●第10話「夜明けの図書室(前)」
眠れない夜。
布団に潜っても、まぶたは重くならなかった。頭の中ばかりが妙に冴えて、静けさがかえって居心地悪い。
それに、そもそもコハクのお茶を飲んでいないから、眠れるはずがなかった。分かっているのに布団にもぐってしまった自分が馬鹿らしく思える。だが、飲んでいたとしても今の気分で眠れるとは思えない。
仕方なく体を起こし、布団をめくると、洗い立ての洗濯物のような石鹸の匂いがふわりと鼻をかすめた。何か別の匂いも混ざっている気がしたが、確かめるとやはり石鹸の香りだけだった。
ベッドを降りると、ひんやりした空気がまとわりつく。一人で過ごす夜は、永遠に続くのではないかと思うほど長く感じられる。時計を持っていないのに針が止まったように、時間が動いていない気がする。
同じ「一人」でも、以前とは違った。あのときは自分から閉じこもったけれど、今は違う。ただ、気づけばここに取り残されているのだ。部屋が見慣れたあの可愛らしいピンクではないことも、孤独を余計に強めている。まるで居場所を失ったようだ。
広間で皆と話した後、私が向かったのはチハヤのいる図書室だった。ウイの部屋が閉ざされて入れないことを相談すると、チハヤは快く部屋を貸してくれた――シンの部屋を。
(シンには申し訳ない気もするけど)
どうせ使っていないのだろう。本人も顔をしかめただけで特に何も言わなかった。室内を見渡すと、ベッドに横になる前に見た風景がそのままだった。整いすぎた空間は人の気配を消し、仮住まいのように感じられる。机の上はきれいで、本棚もがらんどう。生活感のかけらもない部屋は、落ち着くどころか孤独を際立たせる。
(シンの部屋に泊まったら、ウイはどう言うだろう)
思わず小さく笑いがこぼれる。ウイなら「私も泊まりたい!」と言うだろう。
(イヌがいたら、眠れないって文句を言って相手をさせたのに)
残念ながらイヌは姿を見せない。あの人は来るときと来ないときの差が激しい。
ウイもイヌも、どちらもいてほしいのにいない。叶わぬ願いに小さくため息をつくと、そのため息は思ったより大きく響いた。部屋の中には、私の呼吸と壁の掛時計の音だけ。眠れない夜がこんなにも長いなんて、知らなかった。
これ以上この部屋にいるのは耐えられそうにない。気分転換もかねて外へ出る。向かう先は図書室だ。困ったときにここへ来れば何とかなることを、私は知っている。見上げると、濃紺の空が朝焼けのオレンジに染まりかけていた。長かった夜がようやく明けようとしている。
図書室の重い扉を押し開けると、紙の匂いと冷えた空気が夜明け前の静けさをいっそう際立たせていた。室内は静かで、誰もいないように思えた。
「チハヤ、いる?」
声を掛けてしばらく待つが反応はない。チハヤは寝ない人だから、どこかへ出かけているのかもしれない。暇を持て余して図書室の中を歩き回っていると、気になるものを見つけてしまった。
図書室の奥の一角。隅にひっそり置かれた本棚が、周囲とは違う澱んだ空気を放っていた。理由はすぐ分かった――その棚だけがガラス戸で覆われ、しっかりと南京錠がかかっている。
「なんでこれだけこんなに厳重なの……?」
南京錠のかかった棚の横には、簡素な戸棚があり、その中に分厚い一冊の背表紙が見えた。
「……滞在者?」
背に刻まれた文字を見た瞬間、体が一瞬強ばる。滞在者――ここにいる全員の名前が並んでいるのだろうか。はたして、私の名前はあるのだろうか。
手を伸ばせば届く距離なのに、妙にためらいが生じる。数分迷った末、私は本を手に取るのをやめた。確認はいつでもできる。そう自分に言い聞かせる。だがそれよりも気になるのは、南京錠のかかった本棚だ。他にこんな戸のついた棚はない。ここに収められているのは、きっと知ってはいけない何かだと直感した。
(……せめて何の本かだけでも)
私はそっとガラス戸に手を当て、息を潜めて中を覗こうとした。
──その瞬間、不意に後ろから手首を掴まれた。掴まれた拍子にガラス戸に当たり、ガチャンと大きな音が鳴る。驚きで声も出ず、喉がひゅっと鳴った。
「余計なことを知ろうとするな」
右耳に落ちた低い声に反射的に振り向くと、そこにいたのはいつもの面倒くさそうな表情のシンだった。驚いたせいか距離が近かったせいか、あるいは掴まれた手が以前庭での出来事を思い出させたせいか、顔が熱くなって血が一気に上るようだった。
「近い! 手を離して!」
抗議するとシンはあっさり手を離す。ふと立ちのぼったのは、先ほど嗅いだのと同じ石鹸の香りに、乾いた紙とインクの仄かな匂いが混じったものだった。それに気づいた途端、胸がざわついて落ち着かなくなる。
息を整えていると、背後で扉の軋む音がした。
「……これはまた意外な光景を」
穏やかながら含みのある声。振り返るとチハヤが立っていた。普段は動じない彼が、今日はやけに驚いた顔をしている。
「ち、違うの!」
思わず私は否定していた。何に対する否定か自分でもよくわからない。シンは肩をすくめ、「面倒だ」とだけ呟いた。
「なるほど……?」
チハヤは二人を見てから、南京錠のかかった本棚へ視線を移す。小さく息を吐いて含みのある微笑みを浮かべると、
「そんな緊張した顔をしていては、話も頭に入らないでしょう。まず珈琲でも用意しましょうかね」




