第一章 ①⓪
「重美さん、そろそろ行きますよ」
翌朝、鳩三郎さんが作ったカボチャのスープと大根サラダにレーズンパンを頂いた後、僕はそう言った。
「何処に?」
「ここから出て旅を続けるんです」
「え?ガチ?」
「ガチに決まってるでしょうが」
「だよね。いつまでも鳩三郎に甘えてちゃ駄目よね」
「そう言う事です」
「わかった」
重美さんは重たい腰を上げた。
「大魚、ちょっと待ってくれる?」
「良いですけど……どうしたんですか?」
僕の言葉には無言のまま、重美さんは食器を洗い始めた鳩三郎さんの側へと近寄った。
背中に手を添える。僕の方へ振り返り、首を横に振った。その姿を見て僕はある事を思い出した。
そうだ。重美さんにはある力というか能力があるのだった。それを僕は[病]と呼んでいるけど、重美さんのその[病]は身体をめちゃくちゃ重く出来る能力と、そして人の背中に触れるとその人が持っている能力がわかるという力が備わっている。
だが首を横に振ったという事は鳩三郎さんには[病]は備わっていないようだ。ひょっとしたら、鳩三郎さんはモグラだから、重美さんにも[病]があるかどうか見分けられないのかも知れない。
もしくはこの世界に来てしまったからその力を失ったとも考えられた。僕は鳩三郎の側へ行った。
「鳩三郎さんは休んでいてください。洗い物は僕がやりますから」
「ええんか?」
「勿論」
鳩三郎さんが椅子に座るのを見届けてから僕は洗い物を始めた。もしこの世界に来たせいで[病]が無くなったのであれば、僕は洗い物をした後で嘔吐しない筈だ。それを試したくて洗い物を変わってあげようと思ったのだった。
洗い物を終え紙ナプキンで食器を拭いた。吐き気は来なかった。やっぱりそうだ。間違いない。
この世界に来たせいで[病]は消え失せたのだ。
僕は念の為に重美さんに説明して背中に触れて貰った。
「全然あるんだけど?」
「え?嘘?」
「本当」
「じゃあどうして吐き気は来ないんだろ?」
「邪な気持ちで手伝ったからじゃないの?」
「というと?」
「自分の力があるか確かめる為に洗い物を変わったんでしょ?」
「ええ、まぁ……」
「それってやっぱ正直な大魚じゃないじゃない?咄嗟に手を差し伸べたりした訳じゃない。言って見れは実験しただけ。だから嘔吐しないんだよ」
「見返りを求めてた、って事になるからですかね?」
「そうじゃないの?知らないけど」
僕と重美さんは鳩三郎さんにお世話になったお礼を言った後で、この家から出て行く事を告げた。
鳩三郎さんは淡々と「そうかね」と返した。
「森では食い物があるかわからん。じゃけえこれを持っていき」
鳩三郎さんはいい、登山用のような大きなバックパックを横してくれた。
「おのれ等が出て行く事は昨日の話から予想はついとった。じゃから用意しといたんじゃ」
ズッシリと思いバックパックを僕が背負い、水が入った樽を入れたバックパックを重美さんが背負った。
「中に大きなライトも入っとる。森には朝は来ない。あの森には夜しかないんじゃ。そこを抜けた先はワシも知らん。朝陽が訪れる世界があるかも知れん。ワシも見てみたいものじゃ。じゃけど行かれん。わかるじゃろ?」
「はい」
僕はいい鳩三郎さんに抱きついた。キツく抱きしめた。
「本当にありがとうございました」
何度か頭を下げてから、先に重美さんに登って貰ってた。樽の重さに耐えきれず手を離し梯子から落ちるかも知れないからだ。
「鳩三郎、バイバイ」
「鳩三郎さん。さようなら。もしもう一度会えた時はまた、美味しいビーフシチュー似を作って下さい」
「コーヒーももっと苦いのを飲ましちゃるけぇ」
「砂糖あるのは知ってますから。けど、一口くらいなら頂きますね」
そういい手を振った。重美さんが椅子を登って行く。少し遅れて僕も登って行った。下をみると鳩三郎さんが僕達を見上げながら手を振っていた。
それに応えようと重美さんが梯子から片手を放し身体を下の方へ乗り出した。手を振り返したその時、重美さんがバランスを崩し足を滑らせた。
危ない!咄嗟に滑らせた足を掴み自分のら身体を持ち上げ、落ちそうになった重美さんの身体を支えた。ホッとした僕を他所に重美さんは「あっぶなー」と叫んでいた。
「ちょっと気をつけてください……」
その時、「来た」と思った。つまり吐き気が襲って来たのだ。人助け……重美さんが、落下しそうになったのを助けたからか?
「重美さん!急いで!」
「どうしてよ。そんな早く登れるわけないじゃん」
「吐き気が……」
「え?ひょっとして私を助けたから?」
「ひょっとしてじゃなく、確実にそれです。このままだと、ここで嘔吐しちゃいますよ」
「大丈夫か?」
下から上を見上げている鳩三郎さんの声が聞こえた。僕は大丈夫だと告げようと下を見た。瞬間、鳩三郎さんの顔面へ向けて激しく嘔吐した……
びしゃびしゃと音がする中、僕はひたすらに謝り続けた。鳩三郎さんは顔面についた僕のゲロを手で拭い舐めて嗅いだ。
「オエェェェ!」
「あはは!鳩三郎貰いゲロしてんじゃん」
「笑い事じゃないですよ!もとはといえば重美さんがあんな所で手を離して身を乗り出すからいけないんじゃないですか」
「うっさい。吐く方が悪り〜んだよ。少しは我慢ってもんが出来ないのかなぁ」
「どの口が言うかなぁ」
「色っぺい私の肉厚なこの唇さ」
「はいはい。いいから早く登ってください」
「キスしたいくせに」
「何を言ってんですか」
「したくないの?」
「あのう。その話は上に上がってからでいいですか?」
「ヤダ」
重美さんはいい梯子の途中で止まった。
「重美さん?」
「もう一回、手、放してみよっかなぁ」
「わかりましたよ!いいますよ!」
「どうぞ」
「したくないです」
「はぁ?大魚マジで言ってんのか?」
「いえ。ごめんなさい。キスしたいです」
「だよね。だよねぇ。私にキスしたくない男なんてこの世に1人もいないってね」
重美さんはウキウキしながら再び梯子を登り始めた。なんなら口の中が、ゲロ臭さい今、キスしてやりたかった。まぁそんな事をしようものなら、きっと顔面をぶん殴られるだろうな。
僕は上を見上げながら重美さんに続いた。どうしてこんな時にこの人はパンツスーツ何だよと思った。スカートなら見放題だったのに。
いやらしい事を考えながらいると
「悪かったなスカートじゃなくて」
「え?どうしてわかったんですか?」
「大魚が、考えそうな事くらいすぐわかるよ。私を先に登らせたのもお尻を眺めたかったからじゃん」
「決めつけないで下さい」
本当に落ちた時を思って先に登って貰ったのにな。さっきのが逆だったら重美さんは間違いなく落下していた。
鳩三郎さんが、下から覗いていたから受け止めてくれた可能性が高いけど、でもやっぱりどうなったかなんて誰にもわからない。鳩三郎さんが、たまたま、横を見ていた可能性だってあるのだから。
「よっこら……せっと」
蓋を押し上げる重美さんの口からオヤジみたいな言葉がついて出る。外に出た後でそういうと
「んな事ない。みんなよっこらせって言う!」と僕の頭を叩いた。全く、嘔吐する僕を介抱してくれた麗しい重美さんは一体、何処へ行ったんだよ。
いや、そもそもあれこそが猫を被っていたのかも知れない。もしくは背中に触れられるチャンスだと思い近づいて来た可能性も捨てきれなかった。まぁ。もうこの際どうでもいい。重美さんは今の姿が、本当の重美さんだ。よし。覚えた。
「そういう事は口に出して言うものじゃないわ」
「あ、今を作ったでしょ」
「何が?」
フンっと顔を背けた。
僕は蓋から地中の家の中を覗いた。梯子の下には鳩三郎さんの姿はなかった。きっと顔面にかかった僕のゲロを洗い流す為にシャワーを浴びているのだろう。
「鳩三郎さ〜ん!ありがとうございました!お元気で!」
僕はいい、ゆっくりと蓋を閉めた。
直ぐ側にいる筈の重美さんの顔すら良く見えなかった。バックパックからとても大きなライトを取り出した。
「行きますか」
「そうだね。行くしかないもんね」
「はい」
僕達は闇しかない針葉樹の森の中を一歩、又、一歩と足下や周囲に気を配りながら森の先にあるだろう別の場所を目指して闇の中を進んで行った




