十 白狒々 対 ポチ
ポチが着地した場所は、集落から数キロほど離れた山の中腹に開かれた広場だった。
私は周囲を見回した。整備された登山道や木製のベンチが目に入る。
もしかすると、ここは東野さんから話を聞いていた、昔は「決して近づくな」と言い伝えられ、今では子供たちの遠足にも利用されている、あの場所ではないだろうかと、うっすらと考えた。
私はようやくポチの尾から解放され、転がるように地面へ降りた。
足は震えて、吐き気が酷い。
生身で空を飛んだことによる影響なのだろう。
私は我慢できず、その場で胃の中のものを吐き戻してしまった。
幸いというべきか、胃の中はほとんど空っぽだったらしく、地べたに撒き散らしたのは、胃液ばかりで済んだ。
それにしても、ポチの飛行速度は異常だった。
雲を突き抜けたと思った次の瞬間には、もう見慣れた山並みが眼下に広がっていたのだ。
長野県の光前寺から東野さんたちの集落までは、車なら二時間半はかかる。
直線距離でも百五十キロを優に超えるはずだ。
その距離を、ポチはわずか三分ほどで飛び越えた。
時速に換算すれば三千キロを超える。
航空自衛隊の主力戦闘機すら上回りかねない、常軌を逸した速度だった。
にもかかわらず、ポチは息一つ乱していない。
まるで近所を一周してきただけの犬のような気軽さで、その場に立っていた。
「東野さんたちのところへ行かないんですか?」
私は息も絶え絶えに尋ねた。
【行かない】
アスドラは即答した。
【目撃者は最低限でいい】
ポチは黙って、周囲へ視線を巡らせていた。
太陽は西の山並みへ沈みかけている。
まだ夜ではないが、昼でもない。
山々には濃い夕闇が落ち始め、空気には夜の気配が滲みつつあった。
静かな山中だった。
その静寂を破ったのは、ポチだった。
ポチは空へ向かって首を上げ、大きく息を吸い込むと、遠吠えした。
私は思わず両手で耳を塞いだ。
ポチの遠吠えは、山々を震わせる咆哮だった。
耳を塞いでもなお、声が頭に響く。
耳朶を通すのではなく、骨に響いているのだ。
私は耳を塞いだまま膝をついた。
「な、何をしているんですか!?」
【呼んだんだ。妖怪どもをな】
アスドラが答えた。
「呼んだ!? 呼んだですって!?」
顔から血の気が引いたのを私はハッキリと感じた。
私は叫んだ。
「何でこちらから呼び寄せるような真似をするんですか!? 狒々たちは深夜に来るんですよ!?」
【馬鹿か、お前は】
アスドラが鼻で笑った。
【最大限に力を発揮しやすいのが夜というだけで、妖怪は昼間でも活動できる。昨日、連中が深夜に来たからといって、今日も深夜に来る保証がどこにある? 妖怪と契約書でも交わしたのか?】
明らかに馬鹿にされたが、もっともな指摘であったため、私は反論を我慢した。
【奴らは深夜まで待たない。日が沈めばすぐにでも来るぞ。だが、こちらにも用があるので、日没を待ちたくない。急な仕事はさっさと片付けて帰りたい。だから、こちらから呼んだ……と、言うよりも、喧嘩を売った】
一度、ポチが「フンッ」と鼻を鳴らした。
【……なるほど】
アスドラの声色が僅かに変わった。
【敵は想定以上に力を増している。お前から聞いた情報を基に推定した戦力は、もはや当てにならない。雲泥の差だ】
「え?」
アスドラは淡々と続ける。
【今なら集落一つどころではない。県を一つぐらい潰せる程度の戦力がある】
私は凍り付いた。県……県を潰す。
そんな言葉が自然に出てくること自体がおかしい。
けれど、アスドラは冗談を言っているようには見えなかった。
【やっと来たか】
その一言で空気が変わった。
私にも分かった。
近付いてきている。
目に見えるものではない。
だが、確かに感じる。
恐ろしい何かが迫ってくる。
全身から体温が奪われ、筋肉が強張っていくような、言葉では言い表せない圧迫感‐昨夜も味わった感覚だ。
おそらく、これが妖気による影響なのだろう。
だが、昨夜とは比べものにならない。
濃く、そして重い。
息が苦しい。
心臓を鷲掴みにされ、そのまま握り潰されそうだった。
私は、自分に霊感があることを初めて呪った。
見えない方がいいものがある。
感じない方が幸せなものがある。
そんな当たり前のことを、私は今になって初めて知った。
【言っておくが、逃がさんぞ。お前の持ってきた案件だ。お前には一部始終を見届けてもらう必要がある】
アスドラが言った。
その直後、ポチは心底面倒臭そうに鼻を鳴らした。
次の瞬間、何かが私の額に当たった。
それは何と、ポチが吐き出した唾液だった。
「きゃあっ!? ちょ、ちょっと! 何するんですか!?」
私は悲鳴を上げながら顔を拭った。
しかし、その直後、私が感得している世界が変わった。
今まで何もないと思っていた空間に、無数の色と光が満ちている。
山の木々からは淡い緑色の光が立ち昇り、大地の下では巨大な脈動が血管のように広がっている。
遠くの集落からは、人々の感情が煙のように立ち上っていた。
恐怖、怒り、絶望、祈り。
それらが色を持った靄となって空へ溶けていく。
「な、何ですか……これ……?」
私は震える声で呟いた。
更に異変は続いた。
耳に入る音が増えていく。
木の葉が擦れ合う音や地中を這う虫の足音、数キロ先を飛ぶ鳥の羽ばたきさえ聞こえる。
そして、山の向こう側から近づいてくる、おぞましい何かの気配を明確に感じた。
巨大な悪意。
濃厚な妖気。
それらが、はっきりと知覚できた。
視界も変化していた。
薄暗い夕暮れの山中が昼間のように鮮明に見える。
木の幹の傷、草の葉に付着した露、一キロ先の遠方を飛ぶ虫の翅の模様さえ認識できた。
私は自分の身体を抱きしめた。
世界が広がり過ぎている。
脳が処理しきれない。
【感覚強化だ】
アスドラが淡々と言った。
【これから始まる戦闘は、人間の感覚では知覚できない。見届けさせるための措置だ】
私は顔を引きつらせた。
唾液一つが、何故そんな効能を持つのか。
聞きたいことは山ほどあった。
しかし、そんな問答が許される時間は無かった。
ポチの足の黒い輪から、小さな赤い立方体が音もなく分離し、私の手の中へ落ちてきた。
【それは保護ユニットだ】
言われた瞬間、立方体は溶けるように形を崩し、赤く透き通る薄膜となって私の全身を包み込んだ。
皮膚に張り付いているようにも、数センチ浮いているようにも見える。
不思議な感触だった。
【お前の全身を覆うその膜には、物理保護、認識疎外、生命維持機能を備えた観測用障壁だ。お前が戦闘に巻き込まれて死ぬことは、こちらとしても都合が悪い】
アスドラは少し離れた岩陰を示した。
【戦闘中は、あそこから一歩も動くな。障壁は君に追従するが、観測精度を維持するため、不要な移動は推奨しない】
私は無言で頷き、急いで駆け出し、アスドラが示した岩陰に身を隠し、その場にしゃがみこんだ。
広場の中央で、ポチが夕暮れの山を見据えたまま、「フンッ」と短く鼻を鳴らしていた。
【来た】
アスドラが呟いた瞬間だった。
ぶわっと、突如、森が黒く染まった。
黒狒々の群れが姿を現したのだ。
いや、もはや群れではない。
軍勢だった。
何十体もの黒狒々が、音もなく木々の間から現れ、気が付けば広場を完全に包囲していた。
私は息を呑んだ。
信じられない移動速度だ。
感覚を強化された今だからこそ分かる。
三十秒前まで、こいつらは、一キロ以上離れた場所にいたはずだ。
それが今では、私の目の前にいる。
まるで風のように速く滑らかな移動だ。
【ほう、五十体か。随分と増えたな】
アスドラが淡々と言った言葉を聞いて、私の思考は恐怖で停止した。
五十体!?
昨夜、東野家に出現した黒狒々の数は十体だった。
その数ですら我々には絶望的な恐怖の対象だった。
それが、五十体!?
もう駄目だ。
普通の人間はもちろん、国の軍隊だって抗えない戦力だ。
世界の終わりを宣告されたような絶望が、私の胸を強く、きつく締めあげた。
だが、災厄はこれで終わりではなかった。
私は知っている。
この黒狒々たちを上回る脅威がいることを。
そして遂に、真の怪物が姿を現した。
森が割れた。
木々が左右へ押し退けられ、その奥から巨大な白い影が姿を現す。
白狒々だ。
いいや、違う。
昨夜、私が見た白狒々ではない。
あまりにも巨大だった。
体躯は三倍以上に膨れ上がり、全長は優に十メートルを超えている。
昨日でさえ怪物だったというのに、それはもはや比較することすら馬鹿らしく思えるほど、
別次元の存在へと変貌していた。
狒々としての面影も、ほとんど残っていない。
背中には巨大な翼が生え、口元からは猪のような長い牙が突き出している。
もはや猿の怪物ではない。
ギリシャ神話に登場するキマイラを思わせる、異形の魔獣そのものだった。
右手には、引き抜いたばかりの大木を棍棒のように担ぎ、左手には下半身を食いちぎられ、腸を垂らした鹿を握っていた。
白狒々は、その鹿を、まるで菓子でも摘まむかのように持ち、口に運んでサクリと噛み裂く。
肉が裂け、骨が砕けるたびに鮮血が飛び散る。
私は息を呑んだ。
昨夜、あれほど恐ろしいと思った白狒々は、まだ成長の途中だったのだ。
もし、昨夜の時点で、この姿の白狒々に遭遇していたら、私たちは、誰一人として生き残れなかっただろう。
「ケヒヒッ!」
白狒々が笑う。
その声だけで山が震えた。
周囲の木々が大きく揺れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。
「偉そうな遠吠えが聞こえたんで来てみりゃあ、妖気もろくに感じねぇ犬の妖怪じゃねぇかぁ!」
白狒々が嗤う。
「妖怪になったばかりみてぇだなぁ、ワン公」
白狒々は威嚇するように片足を踏み下ろした。
轟音。
大地が爆発した。
半径数十メートルにわたって地面が陥没し、土砂と岩石が空高く吹き上がる。
「跪けぇ!」
白狒々が吠えた。
「おれは妖怪の王だぁ! 王を! 敬えぇ!!」
身勝手な咆哮が音の衝撃波と化して、森を薙ぎ払う。
大木が何本も根元からへし折れ、吹き飛ばされた。
空気そのものが、海の大波のように激しく震えていた。
稚拙な誇示行動であることは分かっていたが、それでも私は考えてしまった。
跪きたい。
跪くから、許して欲しい。
自分だけでもいいから、助けて欲しい。
本能が叫ぶ。
この怪物に逆らってはいけない。
しかし、恐怖のあまり、身体は動かなかった。
指一本動かすことができない。
降伏のための言動を取れなかった。
肺が痛くて呼吸ができない。
殺される。
無残に喰い殺されてしまう。
ああ、終わってしまう。
私の世界は、ここで終わってしまうのだ。
私が何とか命乞いをするために体を動かそうと藻掻いたとき、アスドラの無機質な乾いた声が私の耳に届いた。
【話は終わったか? なら、さっさとかかって来い】
白狒々が、ピタリと動きを止めた。
【ポチが、夕飯に遅れてしまう】
ポチは大欠伸をしてから、いつものように「フンッ」と鼻息を漏らした。
【私の相棒は、面倒臭がりなんだ。一体ずつかかってくるのだけはやめてくれよ。全員、まとめてかかって来るんだ。その方が、早く終わるからな】
白狒々の顔が、炎のような怒りで醜く歪んだ。
「……殺す」
低く唸るように呟いた次の瞬間だった。
白狒々は担いでいた大木を、ポチ目掛けて振り下ろした。
衝撃波が周囲の空気を叩き潰した。
たった一撃で地面が抉れ、巨大なクレーターが生じる。
だが、白狒々の怒りは収まらなかった。
二度、三度、四度、五度……狂ったように大木を振り下ろし続ける。
すぐに大木そのものは砕け散った。
それでも止まらない。
白狒々は、今度は両拳を固め、そのまま地面へ何度も叩きつけた。
絶法的な破壊音が連続して響く。
地面の窪みは際限なく深くなり、地盤には巨大な亀裂が走った。
衝撃は周囲の山肌にまで伝わり、岩盤を砕きながら斜面を削り取っていく。
信じ難い破壊力だった。
私は悲鳴も出せず、凝視していた。
映画でしか見たことはないが、まるで戦闘機による爆撃を間近で見ているかのような惨状だった。
いや、それ以上かもしれない。
一つの生命体が生み出した被害だとは、とても思えなかった。
思いたくもなかった。
「おれを、ナめるからだぁ。そんなヤツは、死ねやぁ!!」
白狒々は荒々しい呼吸をしながら、ようやく腕の動きを止めた。
舞い上がった土煙を払いながら、その場で何度も地団駄を踏んだ。
私は、ポチは跡形もなく吹き飛んだのだと思った。
肉片一つ残っていないだろう。
きっと地面には、赤黒い染みだけが残っているに違いない。
そう確信していた。
山肌を削るほどの破壊力なのだ。
肥大したとはいえ、あの雑種犬が耐えられるはずがない。
しかし、土煙が晴れ始めた時、私は思わず目を見開いた。
そこにいたのは、もはやポチとは呼べない存在だった。
【変身完了】
アスドラが淡々と告げる。
土煙の中心に立っていたのは、漆黒の金属装甲に全身を覆われた巨大な狼だった。
黒曜石のような装甲は、ただ黒いだけではない。
深淵を覗き込んでいるかのような透明感と光沢を帯び、見る角度によって静かな虹色の輝きさえ宿していた。
赤熱した牙と爪は、夕闇の中で熱と同時に妖しい赤光を放っている。
長大な尾は巨大な黒刃へと変貌し、背部には長距離用と思しき巨大なガトリング砲が展開されていた。
白狒々の猛攻を真正面から受けたはずなのに、その姿には傷一つない。
まるで、あの凄まじい攻撃など最初から存在しなかったかのようだった。
ポチは、ただ「フンッ」と、いつものように悪態をつくような鼻息を漏らしていた。
【一斉に掛かって来いと言っただろう】
アスドラが言う。
【まぁいい……こちらから動くとしよう】
その言葉を合図としたように、ポチの尾が、ひょう、と揺れた。
本当に、ただそれだけだった。
音もなく、風もなく、何の衝撃もない。
しかし、次の瞬間、黒狒々十体の首が宙を舞っていた。
胴体だけが立っていて、信じがたいことに、頭部を無くした体は、無くした頭を探し求めるように、その両手を首の上で動かしていた。
ようやく、黒狒々の体から血柱が噴き上がった。
血潮が雨のように地面に落ちて、私を包む保護膜にそれが届いた。
静寂が訪れ、その場を支配した。
【残り、四十一体。ポチ、少しペースを上げていこう。夕飯の前に風呂も悪くなかろう】
「フンッ」
ポチは相変わらず、不機嫌そうに、悪態をつくかのように鼻息を漏らした。
私には判別できなかったが、あの鼻息は、もしかすると、アスドラの提案に賛成する意があったのかもしれない。
だって、私が見たポチの闘いは、闘いなんかじゃなかったのだから。
あれはハイペースの事務処理だ……いいや、違う。
事務処理じゃない。
書類じゃない。
命だ。
命を、ただ次々と処理しているだけなんだ。
ああ、そうか。
こういう一方的で、とにかく雑な殺傷行為を、殺戮とか虐殺とか、そういう言葉で呼ぶのか。
私は、そんなことをようやく思いついた。




