第四章 ④②
「後は、いつ出発するかだね」
「それなんだけどね」
花葉の言葉に重美さんが反応した。
「うん」
「その前に花葉に話さなくちゃいけない事があるの」
重美さんの言葉を聞いた僕は身体の筋肉が強張った。駄目だ。重美さんに言わせたら駄目だ。
責められるべきは僕でなければならない。その方が花葉も感情をぶつけ易い筈だ。マーラを殺してしまったかも知れないと聞かされた花葉の気持ちを思うといたたまれなくなる。だがこれは伝えなければならない事案だった。
「重美さん、その事は僕から話ます」
僕と目が合った重美さんは少し驚いたように目をまん丸にさせた。
「私が言おうとした事が大魚はわかったの?」
「はい」
「じゃあ話してみて」
「マーラの事です」
「それで?」
「花葉、ごめん。僕は花葉のお母さんのマーラを殺してしまったかも知れない」
無意識に心痛な面持ちになった僕の肩を重美さんが叩いた。
「何ですか?」
重美さんが首を横に振った。どう言う意味だろうか?と思いつつも再び花葉を見ると花葉も首を横に振っていた。
「え?」
「大魚。私が話そうとしていたのはマーラの件じゃない」
「そ、そうなんですか?」
「うん。その事はもう花葉に話し終えたわ。花葉はわかってくれた」
「あの状況なら、そうなる事くらい想定出来るよ。だからお母さんも食器の下へナイフを隠してそれを2人に渡したんだと思う」
「な、なんだ、もう話していたんですか」
「当たり前じゃない。私。そう言うのを先延ばしにするのは嫌だし、それに黙っている事は余計に花葉を傷つける事だと思ったから、昨日の夜に話したの。ね?」
「うん。重美の話じゃナイフを額に突き刺し引き抜いてから蹴飛ばしたって話だけど、それって間違いないかな?」
「間違いない」
「なら、2人から聞いた話の中で間違いは1つだけだね」
「え?」
「大魚は重美のした事を自分の手柄にしようとした」
「ちょ。待ってそれは手柄じゃなくて重美さんの身代わりになろうと思っただけで、その方が花葉も重美さんを責めるより僕が殺害した事にした方が気持ちをぶつけ易いと思ったからであって……」
「本当かなぁ」
「本当だよ」
「ヤカラを倒したぜって自慢したいだけじゃないの?」
「そんな事、普通自慢なんて出来る訳ないじゃないか」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「村の人は獲物を倒した時、自慢するよ?」
「獲物とマーラさんを一緒にしちゃダメだよ」
「変わんないと思うけど。だってヤカラに変身してたんだもん。昔、この村に現れた人間も倒したヤカラの数を自慢してたって村長が言ってたし。だから自慢するのは変でもないし不思議じゃないよ。だって人間って身内やよく知りもしない他の種族の親兄弟を殺して自慢するような一族なんでしょう?じゃなきゃヤカラを殺害して平気で自慢出来るわけないもん」
花葉の言葉は僕の胸を切り裂くほど鋭利なものだった。重美さんを見ると俯き唇を噛み締めていた。
ひょっとしたら、花葉は人間である僕らを憎んでいるのかも知れない。だからマーラさんを殺した可能性がある事を重美さんから聞いても、やっぱり人間だ、この人達は人間なんだと思い、怒りを通り越して憤った感情をぶつける事を諦めてしまったのかも知れない。そしてそれ以上に自分の中にある人間の血を忌み嫌い、自分が焼き殺した一族の者に対しても、何の感情も持てない事に、花葉は苦しんでいるのかも知れなかった。
「確かに人間の中には平気で人間を殺す奴がいる。僕達みたいな大人が花葉みたいなまだ幼い子供を殺したりする事もある。反対に子供が集団で大人を殺す事もあれば、子供が子供を殺す事だってある。子供が殺人を犯す理由は、死んだらどうなるか知りたいという欲求と死んでいく様が面白そうと言う理由があったりもする。そして1番は子供が殺人を犯して捕まっても罪が凄く軽いという事が1番の理由だ。だから未成年、つまり大人になりきれていない未熟な人間が犯罪を犯しても数年もすれば、罪を犯した人間だけが収容される場所から出られてしまう。だから人間の世界の中でも平気で殺人に手を染める子供が増えて来ているんだ。社会問題にもなってるよ。生まれ育った環境が悪かった事で犯罪に走る子供や、両親から虐待を受け続けずっと我慢して生きてきたその反動で突然、道端で人を襲い殺したりもする。そういう意味では花葉の言う通り人間は酷い一族なのかも知れない」
「大魚は殺した事はないの?」
「ないよ。けど今まで生きて来た中には殺してやりたいと思った人間は少なからずいる。マーラさんが隠し持って来てくれたナイフじゃないけど、殺そうと思ってナイフを購入した事もある」
「だけど殺らなかった?」
「うん。踏みとどまった」
「どうして?」
「大人に酷い事をされたその女の子が止めて欲しいって言ったから僕は買ったナイフを使う事はしなかった……
……その子は人間の大人の先生から、先生というのは、、、」
「先生って意味は知ってるから大丈夫」
「そっか。わかった」
僕はそう言って1度、息をついた。そして再び続けた。
「その女の子は毎日のように先生からいやらしい事を強要され続けていたんだ。重美さん的に言えば悪いチンコ人だ。その大人のチンコ人がまだ中学1年の未成年の女の子の生徒に放課後、悪戯をしていた。偶然、居残っていた僕が絵を描く教室、美術室っていう場所でその女の子が先生に殴られるのを見てしまったんだ。制服は脱がされ中に来ているシャツはナイフで切り刻まれていた。顕になった下着に先生は油絵具で変な絵を描いていたよ。それを嫌がったせいで、女の子は殴られたようだった。僕はたまたま忘れ物をした為に美術室に戻ったんだけど、僕に見られた事を先生は何とも思ってない風だった。むしろ、僕の襟首を掴んでその女の子を殴れとまで命令して来た。僕は断った。すると先生は「この女子生徒は油絵具を万引きした。崇高な油絵を描く為に必要な道具をだ。それは全ての絵描きを侮辱しただけでなく、絵そのもの自体をも地に落とし踏み付けたも同然だ。それくらいの事をしたんだ。絶対に許される筈がない。許してはいけないのだよ。だからせめてもの慈悲として絵描きの端くれの私が皆んなを代表してやなさねたまでよ。私から殴られて当然なんだ」って言った。
「本当に万引きしたの?」と僕が尋ねると女の子は静かに頷いた。
「けど、家がそんなにお金がある方じゃないから油絵具を買うお金がないと先生に言ったら、そんな理由で許されると思うな。万引きしてでも手に入れて来いって言われて……」
「それで……」
「……うん」
「そんなの先生が悪いじゃないか」
「万引きしてでもって言われたくらいで、まともな生徒は万引きなんかしやしない。それくらいの緊張感と度胸、そして人の目に晒される事を恐れない勇気と覚悟で絵と向き合いなさいと言う意味で、教師の私が未来ある生徒にそのように伝えただけだ。それを何を勘違いしたのか、こいつは万引きをした。だから罰を与えるのは教師として当然の事だ。それが教師のあるべき姿なんだよ。たかだか12歳程度の小僧に何がわかる。何もわかりやしない。だからお前は今すぐ回れ右をして教室から出て行けと、先生はそのように言い僕の襟首を掴んで美術室から放り出した。僕は歯向かえなかった自分に腹が立った。だから対等に立ち向かえられる物として、その足でナイフを買って戻って来た。でもそこにはその女の子の生徒以外、誰もいなかった。先生が逃げたと思った僕はその女の子に尋ねた。
「あいつは何処に行った?」
その時、僕の手にはナイフが握られていた。だからだろう。その女の子は殺すのだけは止めて欲しいと言った。理由は私の為に僕の人生が狂ったら死んでも死にきれないと言ったんだ。だから僕は悔しかったけど一旦、ナイフはしまった。それを見た女の子は涙を流しながら笑ってくれたよ。
絶対殺しちゃダメ。絶対に。何があっても絶対に私の為にそこまでの事はしないでといい、衣服を着直し、美術室から出て行った。翌日、その女の子は遺書を残して首を吊って亡くなった」
「チンコ人のクソ先生はどうなったの?」
「2か月後に自殺した女の子のお父さんが運転する車に跳ねられその場で攫われた。そして撥ねられてから10日程経ってから、5体バラバラにされて美術室の黒板に部位ごと釘打ちされ、周りには油絵具が大量にぶち撒かれていたんだ。女の子のお父さんは直ぐに逮捕されたけど、獄中で自殺を図った。でもギリギリの所で看守に助けられた。命は助かったけど、自殺の後遺症で全身のあちこちで麻痺や痙攣に侵され、言葉もまとも喋れなくなった。重度の障害を持つ羽目になったんだ。おまけに24時間ウウウウウォオて叫び続けるものだからお父さんは留置所から出され精神病棟へ移動させられた。そこでお父さんは辛うじて動かせられる部位の1つの口を使って与えられた絵筆を口に咥え、絵を描くようになった。そのどれもがグロテスクで、見る者は皆んな、お父さんが自ら手にかけた教師の死を現していると思った。それ程、その絵にはネガティブな力があったんだ。見る者の気分を害し心を圧倒的な不快さと不愉快さで埋め尽くした。そんな女の子のお父さんはある時、再び自殺を図った。ストローの入ったグラスを口に咥え、テーブルから落とすと自ら車椅子から降りて割れた破片を真っ新なキャンバスへ突き刺した。そして突き刺した破片に自らの首を押し付け首筋を何度も何度も何度も首筋を傷つけた。その内、頚動脈が切れ血が噴き出し真っ新なキャンバスへ飛び散った。その絵画がお父さんの遺作となった。絵画のタイトルは海とつけられていたらしく、それは先生に酷い目に遭わされた女の子の名前と同じだったんだ」
「それから人を殺してやるって思った事は?」
「ないよ。でもお前死ねよって思う時は沢山あった」
「ふぅ〜ん。大魚でもそんな風に思う事があるんだ」
「そうだね。たださ。死ねよって言葉や思ったりしたらさ。何故かそれが口癖になってしまうんだ。多分、これも1つの呪いなんだろうけど」
「自身へかける呪いってね」
重美さんが言った。
「そうなんです。死ねよって思ったり口に出した回数だけ、自分へ呪いをかけているようなんです。思ったりしなくても嫌な事とかはありますけど、思ったりすればするほど、思わない時より数倍、嫌な事が起きたりする気がして、だからそれ以来、死ねよって思う前に、あぁ、この人は最近、嫌な事が多いのかな?辛いんだろうなって思うようにしています」
「大魚ってただのチンコ人のキモい奴だって思ってたけど、ちょっとだけ見直した。咄嗟に重美を庇おうとした所も、私が重美の立場だったら嬉しいかな」
「そう……ありがとう」
「だけどさ」
「うん」
「出来るだけ早くここから出た方がいいと思うよ」
「どうして?数日我慢すれば、皆んなに別れの挨拶も出来るから僕個人としてはそれからでも良いかなって思うんだけど」
「そうだよね。そう思うと思う。でもさ。さっきの大魚の話じゃないけど、ヤカラに変身しちゃう一族ってやっぱおかしいよね。元に戻った時はその記憶すらないんだもん」
「うん」
「それって大魚の言う死ねよって思うのと同じような気がするの。無意識にそう思ったりし続けると自分の身に良くない事が起こる。ダスターズ一族ってそれに気づかなかった者の1番酷い呪いを自分にかけた集まりなんじゃないかな。だからきっとあんな風にヤカラに変身しちゃうんだよ」
「自分に呪いをかけ続けた結果って事ね」
重美さんが言った。
「うん。そんな気がするから早くここから出た方が、良いと思うの」
「それをいうなら花葉も出た方が良いんじゃない?」
「私はさ。大魚の話がヒントになったんだけど、ヤカラにならないように出来るんじゃないかって思ったの」
「つまり、それって……」
「実は皆んなが皆んな村人を嫌っていて、死ねよって思っているかも知れないって事?」
「うん。だからその心を変えてあげられたら、ヤカラには変わらないかなって。根拠なんかないよ。そう思っただけ。けど私は一族の皆んなの事が好きだから、ここに残ってその心を変えて行けたらなって。大魚の話を聞いて強く思ったよ」
「そっか」
「だから、今すぐ出て言った方がいいとは言わないけど……」
「皆んなにお別れを言ってから、クルクルを探す旅を続けるよ。ね?重美さん?」
「そうだね。その間、嫌なことを思ってヤカラに変身してしまう程の酷い事を思って自分に呪いをかけても、私は誰も恨まないよ。そういう時は大魚を殴ればスッキリするし」
「酷すぎますよ!」
花葉が笑った。その笑顔の奥には並々ならぬ決意が漲っている気がした。
結局、僕達は村人全員がヤカラから元に戻るのを待ってからこの村を出て行く事にした。そして何より良かったのはマーラが生きていた事だった。
額には角でぶつけたような凹みがあったけど、マーラは何一つ記憶がなく、その傷の事すら気づいていなかった。僕と重美さんは互いに目配せして安堵した。村人達は再びヤカラに襲われた事に不安がっていたが、花葉が僕達がヤカラを追い払ってくれたんだと触れ周り、何故かやっぱり人間は凄いという事にされてしまった。実際、ヤカラを殺したのは数人程度であったがそれが村人だと知っている僕は居た堪れない気持ちになった。
その焼死体の後始末などを手伝いながら、村に普段の様相が見え始めた頃、ようやく僕達は旅の続きを始める事にした。
「元気でね」
「花葉もね」
「娘が大変お世話になって……ありがとうございました」
「マーラさん。逆ですよ。僕達の方が花葉にお世話になり、感謝致します」
マーラさんと村長を含め、全員が村の入り口まで見送りに出てくれた。そんな皆んなに僕達は手を振りながら、ゆっくりと村から出て行った。しばらくしてから重美さんが口を開いた。
「大魚さぁ」
「何ですか?」
「私のスーツ奉納されてたじゃん?」
「ええ。僕のもそうですね」
「あれ。めちゃくちゃ高級ブランドだったのよ」
「あら」
「だからさ。今夜、取り返して来てよ」
「何言ってんですか!」
「私達がまさか戻って来るとは思われないだろうから、取り返すチャンスだと思うんだけど?」
「あの、重美さん」
「何よ」
「そんな風な事を言ったら自身が呪われますよ」
「大魚とこんな事になってる自体が既に呪われてるわ!」
「確かに」
僕達は互い笑い合いながら、ゆっくりと歩を進めて行った。とりあえずクルクルを探す事になるけど、そう簡単には行かないよなぁと思った。
すると後ろから駆けてくる足音が聞こえた。振り返ると待って!と声をあげる花葉の姿があった。
僕は一瞬だけ、花葉も付いて来るつもりなのかと思ったが、どうやらそれは僕の思い違いだった。
花葉はマーラさんに言われ、僕達が倒れていた場所、つまり、村側からしたらぐるぐるの入り口まで案内するように言われたらしかった。そうする事で僕達が次の目的地にも行き易いのではと考えたらしい。
「わざわざありがとう」
「ううん。私も久しぶりにぐるぐるを見てみたかったから良いの」
「ぐるぐるを目の前にして突然、飛び込んでいったりしないでよ?」
「花葉がそんな事をしたら、マーラさん悲しむだろうし、幾ら謝っても許されない事になるからさ」
「そんな大魚を見てみたい気持ちもあるけど、実際私がそんな事したら、ぐるぐるの中に入った訳だから大魚が怒られてる場面だって見ることは出来ないもんね」
そんな話をしながら村を出てしばらくは林の中を進んで行った。先へ進む度、肌寒くなるのは雪化粧を施した寒々しい峡谷が近くにあるからだった。
給油所を探していた時に見えた峡谷と今とでは印象がまるで違って見えた。きっとあそこまで行くと極寒の地域となるのではないだろうか。そこにこのような薄着で迷い込んだりしたら、凍死してしまうかも知れない。出来るならあの場所へ行かずして東京へ戻りたい。
おにぎりのような岩と出会した。その中央に別名干し柿大佐、本名はヨバンゾン婆さんの居住地で見たぐるぐるが物静かに存在していた。
岩の中にあってスカイブルー色した水面は驚くほど美しかった。それだけでも驚きだが、やはり見ていると徐々に中央から黒点が浮き上がり、右回りへ渦を撒き始め、あっという間にスカイブルーの中へ渦の絵柄を浮き上がらせた。
それを見ていたら、ぐるぐるとクルクルの違いがわかった気がした。つまり右回りの渦は入り口用で、左回りがクルクルなのではないだろうか。実際、この目でクルクルを見た訳じゃないから、僕の考えは間違いかも知れない。
でも合っている自信があった。根拠も何もないけど、確信に近い何かが僕に自信をつけさせてくれているような、興奮した気持ちが僕の中で湧き上がっていた。
それが間違いなければ、このぐるぐるを通れば、新たな場所へ向かう事が出来る気がする。そう説明すると重美さんは
「かも知れないけど、又、ヨバンゾン婆さんの所に戻って振り出しとか嫌よ」
「そんな風に言われたら躊躇ってしまうじゃないですか」
「とりあえずは、陸地を進んでみようよ。そうしたら新たな人達と巡り逢えるかも知れないしさ」
「そうですけど……」
「けど何?」
「いえ、何でもないです」
花葉のいる前で、新たに出会った種族が人喰いだったらどうするんですか?なんて言える筈がない。
「なら私、そろそろ帰るね」
僕と花葉は互いにハグをし合った。その時、いきなり花葉が僕のチンコを掴んだ。
「あ、今日は勃ってないんだね」
「いや、花葉さ。無闇矢鱈にチンコを掴んだりしちゃダメだって」
「えーだって重美が隙あればチンコを掴んで勃起しているか確認した方がいいって教えてくれたんだもん」
「重美さん!」
「何よ。大切な事じゃん。男女2人きりで一緒にいて勃起してないような男は付き合ったって直ぐに他の女と浮気すんだからさ」
「いえ、エッチしている訳でもない時に勃起している方が怖いですよ」
「チッチッチ」
重美さんは人差し指を立て唇の前でその指を振った。
「だからいつまで経っても童貞なのよ。つか童貞だからこそ2人デートしてる時なんかギンギンに勃起しろってんだ」
「それだと歩くのも大変じゃないですか」
「女の子はそういうのは察するんだよ。察して可愛いってなるんだよ。女の子の気持ちがそこまで達していたら、その日の夜は無事、童貞卒業となるわけさ」
「そういうものですか?」
「そういうもの。恋愛マスター重美が言うのだから間違いないし」
「因み重美さんの歴代彼氏って何人くらいいるのですか?」
「気になる?」
「自称恋愛マスターの重美さんなので。はい。気になりますね」
「だからって言うわけないだろう?言うとしたらさ。今まで彼氏はいた事ありましぇん。私、ヴァージンですもの。テヘ」
平気で男の股間を殴ったり掴む人が何がヴァージンだ。
「はいはい。わかりましたよ」
「な、花葉?見た今の態度?最低過ぎ」
重美さんはいい花葉にチンコ掴む重要性を説いていた。
「わかった。私も大人になったら、重美のようにする」
「真似しちゃダメだって!」
僕が言うと花葉は悪戯をしようと企んでいるような笑顔を作った。
「2人とも色々とありがとう」
「こちらこそありがとう。花葉がいなければ今頃、2人とも死んでいたかも知れない。
命の恩人だよ」
「本当それ。だからさ。もし花葉の気が変わって人間の世界に来るような事があったら、私か大魚を探してね。絶対だよ。その時までに私達は必ず東京へ戻ってそこで暮らしているから」
「うん」
花葉は張りのある返事で僕達の心を軽くしてくれた。例え、花葉がそんな気持ちにならなくて一生をこの村で終えたとしても、僕達は君を絶対に忘れない。
そして奇跡というと変な気持ちになるけど、花葉が東京に来たならば、色んな所へ連れて行ってあげたいと思った。
ディズニーランドやディズニーシーも候補だし、東京タワーもいい。スカイツリーは好きじゃないから花葉がねだらない限り連れていかない。
野球やサッカー、Bリーグもありかも知れない。お化け屋敷に連れて行っても花葉はビビりもしないだろうな。富士急ハイランドなんか、凄く嫌がってムクれるかも知れない。
花葉が来たらと想像を働かせるだけで、こんなにも楽しいのだ。だから絶対に花葉には幸せな生活を送ってほしいと思う。
「じゃあ僕達は行くよ」
「うん。直ぐにクルクルが見つかると良いね」
「マジでそう願うわ。焼肉だって食べたいし、サブウェイにも行きたい。沢山のデザートも腹一杯に食べ……」
「じゃあね花葉。元気でね」
「大魚もな」
「バイバイ」
「バイバイ」
「クレープとかラーメンとか寿司もだし……」
「重美さん、食べ物の事は一旦おいて、花葉にバイバイして下さい」
「花葉、またね〜」
重美さんは歩き出した僕に追いつきながら花葉に向かって手を振り続けた。
風は冷たく、空は曇っている。夜に見た瞬い程の無数の星は今は1つも見る事は叶わなかった。
昼間だから当然と言えば当然なのだろうけどあれほどの輝きを持ってすれば昼間も見えるのではないかと思っても無理はない。
どうしてその間、一度でも昼間の空を見上げなかったのだろう。やはり日常に変化が訪れない限り、色々な事に意識が向かないのかも知れない。
空が曇っていると言う事は天気が悪くなる可能性がある事を意味する。ひょっとしたら早い内から天気が大崩れするかも知れない。僕は雨除けが出来そうな場所を探しながら歩んで行った。
鬱蒼と生えていた雑草も次第に減り、進む道は土から岩肌へ変わり、やがてそれらが完全に剥き出しになった。幾分歩き辛い道に更に苔が生えているものだから足下が滑って転びそうになる。だけど僕達はぐるぐるに入る事を避け、この道を進む事を選んだ。だから、例え時間がかかろうが2人一緒に旅を続けなければならなかった。
お互い口数が少なくなるのは、やはり体力的な事も関係していると思った。
喧嘩をしたいわけではないが、ちょっとした弾みで口喧嘩に発展しないとは限らない。これから先、何が僕達を待ち受けているかわからないのだ。
無駄な体力消耗だけは避けねばならない。だから僕達はひたすらに進まなければならなかった。




