第一章 ④
気がついたら、重美さんが数ミリの距離まで顔を近づけ、僕の顔を覗き込んでいた。
「大魚くん」
「あ、は、い……」
「おはよう」
「おはよう、ございます」
僕はいい、重美さんの近過ぎる顔を避けるように横へずれた。そしてゆっくりと身体を起こした。
重美さんはそんな僕を見てすぐ側へ来て横に座る。
体育の時間に見学をしている2人の生徒のように、僕達は膝を抱えて座っていた。もたれているコンクリートの壁がひんやりとして気持ちいい。
僕はゆっくりと周囲を見渡した。今、僕達がいる場所は四方をコンクリートの壁で覆われている。四隅の1つに換気扇がついているが、動いては無さそうだった。天井には裸電球があり、淡い光を部屋の中へと投げかけていた。
寒くはなかった。寧ろ少しばかり暑く感じる。重美さんが真横に座っているせいかも知れない。
そんな重美さんは僕の脇腹を突いた。
「ねぇ大魚くん」
「はい」
「ここは何処?」
「さぁ。何処でしょうか」
「私達、確か会社をずる休みして、喫茶店でモーニングを食べていた筈よね?」
「そうですね」
「その後の事は覚えてる?」
僕は少し考えてみた。けど、全くと言って良いほど、その先の事は思い出せなかった。
「覚えていないです」
「という事は、ここってまだあの古びた喫茶店の中って事であってる?」
「まさか。コーヒーの匂いもしないですし、テーブルやソファもありません。僕達以外のお客もいなければ、初老のマスターらしき人物もいません。そしてここには裸電球と換気扇しかないですよね?」
「おまけに出入りするドアもない」
「あ、本当だ。どうして気づかなかったんだろう」
「それは、まぁ、とりあえずは置いとくとして
どう見積もっても私達、このままで良い訳はない、よ、ね?」
「明らかに、そうですね」
「リアルな事を言えば、このままだと私達は確実に飢え死にしちゃうし、トイレもシャワーもないから髪はべとつくし、肌も荒れちゃう。何より私、大魚くんにオシッコしてる所なんて見られたくない」
「うんこもですね。それに排泄物を処理する物も破棄する物もない。この部屋でしちゃうと直ぐに臭くなりますね」
「女性の前でそういう事は言わない方がいいよ」
「すいません。重美さんがオシッコって言ったからつい……」
「まぁ現実的に、大魚くんの言う通りなんだけどさ」
「ですよね。けど、気をつけます」
重美さんは少しばかり頷いた。
「あのう……」
「何?」
「換気扇がついているのって、その為って事ですかね?」
「その為?あ、あぁ。臭いの事ね。そうね。それもあるんじゃないかしら?」
「それも?ですか?」
「幾らなんでも臭いを排出するその為だけって事はないでしょう。出入り口が無いのだから、空気も澱むし、暑くもなるでしょう?」
「そっか。そうですよね」
「しっかりして」
「すいません。ここにいると、どうしてか考える事も億劫に感じてしまって……」
「それだと、死んじゃうよ?」
「ですよね。死んじゃうのは時間の問題」
「そう言う事」
「とりあえず、僕達は今、ドアもない場所に閉じ込められています。でも閉じ込めるには何処からか、僕達をこの場所へ入れなければいけない訳じゃないですか?って事は何処かにこの場所へ出入り出来るドア、もしくは穴みたいな物がなけれはおかしい。配膳口でもあれば、僕達を閉じ込めた誰かは、生かすつもりもあるって事になるのでしょうけど、それすらない。ならやっぱり僕達を閉じ込めた誰かは生かしておくつもりはないって事になる。なら僕達をそのような環境に陥れる為には僕達をこの中に入れなきゃいけない。そう考えると、やっぱりこの部屋の何処かに出入り出来る何かがあるって事になりますよね?」
「そうそう。その調子。考える事をやめたら私達はきっと直ぐ死んじゃう」
「重美さんはどう思います?」
「どうって?」
「ドアは何処にあると思いますか?」
「ん〜考えられるのは4つの壁と床の何処かだよね?天井は届かないからあり得ないと思うの」
「でも嫌な奴なら、出られないように天井から落とすかも」
「大魚くんは、そこまでされる程、誰かに恨まれるような事をした憶えでもあるの?」
「無いです」
「私も無い。でもそれってさ。自分は無いと思っていても、他人からすればわからないよね。ちょっとした言葉や態度で逆恨みされるって事、良くあるみたいだし」
「確かに。でも……」
僕は天井を見上げた。床から天井までは3メートル、いや4メートル近くある。そんな所から落とされたら、流石に怪我をする筈だ。でも痛い所も切り傷もない。
「重美さん」
「何?」
「身体の何処かに痛い箇所ってあります?」
僕が言うと重美さんは立ち上がり、身体を動かし始めた。
「無いわね」
「僕も無いです。って事はやっぱり天井に出入り口は無いですよ」
僕の言いたい事を理解したのか、重美さんは頷いた。そして再び僕の側に座った。
「ならとりあえず床と壁を調べてみますか」
「そうね」
重美さんはいい起き上がり、壁と向き合った。
ノックをする要領で横へ移動しながら壁を叩いて行く。
「重美さん」
「何?」
「ドアのイメージは持たない方が良いと思います」
「あ、なるほど。そうね。私、壁の下に穴があるって可能性を排除しちゃってた」
言った後、重美さんは手の届く範囲で、上下左右と至る所を叩いて回る。僕は僕で四つん這いになり、床を叩いて回った。
「ん〜」
「どうしました?」
僕は叩く手を止め重美さんの方を見やった。
「段々、自信がなくなって来た」
確かに重美さんは最後の一面に向かっていてそれもそろそろ終わりそうな雰囲気だった。
僕は僕で床も終わりかけていた。
「お互い、まだ残っているじゃないですか。諦めないで続けましょうよ」
「うん。勿論、やらなきゃって事はわかってはいるんだけどさ」
「全部やってみてから考えましょう」
言ってから僕は僕も出入り口は無いかも知れないと思っている事に気がついた。
「やっぱ大魚くんもそう思っちゃうよね」
「……すいません」
結果は2人が思ったように壁や床を叩いてみてもその先が空洞らしい箇所は見当たらなかった。
僕は床の上に大の字になり、裸電球を眺めた。
ヤバいなと思いつつも、流石にそれを口に出すのは憚られた。
けど、唯一の救いは1人じゃ無いという事だ。きっと1人だと直ぐに諦めてしまいそうだ。
でも2人ならどちらかが弱気になれば、もう1人が希望を持たせようと励ます事が出来る。
そして自分では思いつかない考えが浮かぶ事もきっとある筈だ。
「重美さん」
「何?」
四隅に膝を抱いて俯いていた重美さんの返事は、気がついた時に比べて、かなり弱々しく感じられた。
それはそうだ。今し方、僕達2人は希望を打ちのめされたのだから。
「こっちに来て寝そべってくれません?」
「どうしてよ」
「いえ、何となく思ったんですけど」
「何をよ」
「どうして裸電球があるのかなって」
「そりゃ無いと暗いからでしょ」
「ですよね。付け足せば、誰かが僕達を観察する為に付いているとも言える。普通、誰かを監禁するとしたら、明るい場所に閉じ込めますか?」
「ん〜いや。暗い方にするかな」
「ですよね。光や灯りがない方が閉じ込められた者にとってはそっちの方が精神に負担がかかると思います。だって何も見えないのだから、余計な想像をしちゃいますから」
「うん」
「なのに、ここは明るい」
「そうね」
「つまりそれは、さっきも言いましたけど、僕達を観察する為って事も考えられますけど、それなら配膳口やドアがあってもおかしくないじゃないですか?だって監視カメラがないのだから、そちらの方がより僕達の状況がわかり易いですよね?なのにどうしてか僕達は鎖や何かで拘束されてる訳じゃない」
「どういう事?」
「さっきしたみたいに、僕達はこの中では自由に動き回る事が出来るってわけです。確かに食べる物や飲料水がないから動き回るとその分疲弊しますが、でも隠し扉やドアなどがあるとするなら、監禁した者は僕達に探させたくはないですよね?」
「うん。確かにそうだね」
「もしあるなら縛るなりして身動きが取れないようにするのが当然な筈です。けどそれもされていない。って事はつまり……」
「つまり、何?」
「えっと、上手く言えないですけど、僕達は、その、つまり、別に閉じ込められてはいないのではないでしょうか?」
「は?何わけわからない事言ってるの?この状況って明らかに閉じ込められてるじゃない」
「そう思い込んでいるだけかもですよ?」
「思い込むも何も無いよ。全然閉じ込められているのは明白でしょ?」
「うん。見た目はそうなんですけど……上手く言えないなぁ」
「上手く言ってよ」
「そうですよね。ん〜と……え〜あれだ。思い込みってヤツです」
重美さんは僕の言葉に辟易したのか、側へ来て同じように大の字になり溜め息をついた。
「一見すると、確かに見た目は閉じ込められています。でも実際は閉じ込められてなんかいない。2人共、拘束もされていないのも、誰かがここに僕達を閉じ込めた訳ではないからです」
僕は立ち上がり、近くの壁と向いあった。
「だからただ、単純にここから出ようとすれば良いだけで……」
裸電球を眺めている時、ふと思った事があった。それは重美さんにも言ったように、実は僕達は閉じ込められてはいないのでは?という事と、出ようと思えばそこにドアが現れるのではないか?という事だった。
まるでファンタジー映画のようだけど、喫茶店にいた僕達が突然、訳の分からない場所に入れられている事自体、ファンタジーなのだから常識に囚われたらいけないのではないかと考えたのだ。
どうしてか、僕はその馬鹿げたような自分の考えに疑問を持つ事はなかった。
僕は直ぐ側の壁に向かって、まるでそこには見えないドアがあるかのように把手を掴む振りをした。
「ここから出たい。いや、出るとしよう」
そう呟いてみた。痛々しい重美さをんからの視線が背中へ突き刺さる。
だがその瞬間、何もない空間から把手が姿を現した。
「うわっ!」
僕の叫び声で重美さんが飛び起きた。
「どうしたの!?」
「把手が……」
「嘘!?」
重美さんは僕の側へ来て僕が握っている把手をマジマジと見つめた。
「何したの?」
「見えないドアがあると想像して、把手を握る風に手を動かして、重美さんも聞いたように出ようって言いました。そうしたらいきなり把手が現れて……」
僕が言うと重美さんは大喜びし、突然、抱きついて来た。
「大魚くん、彼女は?」
「いないです。ていうか僕に彼女がいると思いますか」
「なら良かった」
「何が、良いですか。僕だって彼女は欲し……」
そこまで言った時、僕の唇は重美さんの唇によって塞がれた。心臓が飛び出しそうなくらい、身体の中で跳ねまくっている。
「あ、あの……重美、さ、ん」
僕の唇から離れた重美さんに向かって言うが、いきなりキスをして来た当の本人はケロッとしていて、僕が掴んでいる把手をしきりに突いたりしていた。
「実感がある。これマジで本物じゃん」
いや、何、僕のドキドキをどう責任取ってくれるんですか。キスしたって事は重美さんは僕の彼女になってくれたって事ですか?
僕は顔が火照って行くのを感じながらそんな事を思った。もし、この先、同じようなトラブルに巻き込まれて、それを次々とクリアしてみせたら、一回目がキスなら、いつかは重美さんと、その……
「何?キスくらいでそんな顔を真っ赤にしてんの?まさかガチで照れてる訳じゃないよね?」
いいえ。ガチで照れているし、ガチで勃起してます。勿論、そんな事を口に出せるわけもなかった。
「大魚くんの想像したドアは引くタイプ?それとも押すタイプ?」
「押すタイプです」
いうとそこにドアが現れた。
僕は重美さんが頷くのを見て把手を引いた。
「押すタイプでしょーが!」
大層なツッコミで頭を叩かれた僕はすいません、緊張しちゃってましたと言い訳をし、改めてドアを押した。
開いたドアの向こうに何があるとか、そんな事は露ほども考えなかった。
ひょっとしたら、いきなり恐竜に出会すとか、炎の山の中だとか、新たにファンタジー要素のある世界へ足を踏み入れるんじゃないか?とか、そんな事は全く考えなかった。
ただここから出られる事が嬉しいという事と、未だ勃起が治らない為、僅かに腰を引けているのを重美さんにバレないかとの不安でドキドキしていただけだった。
僕達はドアを開け、開いた先の世界へ2人並んで片足を踏み入れた。ドアの向こうのその世界は辺り一面、闇に包まれていた。
空気が澄んでいるのか空らしきもの(ここに空というものが存在していればの話だけど)には東京では見られない程の大きな星が瞬いていた。
その大きさと言ったらなかった。1つ1つが半月くらいのサイズで、それらが4つあり、別に満月らしきものも浮かんでいた。
ただその全てが、直ぐに黒い靄か雲に覆われて眩いくらいの筈の光量は既に僅かしか僕達の所まで届いて来ていなかった。
完全にドアを抜けるとひんやりとした風が僕達を迎えてくれた。同時に自然とドアは閉まり、あっという間にその姿を消した。
「もう戻れないね」
あの部屋に戻りたいなど思ってないくせに、どういう訳か重美さんがそんな事を言った。
「戻りたいのですか?」
「この先にある何かによってはそう思うかも知れないでしょ?」
確かに、言われてみればそうかも知れない。
今、僕達は見知らぬ場所に出た。勿論、さっきまで居た所も見知った場所ではなかったけど、それでもあの中にいるよりは随分と気分も晴れやかだった。
風や星があると言う事それ自体で気持ちが穏やかになる。今は暗くて見えないけど、きっと山や川といった自然もある事だろう。そうであれば食事を取る事も何とかなるかも知れない。
ただキャンプなどは未経験だし食べられる木の実や草などの知識もない。重美さんに聞くと僕と同じ意見だった。
「とりあえず、ここの世界は夜みたいだからさ。寝ましょうよ」
「ここで、ですか?」
「他に何処があるのよ?」
「まぁ、そうですけど……でも物騒じゃないですか?」
「もう私達に行ける所なんてないのだから、そんな事言ってらんないでしょ?」
まぁ確かに重美さんの言う通りだ。
僕は確認の意味も踏まえて、地面を踏んで見た。
少し硬いが、横になれない程でもない。僕はその地面に手で触れてみた。
ザラッとした感触があったが、手触りとしては雑草のような感じはしなかった。苔かも知れない。僕が腰を屈めようとした時、重美さんがベルトを掴んで引き倒した。
「気温がどれだけ下がるかわからないから、1人だと低体温症になるかもだから、抱き合って眠るわよ」
「あ、はい」
返事をする僕を重美さんは勢いよく抱き寄せた。
向き合う形で肌が密着するまで引き寄せる。足を絡ませた後、僕の腕を取ると自分の身体を抱くように回させた。
「おやすみなさい」
「お、おやすみなさ、い」
ようやく治まった勃起が再びその力を鼓舞しようと動き出した。これは不可抗力だし自然現象だ。
僕が悪い訳じゃない。言い訳は僕の頭の中をぐるぐると回り続けた。きっと重美さんも僕の勃起には気づいている筈だ。
だって思い切り下半身にぶち当たっているのだ。
けど重美は何も言わずに安定した呼吸を繰り返していた。それを耳にすると、僕も眠らなきゃいけないと思った。




