●〇第11話「夜明けの図書室(後)」
チハヤは部屋の奥へ歩き、程なく湯気が立ち上がった。冷えた図書室に温かさが広がる。マグカップを差し出され、受け取った拍子に肩の力が抜けた。熱さで指先がじんわりし、緊張がほどけていく。
「立ち話もなんですし、こちらへどうぞ」
チハヤは私に渡してきたマグカップと同じものをもう二つ、机の上に置いて手招いた。置かれた机は以前、私がここでの常識を教わった時と同じ場所だった。私が座りやすいように椅子を引いてくれるチハヤは優しい。ありがとうとお礼を言って椅子に腰かけた。いつの間にかシンも近くに来ていて、珈琲にこれでもかという位角砂糖を投入している。
香り立つ珈琲で気持ちが落ち着いたところで、チハヤはようやく本題に入った。南京錠のかかった本棚に視線を向け、低く落ち着いた声で口を開く。
「あの本棚が気になりましたか?」
「うん。なんであの本棚だけ鍵がついてるの? 貴重な本だから?」
隠さず聞くと、チハヤは少し悩んでから答えた。
「そうですね、とても貴重な本です。だから、私が管理しています」
そう言ってポケットから一つの小さな銀色の鍵を取り出し、机の上に置いた。あの本棚についた南京錠の鍵だとすぐ分かった。
「あの本棚の中にあるのは“過去”に関する本です。──皆さんがこの園に来る前の記録が、一人につき一冊ずつ残されています」
その言葉に、息を呑んだのが自分の声だと気づくまで少し時間がかかった。シンは無言で本棚を見つめている。表情は読めないが、先ほどのような面倒臭そうな態度とは違っていた。
「……なんでそんなものが?」
「推測だが、連れて来る時に抜いたんだろう。見た目は本でも、中身は記憶だ」
その答えはチハヤではなくシンから返ってきた。
「──どうして記憶を取っちゃったの?」
問いかけた自分の声が意外と大きく響き、胸のざわつきが増す。
「ここでの生活に不必要だからだろう」
シンの答えはぶっきらぼうで、だが即答だった。感情を混ぜない口調が、かえって現実味を帯びて怖く感じる。
「あそこにある本を読んだら記憶が戻るの?」
「ああ、戻る。それは間違いない。実証済みだ」
その一言に耐えきれず、私は反射的に南京錠の鍵へ手を伸ばした。指先が鍵に触れた瞬間、誰かの手が被さった。銀色の鍵を押さえる手は穏やかだが、確かな力がこもっている。
「……チハヤ」
「ダメですよ」
諭すような声色に、心臓がぎゅっと縮む。
「どうして。私は記憶を取り戻したい」
「記憶を取り戻しても何もできませんよ」
チハヤの正論が鋭く響き、縮んだ胸をさらに押し込まれるようだった。
「……それでも、思い出すことに意味があると思う」
「さっき、シンが止めたでしょう。普段無駄な行動を嫌う彼が、なぜそんな行動に出たのか、気になりませんか?」
チハヤの言葉に、私は横のシンを見た。素っ気なく視線を逸らすだろうと思っていたのに、彼はこちらを見返してきて、その視線がぶつかった。瞬間、息が詰まり言葉が出なくなる。
(……どうして止めたんだろう)
問いかけは飲み込まれ、部屋に重い沈黙が落ちる。
「あれは読んではいけない本だからです」
チハヤが口を開いた。落ち着いた響きには妙な重さがあった。彼はゆっくりと本棚へ視線を移し、言葉を続ける。
「さっきシンが言いましたよね。記憶が無いのは、ここでの生活に不必要だからだと。それが答えです」
「私は不必要だなんて思わない」
自分の中の空白を埋めることが、なぜ“不必要”になってしまったのか。理解が追いつかない。
「では一度、想像してみてください。あの本を読んで過去を思い出しました。で、その後ミヤはどうしますか?」
チハヤは机の上の鍵に触れたまま、静かに問う。まるで授業のような、柔らかくも厳しい声音だ。
「どうって言われても……」
「家族、もしかしたら恋人のような大事な人もいたかもしれません。それを思い出して、ミヤはどうするのですか?」
「思い出して、それから私は……」
「懐かしく思うでしょう。思い出せてよかったと安堵するかもしれない。でも、その後は? 会いたくなりませんか? 元の世界に帰りたいと思ってしまいませんか?」
「……そう思っちゃダメなの?」
「ダメだとは言いません。ただ、叶わぬ願いを抱くことで壊れてしまう人を、私はたくさん見てきました」
家族に会いたい。恋人がいたかもしれないと想像すると胸が熱くなる。だが、それを思い出しても、帰る方法があるわけではない。
「……チハヤはどのくらいここにいるの?」
「そうですね。数えるのも面倒になるくらいの時間でしょうか」
チハヤは遠くを見据えて微笑んだ。その笑みにいつもとは違う影が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。
「だから、年長者の言うことは聞いておきましょう。これはこの園でのルールの一つです」
言葉を受け止める余力が無く、私は黙り込む。隣でシンは、何も言わずに珈琲を一口含んだ。
図書室の静けさを破ったのは、扉を乱暴に叩く音だった。次の瞬間、蒼白な顔のシュウが飛び込んでくる。
「メイ、来てない?」
焦りと不安を孕んだ問いかけに、空気が一気に凍りつく。誰も即答できない。胸の奥で、嫌な予感がじわりと広がった。




