第七章 ⑥⑧
怒りや憎しみという感情はその感情が芽生えていなくとも、1度でも思ってしまえば、その時点で心の奥深い場所で発芽する。
普通、植物の芽が育つには様々な条件や要素が必要となり、それが1つでも欠ければ上手く育たなかったり、途中で枯れてしまったりするが、心に根を張った芽は水がなかろと栄養素が無かろうと陽の日差しが無かろうが、確実に、そして着々と育って行く。蔦のようにゆっくりと確実に心の中で成長していく。
そしてやがてその人物の基本的な思念としてその人物を支配する。勿論、人間の感情や思いというのは1つではない。喜び、悲しみなども含まれる為それらも同じように心に根を張り発芽する。
だが、心という実体の知れぬ存在の中にあって
その力が強いのは喜びや悲しみではなく、怒りや憎しみ、怨みなどと言った所謂、不の感情だ。
自分の1日の生活を振り返って見れば、わかるだろう。喜びよりも、怒りや苛立ち、憎しみを感じる事の方が多い筈だ。
怒りや憎しみは常に力を欲している。その為、他に芽生えた芽をいとも簡単に侵しその力の支配下へと置く。それらが最大限に達した時、人は暴力という手段へ打って出てしまう。その最たるものが殺人だった。
「喫茶 じくう」がニュースで報道されたのは、僕達が逃げてから2週間が過ぎた頃の事だった。
その間、僕と重美さんは決して「喫茶 じくう」に近づく事はしなかった。その付近でさえ、避けていた。それは食人仮面の干渉力が辺りに蔓延していると考えたからだ。お互いとっくに仕事に復帰出来る状態ではあったが、復帰する事は避けていた。
このままだと辞めざる負えなくなる事くらい、僕達は承知していたが、それでも良いじゃんって事でお互い納得していた。何も働く事が嫌なわけではなかった。
そうする事が出来る状態だとわかったら、気兼ねなく職場復帰するだろう。だがそうしないのは2人とも食人仮面の干渉を1度は受けている事にあった。
その干渉力がどのように自分に影響を与えてくるのか、予想すら出来なかった。
このまま普通に生活出来るのであれば、それに越したことはないが、どうにもそのようにいかないと思われる現象に僕も重美さんも悩まされていた。
それは「喫茶 じくう」から逃げ出してから丁度5日目の事だった。その日の夜からそれは起こり始めた。
僕も重美さんも、うなされ始めたのだ。
眠りが浅い時や深い時など関係なく、2人揃ってうなされる。まだうなされた理由が、悪夢を見たからとわかっていれば、気休めにもなるのだけど、2人ともうなされていたと気づくのは完全に睡眠から覚醒した時だった。お陰でこの1週間、常に気怠さが身体に付き纏っていた。
口には出さないが、この現象は食人仮面に干渉された事による影響だと僕も重美さんも感じていた。
常に怠さが付き纏うせいで何かをやろうという気力さえわかなかった。油断すると瞼が重くなり、どんな姿勢や体勢でも寝落ちしそうになった。
だけど、「喫茶 じくう」のニュースを見た時、背骨に1本の添木を嵌められたみたいに、2人共にシャキッとした。
[死体なき殺人]
メディアはその言葉を羅列し世間を煽るかのように報道した。
厨房の床下から例の穴が発見されたとの報道があったのはそれから直ぐの事だった。
警察は穴の中に死体が捨てられたと考え、中を捜査し始めたが、穴な余りの深さに、捜査を一時中断せざる負えなかった。明かりを照らしても底は見れず、20メートルの縄梯子を使って降りたが、それでも底まで辿り着けなかった。
お手上げ状態の中、警察は手に負えないと考え、自衛隊への出動要請を嘆願した。その間、穴の全貌を調べる為に「喫茶 じくう」の厨房は解体された。
その穴のせいで地震などにより地盤沈下が起こった場合、周囲に甚大な被害をもたらすと考えられたからだ。その為、住居兼喫茶店は瞬く間に解体され、バリケードが張られた。そして重機を使い慎重に地面を掘り進めて行った。
幸い、穴の口は「喫茶 時空」の敷地内で収まっていた。都心の一部に巨大な穴が空いている事に世間は騒然となった。各メディアは連日、穴の周りに集まっては一種奇妙な報道を発信し続けた。それは都市伝説のようにメディアから扱われた。
その為、世間ではこの穴は旧日本軍の秘密基地があっただとか、爆弾の貯蔵庫だったのではないかというような憶測が飛び交った。
だが、そのような話題も穴の全貌が明らかににされてから1ヶ月もすれば飽きられ、さほど注目されなくなっていった。その間、自衛隊が穴の中を捜索し、何とか底まで辿り着く事が出来た。
その深さは100メートルを悠に超えていたようだ。そこで発見されたものにメディアは飛びついた。世間の話題も再び熱をおび「喫茶 じくう」のオーナーが大量殺人鬼だったと話題と噂になった。何故なら穴な底には数百という白骨死体が発見されたからだ。
だが回収された白骨死体を調べた結果、オーナーが行った殺人は10数人と見做された。
ただし、それはあくまでも今現在行方の知れないオーナーが手にかけたと予想されるもので、他の白骨死体に関しては未だ原因不明とされていた。
この時点で穴と白骨死体の話題は既に飽きられて来ており、ニュースにも殆ど取り上げられなくなっていた。
その間、毎日、何百という大型トラックが土を運んで来ては穴の中へ落としていった。着々と穴は埋められ半年経った頃には全て埋め終え綺麗な更地となっていた。
このようなニュースを目にした僕達は、心底ホッとした。あちらの世界へ行けない事は少し残念だったが、食人仮面の事を考えるとこれが最良の安全策だと思った。この半年の間、僕も重美さんも職場復帰をし、そして同棲を始めていた。
そうした理由は2人共、夜な夜なうなされる事があったからだ。このような事が毎晩起こる中で、1人でいるよりは絶対に2人でいた方が何かと良い筈だという事になり、僕が部屋を引き払い重美さんの家に転がり込む形となった。
お互いの家はさほど離れていた訳ではなかったが、僕の部屋の方が穴のあった場所から近い為、食人仮面の干渉から距離を取る意味も込めて重美さんの部屋へ行く事となったのだった。
それが良かったのか、うなされる回数も徐々に減って行き、1年も経つと普通の生活に戻る事が出来た。
穴の事も「喫茶 じくう」の事も、あちらの世界へ行った事も、2人の中では話題にすら上らなくなっていった。そんな中、ある事件が起こった。
自衛隊の基地内で数名による機関銃乱射事件が勃発し、23名の自衛官がその命を落とす事となった。
その他負傷した自衛官も2桁を越え、国家転覆を狙った犯行だと、この事件を取り上げたメディアもそのように報道した。
所謂、テロリストとして扱われ顔写真と名前が公開された。機関銃を乱射した数名の自衛官は既に鎮圧にあたった自衛隊の手によって亡くなっていたが、中にはまだ20歳にも満たない自衛官も含まれていた。
「重美さん」
「何?」
「彼らってまさか穴の中に入って調べた人達じゃないですよね?」
随分と久しぶりに穴の話を口にした事で、無意識に身体が硬くなっていた。
「どうかな。わからないけどあり得ない話じゃないよね」
「もしそれが当たっているとなると、穴に関わった人達にも少なからず影響が出始めているのではないですかね」
「考えたくないけど、それはあると思う。自衛隊の人達だけで収まるのなら、ただの国家反逆の為に決起したと思えるけど、もし、消防所や警察内部でこのような事が起きたとしたら絶対に穴のせいだよ。その穴に携わった為に食人仮面の干渉を受けていたという事になるよね」
「仮にそうだとしたら、それはつまり新たな殺人事件が起こると言う事になるわけか……」
「……うん」
この会話をした日の夜、非番の警察官が歌舞伎町に現れた。手には刃渡り40センチ程の小刀を持ち、奇声を上げながらたむろする東横キッズへ向けて次から次へと襲い掛かった。
東横前は悲鳴が上がり血の海へと化した。数名の若者が命を落とし意識が戻らぬ者も複数人いた。歌舞伎町周辺では朝方までサイレンの音が鳴り止む事はなかった。このような報道があった事を、僕達は翌朝になるまで知らなかった。
そしてこの2つの事件に端を発するかのようにその夜、僕達は久しぶりにうなされる目に遭っていたのだった。




