第六章 ⑤⑨
僕と重美さんはただ黙って女の子の動向を見守った。ずっと見ているのは失礼な話だけど、見ることを抑える事は出来なかった。
草間のおばさんと目が合うとおばさんはストローを咥えたままクリームソーダを啜り首を横に振った。
僕は仕方なく頷いたが重美さんは草間のおばさんの忠告を一切無視して、女の子を見続けた。
女の子はチビチビとクリームソーダを飲みながらどこか落ち着かない様子だった。
僕達の視線に気づいている筈なのに俯いた顔は決してあげず、広げたスケッチブックを見つめていた。時折、切った指を咥えたり、傷口を舐めたりしていたが、やがて苛々し始めたのか貧乏ゆすりを始めた。
片足が両足になり、それが徐々に身体へと侵食されていく。両腕も震え始め、掴んだテーブルがガタガタと揺れ始めた。まだ半分残っていたクリームソーダのグラスがテーブルの上で倒れスケッチブックを濡らした。
まるで大きな地震が起きたかのように女の子は揺れ続けた。濡れたスケッチブックに構わずに女の子は揺れ続けた。
この時既に女の子は自らの意思でその震えを止めようとしている風にはとても見えなかった。流石に見ていられなくなった僕達は女の子の側に行き、身体を押さえるが震えが止まる事はなかった。
「大丈夫?」
という重美さんの問いかけにも女の子は反応しなかった。女の子の心はここにないようだった。
突然、歯噛みをしたかと思うと舌を出し、蟻の大群に襲われた毛虫の幼虫のように激しく舌が動き回った。その舌がぐんっと伸びた。
そんなに長いのかと思う程の舌が身体を押さえている重美さんの手首を舐めた。
「痛っ」
舐められた瞬間、重美さんはそのような声を上げ女の子から手を離した。舐められた箇所にはリストカットしたかのように複数の切り傷が出来そこから血が滲み出ていた。
女の子はその舌で自分の顔を舐め始めた。その舌には細かな歯が、それもとても鋭利な歯がびっしりと生えていて女の子の頬を傷つけた。
擦り傷のように赤くなった頬から血が滲み球になった。それが複数出来て女の子の頬からTシャツへ落ちた。血が落ちたTシャツはそこから少しずつ広がりをみせて行った。
「救急車呼びましょう!」
僕がスマホを取り出すと重美さんがそれを奪い取った。
「この子が救急車の中で消えたらどうすんの!」
「いや、それは、でも、この状態じゃ……」
「あっちの世界に行く鍵はきっとこの喫茶店にあるんだよ?この子が私達みたい場合なら良いけど、既にあっち側から干渉されてるのに表に出したりしたら大変な事になるってわからないの!?万が一消える瞬間をスマホで動画撮影されてSNSに上げでもされたら、騒ぎになるでしょ!けどここならその理由を皆んな知ってる。だから救急車なんて呼んだら駄目!」
「でもこのままじゃこの子は全てあっち側に連れて行かれますよ!」
「それを止めたいからこうして押さえてんじゃない!」
その言葉で僕は慌てて女の子の腕を押さえつけた。が、そんな僕の力など子供をあやすように女の子が跳ね除けた。僕はバランスを崩して尻餅をついた。
「大魚!」
騒ぎを止めにオーナーが駆けて来る。無理矢理女の子を椅子から引きずり下ろし、床に座らせ背後から抱きしめた。両脚を腰に回して足首でロックする。
「君、レジの下の引戸の中にロープが入っているから持って来なさい!」
僕は直ちに取りに行き、それを使ってオーナーと女の子の間に入れ、女の子の身体に巻きつけた。
それを見たオーナーが女の子から離れ、縛るのを手伝った。舌は尚も這いずり回り自身の顔を舐めたり好き放題に蠢いていた。
オーナーがテーブルへ手を伸ばしおしぼりを掴むと無理矢理女の子の口の中へ押し込んだ。
「呼吸大丈夫ですか?」
僕が尋ねると
「舌を噛み切る事はないだろうけど、あんなに震えているからね。一応、念の為」
とオーナーが言った。
「久々に見たよ」
お客の1人である男性がオーナーに向かって手を差し出した。オーナーはその手を掴むとゆっくりと立ち上がった。
「君達もお疲れ様」
その男の人は野口台と名乗った。
歳は50手前くらいだろうか、センター分けした髪の毛の前髪だけが白かった。
「こんな事、夏夜さん以来だね」
野口台さんが言った。
「あぁ。全くだ」
いつしかもう1人の男が側へ来ていて、野口台さんへ返した。
「夏夜さん?」
重美さんが尋ねる。
「そう。夏夜さんって言ってね。彼女も若い頃は画家志望だったけど、理由は知らないけど挫折してさ。でも絵を描く事だけは続けていたんだ」
「いなくなったのはいつ頃ですか?」
「5年、いや7年くらい前かな。マスターそうだよね」
「あぁ。そうだね。それくらいだったかな。夏夜さんは皆んなの中で1番最初にあっちの世界に行った人なんだ。それも4回もね。けど4回目から戻って来てから直ぐ、この子と同じ現象が夏夜さんの身に起きた。丁度、その時、夏夜さんはこの子が座っていた席でクレヨンで絵を描いていた。私がクレヨンなんか使って珍しいねって聞いたら、夏夜さんはそうね。何か急に使ってみたくなってって恥ずかしそうに言ったんだ。それからしばらくしたらいきなり震えだした。身体がみるみる内に消えていって行く中で、私達にはどうする事も出来なかったよ」
新たな男性は梶原と名乗り、縛られている女の子を上から見下ろしていた。
「こうなったら、連れて行かれるのは時間の問題だな」
「あぁ。そうだな」
野口台さんと梶原さんの2人の会話が店内に響き渡る。草間のおばさんは知らんぷりを決め込んでいた。
「その後、夏夜さんはどうなったんですか?」
「わからない。こっちに戻って来れたのか、それとも駄目だったのか。最初は半信半疑だったよ。けど夏夜さんの全てが消えて無くなっていたから、恐らくあっちの世界のどこかへ連れて行かれたまんまじゃないかな」
「じゃあ生きてるか死んでるかもわからないって事?」
重美さんが尋ねる。
「そうだな。俺達には知る術がないからね。こうやって日々、あっち側から呼ばれる為に、ここに足を運んで来てるが、俺はお呼びでないのかさっぱり飛ばされる事は無くなったからな」
梶原さんが寂しげに言った。
この人達、どれだけ向こうの世界に行きたいのだろう。僕個人としてはもう充分だった。
「オーナーさんは夏夜さんって人のように消えた人が今まで何人かいるっておっしゃっていましたけど、実際、その人達は全員、この店の中で消えてしまったんですか?それとも店を出た後で消えた人はいたのですか?」
「全て店の中で起きたよ。夏夜さんを含めて今まで4人。その内、私達と仲が良かったのは夏夜さんだけだ。他の3人は皆、初めてみる客だったね」
「その全員があのような震えの後にいなくなったわけですか」
「いや、震えたのは夏夜さんとその子だけ。他の客は気づいたら居なくなっていた」
「いやマスターそれは違う。夏夜さん以外の客は、ゆっくりと全身が透明になっていったんだ。
存在自体が薄れて行くって感じだった」
梶原さんが言った。
「お前、見たのか?」
「あぁ。1度だけね。けど余りに不思議で、最初は見間違えたかと思った。疲れていて目が霞んだだけだと思っていた。だがいなくなった事に夏夜さんや草間さんが気づいた時、ひょっとしたら?と思ったさ。けど、今更透明になって行ったって話してもどうにもなる事じゃないから今まで黙っていたんだ」
「やっぱり、あちらの世界に行くにはこの店に来る事が第1条件みたいね」
重美さんが言った。
「じくうの常連客は皆んなそう思ってるよ」
「因みにオーナーはいつこの店をオープンさせたのですか?」
重美さんが女の子の方を一瞬、見た後で尋ねた。
「オープンさせたのは私ではなく私の祖父だよ。祖父が亡くなると私の父が後継ぎになり、父が亡くなってから私がその後を継いだんだ。15年程前だったね」
「お父様はこの現象をご存知だったのですか?」
重美さんがオーナーに聞く。
「いや知らなかったと思う。というより理解出来ていなかったんじゃないかな。父が亡くなる前までに私も店の外で倒れたり、君達みたいに車に跳ねられたりした人を何人か目撃した事があった。そのような事は祖父の時代にもあったらしいから、店が呪われているのではないか?と祖父や父もそのような事を話していたらしい。幼い私にも父が話をしていた程だ。だから怪奇現象のようなものだろうとイタコや霊媒師、祈祷師などを呼んでその現象を無くそうとしていた。だが駄目だったね。結局、私の代になってから知らない世界へ呼ばれるって事くらいはわかって、ま、夏夜さんのお陰なんだが……」
「結局、ハッキリとした原因は解明されていないって事ですね」
「歯がゆいが君の言う通りだよ」
「念の為にこの女の子の身元がわかるような物はないのか?」
野口台が言った。
「店に入って来た時、その子が持っていたのはスケッチブックだけだったわ」
重美さんは言い僕に同意を求めた。
「はい。間違いないです」
「ジーンズに財布が入っているだろうから、そこの君、探ってみてくれないか?」
梶原さんが重美さんにお願いする。
「状況が状況と言ってもこんなオッさんが若い女の子の身体に触れる訳にはいかないからな」
重美さんは返事もせず言われた通りにした。
前ポケットに入っていた折り畳みの財布の中には薬局のポイントカードにスケッチブックを買った時の領収書に千円札が6枚、計6千円と小銭が少々入っていた。
「免許証や保険証、もしくはマイナンバーカードは入っていないのか?」
「ないですね」
「それじゃ名前も住所もわからないじゃないか」
「いえ、名前はわかりますよ。この子、意外としっかりしているのかも」
重美さんは薬局のポイントカードを広げて見せた。
「今時、ポイント毎に判子を押すような店もまだ残っているんだね」
オーナーが重美さんの持つポイントカードに顔を近づけて言った。
「斑鳩 萠ちゃん、それがこの子の名前のようね」
「萠ちゃんか。まだまだ若いのにあっちに行ってしまうだなんて可哀想だな」
「まだ行くとは限りませんよ?」
「いや、希望を持ちたいのはわかるけど、君も萠ちゃんのあの舌を見ただろ?明らかにクリチャーだったじゃないか。完全にあっちの世界に呼ばれている証だよ」
「でも、見てくださいよ。今は震えも治ってますよ?血色も良くなって来てる感じだし……オーナー?ロープ解いてあげてもいいですよね?」
「オーナーって呼ばれ方、なんか慣れないなぁ。あ、いや何でもないよ。うん。そうだね。落ち着いて来てるから解いても良いと思う」
「やめとけ。解いた瞬間、飛びかかって来られでもしてみろ?ガブリとイカれるかも知れないぞ」
梶原さんはいい、側を離れた。自分の席へと戻って行った。
「俺も逃げとくよ」
野口台さんが梶原さんに続いて席についた。
もしロープを解いた瞬間に食人仮面に肉体が乗っ取られてしまえば、そんな所に避難した所で無駄なような気がするけど、それについては黙っておいた。
重美さんは2人を無視してロープを解くと口の中に押し込んだおしぼりを抜き取った。それをテーブルにおくと重美さん自ら萠さんを抱え上げ椅子に座らせた。
「萠ちゃん、大丈夫?」
声をかけながら自らの舌で傷つけた頬を取り出したハンカチで拭いてあげた。
「何か飲む?」
「水をく、だ、さ、ささ、ささざざ、、い」
「マスター、水をお願いします」
あれ?と僕は思った。重美さん達には聞こえなかったのだろうか?最後の方の言葉が変じゃなかったか?それとも聞き間違いだろうか。
重美さん達は一切気にしていないようだ。
それが証拠に重美さんはさっき呟いたオーナーの言葉を聞いていたようだ。だからオーナーからマスターと言い変えたのだろう。
マスターがグラスに入った水を持って来ると重美さんに手渡した。受け取った重美さんは萠ちゃんの両手にグラスを持たせた。
「自分で飲める?」
萠ちゃんは頷くとゆっくりとグラスを持ち上げ口へと運んだ。一口、二口とゆっくりと嚥下していく。三口目を飲むと静かにグラスを置いた。そして徐にスケッチブックの端を摘む。
クリームソーダと自らの血によって汚れた食人仮面の絵を見ながら、「私、こいつなんか大嫌い」
いって萠ちゃんは自らの血で描いた食人仮面が描かれてあるページを引きちぎった。それを細かく千切り、「お前なんから死んじゃえ」と声を振るわせながら食人仮面の絵を破り続けた。
テーブルに散らばったゴミとなった絵を重美さんが、丁寧に拾い集めて行く。
「もう大丈夫だよ。きっと食人仮面も萠ちゃんが怖くなって逃げたに違いないよ」
「だと良いけど……」
と萠ちゃんが言った。その時だった。重美さんが萠ちゃんの顔を見ながら「え?」と言ったのだ。
「重美さんどうしました?」
「萠ちゃんの顔が……」
その顔には皮膚下で何か得体の知れない生物が蠢いていた。動きが早くなり萠ちゃんの顔に変化が見られた。
ゆっくりとだが鼻が曲がり折れて潰れた。圧縮機で押しつぶされるように顔が潰れて行く。目が独自に動き回り、横から引っ張られるように元の位置から徐々に離れていった。
「う、そ、……食人仮面の仮面のような、エイのように顔が変わって……行って……」
重美さんが後ずさる。僕は慌てて重美さんを抱き寄せ萠ちゃんから距離を取ろうとした瞬間、萠ちゃんの顔の皮膚が裂けた。皮下組織が露わになり、血に染まった真っ赤な顔が露わになった。毛細血管や組織がの中を這いずる何かが蠢いている。萠ちゃんの眼球がゆっくりと押し出され膨張し破裂した。顔面のあちこちから気泡が湧き出てくる。破裂する度、血が飛び散った。それはやがて噴火寸前のマグマの熱を帯び湯気を上げた。と共にベキベキベキっと頭蓋骨が折れる音がした。萠ちゃんの頭蓋骨が破裂した。脳漿が天井や壁、床や入り口付近にまで飛び散り、驚く間も無く萠ちゃん自身が破裂し飛散した。
続いて身体も破裂し内蔵をぶちまけた。腸がフリスービーのように飛んで壁へべちゃりと張り付いた。起きた事が余りに衝撃的過ぎて僕達は誰一人としてその場から身動きが取れなかった。血生臭さを感じるまでしばらくかかった。雨漏りのように天井についた脳漿や血液が垂れて来る。砕けた骨がフラッグのように突き刺さった。これから先は危険だというようにその骨は店内の中で威厳を放っていた。余りの衝撃的な出来事に未だ僕達は動けなかった。いきなり吐き気を催し僕は嘔吐した。この嘔吐は重美さんを守った為、起きた嘔吐なのか、萠ちゃんの惨い死体をみて吐いたものかわからなかった。そんな僕達はまだ混乱の中にいた。萠ちゃんの返り血を浴びたまま、状況を理解するまで時間がかかった。
「イヤャャャ!」
重美さんの叫び声と共に我に返った僕とマスターは震えながら後退る。粉々に散った萠ちゃんの筈が今、こちらに残っているのは片腕とスケッチブックだけだった。その2つがテーブルからゆっくりと落ちて行く。ウンザリするほど傷つけさせられたリストカットされた腕の先の手が床に落ちて跳ねた。掴スケッチブックが広げられたまま血溜まりの血を吸った。そこには萠ちゃんの血で、新たに食人仮面の絵が描き始められていた。




