一 白石綾乃の冒険
私の名前は白石綾乃。
洛央大学大学院人間文化研究科博士課程に在籍する二十六歳の大学院生だ。
専攻は文化人類学。研究テーマは日本各地に伝わる怪異伝承と民間信仰である。
文化人類学と聞くと、海外の少数民族のもとへ赴き、何年も現地調査を行う学問を想像する人もいるだろう。
しかし、私の研究対象は日本国内にある。
山村や離島、あるいは都市の片隅にひっそりと残る伝承や信仰を調べ、人々がそれをどのように語り継いできたのかを記録する。それが私の研究テーマだった。
もっとも、私自身は『昔話』そのものに興味があるわけではない。
私が知りたいのは、その背後にある真実だ。
河童はなぜ全国に存在するのか。天狗はなぜ似た特徴で語られるのか。
そして、近年日本各地で報告が相次いでいる不可解な怪奇現象は、なぜ昔話や伝承と奇妙な一致を見せるのか。
近年、日本では怪奇現象の発生件数が明らかに増加していた。
山中での不可解な失踪。説明不能な怪奇の目撃事例。原因不明の集団錯乱。獣害とも人災とも説明できない事件。
興味深いことに、それらは無作為に発生しているわけではなかった。島根、三重、京都、奈良、和歌山といった、古代から神話や伝承が色濃く残る土地では発生率が高い。
また、東京のように数多くの都市伝説が蓄積された大都市でも、同様の傾向が確認されていた。
伝説の多い土地ほど怪異が現れやすい。それは統計上、無視できないほど明確な傾向だった。
もちろん、公的機関はそんな事実を認めていない。
だが、研究者の間では、半ば公然の秘密となっている噂があった。
警察内部には、通常の捜査では対応できない事案を扱う専門部署が、すでに存在するらしい。
真偽は不明だが、もしそれが事実なら、怪奇現象はもはや民俗学の研究対象に留まらない。現代社会が直面している、現実の問題ということになる。
もちろん、学会でこんなことを口にすれば眉をひそめられるだろう。研究者は証拠によって語るべきであり、憶測によって語るべきではないからだ。
けれど、私は思うのだ。
もし、伝承が単なる空想ではなく、過去に人々が実際に遭遇した何かの記録だったとしたら。
もし、現代の怪奇現象と昔話が同じ根を持っているとしたら。
それは文化人類学のみならず、人類史そのものを書き換える発見になるのではないか、と。
だから私は、今日もフィールドワークへ向かう。
今回の調査地は、静岡県西部の山間部にある小さな集落だった。
全国的にはほとんど知られていない場所ではあるが、この地域にはしっぺい太郎伝説が色濃く残っている。
土地の神へ娘を捧げる人身御供の風習。
猿の魔物。
遠国からやって来た犬による退治譚。
民俗学の世界ではよく知られた話である。
しかし、私が興味を抱いたのは伝説そのものではない。
何故、この地域だけが異様なほど詳細に伝承を保持しているのか。何百年も前の出来事とされる物語が、今なお人々の生活の中に息づいている理由は何か。それらの理由を知りたかった。
師事する教授から示された古い記録によると、この集落の住人たちは昭和後期まで「山へ入ってはならない日」が存在すると信じていたらしい。
近年になっても、山中では獣とも人ともつかない奇妙な目撃談が散発的に報告されている。
そして、その件数は全国的な怪奇現象の増加と歩調を合わせるように増え続けていた。これも偶然なのだろうか。あるいは、何か別の理由があるのだろうか。
もし、この集落に残る伝説が、現代の怪奇現象へ繋がる糸口だとしたら、私は、その真相を誰よりも先に突き止めたいと思っている。
今、白石綾乃の冒険が始まるのだ。
新幹線を降り、さらに在来線と路線バスを乗り継いだ私は、集落へ続く一本道の入口に立った。
五月の陽射しは穏やかで、山々は鮮やかな新緑に覆われ、空には雲一つなかった。
怪奇現象など一つも起こりそうにない、のどかな田舎の風景だった。
後に何度も思い返すことになるが、あの日の景色はひどく美しかった。
だから、このときの私は、まったく気づいていなかった。
この集落での調査が、私の人生を決定づけることになるなどとは。




