最終章 ⑥⑨
うなされた事により、僕達は朝から不機嫌で、会話もろくにしなかった。朝食は僕が作るのが日課となっていたけど、そんな気分になれなかった。その事について謝ると、重美さんは「食べたくないから別にいい」とそっけなく言い風呂場へと向かった。同棲し始めてから随分と経つが、このような最悪な朝を迎えたのは初めてだった。2人の間にピリピリとした電流が流れているみたいで、それに触れるとそれぞれの中にある何かが爆発してしまいそうだった。悪い雰囲気が重美さんの部屋の至る所に広がっていた。
シャワーを浴びた程度ではこの気怠さは解消出来なかった。それでも僕達は互いを気遣う事を忘れる事はなかった。
お互い支度が終わるといつものように手を繋いで部屋を出た。会話はなかったが、僕達の関係性に問題が生じるような事もなかった。
「喫茶 じくう」から逃げ出した日から、僕達はそれまで利用していた駅は使わなくなっていた。穴に近づく事になるからだった。それは今も変わらず続いていた。そうする事で穴を避けていた。地元の駅に近づかないよう隣駅まで向かい、そこから電車に乗った。それは帰宅時も同じだった。必ず手前で降りて穴があった駅前には絶対に近寄らなかった。幾ら穴が埋められたとはいえ、何もなかったかのようには出来なかった。何処かで僕達は食人仮面の干渉が起こる可能性がある事を疑っていなかった。おまけに昨夜は久しぶりにうなされたのだ。よりその事を考えずにはいられなかった。
それまでの日常であれば、帰宅した重美さんの愚痴を聞くのが僕のルーティンであり、楽しみでもあった。でも今日に限っては重美さんは直ぐにお風呂に入り、中々出て来なかった。夕食の生姜焼きとマカロニサラダが出来上がっても重美さんはお風呂から上がって来なかった。声をかけると返事があった為、特に心配はしていなかったのだが、流石に2時間は長過ぎた。元々それくらいの長風呂をする人なら余計な心配となるのだけど、重美さんは長くても1時間も入っているような事はなかった。
流石に心配になった僕は手を止め風呂場へと向かった。
「重美さん、夕飯出来ましたよ」
返事がなかった為、僕は迷わずドアを押し開けた。
そこには湯船の縁に両足を乗せ、片手は外に項垂れた顔は青ざめていた。
「重美さん!」
直ぐに湯船にから引き上げ、脈を測った。心拍は止まっていなかった。背後から抱きしめるような体勢で僕は重美さんの頬を叩いた。のぼせて脱水症状を起こしてしまっているのかも知れなかった。僕は重美さんを抱き抱え湯冷めしないよう身体にバスタオルを被せ、風呂場から出た。
ソファへ寝かせて何度か頬を打った。薄っすらと目を開けた重美さんを見てホッとした僕は冷蔵庫からミネラルウォーターを取って来た。
上半身を起こした。
「大丈夫ですか?」
頷く重美さんの頬と眉毛の上が痙攣していた。皮膚が細やかに動いていた。僕は重美さんの唇にペットボトルを添えた。
「一気に飲まないで、ゆっくり飲んでください」
重美さんは頷き僕の指示に従ってゆっくりと時間をかけてミネラルウォーターを飲んだ。その間も顔の痙攣は続き治るどころか寧ろ酷くなる一方だった。その痙攣はやがて重美さんの表情まで変化させていった。時折、皮下部分に生き物が侵入したかのようにいきなり皮膚が突起となったりした。そして右半分の顔が完全にあるものへと変化したのを見て、僕は直ぐに重美さんにキスをした。それは賭けだった。そいつを僕の方へ移動させるため、嫌がる重美さんを無視して舌を吸った。そして残った水を再び重美さんに口に含ませ、それを僕の口の中へと吐かせた。
「新しいプレイかよ」
少し元気を取り戻した重美さんがいった。
その顔を見て僕はホッとした。顔の半分がエイのように変わっていた重美さんの今の顔は僕の大好きな重美さんそのものだった。
「違います。アイツが、食人仮面が、重美さんに干渉していて、そのせいで重美さんの顔の半分がエイの仮面のようになってたんです。だから吸い取れないかと思って一か八か、無理矢理でしたけどやって良かった」
「ウソ……」
その重美さんの言葉を聞きながら、自分の頬や鼻が痙攣し始めているのを僕は感じていた。
「大魚、顔が……」
「奴が干渉し始めて来ましたね」
「どうするつもりなのよ?ううん。私、どうすればいい?」
「重美さんは何もしないでください」
そうは言ったものの、何か特別な考えがあるわけではなかった。ただ重美さんから食人仮面の干渉を僕へと移動させたかった。それだけだ。
顔の皮膚の下で数百ものミミズが這っているような感覚に襲われる。僕を見ている重美さんは余りの気持ち悪さに言葉を失っているようだ。他人の顔がいきなりこんな風になったら僕だってキモいと思うし、言葉も見失う。だから重美さんの反応は至って普通だった。そう。重美さんが普通というのが僕にとって重要だった。
「ちょっと外に出て来ます」
「私も一緒に行く」
「駄目ですよ。来たら駄目です。わかってるでしょ?」
「嫌。行く」
「重美さんの前で、萠ちゃんやマスターのような姿を晒したくないですから」
「イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ!」
身体が震え出す。このままでは部屋から出る事が出来なくなる。僕は震える手で震える足を引っ叩いた。何とか立ち上がれたが、玄関まで行ける気がしなかった。そんな僕に重美さんが抱きついた。腕を腰に巻きつけ、イヤイヤと言い続けている。その気持ちは僕も同じだった。生まれて初めて出来た彼女が重美さんで初体験も重美さんだった。重美さんと一生共に生きていきたいと本気で思っていた。2人の子供の事も考えた事があった。中年太りになった僕に暴言を吐く重美さんの変わらぬ姿を見て苦笑いを浮かべる自分も想像した。死ぬのは絶対僕が先でないと嫌だった。重美さんに先立たれると僕は生きていられない。だから先に死ぬのは絶対僕がいい。その気持ちは今も変わらない。自分の想定した年齢とは随分と早いが、それでも重美さんが助かるならそれが1番良いに決まっている。だからこれで良いんだ。
激しく震える僕に必死でしがみつき、
「死ぬな!バカ!」
と涙でぐちゃぐちゃになった顔で叫ぶ。
僕だって死にたい訳じゃない。でも重美さんを死なせたくない気持ちの方が、自分が死ぬよりも数万倍大きかった。重美さんが僕の顔に顔を近づけた。キスをしようとするが震えが酷くて上手くいかなかった。これでいい。キスによって食人仮面が重美さんへと乗り換えられたら、僕は自分が許せなくなる。激しく震えてくれていて良かったと思った。
こうなったのも、やはりマスターの一族の歴史を見せられたせいだろうか。あの時、僕は穴の底に多くの死体と共にあった。意識というか思念なのかわからないけど、そのお陰で穴の存在を知る事となったのだけど、なら、どうして食人仮面はマスターではなく僕を殺さなかったのだろう。思念のクリチャーとして存在し続けるのであればマスターには生きて貰っていた方が都合がいい筈だ。だがマスターは殺害された。
考えられる事は1つしかない。食人仮面の不の思念の中に何かしら別の思念が混じり合っているという事だ。正義とまでは言い過ぎだけど、食人仮面のやる事に異議を唱える強い思念が存在したとすれば、邪魔者は穴を塞ごうと考えた僕達ではなく、マスターという事になる。ひょっとするとマスターに殺害されて草間さん達の思念が食人仮面の基本的な思念力を上回り、マスターを殺害させたのかも知れなかった。もしその可能性があるとしたならば、この震えは破裂の前兆ではなく、食人仮面の中に存在する無数の思念の中の一部の仕業かも知れなかった。重美さんが叫ぶ。声は随分前から聞こえない。僕の頬をビンタする。チンコを掴み力一杯握り引っ張る。痛いという気持ちを返せない為に、重美さんは僕を死なせまい、食人仮面に取り込まれないようにと僕に対して荒治療を行って来る。痛いからやめてという声は震えが酷過ぎて発せられても言葉として役割を果たせていなかった。重美さんさ尚も僕の胸を叩き続ける。
僕はそんな重美さんの姿を見れて心の底から嬉しかった。重美さん。大好きです。愛しています。
その僕の思念が重美さんに届いたのか、急に殴る手を止めた。激しく震えている僕に向かって微笑んだ。
「私も愛してる。大魚の全てを愛しているよ」
この声は僕の耳には聞こえなかったが、僕を抱きしめる重美さんの身体から震える振動を伝わって届けられた。
これ以上嬉しい事はなかった。満足じゃないけど、この状況の中にあっては最高に嬉しく幸せな事だった。
重美さん。ありがとう……
この言葉を最後に僕の意識はプツリと切れていった。




