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箱庭から歪んだ愛を君に。  作者: 泉出流
第3章【そして疑いの花は咲き誇る】
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●〇第11話「夜明けの図書室(後)」

 チハヤは部屋の奥へ歩き、程なく湯気が立ち上がった。冷えた図書室に温かさが広がる。マグカップを差し出され、受け取った拍子に肩の力が抜けた。熱さで指先がじんわりし、緊張がほどけていく。


「立ち話もなんですし、こちらへどうぞ」


 チハヤは私に渡してきたマグカップと同じものをもう二つ、机の上に置いて手招いた。置かれた机は以前、私がここでの常識を教わった時と同じ場所だった。私が座りやすいように椅子を引いてくれるチハヤは優しい。ありがとうとお礼を言って椅子に腰かけた。いつの間にかシンも近くに来ていて、珈琲にこれでもかという位角砂糖を投入している。


 香り立つ珈琲で気持ちが落ち着いたところで、チハヤはようやく本題に入った。南京錠のかかった本棚に視線を向け、低く落ち着いた声で口を開く。


「あの本棚が気になりましたか?」

「うん。なんであの本棚だけ鍵がついてるの? 貴重な本だから?」


 隠さず聞くと、チハヤは少し悩んでから答えた。


「そうですね、とても貴重な本です。だから、私が管理しています」


 そう言ってポケットから一つの小さな銀色の鍵を取り出し、机の上に置いた。あの本棚についた南京錠の鍵だとすぐ分かった。


「あの本棚の中にあるのは“過去”に関する本です。──皆さんがこの園に来る前の記録が、一人につき一冊ずつ残されています」


 その言葉に、息を呑んだのが自分の声だと気づくまで少し時間がかかった。シンは無言で本棚を見つめている。表情は読めないが、先ほどのような面倒臭そうな態度とは違っていた。


「……なんでそんなものが?」

「推測だが、連れて来る時に抜いたんだろう。見た目は本でも、中身は記憶だ」


 その答えはチハヤではなくシンから返ってきた。


「──どうして記憶を取っちゃったの?」


 問いかけた自分の声が意外と大きく響き、胸のざわつきが増す。


「ここでの生活に不必要だからだろう」


 シンの答えはぶっきらぼうで、だが即答だった。感情を混ぜない口調が、かえって現実味を帯びて怖く感じる。


「あそこにある本を読んだら記憶が戻るの?」

「ああ、戻る。それは間違いない。実証済みだ」


 その一言に耐えきれず、私は反射的に南京錠の鍵へ手を伸ばした。指先が鍵に触れた瞬間、誰かの手が被さった。銀色の鍵を押さえる手は穏やかだが、確かな力がこもっている。


「……チハヤ」

「ダメですよ」


 諭すような声色に、心臓がぎゅっと縮む。


「どうして。私は記憶を取り戻したい」

「記憶を取り戻しても何もできませんよ」


 チハヤの正論が鋭く響き、縮んだ胸をさらに押し込まれるようだった。


「……それでも、思い出すことに意味があると思う」

「さっき、シンが止めたでしょう。普段無駄な行動を嫌う彼が、なぜそんな行動に出たのか、気になりませんか?」


 チハヤの言葉に、私は横のシンを見た。素っ気なく視線を逸らすだろうと思っていたのに、彼はこちらを見返してきて、その視線がぶつかった。瞬間、息が詰まり言葉が出なくなる。


(……どうして止めたんだろう)


 問いかけは飲み込まれ、部屋に重い沈黙が落ちる。


「あれは読んではいけない本だからです」


 チハヤが口を開いた。落ち着いた響きには妙な重さがあった。彼はゆっくりと本棚へ視線を移し、言葉を続ける。


「さっきシンが言いましたよね。記憶が無いのは、ここでの生活に不必要だからだと。それが答えです」

「私は不必要だなんて思わない」


 自分の中の空白を埋めることが、なぜ“不必要”になってしまったのか。理解が追いつかない。


「では一度、想像してみてください。あの本を読んで過去を思い出しました。で、その後ミヤはどうしますか?」


 チハヤは机の上の鍵に触れたまま、静かに問う。まるで授業のような、柔らかくも厳しい声音だ。


「どうって言われても……」

「家族、もしかしたら恋人のような大事な人もいたかもしれません。それを思い出して、ミヤはどうするのですか?」

「思い出して、それから私は……」

「懐かしく思うでしょう。思い出せてよかったと安堵するかもしれない。でも、その後は? 会いたくなりませんか? 元の世界に帰りたいと思ってしまいませんか?」

「……そう思っちゃダメなの?」

「ダメだとは言いません。ただ、叶わぬ願いを抱くことで壊れてしまう人を、私はたくさん見てきました」


 家族に会いたい。恋人がいたかもしれないと想像すると胸が熱くなる。だが、それを思い出しても、帰る方法があるわけではない。


「……チハヤはどのくらいここにいるの?」

「そうですね。数えるのも面倒になるくらいの時間でしょうか」


 チハヤは遠くを見据えて微笑んだ。その笑みにいつもとは違う影が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。


「だから、年長者の言うことは聞いておきましょう。これはこの園でのルールの一つです」


 言葉を受け止める余力が無く、私は黙り込む。隣でシンは、何も言わずに珈琲を一口含んだ。


 図書室の静けさを破ったのは、扉を乱暴に叩く音だった。次の瞬間、蒼白な顔のシュウが飛び込んでくる。


「メイ、来てない?」


 焦りと不安を孕んだ問いかけに、空気が一気に凍りつく。誰も即答できない。胸の奥で、嫌な予感がじわりと広がった。

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