エピローグ ポチは人を助けないし、人とは関わらない。
ポチは、光前寺へ向けて飛行していた。
先ほどまでの戦闘飛行とは異なり、速度は緩やかだ。
急ぐ必要がないからである。夕食までには十分間に合う。
今日は、ポチの好物である魚のアラ汁が用意されている。
そのためか、ポチの機嫌は僅かに良いように思われた。
鼻息の強さが平常時より約二・七パーセント低下しているのも、そのためではないかと思われる。
ふと、私のセンサーが一つの情報を捕捉した。
大した情報ではないが、念のためポチに共有しておくべきだろう。
【ポチ、一応報告しておく】
私は事務的に告げた。
【白石綾乃は、つい先ほど死亡した】
ポチからの返答はない。予想どおりだ。
【遵守事項第四項『ポチを利用しようと考えない』に違反したことを確認した。条件成就により、彼女の体内へ浸透していた君の唾液は妖毒へ変質した。これにより、肉、骨、内臓は全て血液へ溶解した。死亡地点は川の中だ。都合がいい。痕跡は川が流してくれる。衣服だけは残るだろうが、あの界隈にいる君の配下の妖怪か獣に回収を命じておく】
そこまで報告してから、私は少しだけ考えた。
【白石綾乃は、功名心をはじめとする欲望が強かったが、人格そのものは悪性ではなかった。知能は高く、胆力もある。人材として評価すれば、平均を大きく上回る個体だった。人間は驚くほど高い確率で君を利用しようとするため、妖毒の仕様を『利用を考えた時点で死亡する』へ変更したわけだが、これはやや厳格に過ぎるのかもしれない。今後は発動条件の緩和も検討に値するだろう。どう思う、ポチ?】
「フンッ」
返答はそれだけだった。
どうでもいいらしい。
これも予想どおりである。
ポチにとって、白石綾乃の生死など本当にどうでもいいのだろう。
もしかすると、あの女のことなど、既に忘れ去っている可能性すらある。
そもそも、今回の一件そのものに、ポチはさほど強い関心を持っていなかった。
白狒々を始末したのも、我々の計画上の必要からではなく、ポチが世話になっている家族の娘の友人に手を出そうとしたこと、そして何より、自分に牙を剥いたからに過ぎない。
不愉快だったので殺した。
恐らく、ポチの認識はその程度だ。
実のところ、私としては、白石綾乃などよりも白狒々の方が、はるかに損失として大きかった。
あの白狒々が食べた「光る石」。
あれは当然、自然物ではない。
私とポチが世界各地へ散布している特殊鉱物である。
石は、ある種の特殊な思考傾向を持つ生物だけが感知できる波動を放ち、その対象に「食べたい」という衝動を生じさせる。
石を摂取した生物は、妖怪の一歩手前に当たる段階まで強制的に進化させられる。
さらに、その状態で人間を一人殺した時点で、正式に妖怪化が完了する。
その際、体毛は全て白色化する。
これは安直ではあるが、通常の妖怪との識別を容易にするための仕様だ。
妖怪化した個体は、次の段階へ進む。
同じ石を食った他の妖怪に対し、強烈な敵意と捕食衝動を抱くようになるのだ。
互いに惹かれ合い、殺し合い、そして喰らい合う。
そうして百体の同類を殺した時、その個体は大妖怪へ到達する。
そこまで育てば、我々の計画に組み込む価値が生じる。
だから、本来ならば、あの白狒々もこちらにとって有益な駒になった可能性があった。
少なくとも、あれだけ短期間で戦力を増強した個体は、成長株として一定の評価に値する。
惜しいと言えば惜しい個体だった。
もっとも、今回は仕方がない。
白狒々は、運が悪かった。
よりにもよって、ポチを敵に回したのだ。
あれでは処分されて当然である。
それに、私個人の感想を述べるなら、猿のような霊長類が妖怪化した個体は、概して碌なものにならない。
知能が中途半端に高く、欲望ばかり肥大化する傾向がある。あの白狒々も、育てば育つほど扱いにくくなった可能性が高い。
そう考えれば、ここで処分しておいたのは、むしろ合理的だったとも言える。
結局のところ、今回の件は、私にとっては「惜しいが許容範囲の損失」であり、ポチにとっては「不愉快だったから始末した」というだけの話なのだろう。
その温度差を思うと、私は少しだけ可笑しくなった。
【まあ、そうだな。白石綾乃が死のうが、白狒々が死のうが、我々の計画に重大な支障が出るわけではない。大局に影響はない】
空を渡る風だけが鳴っていた。
やがて、光前寺の山門が見えてきた。
境内では、少女が口に手を当てながら辺りを見回している。
「おーい、ポチー!」
ポチを探しているのだろう。
もっとも、そのポチが自分の頭上を飛んでいるとは考えていないため、空を見上げようとはしない。それも無理はない。
ポチは境内を飛び越え、人目のない雑木林へ静かに降り立った。
そして、仮の姿である黒い巨犬という戦闘形態を解除し、元の姿へ戻っていく。
数秒後、そこにいたのは、どこにでもいる貧相な黒ぶち白毛の雑種犬だった。
ポチは何事もなかったかのように林を抜け、少女の前へ姿を現した。
「あっ、ポチ! 見つけた! もう、どこ行ってたんだよ!」
少女は満面の笑みで、ポチを抱き上げた。
ポチは迷惑そうに顔を背け、「フンッ」と、いつもの不機嫌そうな鼻息を漏らした。
少女は少しも気にしていない。
「今日はね、アラ汁があるんだよ! もちろん、ポチの分もあるよ!」
その一言だけで、ポチの耳が僅かに動いた。
ポチの機嫌指数が微増した。
私は感心した。
この少女は、本当によく奇跡を起こす。
宿へ向かう途中、父親と長男、それに母親と祖母が姿を現した。
みな衣服に蜘蛛の巣や枯れ葉を付けている。
四人も周辺を捜索していたのだろう。
「おっ、いたか、ポチ。どこ行ってたんだ。心配したんだぞ」
「どうせ腹が減って帰ってきたんだろ? 犬は呑気でいいよな……って、痛ぁっ!」
「お兄ちゃん、バカでぇ! ポチに噛まれてやんの!」
私はヒヤリとした。
ポチに噛まれて命がある存在は、地球上で、この長男を除けばたった一人だけだ。
ちなみに、あまりに多く噛まれたせいで、この長男はこの世のあらゆる毒に対する耐性を獲得しているのだが、生涯、その事実に気づくことはないだろう。
「それにしても、どこに行っとったんや? このあたりは隈のう探したはずなんじゃがな?」
「そりゃあお母ちゃん、あれよ。ポチはしっぺい太郎になって、悪いお化けをやっつけとったんだ」
母親の言葉に、私は息を呑んだ。
冗談で言ったつもりなのだろうが、恐ろしく勘の良い女性だ。
さすがのポチも、妙な顔をしていた。
「え、本当? ポチ、凄いな!」
少女は素直に喜び、ポチの頭をわしわしと強く撫で回した。
夕暮れの光が、その一家の背中を優しく照らしていた。
今日、日本の山奥では、一つの集落が滅亡を免れた。
白石からの報告がなくとも、白狒々が現れない以上、やがて集落の者たちも妖怪の脅威が去ったことを悟るだろう。
その一方で、一人の若き研究者が、誰にも知られることなく命を落とした事実を知る者はいない。
ポチは人を助けないし、人とは関わらない。
ポチ自身にその自覚があるかどうかは怪しいが、唯一の例外は、この家族だけだ。
ポチは今日も、この一家の飼い犬であり、どこにでもいる一匹の雑種犬である。
了




