十二 別れ
『闘い』は終わった。
あれほど山を震わせていた轟音も消え、辺りには夕暮れの静寂だけが戻っていた。
ポチは何事もなかったかのように大きく欠伸をすると、全身を覆っていた黒い装甲が音もなく霧散していく。
本当にいつも退屈そうな犬だと思う。
あれほどの激闘にも心が動かされていなければ、一体、どんなことが、この犬の気持ちを動かすのだろうか。
赤熱していた牙と爪は、元の白い牙へ戻り、長大な刃だった尾も、見慣れた貧相な尻尾へと縮んでいった。
数秒後、そこにいたのは、黒ぶちの雑種犬だった。
先ほどまで、狒々妖怪の軍勢を一方的に虐殺していた存在と同一とは、とても思えなかった。
ポチは私を一瞥すると、そのまま歩き出した。
私は、安全地帯と言われた岩の物陰から飛び出して無言でその後を追った。
体を覆っていた保護膜は、私が岩から離れた途端、弾けて消えた。
ポチの後につき、山道を十分ほど歩いた頃、集落の入口が見えてきた。ポチはそこで足を止めた。
【ここまでだ】
アスドラが告げた。
ポチはそのまま踵を返し、来た道を戻ろうとする。
「ま、待ってください!」
私は思わず呼び止めていた。
しかし、ポチは止まらない。
ただ耳だけが僅かに動いたのを見た。
「あなた方を、皆さんに紹介させてください!」
私は叫んだ。
「あなた方は、集落を救ってくれた英雄です! 集落の皆さんも、きっとお礼を言いたいはずです!」
【不要だ】
アスドラは即座に遮った。
【我々の存在を誰にも話すな】
「でも……!」
【くどい】
機械的な声に一切の感情はない。
私は沈黙してしまった。
【狒々どもは絶滅した。それだけを伝えればいい。証拠が欲しいなら、人間共をさっきの闘いの場に連れていけ。狒々共の死骸がまだ転がっている】
「でも、誰がやっつけたのかを話さなければなりません……」
【天然宗の坊主どもが退治したことにしておけ】
アスドラは淡々と言った。
「嘘じゃないですか!」
【そうだ。どうでもいいことだからな。適当に話を作っておけ。そのために、お前へ一部始終を見せた】
私は返す言葉を失った。
取り付く島もないとは正にこのことだ。
しかし、どうしても聞きたいことがある。
私は、必死の思いでそれを口にした。
「最後に、一つだけ……教えてください」
案の定、ポチは止まらない。だから、私は一方的に話した。
「どうして助けてくれたんですか?」
返事はない。
ポチはスタスタと進んでいく。
踏み込んでいいかどうか分からないが、私は勇気を振り絞った。
「……岡山から来ていた一家の長女……あの女の子が、東野さんのお孫さんと友達だったからですか?」
次の瞬間、私は自分の軽率な発言を心の底から後悔した。
山の空気が一変した。
鳥たちは一斉に飛び立ち、獣たちは狂乱したような叫び声を上げながら山中を駆け回った。
恐慌状態に陥った野生動物の中には、平地で足をもつれさせて転倒し、そのまま樹木へ頭を激しく打ち付けて昏倒するものまでいた。
息が止まり、全身の血が凍り付いた。
いつの間にか、ポチはこちらを向いていた。
何も言わない。
ただその場で俯いていた。
何の根拠も無かったが、私は唐突に理解した。
ポチが少しでも頭を上げ、その目を見たとき、私は死ぬ。
殺される。
この世に生まれたことを後悔するような思いをしながら、殺される。
ポチから放たれる気配は、殺気という言葉さえ生温かった。
白狒々など比較にもならない。
ただ存在するだけで、周囲のあらゆる生物に死を悟らせるほど濃密で、圧倒的な威圧だった。
私は口を閉ざした。
しばらくの沈黙の後、アスドラが口を開いた。
慎重に言葉を選んでいるようだった。
【分かっていると思うが、死にたくなければ、それ以上踏み込むな。今回は本当に特別だったんだ。勘違いするな。ポチは人を助けないし、人とは関わらない。だから、二度と我々を追うな】
「……はい……」
私は歯をガチガチ震わせながら答えた。
黒い輪が静かに明滅する。
【次の事項を厳守しろ。第一に、ポチの存在を誰にも話すな】
私は、頷いた。
【第二に、ポチを詮索するな。第三に、ポチと共にいた家族も詮索するな。そして、第四に、ポチを利用しようと考えるな】
アスドラの声が、僅かに低くなった。
【一つでも破れば、お前の命は保証されない。これは脅しでも警告でもない。単に事実を通知しているだけだ】
私は壊れたロボットのように頷くことしかできなかった。
理屈ではない。
従うしかないのだ。
ポチは俯いたまま、その場で振り返り、再び歩き出した。
その背中が少しずつ遠ざかっていく。
「待ってください!」
私は最後にもう一度だけ声を掛けた。
「これだけは言わせてください」
ポチは振り返らない。
アスドラも何も言わない。
「ポチさん、アスドラさん……本当に、ありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。
返事はなかった。
恐る恐る頭を上げると、そこにポチの姿はなかった。
音もなく夕闇へ溶けるように、ポチは消え去っていた。
いつも聞こえていた、あの不機嫌そうな鼻息は、私の強化された聴覚でも、もう聞き取ることはできなかった。




