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第一章 ⑨

「無くならないって最高じゃない」


しばらくの沈黙の後、重美さんはそう言った。

椅子から立ち上がり、キッチンの方へ向かう。隠し棚から樽を取り出しキッチン置いた。


「タオルないの?」


「タオル?」


「そう。髪洗いたいし、身体も汗でべたつくから拭きたいのよ」


「風呂に入りたいんか?」


「そうだよ」


「なら、そんな事せんでもええ」


「お風呂あるの?」


「ある」


「鳩三郎、あるならあるって早く言えよ」


「聞かれとらん」


「そりゃ確かにそうだけどさぁ。普通、言わなくてもわかるでしょ?か弱い女の子が側にいるんだからさぁ」


そういう重美さんの言葉に鳩三郎はキョトンした表情で見返していた。うん。多分、何言ってんだ?と鳩三郎さんは思った筈だ。そんな顔している気がした。


「何処?」


重美さんの言葉に鳩三郎が暖炉の横を指差した。


「トイレもありますか?」


便乗するようだったが、いきなり強烈な尿意に見舞われたのだ。


「風呂の隣にある」


「ありがとうございます」


僕はいい重美さんより先に鳩三郎が指差した壁の前に立った。


「私もしたいんだけど?」


「すぐ終わります」


「私が先よ」


「申し訳ないですけど、これは譲れません」


「私がお風呂の事言ったから、ある事がわかったんじゃない」


「ええ。お風呂の事はそうですけど、重美さんはトイレの事は尋ねていないですよね?聞いたのは僕です」


そういい、壁を押した。これは水が入った樽を取り出した鳩三郎さんを真似ての事だった。


見当たらないものはこのように壁の向こう側に隠されているのだと思ったのだった。それはまさに正解で僕に押された壁は簡単に奥へと押しやる事が出来た。


開いたのを見た重美さんが、いきなり僕の鳩尾へパンチを入れた。不意打ちに驚いた事と、もろにパンチが鳩尾に入った為に思わず身体をくの字に折った。


一瞬、息が出来なくなった僕の肩を重美さんが掴み後ろ側へと引き倒した。


「お先」


ニヤニヤしながら僕を見下ろす重美さん。心の底から嬉しそうな顔をしていた。


呼吸が整うのを待ってから壁へ向かった。再び押すが途中までしか押す事が出来なかった。


重美さんが、中から入られないようにつっかえ棒か何か細工しているようだ。隙間から入れないかいものかと思ったが、出来なかった。


「卑怯者!」


股間を握り必死に尿意を抑えながら僕は言った。無意識のうちにお尻を左右に振りその場で足踏みをしていた。


「うっさい!油断する方が悪いんだよ。バーカ」


シャワーの音に混じって重美さんの鼻歌が聞こえてくる。それがより腹立たしかった。


重美さんはきっと僕が息が出来なくなっている間にオシッコも済ませているのだ。でなければ呑気に鼻歌なんか出る筈がなかった。


「重美さんが、いきなりお腹を殴ったりしたから、少し漏らしたんですからね!責任取ってもらいますから!」


ギャハハという、これまた僕の神経を逆撫でするよう笑い声が聞こえた。


「早く出てください!無理なら絶対覗かないのでオシッコさせてくださいよ!」


「あ、無理。身体かくすカーテンないし。タオルもハンカチサイズしかないから私のナイスバディは全然隠せないわけよ」


「目をとじますから」


「嫌。だって私、大魚のオシッコする姿なんか見たくないもん」


「見なきゃ良いでしょうが!」


「どうして私が命令されなきゃいけないの?私が最初に入ったんだから、お風呂もトイレも私が最初に使う権利があるの。大魚はそこで、お漏らししながら私が出てくるのを待っていればいいわ」


これ以上、口が聞けなかった。我慢に集中していなければ膀胱が崩壊しそうだった。


今にも先っぽからオシッコが顔を覗かしそうだ。額から脂汗が流れ出す。我慢のし過ぎでお腹も痛くなって来た。全身から血の気が失せて行くのがわかった。


きっと今の自分は真っ青な顔をしているに違いなかった。


「ほら。いいわよ」


ワイシャツ1枚姿の重美さんがスーツを腕に持ちバスルームから出て来た。僕は這いながらその中へと入っていった。


永遠に出続けるんじゃないかと思われる程、長いオシッコをした後で僕もお風呂を借りる事にした。


見ると湯船の前には複数のハンカチが放り出されている。その全てがびしょびしょに濡れていた。


「あ、大魚、悪いけどそのハンカチも洗って干しておいて」


もう返事をするのも億劫だった。それ以上にスッキリした気持ち良さが僕の全身を包み込んでいた。


「聞いてるの?」


「はいはい。分かりましたよ。僕がやればいいんでしょう?」


「なんかムカつく言い方だなぁ。素直にわかったって言えないわけ?」


いや、それこそおかしいだろ。こんなに多くものハンカチを使ったのは重美さんじゃないか。それを片付けもせず人にやらせようだなんて。こっちがムカつくよ。


「ごめんなさい。重美さんの裸体を拭いた濡れたタオルは嗅いだり舐めたりした後でちゃんと僕が片付けますから」


「お前、マジでやりそうだから怖いわ」


「よくわかってますね」


返すが重美さんから返事はなかった。


ふん。僕の勝ちだ。そう思いながら頭からシャワーを浴びた。顔を洗いうがいをし、シャワーを口に当てながら指で歯を磨いた。


その後で身体と頭を残ったハンカチで拭いてから、再びシャワーを使った。石鹸や洗剤らしき物は見当たらなかった。だからお湯洗いした。


どういう構造でお湯が出るのかはわからない。ボイラーやソーラパネルでもあるのかも知れない。


いやソーラパネルは無いか。外では朝昼が訪れないのだから、ソーラパネルは意味をなさない。お湯なんて供給出来る筈がなかった。


ひょっとしたらこのお湯も食糧と同じく無くならないものなのか。永久機関的なものだろうかと思った。


僕は着替えを済まし、借りたハンカチを丁寧に洗った。干す場所はトイレの前に物干し竿が立て掛けられていた。


重美さんはきっとこれをつっかえ棒にして壁が開かないよう押さえていたのだろう。


僕はその物干し竿が止められる場所を探した。トイレの真上が丁度よく、そこにつっかえてハンカチを干した。


お風呂から出ると重美さんはあら気もない姿で、ソファの上で眠っていた。


鳩三郎さんは椅子に座りコーヒーを飲んでいる。僕はその前に立ち、コーヒーを頂いても良いかと尋ねた。


「ええよ」


カップに生温いコーヒーを注ぎそれを持って鳩三郎さんの正面に椅子を移動し座った。


一口飲んだ後、僕は尋ねた。


「どうかしたのですか?」


「ん?いや別に」


「そうですか」


明らかに何か考えているのはわかった。けど、誰かに話せば気が楽になるなんてとても言い出せなかった。


悩みはそれぞれあるだろうけど、僕や重美さんがいた世界で感じでいた悩みとはちょっと違うきがした。


今は今でわけのわからない世界にいるから悩みがないわけはない。でもその悩みはまだ解決の見通しが立ち、こうしてコーヒーまで飲めている。


勿論、これから先、どうなるかなんて誰にもわからない。昨日以上の不安や悩みにぶつかる可能性だって充分あり得るのだ。だけど鳩三郎さんは違う。


どれだけの年月を管理人として過ごして来たのか知らないけど、タバコを持った人を助けもした。そして今回は僕と重美さんを救ってくれた。


でもその2人は絶対にこの家から出て行く。重美さんも僕も管理人にはなりたくないからだ。それを鳩三郎さんは聞いてしまった。


僕達は鳩三郎さんの側で鳩三郎さんの事なんて考えずに喋ってしまったのだ。今更、気づくなんて最悪だ。きっと鳩三郎さんは管理人について考えを巡らせているに違いない。あぁ最悪だ。酷い事をしてしまった。


僕達は鳩三郎さんを傷つけたのでないだろうか。再びコーヒーを啜りながら鳩三郎さんの顔色を伺った。つかモグラって本当に表情が分かりにくすぎる。


勿論、僕達はこれからの事をどうするか考えないといけない。その話を聞いた鳩三郎さんは、好きなだけここにいてもいいというかも知れない。


でもそれは、今となっては、邪な考えかも知れないけど、鳩三郎の作戦かも?って思う自分がいる。管理人を交代したくて、そのように言い出したのではないかと僕は勘繰ってしまう。


勿論、外の世界に向かう方が不安は大きい。ここで繰り返しの毎日を過ごして稀に助けを求めて来る人を助ける。


一見、そのような生活も悪くないようにも思える。重美さんと一緒なら楽しくもあるだろう。喧嘩の毎日かも知れないけど、楽しい事もある筈だ。


「だけど……」


思わず口に出た。鳩三郎さんが顔を上げ僕の方を向いた。僕は気づかない振りでカップに口をつけた。


管理人は[1人]と決められているかも知れない。それはとても恐ろしい事だった。


わけのわからない世界の地中の中でたった1人でこの家を管理する。何の為に?たまに助けを求めてくる人を助ける為?違うと思う。きっと違う。


管理人を交代する人を見つける為にここで管理人をせざる終えないのだ。でもそれには物凄く不都合な事が付きまとう。記憶だ。


どういう訳か覚えていられる事は限られているようだし。前管理人の話から推測すると記憶は個人差があるようだった。


それはとても致命的な事だった。鳩三郎さんはまさにそれに陥ってしまったのだろう。きっとこの家を見つけた時、かなり疲弊していたに違いない。


あの針葉樹の森の中を再び彷徨い続ける事に心底嫌になったのだろう。だから管理人交代の申し出を受けてしまった。その後の事はとても僕なんかじゃ想像つかないし考察も出来ない。


交代するまではあった筈の記憶も徐々に失われて行く恐怖に怯えていたのかも知れない。楽しい思い出も辛かった出来事も悲しい別れも全て失っていく。


それは悲しい別れを思い出し胸を痛め涙する事よりも数発も残酷な事だった。記憶を失っていく恐れも次第に感じなくなって、機械的な生活を送る。


助けを求める声を聞くと理由もなく手を差し伸べる。自分がそのように行動したその理由に気づきもせず、ただ困った人を助ける良いモグラを演じてしまう。


本当は助けを求めて来た人間が次の管理人の役割を担わなくていけないのかも知れない。でもこの世界の悪戯で記憶を損ね、本来の目的をも完全に忘れてしまって……


鳩三郎さんは未だに管理人を続けているのだ。少しだけ胸が痛んだ。同情なんてされる理由はないと鳩三郎さんは思うかも知れない。きっとそうだろう。  


だって限られた記憶しか持っていないのだから、同情される意味がわからない筈だ。だから僕は黙っていた。このままずっと黙っていたかった。言葉を交わすと泣いてしまいそうだから。


「あの人はなしてあんなニコニコと笑っとったんじゃろうか」


[やったぜ、ざまぁみろ!]と思っていたんでしょうなんて言える筈がなかった。


「さぁ。どうしてでしょうね」


僕はボロボロと溢れる涙を拭いながら言った。


「このコーヒー、昨夜飲んだものより苦いですね」


「そうか?」


「ええ。苦すぎです」


「なら砂糖入れりゃあええじゃろ」


「砂糖あるんですか?」


「ある」


「あるならあるって最初から言ってくださいよ〜」


「聞かれんかった」


「そうですけど……」


どっかで聞いたようなやり取りに思わず吹き出しそうになる。


僕はふと重美さんを見やった。小さな寝息を立てて眠っている。自分もだけど、重美さんも相当疲れているのだろう。


ここを出ていくのは明日になるなとあまりの寝相の悪さに微笑みながら僕は思った。


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