●◎第3話「和やかな朝食」
食堂に戻ると、テーブルには朝食の支度が整いつつあった。
白い皿に焼き立てのパン、湯気の立つスープ、茹でた野菜の彩りが目を引く。
それは決して豪華ではないけれど、丁寧に揃えられた朝の風景だった。
「おかえりなさい。タイミングばっちりよ。先に手を洗ってきなさいな。取ってきてくれた野菜は今サラダにしちゃうわね」
エンジュが手を止めて振り返り、ふわりと微笑んだ。
手には、今しがたスープをよそったばかりらしい木製のおたまが握られている。
「わー! いい匂い~。ありがと、エンジュお姉ちゃん! コハクくんも野菜ありがとねっ」
「どういたしまして。よく育ってたから、味もいいと思うよ」
手を洗い終えたウイが元気に椅子へ駆け込み、コハクも静かにその隣に腰を下ろす。
私もつられるように、空いていた席へと座る。
最後にエプロンをつけたままのエンジュが、私たちが採ってきた野菜で作ったと思しきサラダをテーブルに置き、席についた。
「皆揃ったかな? いっただきまーす!」
ウイの掛け声に合わせて、私たちは手を合わせた。
カチャカチャと食器が当たる音。
目の前のごはんは、素材の味がじんわり広がって、朝の静けさによく似合っていた。
「ミヤちゃん、初収穫したお野菜どう? 美味しい?」
向かいの席に座るエンジュが声をかけてくる。
「……うん、美味しい。にんじんってすごく甘いのね」
「新鮮なのもあるけど、頑張ってとったから特別に美味しいと感じるんだと思うよ」
コハクが微笑みながら言い、続けてウイは「だよねー!」と同意しながら声をあげて笑った。
エンジュは静かにスープを口に運びながら、そのやりとりを見守っている。
「……今日は少し、顔色がいいじゃない、ミヤ」
「え?」
「ううん、なんでもないの。ただ、昨日より少し“馴染んできたかな”って感じがしただけ」
そう言って微笑むエンジュの目は、どこか遠くを見るように静かだった。
何かを含んでいるようで、けれどそれを言葉にする気配はない。
「まーた意味深な言い方してるー。エンジュお姉ちゃんって、たまに不思議な言い方するよね」
「ふふ、そうかしら? いい女には秘密が多いものなのよ、覚えておくといいわ」
「えー? いい女って難しいなぁ。……ねぇねぇコハクちゃんも秘密のあるいい女が好きなの?」
ウイは首を傾げながら、まっすぐな瞳でコハクを見上げた。
まるで“すごろくのマスを一つ飛ばす”ような、ウイらしい唐突さだった。
問い掛けられたコハクは飲もうとしていたスープを吹き出しそうになり、すんでのところでなんとか阻止する。
「……いい女性だけでなく、男性にも秘密はあるものだから……ね。秘密にさせて下さい」
「えー!?」
「だって、普通に答えたら歪曲して双子君たちに伝える可能性があるじゃないか。後で双子君たちやトウマにしばらくからかわれるのが分かりきっているのでダメです」
「ケチー」
そう言って不満げに頬を膨らませつつも楽しげにウイが笑えば、食卓にまた軽やかな笑い声が広がった。
穏やかで、あたたかくて、心地のいい朝だった。
コハクも穏やかに笑っている。
その笑顔の奥に、先ほど畑で見た、あの沈黙の瞳が重なる。
──あの時彼は何を考えていたんだろう。
私はひとくち、スープを口に運んだ。
少し冷めつつあるスープはそれでも美味しい。
そんな事を思いながらも、頭の片隅では彼の表情が残っていた。
知ってしまえばきっと何かが変わる。
それでも私は、彼の内側を覗きたくなる自分を止められなかった。
*
「ふぅー、おなかいっぱい。ごちそうさまでした!」
ウイが満足そうに手を合わせると、すぐさま席を立ち、残りのパンを大事そうに袋に詰めはじめた。
「それ、また誰かにあげるの?」
「うん、シュウやメイたちにも少しずつね~。二人ともめちゃくちゃ寝起き悪いから滅多に朝ごはん食べに来ないし、今日こそは起こしてやろうと思って」
「確かに病気にならないとはいえ、あまり健康的ではないものねぇ」
双子の寝起きが悪いのは周知の事実なのか、エンジュは苦笑いを浮かべている。
「ミヤちゃん来る?」
私は少し考えて
「……ううん、やめとく。行かない」
一瞬迷ったけれど、私は小さく首を横に振った。
シンの仮面を拾った時の事が未だに忘れられない。
──死ぬんだよ。信じられないなら、やってみれば?
そう淡々と言ったメイが怖いと、苦手だと思ってしまっている。
だからあれから私はさり気なくメイを避けるようになっていた。
「そう? じゃあ行ってくるね! また後で!」
ウイは鼻歌まじりにその場を離れていく。
コハクは早々と食べ終わって席を立っていたため、食堂には私とエンジュだけが残された。
しばし無言の間。
「じゃあ洗い物をしちゃいましょうか、手伝ってくれる?」
そう声をかけてくれたエンジュにうなずいて、私は自然と皿を持って立ち上がる。
水場の前に立ち皿を洗おうとした瞬間、エンジュは調理していた時と同じエプロンをつけながら何か思い出したかのように両手を打った。
「あ、そうだ。ミヤちゃんちょっと」
「何?」
「髪の毛が乱れてきてるから直してあげる。少し動かないでいて」
そう言ってエンジュは私の髪を整え始める。
(そんなに乱れてたかな?)
そんなに暴れるような事はしていないつもりだったが、畑仕事をした時に緩んできてしまったのかもしれない。
「……怖い思いは、少ない方が生きやすいのよ」
髪を直しながらエンジュがそうボソリと呟いているのを私は聞き逃さなかった。
「エンジュ、それってどういう──」
「はい、おまたせ! もう動いていいわよ」
一体何の話かと聞こうとした時、丁度髪を直し終えたエンジュが私の髪からパッと手を離す。
聞きそびれてしまった。
「ありがとう」
「どういたしまして。……ねぇ、ミヤちゃん」
「なに?」
「怖い気持ちって、ふとした瞬間に、ほどけるものなの。自分でも気づかないうちに、ね」
「どういうこと?」
何を言いたいのか分からなくて私は首を傾げる。
「お皿洗い終わったらメイやシュウのところにアナタも行ってきたらってことかしら?」
「どうして?」
行く理由が無いのに。
「別に深い意味は無いの。たまには子供たちで元気に遊ぶのもいいんじゃないかしらと思っただけよ」
「そんな子供じゃないんだけど……」
やさしい声の裏にシュウや、特にメイとの関係を心配するのが何となく透けて見えて思わず苦笑してしまう。
「でも分かった。エンジュがそう言うなら行ってみる」
「メイにいじめられたらいつでも言いなさいね。あの子も悪い子では無いのよ。ちょっと、いえかなり? ツンデレなだけで」
「分かってる、大丈夫だよ。エンジュ」
言いながら私は洗い物を始める。
泡立った水に手を浸しながら、どこか心が軽くなっていくのを感じていた。
ほんの少し前まで、メイのことを考えるだけで胸が詰まるようだったのに。
(……なんでだろう)
それでも不思議と嫌な感じはしなかった。
まるで、冷たい水に沈んでいた何かが、ふっと浮かび上がっていくようなそんな感覚だった。
いつの間にか、メイが怖いという気持ちはどこかへ消えていた。
さっきまで胸の奥に引っかかっていたものが、この皿洗いの泡と一緒に少しずつ流れていくように。
そんな私を、何も言わずにただ静かにエンジュが見つめていたことに気付きもしなかった。




