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第七章 ⑥⑤



昼間というのに「喫茶 じくう」の中は薄気味悪い程、暗かった。これは窓や扉の所に厚手のカーテンを引かれているからで、何も僕が恐れている訳ではなかっ……いや多少不安がない訳ではなかった。


それでも重美さんが背中を押すものだから否応なしに店内へと進んで行った。次第に目がなれて来て内装も見え始めそれでも気をつけていないとテーブルの角に足をぶつけたり、床のちょっとした段差に躓きそうになった。


僕は暗さに慣れ始めた目で何気なく前回来た時に座ったテーブルの方を向いた。そこには花瓶が置かれてあり花が生けてあった。まるで死者を弔う為に置かれてあるようで背中がゾワッとした。


「どうして花なんか置いてあるんでしょうか?」


「マスターの中の死ぬ予定リストに入っているからじゃない?」


重美さんは僕の両肩に手を置き、耳元でそう囁いた。


「誰がです?」


「わ、た、し、た、ちに、きま ってんだろうがぁぁぁぁ!」


「うわっ!」


脅かすように掠れた声を出す重美さんのせいで本気でびびってしまった。


「ちょっとやめてくださいよ!」


可能な限り小声で返した。


仮にも今の僕達は不法侵入している身だ。幾らマスターの事が心配で入ったと言った所で許して貰える筈がない。ましてやこんな所を近所の人や警邏中の警察官なんかに見つかったら即刻逮捕案件だ。


成り行きで、いや違う。重美さんのせいでこんな事になってしまったけれど、でも今すぐ逃げようとは思わなかった。せめて穴の存在を確かめるまでは、という気持ちが強かったからだ。


マスターと直接話し合いが持てる状況に出来なかったのは自分にも落ち度はあるけど、そんな事を今更言っても仕方ない。だからこそ、マスターにも見つからないよう気をつけなければならなかった。


隠密のように動いてそして証拠の穴の写メを取り、後日、マスターに会いに来る。この状況ではそれが一番良い案のように思えた。


「悪い冗談ですよ」


僕が囁くと背後にくっついている重美さんが僕の口を手で塞いだ。


「シッ」


言われたように足を止め黙り込む。耳を澄ました。厨房の方から業務用冷蔵庫が唸っている音が聞こえる。


「何か臭わない?」


重美さんの口からそのような言葉が出た。

このような状況下で普通シッという言葉が意味する事は、大抵、潜んでいる者が出した物音に気づいた時にいうセリフだ。


だけど重美さんは素っ頓狂にも臭いの事を尋ねて来た。その事に意味があるのかはわからないけど、僕はとりあえず鼻をくんかくんかさせてみた。すると、確かに店内の奥の方から何かが臭ってくる。


「血、だね」


言われて改めて嗅いでみる。確かに咽ぶような血の臭いが鼻腔を突いてくる。


「体調悪くてまだ後片付けが出来ていないのかも知れないですね」


「どうかな」


重美さんが言う。そして僕に奥へ向かうよう促した。


1歩、2歩と足を踏み出した瞬間、店内の明かりが一斉に点った。一瞬、顔を伏せ再び顔を上げた時、僕達は目の前の光景に我を失いかけた。


膝がガクガクと震え知らぬまにカチカチと歯が鳴っている。唖然とする僕達を他所に数メートル先に「喫茶 じくう」と書かれたデニムのエプロンをしたマスターが立っていた。


「体調が優れない為しばらくお休みすると書かれた紙、見えなかったですか?」


「それを見たからマスターの事が心配でお見舞いに来たんです」


重美さんが咄嗟に言い訳をする。


「ガラスが割れる激しい音がしましたが、貴方達のお見舞いというのは、中々暴力的ですので余り歓迎出来るお見舞いとは言い難いですよ」


マスターはいい片方の口角を上げた。そんなマスターの手には肉切り包丁が握られている。刃の先から滑りけのある血が滴となり床へと向かって落ちていく。


「マスター程じゃないですよ」


重美さんは僕の背後に隠れながら店の奥を指差した。そこは草間さんの特等席でテーブルの上には何故か虚な表情の草間さんがてこちらを向いていた。


「テーブルの上?」


無意識に言葉がついて出る。と同時に冷たい汗が脇から滲み出し、背中がゾクっとした。


草間さんを見据える視界の隅に、梶原さんと野口台さんの顔が見えた。2人は僕から見て真横を向いていて、共に自身の特等席のテーブルの上に頭を載せていた。


2人の視線のその先には厨房があり、切れかけた蛍光灯がチカチカと明滅している。


3人のその光景がどれほど非日常的であり、異常であるかを理解するのに数秒を要した。


まるで重美さんと2人でお化け屋敷の中を進んでいる感覚に襲われる。脳が現実逃避を図ろうとしている風だった。


僕が目にしている現実に対し、それを受け止められる思考力がないと脳が自ら判断しアトラクションへとすり替えようとしているかのようだ。


だけど身体はそれに反比例するかのように大量の汗が吹き出し始めていた。シャツは汗で濡れ肌に密着し気持ち悪かった。


背中に抱きつく重美さんの微かな震えが僕にも伝わって来る。その震えが僕を再び現実へと引き戻した。


逃げなきゃ。今すぐ逃げなきゃ。脳に指令を送る。が、身体は恐怖で硬くなり足は竦んでしまいその場から動く事が出来なかった。


「意味わかんない」


いつの間にか僕の横に来ていた重美さんがマスターに向かってそう言った。


「彼等には最後に好きだった景色を見せてあげたくてね」


「この人達、この店の常連でマスターとも長年付き合いのあった人達だよね?それに秘匿であるあっちの世界の事も共有してたじゃん?」


「勿論彼等の事は好きだしとても仲が良かったよ。毎年忘年会や新年会もやる仲だしね。花見も行ったよ。これは毎年じゃなかったけど。まぁ第三者から見たら中年の同志って感じで受け取られていたかも知れないね」


「仲良しの結果がこれ?」


「君達はまだ若いからわからないかも知れないが、仲が良いというのを究極まで突き詰めるとだね。その気持ちが失われない為に、そしてひょんな事から亀裂が入らない為に、気持ちという曖昧で不完全なものを完全な形で自身の中に保管したくなるものなんだ。それってね。仲良しな相手が生きていたら、叶わない事だよ。死という完全体に帰結する事で曖昧な気持ちも確固たるものへと変わっていくんだ。残念な事にその事を知っていたのは私だけでね。これでもかなりの歳月をかけて揺るぎない関係を築き上げようと努力して来たけれど、彼等には到底、私との関係性において完璧であり続けて行くという事が彼等にとってはその基準となるハードルが高くと不可能だと気づいたんだ。3人が私のいない所で私を誹謗をしている事を知った時は流石に落ち込んだけれど、だからこそこの仲はやがて壊れてしまうものだと気づいてしまったのさ。私はそうなる事が嫌だった。望まなかった。彼等とは墓場まで一緒だという気持だった。だけどね。それが叶わないとわかったら仲良しのままで終わらせたくなるのが人間だと思わないかい?それには死を与えるしかないんだよ。2度と私との関係性が揺らいだりしない為にもね。きっと彼等はわかってくれるし、私に殺されて良かったと思っている筈さ」


「そんなくっだらない理由で3人も殺すだなんて、マジあり得ない」


「プラス2人で、合計すれば今日中には5人になる予定だけれど」


マスターはいい、少しばかり僕達の方へにじり寄って来た。


「私達は別にマスターと仲が良いわけではないけど」


「そんな寂しい事言わないで欲しいな。君達だってあっちの世界を経験したし、出来たじゃないか。それを共有した時点で仲良しになるには充分すぎる理由じゃないかな」


「ほら大魚?言ったでしょ?あの花瓶は私達の為に置いてあるって」


「そんな事正解されたって嬉しくも何ともないですよ」


僕はいい、重美さんの前へ腕を突き出した。少し押し下げるとマスターに向かって言った。


「でも、それだけが3人を殺害した本当の理由ではないですよね?」


「どういう意味だい?私は正直に答えているつもりだよ?何を根拠にそれを否定するのか私には理解し難いね」


「根拠は食人仮面の存在ですよ。マスターも初めてだったのではないですか?」


「何がだい?」


「食人仮面の干渉する力の強力さ、です」


「ほう」


「マスターは食人仮面の力を初めてその目でみたのではありませんか?そしてその圧倒的なまでの力に魅了された。その力はきっとあっちの世界でもさぞ強力な事でしょうね。だからマスターはその力が欲しくなった。手に入れられないなら、自在に利用出来ないか?と考えた。考えた結果、3人を殺す事を決めた。何故なら3人はマスターに殺されるなんて誰も思っていませんからね。思っていないからこそ、殺害されるとわかった時、マスターに対する怨みや憎しみが膨れ上がる。その思念を持ったまま死んで行ってくれれば、それはやがて食人仮面の血肉となるわけですよ。だってこの店の何処かに穴があるわけですからね。首から下の遺体は既に穴の中ですか?いえ、言わなくても良いです。その穴こそ、あっちの世界の入り口であり食人仮面からの干渉を許す為の出口なんでしょうから。増悪の思念が強ければ強いほどマスターには好都合なわけですよね?だって増悪の思念が深ければ深いほど、食人仮面の干渉力が高められて行くからです。マスターはそう考えた。だから草間さん、梶原さん、野口台さん、そして夏夜さん達へ時間をかけて穴の存在を伝えた。けれど底なしの真っ暗な闇の中へ誰が喜んでわざわざ飛び降ります?普通は無理だ。だから貴方達は共犯になる事を誓った。そして一見さんがこの店へ来た時に限り、貴方方はその一見さんを生贄に使用した。睡眠薬か何かを飲ませて眠っている間に穴に放り込んだのでしょう。マスター。貴方ははこの穴の事は幼少期に父親から聞き及んでいた。けど祖父に尋ねてもあしらわれるだけで、明確な答えをくれる事がなかった。その事に不満を覚えたマスターは祖父を撲殺した。まぁ父親も手伝ったのでしょうけど。そして死体を穴に捨てた。だけど死体が落ちた音がしなかった。父親の言う通りだった、この穴に捨てれば何でも消えてなくなる。父親が話した事は本当の事でかなり驚かれたのではないですか?マスターはその後、直ぐに中を覗き込んだでしょうね。そして上から見ても穴の底は見えなかったでしょう。けど、マスターがした事は、きっとそれだけではなかったのでははないですか?」


「中々面白い話だね。けど全て君の妄想だよ。あの女の子が壮絶な死に方をしたのを目の当たりにしたせいで、君は精神が病んだに違いない。出来るだけ早く心療内科を受診する事を私は勧めるね」


「どう思おうとあんたの勝手だけどさ」


重美スイッチが入ったようだ。重美さんから、マスターからあんた呼ばわりに格下げされたマスターは片眉を吊り上げ、視線を重美さんに移した。肉切り包丁を掴む手に力が入った。摺り足で僕達との距離を縮めようと僅かに爪先へ体重を乗せる。僕達が逃げようとしたら飛びかかる算段のようだ。


「私が持って帰ったスケッチブックのせいで、大魚は食人仮面の干渉に遭ったのよ。ま、直接じゃなかったから被害は最小で済んだから今、こうしてここにいるわけだけど、でも最小だからって何も起こらなかった訳じゃない。大魚は食人仮面の影響によって、穴の歴史を見たの。恐らく大魚があっちの世界へ連れ攫われそうになった時、何かの拍子にミスったのだろうね。大魚の思念は穴に捨てられた死者の魂とリンクしたみたいでさ。そこで穴の歴史を見てしまったの。そこにはあんたの祖父がいた。父親もいたわよ。当然、あんたもいた。まだ子供だったらしいけど、けど父親と共謀して祖父をバットで撲殺したのを大魚は見たの。そこまで見せられて大魚は無事こちら側へ帰って来てくれた。だからあんたがその後、今の歳になるまで何をして来たかは私達にはわからない。けどまともな生き方をして来なかったのは3人の生首を見れば一目瞭然だよね?」


「まともな生き方というのは人それぞれでしてね。そういう意味で言えば私は私の人生を私の生き方で真っ当に生きて来ました。それが私の生き方でしたから。他人は関係ありません。関係ないという意味で言えば、そうですね。他人の存在自体も私には関係ないのですよ。生きていようが死んでいようがどうだっていい。構いやしないのですよ」


「だから常連客の首も平気で切り落とせるんだ」


「簡単に言ってくれますね。実際にやってみれば分かりますが人間の部位を切り落とすのは中々大変で重労働です。時給が発生しても良いくらいです。特に首なんてそれはそれは難しい。草間さんや梶原さん、野口台さんもですが慣れていないとあんな風に綺麗に立たせる事は出来ません。切断面がガタガタになるわ、綺麗に整える事も難しいでしょう。ですが、こういった事にも才能って出るんです。不器用だから出来ないとか器用だから出来るとかは一切関係ありません。不器用な方が意外と早く切断が上手く出来たりするものですよ。どうですか?貴女。側にいる彼氏を元彼にしてみたいという気持ちはありませんか?あるなら私が手伝ってあげても良いですよ。勿論、タダでやって見せろとは言いません。もしやる気があるなら、私は貴女に手を出さない事を約束します。如何です?」


「それ、中々面白いわね」


重美さんはいい少し僕から距離を取った。


「人を殺すと決めて殺害するのと、突発的に殺害してしまったというのは結果として殺人を犯したという意味では同じかも知れませんが、内実は全く異なっています。この2つの内、どちらが楽しいと思います?良いですか?殺人に関しては特にそこの部分が大事になって来るのです」


「楽しい?ふざけるな。人の命を何だと思ってるんだ。殺された人には愛する人や家族だっていた筈だ。そんな人を殺しておいて何が楽しいだ」


僕が怒鳴るとマスターは空いた手で頭を掻いた。

少し照れるように微笑んだ。


「君にはわからないし、わかって貰いたいとも思わないですよ。さっきも話したようにこれは生き方の問題です。勿論私にも家族はいました。いましたが、君のように感じた事は生まれてから1度もありません。なので答えようがない。楽しいは楽しいでしかないのですよ」


マスターは良い肉切り包丁を肩に乗せた。肩叩きのように肉切り包丁の峰の部分で叩く。


僕は重美さんの腕を取った。引き寄せ数歩下がった。


「あ。それとまださっきの質問に答えてなかったですね」


「質問?」


「自分で尋ねておいてもうお忘れですか。穴に対して覗き込む以外に何かしただろうと、それだけではないだろうと私に言ってたじゃないですか」


そうだ。忘れていたが、確かに聞いた。


「私はね。祖父を撲殺し穴に投げ捨てた後、自ら穴の中へ飛び降りたのですよ。勿論、理由は穴の中がどうなっているか知りたかったからです。

急降下している時、私はもう1人の私を見ました。その私はそこで消えました。要するに割り勘ですよ。半分の私はそのままあっちの世界へ行き、もう半分は何故かこちらへと戻り、気づいたら布団の中で寝ていました。貴方達が行った世界とは違うでしょうが、私はあっちの世界へね。行ったのですよ。それも数え切れない程にね」


それを繰り返し行った上でマスターは来る客に少しずつ互いの距離を縮め穴の話をする。そこで興味を持った者だけ穴を見せたのだろう。


それから徐々に穴を求める人が集うようになった。それと並行してマスターは店に来た客を殺害、もしくはその手前で穴の中へ突き落とし続けていったのではないだろうか。


憶測でしかないが、それが長年に渡り続けられたせいで食人仮面という思念の怪物が生まれたのではないか。


「あんたが殺した人で穴に捨てたら生きて戻って来たなんて事はあったわけ?」


「数える程ですが居るにはいましたよ。ですがね。そういう人は皆、記憶を無くしていました。戻って来る場所もまちまちでした。見知らぬ土地や見知らぬ国へ突然現れたのです。そういうニュースって昔は稀にあったのですよ。その度、私は会える場所に戻って来た人間にだけ会いに行きました。けれど、一切の記憶を無くしているものですから、私の事等全く覚えておらず、何故か寂しい気持ちにさせられました。僅かでも反応が読み取れれば、連れ出し再度、穴に落としてみたかったのですけどね。そのような状態だから中々家族のガードも固く、連れ出すのは諦めるしかなかったですよ」


「ならさ。私達はどうして穴に落ちずにあっちの世界へ行けたわけ?トラックに撥ねられた衝撃で半分になっちゃったって冗談にもならないような事が私達の身に起きたって事?」


「それはまだ私にもわかっていないのです。なにぶん、データ不足でしてね。だから実験が必要なんですよ。生きている者も死んでいる者も試してみなくては分かりようがない。右腕とスケッチブックを残して死んだあの子だって、店に来る前から食人仮面の干渉を受けていたと話していましたよね?仮説に過ぎませんが別な場所にも穴が出来たのではないかと。そのせいで1箇所の穴の筈が、新たに増えた事で漏れていた思念が枝葉のようにあちこちへからこちらの世界へと広がりを見せ始めたのではないか。私はそのようなに考えています」


「つまり私達はトラックに撥ねられた時、漏れていた思念のせいであの世界に運ばれたってわけね」


「恐らくは、そうでしょう」


「その思念は全て食人仮面のものなのですか」


「思念は目に見えるものではありませんよ。行動が起きた後で初めてその人物の思念の有り様が多少なり感じられる程度です。だから食人仮面の干渉かどうかなんて私に分かるはずがありません」


だからマスターは知人である草間さん、梶原さん、野口台さんを殺害したのか。この喫茶じくうの中に3人の思念を残す事が目的で全員を殺害した。


もしそれが成功と呼べるような物だとしたら、店に入って来た客は3人の思念に囚われその場であっちの世界へ飛ばされて行く可能性があるという事になる。


マスターは穴を使わず、このような状況を世間一般の世界へ蔓延らせたたいのかも知れなかった。


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