第五章 ④⑤
バクが棲息しているという事は近くには水場がある可能性が高い。
バクという生き物は水の中の植物を食したり、危険を察知すると水の中へ逃げる習性があると耳にした事があるからもし僕達に危険が及ばなければ水場は探してみたい所だった。ただやはり重美さんの言葉がひっかかった。
ここは何が起きても不思議ではない世界なのだ。
夢喰いの事を馬鹿にしていたが、そのように言われると、夢喰いが現実に起こり得るかも知れないと僕は思い始めた。
そんな重美さんはいつしか静かな寝息を立てて眠っていた。夢を見ちゃダメよと言いながら即寝出来る図太い神経に感嘆の息が出てしまう。おまけに大雨は更に強さを増して今では豪雨になり変わっていた。
凄まじい雨音が洞穴の中まで聞こえて来る。雷がない分、少し気持ちも楽だった。雷はホラー映画でいう所のジャンプスケアだから、びっくりしてしまうのだ。それが僕は苦手だった。
だから雨だけの音ならむしろ有り難かった。こんな中でもバクは僕達を監視する為、見張っているのだろうか。先入観は良くないが、フレンドリーに接したいからと集まって来ているとは到底思えなかった。
それならジッとしていないで接触してくるだろうし。それが無いというのはやはり今の状態は決して良い兆候とは言えない気はする。
僕はバックパックから樽を取り出してつなぎの泉で汲んだ水を一杯飲んだ。その後で鳩三郎さんから頂いたお菓子を齧る。
脳が疲れた感じだけどチョコレート系は既に重美さんが食べ尽くしていたので、ナッツ系を頬張った。その後でライトを消し自分も地べたへ身体を横たえた。
目が覚めると側にいた筈の重美さんの姿がなかった。
咄嗟にバックパックの方を見るがいなかった。
洞穴の外の方に視線を向けると既に雨は止んでおり、柔らかい陽射しが洞穴の入り口付近へ降り注いでいた。
僕は咄嗟にバク!と思い、ピラミッド山の洞穴の出口へと向かって行った。一歩外に出た瞬間、僕は愕然としてしまった。
そこにはどこから運んで来たのか知らないが大きな楕円形の黒曜石が置かれてあり、その上には様々な果物と飲み物だろうか。
把手のついた花瓶のような入れ物が数個置かれてある。おちょこのような茶碗の前にはバクが座り、他所を向いて手拍子をしていた。
僕が同じようにそちらへ視線を向けるとバクの背中に乗った重美さんが手にした木の枝を振り上げながら何やら叫んでいた。よく聞くとタイムを測って!と言っているようだった。
この状況から考えられるの短距離走だ。いや寧ろ競馬に近いのか。競バクと言った所か。
何処からスタートという声が聞こえたかと思った矢先、僕の目の前をかなりのスピードで駆け抜けるバクに跨った重美さんの姿があった。
おいおいマジかこの人
「9秒58!」
「大口叩いた割にはさっきの子より遅いじゃん!」
「もう一回。もう一回だけチャンスをくれ」
「私は別に構わないけど、皆んなは?」
「良いよ。幾らやっても唐獅子には勝てっこないから」
唐獅子と呼ばれたバクは二足で立ち、誇らしげな表情を浮かべながら腕組みをしていた。
その周りにも二足立ちしているバクが数匹いたが、唐獅子と呼ばれたバクはそのもの達よりも身体が小さかった。なのに重美さんを乗せた競争で一位にいるという事だがバクの中では相当足が速いのだろう。
重美さんは合計6匹もいるバクを一体、いつの間に手なづけたのか。とても信じられなかった。
「お?大魚、おはよ」
1人と1匹がトコトコとスタート地点へと向かって行く。
「これは一体、どういう事です?」
「彼らがここに来たのはさ。お産を手伝って欲しかったんだって。夜中にトイレに出たら、いきなりお願いされて、彼らの棲家に行ってさ。子供を取り上げてあげたの。人間でいう難産も難産だったのよ。1週間以上産まれて来れなかったらしいよ。けど、無事産まれてさぁ。何か私、感動して泣いちゃったわ」
「僕が寝ている間にまさかそんな事になってただなんて、驚きです」
「あ、皆、彼が昨夜私の話に出てた童貞くん」
「ザクロと同じってのがそいつか」
「そ。ザクロと同じ」
重美さんがいうと、ゴールの側でレースを見守っていた中の1匹が、僕へと近寄って来て僕の身体の匂いを嗅ぐ。
「こりゃ俺より重症だぞ」
「何が?」
「童貞具合がだよ。まだまだ当分無理そうだな」
ザクロと呼ばれた者は自慢げにそう言った。それを聞いた他のバク達は一斉に笑った。
「ザクロより重症とはな。まさにご臨終だな」
「バカいえ。ご臨終などあるものか。例え長らく童貞が続いたとしても、こいつは一途に重美を思い続けているんだ。仮にだ。仮に奇跡的に重美の気持ちが変わってそのような事になってみろ。その時点で俺達なんかとは比べようもない勝利者になるんだぞ?」
「確かにそうだな。重美で童貞喪失か。万の宝よりも価値があるじゃないか」
「そういう意味ではザクロの方が負けているな」
「そういう事は重美とそうなってから言ってくれ」
僕と同様にバク界の童貞君は僕にライバル心を燃やしている。余程負けず嫌いらしい。
バクの世界にも童貞という概念がある事自体、驚きだったけれど、この世界の中では何が起きてもおかしくない。
僕が生きて来た22年という歳月で刷り込まれた常識というものも、ここでは当たり前に通用しない。
目にする出来事に一々、一喜一憂していたらメンタルが持たないけど、けどやっぱり初めての事に遭遇してしまうと無意識に比べてしまっている。
22年という長いようで短い月日の間で僕という人格形成がなされて行く間に、色々なものがくっついて来たようだ。それをいとも簡単に捨てる事が出来れば、重美さんのような振る舞いも出来るのかも知れない。
羨ましがった所で僕は重美さんには慣れないし、どう足掻いても僕という入れ物から僕を取り出す事は出来ない。
僕は僕であり僕であるからこそ、この世界にいるとわかっていても一々、僕という入れ物でしか物事を見ること出来ていない。
人は人だし同じ考えや気持ちなどには中々なれるものじゃない。だから、僕は僕の歩幅でこの世界に馴染んで行けば良いのだ。僕として生きて行くにはそれしかないような気がした。
バク達の話し声を聞きながらそんな風な事を思っている内に、2回目なのか、3回目なのかわからない短距離走が終わっていた。
さっきより大幅にタイムが落ちてしまった事で、重美さんを乗せていたバクが、肩を落とし悔しがっていた。
そんなバクを励ました後、重美さんが僕の方へと近寄って来た。
「彼らは洞穴の中に人間がいる事は知ってたみたい」
「そうなんですか?」
「うん。けれど人間がいつ何処からやって来て、ここで何をして死んでしまったのかはわからないらしいよ」
「狼などは?」
「いるにはいるみたい。けど、理由は知らないけど峡谷には近寄って来ないようね。だからバク達も安心してここに住めているって」
「じゃぁ、あの遠吠えは何だったんでしょうね」
「難産だったバクの妻の旦那がその辛い思いと、無事我が子が産まれて来てくれるように月の女神に祈っていたんだって」
その祈りは重美さんの手助けにより、叶えられたという事か。
「だからさ。そのお礼にって」
重美さんは黒曜石のテーブルを指差した。
「赤ちゃんの誕生のお祝いもかねてだけどさ」
「仲間が一緒になって誕生を喜んでいるのですね」
「うん」
でも、どうやって僕達の存在に気づいたのだろう。僕はてっきりあの遠吠えが合図だと思い、警戒していたわけだけど、実際はそうではなかったようだ。
「唐獅子が警邏中に私達を見かけて、皆んなに知らせたの」
「警邏中?」
「うん。この付近に狼はいないけど、稀に近くまでやって来てはバクの連中を脅しているみたい。でも手出しして来ないのは、恐らくこのピラミッドのせいだろうと唐獅子が言ってたわ。どうやらその昔、あのピラミッドの中にいた何かが、幅を利かせていた狼達を追い払ったようね。だから近づいて来れないみたい」
唐獅子とは重美さんをその背に乗せて短距離走を走り1番速いタイムを出したバクだ。
このバクの群れの中で1番力も強い戦士だという。危険が迫ったら水の中へ逃げるという、僕が知っているバクとはかなり違うようだ。その事を重美さんに話すと
「そうなんだ?」
と言い、「意外よね」と付け足した。
「どう意外なんですか?」
「ん?そうね。彼らの棲家にはさ」
「はい」
「両刃の斧が沢山置いてあったのよ。唐獅子いわく木を伐採する時に必要だからって言ってだけど、多分それだけじゃないよね。木を伐採するって事は狼の棲家に足を踏み入れるって事だからさ。きっと斧は木を切る為だけではなくて身を守る役割も果たしているんじゃないかな」
斧を振るうバクに向かって咆哮を上げながら、集団で襲いかかって来る狼。
イメージはし易かったけれど、ちょっと怖かった。そして僕達はその狼に出くわさずバクの生息地に辿り着けた事に今更ながらホッとした。
だけど……狼が悪者とも言い切れる自身が僕にはなかった。バクより先に出会っていたら仲良く慣れていたかも知れない。
逆にバクは仲間の赤ちゃんが難産で中々産まれて来なかった事があった為、藁をも縋る気持ちで重美さんを頼ったのかも知れない。
それがなければ彼等も、僕達に対して彼等から見たら敵である狼と同じ立場になって僕達を追い詰めていたかも知れない。
それにバクは狼と違いピラミッド山の側まで近づく事が出来るのだ。どちらが僕等を襲いやすいかで言えば間違いなくバクの方だ。
かも知れないばかりで自分でもウンザリするけど、立場が違えば見方も捉え方も変わって来るというのはどの世界でも同じなのかも知れなかった。




