第四章 ③⑦
重美さんが笑っていれば、その言葉も冗談として捉える事が出来たのかも知れない。
けれど重美さんは深刻な表情を浮かべたまま僕が手渡した刃物を眺めていた。
「大魚」
「何ですか」
「逃げる準備しといて」
「え?」
「こういうのってさ。深夜寝静まった頃を見計らって襲って来るのが定番じゃない?つまり事が起きるとしたらさ。もう直ぐかなぁって思うわけね」
「わかりました」
真剣な重美さんに言われたら、そうとしか思えない。だから僕はテントの隅へほっぽり出したバックパックを掴んだ。
樽入りは背負って鳩三郎さんから頂いた食糧が入っているバックは前で掲げた。
「最悪、その水は捨てて逃げなきゃかもね」
重美さんはいい、ゆっくりと身体を起こした。
テントの出口の方へ足を踏み出した瞬間、
「シッ」と言い唇に指をあてた。目配せで手にした鎌のような小さな刃物を確かめる。握られた手は微かに震えていた。
そして松明を吹き消し、僕の背後へと移動して来た。テントの中は薄暗くなったが、外にある松明にはまだ火が灯っている。
そのおかげでもし誰かが僕らのテントの前を通ったり、立ち止まったりしても影で見分ける事が出来る。僕達2人は刃物を握りしめて息を潜めていた。
重美さんは樽入りバックを抱くように僕の背中にくっついていた。勿論、間に樽入りバックがあるからいやらしい考えなど浮かぶ筈がなかった。
数秒か数分か。互いの小さな息遣いすら煩いと思える程、僕達はテント外を伺っていた。
複数の足音が近づいて来たと思ったら何やらヒソヒソ話をしているようだった。こちらの様子を伺っているのは1人ではないという事か。
どうする?このまま何食わぬ顔をしてオシッコをしに出た風を装っても背負ったバックに気づかれたらおしまいだ。
それに幾らマーラさんが隠し持って来てくれたナイフがあるとはいえ、僕も重美さんも、重美さんの場合は恐らくだけど、生きた人間など刺した事など一度だってない。
動物にだってした事がない2人が、いきなり村人に襲われたからと言って反撃し刺し殺すなんて出来るだろうか。
おまけにこのナイフは鎌のように刃が湾曲している。つまり普通に刺す事は出来ないという事だ。
振り上げるなり、振り抜くなりしてダメージを与えるやり方が1番いいのかも知れない。
力一杯振り落とし刃が人の身体へ突き刺さった場合、引き抜くのにどれほどの力が必要となるのだろうか。女性の重美さんにそれは可能だろうか。
「大魚さ」
「はい」
「もし私を無傷でこの村か脱出させる事が出来たらさ」
「はい」
「手コキならしてあげてもいいわよ」
「こんな時に何言ってんですか。僕はそんな条件を出されなくても命懸けで重美さんを守りますから」
「それは守るべき人が私だから?」
「えっと、それは……」
「仮に相手が超絶デブスで爪も伸び放題で垢もついてて鼻毛もボーボーはみ出てて口も体臭も酷くて常にヨダレ垂らして風呂も入らないような女が私を守ってくださらない?って言った大魚は守るの?」
「正直言っていいですか?」
「うん」
「それまでの付き合いの長さや関係性にもよりますけど、僕は間違いなくその女を囮に使って自分1人だけ逃げます」
「あはは。なるほどね。大魚がそう言ってくれてよかった。これでより大魚を信頼できるよ」
「そういうもんですか?」
「そういうものよ。博愛主義者みたいな人間を私は信用しないし出来ない。人を守ったり助けたりするのって人1人の力じゃ限りがあるじゃない?それって選択を迫られている訳でしょ?大魚がどういう理由でその女を利用しようと考えたかは知らないけど、守る相手ってのは自分の命よりも大切な存在でなければ出来ない事よ。たまたまとか運良くとか成り行きで手助けしてしまい結果救う事になったとしても、相手は感謝するだろうけれど、再び同じ状況が訪れた時、助ける補償など何処にもない訳よね。それをこんな状況の中で自分の考えを即答出来る大魚を私は心から信用出来るし、するわ」
「それは嬉しいですね」
「大魚の事、少しだけ見直した」
「少しだけですか」
「うん。だってさ。大魚っていつも勃起してるんだもん」
「してません。名誉毀損で訴えますよ」
「ま、とにかく手コキというご褒美はあるかもだからさ」
「それについてはですね。女性にしてもらう手コキって、意外と痛いんですよ」
「童貞のくせになんでそんな風に言えるわけ?え?待って。大魚ってまさかピンサロとかそういうお店に行った事あるの?」
「断じてありません!」
「ならどうしてよ」
「Twitter、今はXですけど、そこでそういう事を呟いていた人がいて、いいねもかなりあったのでそうなのかなぁって思ったんです」
「それも人それぞれだし。ていうかさ。経験もないくせにさもされた事あるような言い方やめてくれる?あと童貞の下ネタの情報収集ってのはXかよ」
「いや、たまたま見かけただけで……」
「ていうか素朴な疑問なんだけどいい?」
「ええ」
「こっちの世界に来てから、大魚、一回でもヌイた?」
「又々いきなりぶっ込んで来ますね」
「いやさ。男って週3くらいでヌイてるっ聞くし。けど大魚がヌイてる所見てないしさ。溜まってないわけないよね?」
「何処情報ですか?」
「Twitter」
僕達は声を抑えて笑った。
「TwitterじゃなくてXですからね?」
「そうだったね。で、どうなの?」
「どうしてそんな事知りたがるんですか?」
「興味あるからに決まってんじゃん」
「こんな状況にあって聞くような事じゃないですよ」
「こんな状況だから逆に知りたいじゃんよ」
「もう!わかりましたよ。一回だけ。一回だけやりました」
「いつ?」
「サヨリさんと出会った森にいた時です」
「オカズは?」
「保存してる動画見てですよ。これでいいですか?」
「何そのつっけんどんな態度。良いじゃん別に2人きりなんだからさ。恥ずかしい事してるわけじゃないんだし」
「、、、すいません」
「でも、せめてオカズは私にして欲しかったなぁ」
「オカズにしたって言ったらブチキレそうですけどね」
「そんな事ないよ。他の女は知らないけど、私の場合は嬉しいかな。だってセクシー女優の裸でなくて、今現在汚れたスーツ来てて下着だって洗ってないし、おまけに髪もボサボサな私をオカズにするんだよ?そんな姿を見ているくせに私でヌケるってのはさ。私に興奮するって事じゃん?それってやっぱ嬉しいよね。付き合ったり結婚する相手はやっぱ私の事を想像しながらヌイてくれる男が良いなぁ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだよ」
「わかりました。今度からヌク時は寝てる重美さんの側に座って、ジッと顔を見つめながらハァハァ言いながらヌキます」
「大魚も中々言うようになったじゃん。ま、そんな事したら、これでチンコ切り落としてやるけど」
「何ですかそれ。言ってる事とやろうとしている事がまるっきり違うじゃないですか」
「バカ。私の知らない所でそういう事してるってのを知ってるのがたまらないのよ」
「そうなんですか。よくわからないけど」
「そうなの。ま、とにかく手コキの件は置いておいて今は命懸けで私を無事に生き延びさせてよね」
「全力を尽くします」




