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12/16

十 白狒々 対 ポチ

 ポチが着地した場所は、集落から数キロほど離れた山の中腹に開かれた広場だった。


 私は周囲を見回した。整備された登山道や木製のベンチが目に入る。


 もしかすると、ここは東野さんから話を聞いていた、昔は「決して近づくな」と言い伝えられ、今では子供たちの遠足にも利用されている、あの場所ではないだろうかと、うっすらと考えた。


 私はようやくポチの尾から解放され、転がるように地面へ降りた。


 足は震えて、吐き気が酷い。

 生身で空を飛んだことによる影響なのだろう。


 私は我慢できず、その場で胃の中のものを吐き戻してしまった。

 幸いというべきか、胃の中はほとんど空っぽだったらしく、地べたに撒き散らしたのは、胃液ばかりで済んだ。

 

 それにしても、ポチの飛行速度は異常だった。


 雲を突き抜けたと思った次の瞬間には、もう見慣れた山並みが眼下に広がっていたのだ。


 長野県の光前寺から東野さんたちの集落までは、車なら二時間半はかかる。


 直線距離でも百五十キロを優に超えるはずだ。


 その距離を、ポチはわずか三分ほどで飛び越えた。

 

 時速に換算すれば三千キロを超える。


 航空自衛隊の主力戦闘機すら上回りかねない、常軌を逸した速度だった。


 にもかかわらず、ポチは息一つ乱していない。


 まるで近所を一周してきただけの犬のような気軽さで、その場に立っていた。


 「東野さんたちのところへ行かないんですか?」


 私は息も絶え絶えに尋ねた。


 【行かない】


 アスドラは即答した。


 【目撃者は最低限でいい】


 ポチは黙って、周囲へ視線を巡らせていた。


 太陽は西の山並みへ沈みかけている。

 まだ夜ではないが、昼でもない。

 山々には濃い夕闇が落ち始め、空気には夜の気配が滲みつつあった。


 静かな山中だった。

 

 その静寂を破ったのは、ポチだった。


 ポチは空へ向かって首を上げ、大きく息を吸い込むと、遠吠えした。

 

 私は思わず両手で耳を塞いだ。

 

 ポチの遠吠えは、山々を震わせる咆哮だった。


 耳を塞いでもなお、声が頭に響く。

 耳朶を通すのではなく、骨に響いているのだ。

 私は耳を塞いだまま膝をついた。


 「な、何をしているんですか!?」


 【呼んだんだ。妖怪どもをな】


 アスドラが答えた。


 「呼んだ!? 呼んだですって!?」


 顔から血の気が引いたのを私はハッキリと感じた。

 私は叫んだ。


 「何でこちらから呼び寄せるような真似をするんですか!? 狒々たちは深夜に来るんですよ!?」


 【馬鹿か、お前は】


 アスドラが鼻で笑った。


 【最大限に力を発揮しやすいのが夜というだけで、妖怪は昼間でも活動できる。昨日、連中が深夜に来たからといって、今日も深夜に来る保証がどこにある? 妖怪と契約書でも交わしたのか?】


 明らかに馬鹿にされたが、もっともな指摘であったため、私は反論を我慢した。


 【奴らは深夜まで待たない。日が沈めばすぐにでも来るぞ。だが、こちらにも用があるので、日没を待ちたくない。急な仕事はさっさと片付けて帰りたい。だから、こちらから呼んだ……と、言うよりも、喧嘩を売った】


 一度、ポチが「フンッ」と鼻を鳴らした。


 【……なるほど】


 アスドラの声色が僅かに変わった。


 【敵は想定以上に力を増している。お前から聞いた情報を基に推定した戦力は、もはや当てにならない。雲泥の差だ】


 「え?」


 アスドラは淡々と続ける。


 【今なら集落一つどころではない。県を一つぐらい潰せる程度の戦力がある】


 私は凍り付いた。県……県を潰す。

 そんな言葉が自然に出てくること自体がおかしい。


 けれど、アスドラは冗談を言っているようには見えなかった。


 【やっと来たか】


 その一言で空気が変わった。


 私にも分かった。


 近付いてきている。

 目に見えるものではない。


 だが、確かに感じる。

 恐ろしい何かが迫ってくる。


 全身から体温が奪われ、筋肉が強張っていくような、言葉では言い表せない圧迫感‐昨夜も味わった感覚だ。


 おそらく、これが妖気による影響なのだろう。


 だが、昨夜とは比べものにならない。


 濃く、そして重い。


 息が苦しい。


 心臓を鷲掴みにされ、そのまま握り潰されそうだった。


 私は、自分に霊感があることを初めて呪った。


 見えない方がいいものがある。


 感じない方が幸せなものがある。


 そんな当たり前のことを、私は今になって初めて知った。


 【言っておくが、逃がさんぞ。お前の持ってきた案件だ。お前には一部始終を見届けてもらう必要がある】


 アスドラが言った。


 その直後、ポチは心底面倒臭そうに鼻を鳴らした。


 次の瞬間、何かが私の額に当たった。


 それは何と、ポチが吐き出した唾液だった。


 「きゃあっ!? ちょ、ちょっと! 何するんですか!?」

 

 私は悲鳴を上げながら顔を拭った。


 しかし、その直後、私が感得している世界が変わった。


 今まで何もないと思っていた空間に、無数の色と光が満ちている。


 山の木々からは淡い緑色の光が立ち昇り、大地の下では巨大な脈動が血管のように広がっている。


 遠くの集落からは、人々の感情が煙のように立ち上っていた。


 恐怖、怒り、絶望、祈り。

 それらが色を持った靄となって空へ溶けていく。


 「な、何ですか……これ……?」


 私は震える声で呟いた。


 更に異変は続いた。


 耳に入る音が増えていく。


 木の葉が擦れ合う音や地中を這う虫の足音、数キロ先を飛ぶ鳥の羽ばたきさえ聞こえる。

 

 そして、山の向こう側から近づいてくる、おぞましい何かの気配を明確に感じた。


 巨大な悪意。

 濃厚な妖気。

 それらが、はっきりと知覚できた。


 視界も変化していた。


 薄暗い夕暮れの山中が昼間のように鮮明に見える。


 木の幹の傷、草の葉に付着した露、一キロ先の遠方を飛ぶ虫の翅の模様さえ認識できた。


 私は自分の身体を抱きしめた。


 世界が広がり過ぎている。


 脳が処理しきれない。


 【感覚強化だ】


 アスドラが淡々と言った。


 【これから始まる戦闘は、人間の感覚では知覚できない。見届けさせるための措置だ】


 私は顔を引きつらせた。


 唾液一つが、何故そんな効能を持つのか。

 聞きたいことは山ほどあった。

 

 しかし、そんな問答が許される時間は無かった。

 

 ポチの足の黒い輪から、小さな赤い立方体が音もなく分離し、私の手の中へ落ちてきた。


 【それは保護ユニットだ】


 言われた瞬間、立方体は溶けるように形を崩し、赤く透き通る薄膜となって私の全身を包み込んだ。

 皮膚に張り付いているようにも、数センチ浮いているようにも見える。

 不思議な感触だった。


 【お前の全身を覆うその膜には、物理保護、認識疎外、生命維持機能を備えた観測用障壁だ。お前が戦闘に巻き込まれて死ぬことは、こちらとしても都合が悪い】


 アスドラは少し離れた岩陰を示した。


 【戦闘中は、あそこから一歩も動くな。障壁は君に追従するが、観測精度を維持するため、不要な移動は推奨しない】


 私は無言で頷き、急いで駆け出し、アスドラが示した岩陰に身を隠し、その場にしゃがみこんだ。


 広場の中央で、ポチが夕暮れの山を見据えたまま、「フンッ」と短く鼻を鳴らしていた。


 【来た】


 アスドラが呟いた瞬間だった。


 ぶわっと、突如、森が黒く染まった。


 黒狒々の群れが姿を現したのだ。


 いや、もはや群れではない。


 軍勢だった。


 何十体もの黒狒々が、音もなく木々の間から現れ、気が付けば広場を完全に包囲していた。


 私は息を呑んだ。

 信じられない移動速度だ。

 

 感覚を強化された今だからこそ分かる。


 三十秒前まで、こいつらは、一キロ以上離れた場所にいたはずだ。

 それが今では、私の目の前にいる。

 

 まるで風のように速く滑らかな移動だ。


 【ほう、五十体か。随分と増えたな】


 アスドラが淡々と言った言葉を聞いて、私の思考は恐怖で停止した。


 五十体!?


 昨夜、東野家に出現した黒狒々の数は十体だった。


 その数ですら我々には絶望的な恐怖の対象だった。


 それが、五十体!?


 もう駄目だ。

 普通の人間はもちろん、国の軍隊だって抗えない戦力だ。


 世界の終わりを宣告されたような絶望が、私の胸を強く、きつく締めあげた。


 だが、災厄はこれで終わりではなかった。


 私は知っている。

 この黒狒々たちを上回る脅威がいることを。


 そして遂に、真の怪物が姿を現した。


 森が割れた。


 木々が左右へ押し退けられ、その奥から巨大な白い影が姿を現す。


 白狒々だ。


 いいや、違う。

 昨夜、私が見た白狒々ではない。

 あまりにも巨大だった。


 体躯は三倍以上に膨れ上がり、全長は優に十メートルを超えている。


 昨日でさえ怪物だったというのに、それはもはや比較することすら馬鹿らしく思えるほど、

別次元の存在へと変貌していた。


 狒々としての面影も、ほとんど残っていない。


 背中には巨大な翼が生え、口元からは猪のような長い牙が突き出している。

 もはや猿の怪物ではない。

 ギリシャ神話に登場するキマイラを思わせる、異形の魔獣そのものだった。


 右手には、引き抜いたばかりの大木を棍棒のように担ぎ、左手には下半身を食いちぎられ、腸を垂らした鹿を握っていた。


 白狒々は、その鹿を、まるで菓子でも摘まむかのように持ち、口に運んでサクリと噛み裂く。

 肉が裂け、骨が砕けるたびに鮮血が飛び散る。


 私は息を呑んだ。


 昨夜、あれほど恐ろしいと思った白狒々は、まだ成長の途中だったのだ。


 もし、昨夜の時点で、この姿の白狒々に遭遇していたら、私たちは、誰一人として生き残れなかっただろう。


 「ケヒヒッ!」


 白狒々が笑う。


 その声だけで山が震えた。

 周囲の木々が大きく揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。


 「偉そうな遠吠えが聞こえたんで来てみりゃあ、妖気もろくに感じねぇ犬の妖怪じゃねぇかぁ!」


 白狒々が嗤う。


 「妖怪になったばかりみてぇだなぁ、ワン公」


 白狒々は威嚇するように片足を踏み下ろした。


 轟音。

 大地が爆発した。


 半径数十メートルにわたって地面が陥没し、土砂と岩石が空高く吹き上がる。


 「跪けぇ!」


 白狒々が吠えた。


 「おれは妖怪の王だぁ! 王を! 敬えぇ!!」


 身勝手な咆哮が音の衝撃波と化して、森を薙ぎ払う。

 大木が何本も根元からへし折れ、吹き飛ばされた。

 

 空気そのものが、海の大波のように激しく震えていた。


 稚拙な誇示行動であることは分かっていたが、それでも私は考えてしまった。


 跪きたい。

 跪くから、許して欲しい。

 自分だけでもいいから、助けて欲しい。

 

 本能が叫ぶ。

 この怪物に逆らってはいけない。


 しかし、恐怖のあまり、身体は動かなかった。

 指一本動かすことができない。


 降伏のための言動を取れなかった。

 肺が痛くて呼吸ができない。


 殺される。

 無残に喰い殺されてしまう。


 ああ、終わってしまう。

 私の世界は、ここで終わってしまうのだ。


 私が何とか命乞いをするために体を動かそうと藻掻いたとき、アスドラの無機質な乾いた声が私の耳に届いた。


 【話は終わったか? なら、さっさとかかって来い】


 白狒々が、ピタリと動きを止めた。


 【ポチが、夕飯に遅れてしまう】


 ポチは大欠伸をしてから、いつものように「フンッ」と鼻息を漏らした。


 【私の相棒は、面倒臭がりなんだ。一体ずつかかってくるのだけはやめてくれよ。全員、まとめてかかって来るんだ。その方が、早く終わるからな】


 白狒々の顔が、炎のような怒りで醜く歪んだ。


 「……殺す」


 低く唸るように呟いた次の瞬間だった。


 白狒々は担いでいた大木を、ポチ目掛けて振り下ろした。


 衝撃波が周囲の空気を叩き潰した。


 たった一撃で地面が抉れ、巨大なクレーターが生じる。


 だが、白狒々の怒りは収まらなかった。


 二度、三度、四度、五度……狂ったように大木を振り下ろし続ける。

 すぐに大木そのものは砕け散った。

 それでも止まらない。

 白狒々は、今度は両拳を固め、そのまま地面へ何度も叩きつけた。


 絶法的な破壊音が連続して響く。

 地面の窪みは際限なく深くなり、地盤には巨大な亀裂が走った。

 衝撃は周囲の山肌にまで伝わり、岩盤を砕きながら斜面を削り取っていく。


 信じ難い破壊力だった。

 私は悲鳴も出せず、凝視していた。


 映画でしか見たことはないが、まるで戦闘機による爆撃を間近で見ているかのような惨状だった。

 いや、それ以上かもしれない。


 一つの生命体が生み出した被害だとは、とても思えなかった。

 思いたくもなかった。


 「おれを、ナめるからだぁ。そんなヤツは、死ねやぁ!!」


 白狒々は荒々しい呼吸をしながら、ようやく腕の動きを止めた。

 舞い上がった土煙を払いながら、その場で何度も地団駄を踏んだ。


 私は、ポチは跡形もなく吹き飛んだのだと思った。

 肉片一つ残っていないだろう。

 きっと地面には、赤黒い染みだけが残っているに違いない。

 そう確信していた。


 山肌を削るほどの破壊力なのだ。

 肥大したとはいえ、あの雑種犬が耐えられるはずがない。


 しかし、土煙が晴れ始めた時、私は思わず目を見開いた。

 そこにいたのは、もはやポチとは呼べない存在だった。


 【変身完了】


 アスドラが淡々と告げる。


 土煙の中心に立っていたのは、漆黒の金属装甲に全身を覆われた巨大な狼だった。


 黒曜石のような装甲は、ただ黒いだけではない。

 深淵を覗き込んでいるかのような透明感と光沢を帯び、見る角度によって静かな虹色の輝きさえ宿していた。


 赤熱した牙と爪は、夕闇の中で熱と同時に妖しい赤光を放っている。


 長大な尾は巨大な黒刃へと変貌し、背部には長距離用と思しき巨大なガトリング砲が展開されていた。


 白狒々の猛攻を真正面から受けたはずなのに、その姿には傷一つない。


 まるで、あの凄まじい攻撃など最初から存在しなかったかのようだった。


 ポチは、ただ「フンッ」と、いつものように悪態をつくような鼻息を漏らしていた。


 【一斉に掛かって来いと言っただろう】


 アスドラが言う。


 【まぁいい……こちらから動くとしよう】


 その言葉を合図としたように、ポチの尾が、ひょう、と揺れた。


 本当に、ただそれだけだった。

 音もなく、風もなく、何の衝撃もない。


 しかし、次の瞬間、黒狒々十体の首が宙を舞っていた。


 胴体だけが立っていて、信じがたいことに、頭部を無くした体は、無くした頭を探し求めるように、その両手を首の上で動かしていた。


 ようやく、黒狒々の体から血柱が噴き上がった。


 血潮が雨のように地面に落ちて、私を包む保護膜にそれが届いた。


 静寂が訪れ、その場を支配した。


 【残り、四十一体。ポチ、少しペースを上げていこう。夕飯の前に風呂も悪くなかろう】


 「フンッ」


 ポチは相変わらず、不機嫌そうに、悪態をつくかのように鼻息を漏らした。

 

 私には判別できなかったが、あの鼻息は、もしかすると、アスドラの提案に賛成する意があったのかもしれない。


 だって、私が見たポチの闘いは、闘いなんかじゃなかったのだから。


 あれはハイペースの事務処理だ……いいや、違う。


 事務処理じゃない。


 書類じゃない。

 命だ。

 命を、ただ次々と処理しているだけなんだ。


 ああ、そうか。


 こういう一方的で、とにかく雑な殺傷行為を、殺戮とか虐殺とか、そういう言葉で呼ぶのか。


 私は、そんなことをようやく思いついた。

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