!」
そう言い残し、庭を駆け抜けていった。
私は思わず苦笑した。
「元気ですね」
「本当にねえ」
東野さんも苦笑する。
「娘夫婦が岡山から遊びに来ているんです。あの子は孫で、今年九歳になります」
「そうだったんですね」
「週末や長い休みになると、こうして遊びに来るんですよ。静かな家が急に賑やかになります」
東野さんはそう言ったが、その表情はどこか嬉しそうだった。
先ほど庭先で見たサッカーボールや縄跳びも、あの子のものなのだろう。
この家に漂っていた生活の気配の理由が、ようやく分かった気がした。
「まあ、あの調子ですから家の中でじっとしていることはほとんどありませんけどね」
「元気なのは良いことですよ」
「そうですね。怪我だけしなければ」
東野さんはそう言って笑うと、「立ち話もなんですし、どうぞ中へ」と、私を家の中へ招き入れてくれた。
「お邪魔します」
私は靴を脱ぎ、東野さんの後について廊下を進んだ。
古い日本家屋らしく、家の中は広い。磨き込まれた木の床は艶を帯びており、柱や梁には長い年月を経た家ならではの風格があった。
途中、開け放たれた襖の向こうに広い和室が見える。奥の方からは女性たちの話し声や、テレビの音が微かに聞こえてきた。
おそらく娘さん一家だろう。
家全体が穏やかな生活の気配に包まれていた。
やがて東野さんは廊下の突き当たりにある一室の前で足を止めた。
「ここです」
襖を開けて入ると、そこは研究室と応接室を兼ねたような部屋だった。壁際には天井近くまで届く本棚が並び、その中には郷土史、民俗学、宗教学、考古学に関する書籍がぎっしりと詰まっている。書棚に収まりきらなかった本は、床や棚の上にも積み上げられていた。
一方で、部屋の中央には来客用と思われるテーブルと椅子が置かれ、取材や打ち合わせができるよう整えられている。私は思わず周囲を見回した。
大学の研究室とは違うが、この部屋には長年積み重ねられてきた調査の歴史が確かに存在していた。
「散らかっていて申し訳ありません」
「いいえ、とても素晴らしいお部屋です。本当にそう思います」
それは社交辞令ではなかった。この部屋だけで、東野佳奈という人物がどれだけ真剣に研究と向き合ってきたのかが伝わってきたからだ。研究者の一人として、素直に敬意を抱かずにはいられない。
私は席に着く前に、鞄の中から菓子折りを取り出した。
「それと、こちらを受け取って頂けますか。つまらないものではありますが……」
「あら、そんなお気遣いを頂かなくても良かったのに」
東野さんは少し困ったように笑いながら、それを受け取ってくれた。
「いいえ。東野様から貴重なお時間を頂くわけですので」
「ありがとうございます。後で家族と一緒に頂きますね」
そう言って東野さんは菓子折りを脇の棚へ置くと、私に向かって穏やかに微笑んだ。
「どうぞ、お掛けになってください」
「ありがとうございます」
私は一礼して席に着いた。緊張で背筋が自然と伸びた。その時、襖が静かに開いた。
「失礼します」
三十代後半の女性が、お盆に載せた湯呑みを運んできた。
「あら、ありがとう」
東野さんが応じる。
女性は、私に軽く会釈した。
「娘の幸代です。今、岡山から帰ってきているんですよ」
「初めまして。白石と申します」
私はその場に立ち上がり、頭を下げた。
「幸代、これを持っていって。白石さんが持ってきてくださったの」
「ありがとうございます。ああ、嬉しい、京都の銘菓ですね。家族みんなの好物です」
幸代さんは、菓子折りを抱えると、再び会釈して部屋を出ていった。
襖が閉まると、東野さんは微笑んだ。
「さてと。それでは、そろそろ始めましょうか」
「はい、お願いします」
私は再び着席し、鞄からノートパソコンと録音機材を取り出し、テーブルの上に並べる。
こうして私は、しっぺい太郎伝説についての聞き取り調査を開始した。




