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十三 強欲と誤算

 私は一人、山道を歩いていた。


 日はすでに西の山へ沈みかけていた。

 それでも、不思議と怖くはなかった。


 ポチが放ったあの威嚇の影響なのだろう。

 山には獣の気配がほとんど残っていなかった。

 遠くには集落の明かりも見えている。

 暗い山道ではあるが、迷うこともなさそうだった。


 本当に命懸けの調査だった。


 だが、その成果は計り知れない。


 妖怪は実在した。

 また、怪奇現象も実在した。


 そして、それらを遥かに超越する存在さえいた。


 ポチだ。


 あの犬の存在を知ることができただけでも、この旅には十分すぎる価値があった。


 そう思った瞬間だった。


 「……けほっ」


 小さく咳が出た。

 胸の奥が少し痛む。

 昨夜から今日にかけての出来事は、さすがに身体へ負担を掛け過ぎたのだろう。

 私は苦笑した。


 ふと、東野さんから借りた車のことを思い出した。


 「そういえば、車を光前寺に置きっぱなしだ」


 後で取りに行かなければならない……いや、それくらいは東野さんたちにお願いしてもいいだろう。

 こちらは命を懸けたのだ。

 それくらいの我が儘は許されるはずだ。


 一人で納得すると、私は再び歩き出した。


 やがて川のせせらぎが聞こえてきた。


 ちょうどいい。

 ありがたいと思った。


 私は川辺へ下りた。


 化粧は落ち、体中は泥まみれ。

 それに、恐怖で失禁したズボンと下着を、このまま履いて集落へ戻る気にはなれなかった。


 人目が無いことを確認して、私は思い切ってズボンを脱ぎ、下着姿のまま川へ入った。


 冷たい清流が火照った身体を包む。


 「気持ちいい……」


 思わず声が漏れた。


 川の水で顔を念入りに洗う。

 そう言えば、ポチの唾液が付いたままだったからだ。


 唾液を洗い流せば五感も元に戻るかと思ったが、鋭敏な感覚は変わらなかった。


 風の流れ。

 川底の石を転がる水音。

 数百メートル先で木の葉が揺れる音。

 全てが昨日までとは別世界に感じた。


 ポチの唾液は、一時的な効果ではなかったのかもしれない。

 もし永続的な効果があるのならば……私は思わず笑みを浮かべた。

 この鋭敏な五感は、フィールドワークでは最高の武器になる。

 思わぬ収穫だった。


 ふと気配を感じ、顔を上げた。


 川上で、二頭の子熊を連れたツキノワグマがこちらを見ていた。


 昨日までの私なら悲鳴を上げていただろうが、今は違う。


 黒狒々、白狒々、そしてポチ。

 それらを知った今では、熊など愛らしい野生動物にしか思えなかった。


 「こんにちは。少しだけ川を使わせてね」


 親熊は静かに私を見つめると、子熊を連れて森へ帰っていった。


 私は強くなった。


 少なくとも心は、以前とは比べものにならないほど強くなった。


 明日から、忙しくなるぞ。


 今回の出来事は必ず論文にする。

 荒唐無稽と言われようが構わない。


 妖怪の存在と怪異の実在の全てを書き残す予定だが、ポチだけは書かないでおこうと思う。

 約束したからということもあるが、書けば後が怖い。


 しかし、今回得た情報を慎重に扱えば、その価値は計り知れないだろう。


 世界中の研究者が私の名を知ることになる。

 文化人類学だけではない。

 学問の歴史どころか、世間一般の常識というヤツを根底から覆すことができるかもしれない。


 何より、今回は、それだけでは終わらない。

 私は、暴力の効能を知った。

 白狒々でさえ圧倒的な力の持ち主だったが、その軍勢を赤子のように蹂躙したポチは、さらにその遥か上にいた。


 しかも、あれほどの虐殺を見せながら、ポチにはまだ明らかな余力があった。

 息一つ乱さず、まるで退屈な作業でも終えたかのように戦いを終えていたのだ。


 神。


 そう呼んでも差し支えないほどの力だった。


 もしも、あの力を味方につけることができたなら、私は研究者などでは終わらない。


 京都市長、京都府知事、国会議員、総理大臣。


 何者にもなれる。


 いいや。

 あれほどの力があれば、この国さえ支配できるかもしれない。


 一国の支配を夢見て東方遠征へ乗り出したアレクサンドロス大王も、このような高揚に身を震わせたのだろうか。


 思わず胸が熱くなった。


 「けほっ……」


 また咳が出た。

 興奮し過ぎたたのだろうか。


 落ち着いて、落ち着くのよ、私。


 これからのことを考えようと思う。


 まずは、ポチと信頼関係を築かなければならない。

 アスドラのような相棒になれれば、最高だ。

 可能性がないわけではない。

 私は嫌われてはいないと思うからだ。


 超獣を従え、世界中を闊歩する自分の姿を想像すると、興奮と笑いが込み上げてくる。


 「けほっ……けほっ」


 三度目の咳だ。

 いけないな。

 きっと川の水で体か冷えてきたのだ。

 ズボンを洗ったらすぐに出ようと思う。


 洗濯をしながら、私はふと思い出した。


 アスドラから提示された遵守事項には「二度と会うな」という内容はなかった。


 つまり、再会は許されているのだ。


 問題は探し方だけだが、それは難しくないと思っている。


 手掛かりは、あの家族だ。


 「ごほっ!」


 今度は激しい咳が出た。

 いよいよ川の水の冷たさに、体が耐えられなくなっているようだ。


 洗濯を終え、体の汚れを拭いながら、川から出ようと歩く。


 岡山から来た家族の一人、長女と思しき少女は、東野さんの孫娘の友人である可能性が高い。

 そこから辿ればポチの居所を特定することが出来る。


 そして、その娘を懐柔できれば、ポチに取り入ることも可能だ。


 最悪、あの娘を人質にでもすれば、ポチを言いなりにすることだって出来るかもしれない。


 「がっ……!」


 突然、私の口の中へ熱いものが込み上げた。

 手を口に当てると、手の平にべったりと大量の血が付着していた。


 「……え?」


 え、ちょっと待って。

 理解できない……え、何これ?


 口と鼻から、次から次へと血が溢れていく。

 止まらない。

 嘘、嫌だ。


 視界が真っ赤に染まった。

 両目からも滝のように血が流れて出ているのだ。


 おかしい、こんなのおかしい。

 私の体に、とんでもないことが起きている。


 凄まじい嘔吐感に襲われ、私は川中で四つん這いになった。


 口から吐き出したのは、吐しゃ物ではなく、大量の血液と溶解した謎の肉塊だった。

 自分の臓腑ではないかという疑念が脳裏をかすめたが、正気でいられなくなるため、慌ててその考えを捨てた。


 喉が焼ける。

 肺が苦しい。

 身体が冷たい。

 吐き気は止まらないが、自分の中のものをこれ以上外に出したくなくて、私は、必死に口を閉ざした。


 一体、何が起きた!?


 何で!? 私が何をしたというのだ!?


 死ぬ……え、嘘、死ぬの!?


 嫌だ。

 絶対に嫌だ。

 認められない。

 そんなの、絶対に認められない。


 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。


 こんなところで!?

 たった一人で死ぬ!?


 ダメよ、ダメ! そんなのあっていいはずない!


 私は白石、白石綾乃よ! だって、これから……私は……!?


 死んでたまるものか!


 私は必死に川から上がろうとしたが、腕に力が入らない。


 身体が傾いた。

 私の顔の半分が、川へ沈んだ。


 吐き出した血が水へ溶けていく。

 代わりに大量の水が喉へ流れ込んできた。


 苦しいよ。

 痛いよ。

 冷たいよ。

 助けて、ママ、パパ……。


 強化された五感だけが、死という現象が近づいていることを、残酷なほど鮮明に教えてくれる。


 ああ、私は今、死のうとしている。


 死んでいく。

 意識が遠のいていく。

 死ぬ、死ぬ、ああ我慢……死ぬの我慢してよ、私。

 無理だ。

 死ぬの我慢できないよ……ああ、死んじゃう、死んじゃうよ。

 イヤだよぅ。

 空が暗い。

 川の音だけが聞こえる。


 脳裏に浮かんだのは、黒ぶちのある白い雑種犬だった。


 あの力は、私のものになるはずだったのに。


 あの犬を従えれば、私は世界を変えられた。


 世界で最も偉大な研究者にも、この国の支配者にさえなれた。


 未来の全てが、指先から零れ落ちていく。


 嫌だ……返して……私の未来を……返して……。


 暗闇が、視界と思考の全てを呑み込み、私は……死んだ。

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