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星写しの町編 98話 鳴らない鈴の水路

リシアたちは、反照塔の地下にあった旧読記室から戻った。

旧読記室は、記録を閉じ込めるための部屋ではなく、戻る声を持ったまま水鏡の記録を読むための場所だった。

戻る声を失った時、水は読み手が欲しがる顔を返してしまう。

茶屋で、オルマはルティアの姉エルシアのことを語った。

エルシアは婚約者ファルドの手を水面に見たことをきっかけに、旧読記室へ通うようになった。

オルマは、その痛みを研究の手がかりにしてしまったことを認める。

ルティアはすぐに許すとは言わず、それでも次に同じことを起こさないために動き始める。

そして東の巡礼水路で、子どもが自分ではない顔を水面に見たという知らせが届いた。


 東の巡礼水路へ向かう道は、町の賑わいから少しずつ離れていった。


 ミレネの中心を流れる水路は、生活の匂いがする。


 洗濯物の泡。


 小舟の軋み。


 朝市へ向かう人の足音。


 けれど東へ進むにつれて、その音は薄くなる。


 水路沿いの家も少なくなり、白い石畳は古び、橋の欄干には苔が増えていった。


 水路番の男は先導しながら、何度も振り返った。


「普段は、こんなに静かじゃないんです」


 声が少し上ずっている。


「東の子どもたちは、朝になるとよく小舟を流します。鈴を乗せて、橋の下をくぐらせるんです。水が浅いから、舟が石に当たるたびに鳴って……」


「今日は鳴らなかった」


 ルティアが言うと、水路番は頷いた。


「はい。舟は止まったままなのに、鈴だけ鳴らない。それで覗いた子が、顔を見たと」


 ニトが鈴を握り直した。


 反照塔で使った鈴だ。


 彼はそれを、今度は鞄にしまわず、胸の前で持っている。


 いつでも鳴らせるように。


 けれど、むやみに鳴らさないように。


 その緊張が、小さな肩に出ていた。


 シルはリシアの肩の上で、焼き菓子の包みを鞄の奥へ押し込んでいた。


 ここは、まだ鳴らす場所ではない。


 そう判断したらしい。


 リシアはその仕草を見て、少しだけ口元を緩めた。


 巡礼水路は、低い石壁に囲まれた細い水路だった。


 幅は大人が両腕を広げたほどしかない。


 けれど、水は思ったより深く見えた。


 本来は足元だけを映す浅い水路だったと、オルマは言っていた。


 今の水面は、立つ者の顔まで映しそうな深さを持っている。


 水路の中ほどに、小さな木舟が止まっていた。


 子どもの手で作られたものだろう。薄い板を組み合わせただけの簡素な舟で、中央に小さな鈴が結びつけられている。


 風もないのに舟は動かない。


 水は流れているはずなのに、その舟の周りだけが止まっているようだった。


 橋のたもとには、数人の大人と子どもたちが集まっていた。


 その中心に、青ざめた顔の少年がいる。


 年は十歳くらい。


 水路番が彼の前に膝をついた。


「セイ。書庫の人たちが来てくれた」


 セイと呼ばれた少年は、すぐにルティアを見た。


 それから、リシアの肩のシルへ視線が移る。


 ほんの少し、目が丸くなった。


 怖がっている中でも、銀色のリスは気になるらしい。


 シルは胸を張った。


 こんな時でも、自分が見られていることには敏感だった。


 ルティアは少年の前にしゃがむ。


「セイ。水面を見なくていいから、見たことを教えてくれる?」


 少年は水路の方を見かけて、慌てて目を伏せた。


「舟が止まったんです」


「うん」


「鈴が鳴らなくて。おかしいと思って、覗いたら」


 少年の指が震えた。


「ぼくの顔がありました。でも、ぼくじゃなかった」


 周囲の大人たちがざわめく。


 ルティアは声を荒げず、静かに尋ねた。


「どう違ったの?」


「笑ってたんです」


 セイは唇を噛んだ。


「ぼくは怖かったのに、水の中のぼくは笑ってました。それで、口が動いて……」


「何と言っていたか、分かる?」


「分かりません。でも、こっちを見てました。ぼくが見てたんじゃなくて、あっちがぼくを見てた」


 ニトが息を呑んだ。


 昨日、自分も水面の人影を見たからだろう。


 リシアの耳に、セイの心歌が薄く触れた。


『あれがぼくなら、ぼくはあっちへ行かなきゃいけないの?』


 リシアはその断片だけを受け止めた。


 そして、言葉にはしなかった。


 セイに必要なのは、心の中を言い当てられることではない。


 今いる場所へ戻るための言葉だ。


 ルティアがセイの肩にそっと手を置いた。


「その顔は、あなたじゃない」


 はっきりした声だった。


「今ここにいるあなたは、私の前で話している。水の中の顔が笑っていても、あなたの代わりにはならない」


 セイの目が揺れた。


 ルティアは続ける。


「ただ、怖かったことは本当ね」


 少年は小さく頷いた。


「怖かった……」


「教えてくれてありがとう。次は、水路を調べる。あなたはここで、ニトと一緒に鈴の係をしてくれる?」


 セイは驚いたように顔を上げた。


「ぼくが?」


「舟はあなたのもの?」


「うん。ぼくが作った。鈴も、ぼくが結んだ」


「なら、戻る声には、あなたの声が必要かもしれない」


 セイは怖そうに水路を見た。


 すぐに目を伏せる。


 だが、逃げ出しはしなかった。


「水は見ない?」


「見ない。声だけ」


「……なら、やる」


 ルティアは頷き、立ち上がった。


 その横顔は、もう姉の影に揺れていた人のものではなかった。


 写し守として、今いる子どもを守る顔だった。


 オルマは水路の縁に膝をつき、片眼鏡で水の流れを見た。


「水位が高い」


「やはり」


 ルティアが答える。


「東の水門が上がっている。いや、上げられている」


 オルマは杖の先で水路の石壁を叩いた。


 乾いた音ではない。


 奥に空洞があるような、鈍い水音が返る。


「巡礼水路は、足元を映すための浅い道だった。だが水位が上がれば、顔を映す。顔を映せば、水は読む」


 セイが小さく身を縮めた。


 ニトがすぐ横で鈴を持ち直す。


「大丈夫。水を見ないで、鈴を見ていよう」


「うん」


 二人の子どもが、橋のたもとで並んだ。


 それだけで、周囲の大人たちの表情も少し変わった。


 怖がるだけではなく、自分たちも何かしなければという顔になっていく。


 リシアは周囲を見回した。


「水面を直接覗かないように、布を張れますか」


 水路番がはっとする。


「布?」


「顔を映さないように。水路の端だけでも」


 ルティアがすぐ頷いた。


「白布を持ってきてください。洗濯用でも構いません。水面を覆うのではなく、反射を切るように橋の横へ垂らします」


 近くの女性が走り出した。


 別の男性も、物干し竿を取りに行く。


 オルマは短く指示を出した。


「水路番は東の小門を確認しろ。誰も一人で行くな。二人一組だ。水面を覗くな」


「はい!」


 空気が動き始めた。


 恐怖で固まっていた場に、役割が生まれる。


 リシアはそれを見ながら、少しだけ息を吐いた。


 歌わなくても、人は動ける。


 必要なのは、動くための場所と、戻るための声だ。


 やがて白布が運ばれ、水路の片側に吊るされた。


 朝の光を受けた水面が、布の影で少し暗くなる。


 反射が弱まり、顔が映りにくくなった。


 ルティアが境目札を二枚取り出し、水路の石壁へ貼る。


 オルマは古い水位目盛を探していた。


 苔を剥がすと、石壁に細い線がいくつも刻まれている。


 その一番下の線に、小さな文字があった。


 巡礼水位。


 足を見る水。


 その線より、今の水はずっと高い。


「やはり深すぎる」


 オルマが言った。


「東の小門が閉まりきっている」


 その時、止まっていた木舟が小さく揺れた。


 鈴は鳴らない。


 ただ、舟だけが水面でくるりと向きを変える。


 船首が、セイの方へ向いた。


 少年の顔が引きつる。


 ニトが鈴を鳴らした。


 ちりん。


 一度だけ。


 水路の上に澄んだ音が落ちる。


 舟は止まった。


 ルティアがすぐに言う。


「今の音、効いています。続けて。でも、三度まで」


 ニトは頷き、間を空けて鳴らした。


 ちりん。


 ちりん。


 今度はセイが震える声で言った。


「戻ってこい、リル」


 リシアは少し驚いた。


 舟に名前をつけていたらしい。


 セイは恥ずかしそうに唇を噛んだ。


「舟の名前です」


「いい名前だと思う」


 ニトが言った。


 セイは少しだけ頷き、もう一度声を出す。


「リル。戻ってこい」


 舟は、水の中で少し動いた。


 だが、戻らない。


 鈴が鳴らないまま、舟の下に何か細い銀の線が絡んでいるのが見えた。


 水草ではない。


 糸でもない。


 光のような線だ。


 シルが肩の上で低く鳴いた。


 リシアは水路へ近づきすぎないようにしながら、目を細める。


 銀の線は、舟の鈴に絡みついていた。


 鈴そのものを縛っているのではない。


 鈴の音だけを、下へ引いているように見えた。


「音が沈められている」


 ルティアが呟いた。


「鈴はあるのに、鳴った音が水面へ出てこない」


「水路全体が、戻る声を弱めている」


 オルマが言う。


 セイが震える。


「ぼくのせいですか。ぼくが舟を流したから」


 リシアはすぐに首を横に振った。


「違います」


 短く、はっきり言った。


 余計な説明は足さない。


 セイは今、その一言を必要としていた。


 ルティアも続けた。


「あなたが舟を流したから、私たちは異常に気づけたの。悪いことをしたのではなく、見つけたの」


 セイは涙をこらえるように頷いた。


 ニトが隣で鈴を握りしめる。


「ぼくも昨日、そう言われた」


 その言葉に、セイはニトを見た。


 同じように怖いものを見た子の声は、大人の慰めよりも届くことがある。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を触れた。


 歌詞帳はわずかに震えている。


 けれど、ページは開かない。


 今は断章の言葉ではなく、目の前の鈴の音を戻す方が先だった。


「ルティアさん」


 リシアは尋ねた。


「音を探すために、短く歌ってもいいですか。舟を動かす歌ではありません。沈んだ鈴の音が、どこへ引かれているか見るための歌です」


 ルティアは水路を見た。


 それからセイを見る。


「セイ。あなたの舟に関わることだから、あなたにも聞きます」


 セイは驚いた。


「ぼくに?」


「ええ。リシアさんが歌ってもいい?」


 セイは少し迷った。


 怖い。


 でも、戻したい。


 その両方が顔に出ている。


 やがて彼は、小さく頷いた。


「リルを、無理やり動かさないなら」


「動かしません」


 リシアはそう答えた。


 シルが肩の上で静かに座り直す。


 止めるためではない。


 見届けるための姿勢だった。


 リシアは水路の縁から少し離れた場所に立ち、息を吸った。


 歌は短くした。


 水に読ませるためではなく、鈴の音がどこで止まっているかを探るために。


「沈む音よ、顔にならないで。


 足もとの石へ、ひとつ返れ。


 名を呼ぶ声の届くところへ、


 鈴は鈴のまま、鳴って。」


 歌は水面を大きく揺らさなかった。


 ただ、舟の鈴に絡んでいた銀の線が、かすかに震える。


 水の下から、細い音が返ってきた。


 ち……


 鳴りきれない鈴の欠片。


 それは水路の東へ引かれていた。


 オルマが杖を水路の石壁に当てる。


「小門ではない。もっと先だ」


「星鏡の小祠ですか」


 ルティアが言う。


「おそらく」


 その瞬間、舟がまた動いた。


 今度はセイの方ではなく、東へ。


 まるで、鈴の音だけがどこかへ引かれ、舟本体まで連れて行かれそうになっている。


「リル!」


 セイが叫んだ。


 彼は水路へ身を乗り出しかけた。


 ニトが咄嗟にその袖を掴む。


「見ちゃだめ!」


 セイの体が止まった。


 水面には、布の影の隙間から、何かの顔が浮かびかけている。


 大人でも子どもでもない。


 セイに似ているようで、誰にも似ていない顔。


 ルティアが境目札を水路へ押し当てた。


「顔を返さないで!」


 水面が激しく揺れる。


 オルマが杖で石壁を叩いた。


「ニト、鈴!」


 ちりん。


 ニトが鳴らす。


「セイ、舟の名を!」


「リル、戻ってこい!」


 舟は一瞬止まった。


 だが、銀の線がまだ引いている。


 リシアは歌おうとして、やめた。


 今度は、セイの声の方が必要だった。


 リシアは少年の横に膝をつく。


「セイくん。リルは、どこへ戻る舟ですか」


「え?」


「水の中じゃなくて。あなたの手元? 家? 誰かのところ?」


 セイは泣きそうな顔で舟を見た。


 それから、ぽつりと言った。


「弟に見せるんです。まだ小さいから、外に出られなくて。鈴の舟が橋をくぐったら、音だけ聞かせるって約束して」


「なら、それを呼んで」


 セイは唇を震わせた。


「リル!」


 声が大きくなる。


「水の中じゃない! 弟のところへ帰るんだ!」


 その瞬間、鈴が鳴った。


 ちりん。


 小さく。


 でも、確かに。


 舟の鈴が、初めて水面の上で鳴った。


 銀の線がぷつりと切れる。


 舟は流れに乗り、ゆっくりと橋の下を抜けて、セイのいる岸へ近づいた。


 水路番が長い棒で舟を引き寄せる。


 セイは震える手で舟を受け取った。


 鈴は濡れていた。


 けれど、もう沈黙していない。


 セイがそっと揺らす。


 ちりん。


 音が返る。


 周囲から、安堵の息が漏れた。


 シルも肩の上で大きく頷いた。


 鈴は鳴った。


 そこはかなり重要らしい。


 ルティアは水路の端に膝をつき、切れた銀の線が消えた場所を見ていた。


「これは星片の影ではありません」


「違うのか」


 オルマが問う。


「はい。影そのものではなく、影が通った跡に残った反照糸です。音や顔を引っかける性質がある」


「つまり、星片の影はここを通った」


「おそらく。けれど、ここにはもうありません」


 ルティアは東を見た。


 水路の先。


 古い石橋の向こうに、小さな祠の屋根が見える。


 星鏡の小祠。


 今は使われていない巡礼の終点。


「小祠へ向かっています」


 その言葉に、町の人々がざわめいた。


 オルマは水路番へ指示を出した。


「この水路は封鎖する。子どもを近づけるな。ただし、怖がらせるな。顔を映さないよう白布を張り、鈴を三つ置け」


「はい」


「水位を下げる準備も進めろ。東の小門は二人一組で確認だ」


 水路番たちが動き出す。


 今度は、誰もただ立ち尽くしてはいなかった。


 セイは舟を抱えたまま、ニトを見た。


「ありがとう」


「ぼくは鈴を鳴らしただけ」


「それがよかった」


 セイは真面目に言った。


 ニトは少し照れたように目を逸らす。


 その横で、シルがなぜか自分も褒められたような顔をしていた。


 リシアは笑いそうになったが、すぐに東の祠へ視線を向けた。


 星鏡の小祠。


 顔を映さない巡礼水路の終点。


 そこへ、未確認の影が向かっている。


 リシアの歌詞帳が、今度は静かに震えた。


 強く開こうとはしない。


 けれど、白紙の奥で細い水色の線が、東へ伸びているような感覚があった。


 ルティアが立ち上がる。


「行きましょう」


 その声には、覚悟があった。


 けれど、急ぎすぎる響きはない。


「小祠へ行く前に、戻る声を決めます。ニトはここまで。小祠の内側には入れません」


 ニトは一瞬だけ不満そうにしたが、すぐ頷いた。


「外で呼びます」


「セイは家へ戻って。弟さんに、鈴を聞かせてあげて」


 セイは舟を抱え、少し迷った。


「水、また怖くなりますか」


 ルティアはすぐに「大丈夫」とは言わなかった。


「怖くなる日もあると思う」


 セイの顔が不安に揺れる。


「でも、その時は一人で覗かないで。誰かと一緒に、足元を見るところから始めて」


 セイは舟の鈴を鳴らした。


 ちりん。


「うん」


 それは、小さな返事だった。


 水路の向こうから、風が吹く。


 東の小祠の屋根に吊るされた古い鈴が、かすかに揺れた。


 誰も触れていない。


 それなのに、音がした。


 りん。


 舟の鈴よりも低く、遠い音。


 オルマの顔が険しくなる。


「祠が返した」


「呼んでいるんですか」


 リシアが尋ねる。


 オルマは首を横に振った。


「違う」


 彼は小祠を見据えた。


「戻る声に、返事をした」


 水路の水面が、東へ向かって細く光った。


 そこに、顔は映らない。


 ただ、足元を導くように、白い石だけが淡く見えている。


 ルティアが境目札を握る。


 リシアはシルを見る。


 シルは、今度は焼き菓子の包みを取り出さなかった。


 食べる場所ではない。


 鳴らす場所でもない。


 これから、誰かの音を返しに行く場所だと、分かっているようだった。


 東の巡礼水路の先で、古い祠の鈴がもう一度鳴った。


 りん。


 その音は、水に沈まず、町の朝へ細く伸びていった。


今回は、東の巡礼水路で起きた異変を描きました。


水路は本来、顔ではなく足元だけを映すための場所でした。


けれど水位が上がり、顔を映してしまうことで、水が子どもの不安を読もうとしていました。


セイは、自分ではない顔を水面に見てしまいます。


けれど、舟の鈴を戻すために、自分の声で舟の名を呼びました。


ニトもまた、鈴を鳴らす役目を果たします。


リシアは歌いましたが、舟を無理に動かすためではありません。


沈んだ鈴の音が、どこへ引かれているのかを探るための短い歌でした。


そして、星片の影そのものではなく、その通った跡に残る反照糸が見つかります。


影は、星鏡の小祠へ向かっていました。


次は、星写しの町編の終盤です。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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