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星写しの町編 97話 茶屋で語る水の傷

リシアたちは、反照塔の床下に封じられていた旧読記室へ入った。

そこは、本来は記録を閉じ込める部屋ではなく、戻る声を持ったまま水鏡の記録を読むための場所だった。

だが、戻る声が失われた時、水は読み手が欲しがる顔を返してしまう。

ルティアは姉の顔かもしれないものに揺れながらも、謝罪ではなく境目札を戻すことを選んだ。

塔の外に残ったニトは、鈴と声でリシアたちを呼び戻す役目を果たした。

旧読記室は一時的に再封鎖できる状態になったが、星片の影はそこを通っていないことも分かる。

未確認の影は、湖東の古い巡礼水路へ流れていた。

そしてオルマは、ルティアの姉エルシアに関わる過去を、水の前ではなく、人の声として語ることになる。


 反照塔から戻る舟の上で、誰もすぐには話さなかった。


 湖は朝の光を受けて、白くきらめいている。


 けれど、そのきらめきは、旧読記室の暗い水音を知った後では少し違って見えた。


 美しい。


 けれど、近づきすぎると顔を映す。


 顔を映せば、そこにないものまで見たくなる。


 リシアは舟の縁に手を置き、揺れる水面から視線を外した。


 今日、読むべきものは水の中ではない。


 そう思っただけで、胸の奥が少し落ち着いた。


 ニトは舟の前方で、鈴を大事そうに抱えている。


 さっきまで何度も鳴らしていたその鈴は、今は音を立てていない。


 それでも少年の指は、鈴の丸い縁を何度も撫でていた。


 リシアの耳に、小さな心歌が届く。


『声が届いた』


『ぼくの声で、戻ってきた』


 その音は嬉しさだけではなかった。


 まだ怖さも残っている。


 けれど、怖かった出来事の中に、自分の役目があったことを確かめている音だった。


 リシアは何も言わなかった。


 ニトの背中は、少しだけ伸びていた。


 シルはリシアの肩で、焼き菓子の包みを抱え直す。


 舟の上では食べない。


 水が近すぎる。


 その判断は変わらないらしい。


「茶屋に着いたら?」


 リシアが小さく尋ねると、シルは一瞬だけ考えた。


 それから、かなり真剣に頷いた。


 茶屋なら鳴らしてもよい。


 そういう結論らしい。


 ミレネの町へ戻ると、朝の賑わいが少しずつ広がり始めていた。


 水路沿いでは、布を洗う人たちが手を止め、舟から降りるリシアたちを見ている。


 噂はもう流れているのだろう。


 反照塔に人が向かったこと。


 旧読記室が開いたこと。


 湖東へ何かが流れたこと。


 はっきりした事実より先に、不安だけが町を渡っている。


 けれど、オルマは足を止めなかった。


 ルティアも、書庫へは戻らず、湖沿いの小さな茶屋へ向かった。


 茶屋は、水鏡書庫から少し離れた場所にあった。


 水路に面してはいるが、店の中へ入ると水面は見えない。


 窓辺には干した薬草が吊るされ、壁には古い木の匙や茶葉の袋が並んでいる。


 店内に満ちているのは水の匂いではなく、炒った麦と温かな湯気の匂いだった。


「ここでいい」


 オルマが言った。


 その声は少し掠れていた。


 ルティアは何も言わず、奥の席へ座る。


 リシアとニトも席についた。


 シルは卓上に降りようとして、リシアに止められた。


「卓上はだめ」


 ちい。


「今日は大事な話だから」


 シルは少し不満そうにしたが、結局リシアの膝の上へ降りた。


 ただし、焼き菓子の包みは両前足でしっかり抱えている。


 茶屋の店主が、温かい星麦茶を運んできた。


 湯気がゆっくり立ち上る。


 リシアはその湯気を見て、少し安心した。


 水面ではなく、湯気。


 顔を映すには薄すぎて、手で掴むには淡すぎる。


 けれど、そこに温かさはある。


 オルマは茶碗に手を添えたまま、しばらく沈黙していた。


 ルティアも急かさない。


 ニトも、鈴を膝の上に置いたまま静かにしている。


 店内の奥で、茶葉を量る音がした。


 木の匙が器に触れる、乾いた音。


 水音ではない音が、妙にありがたかった。


 やがて、オルマが口を開いた。


「エルシアは、私の弟子だった」


 ルティアの指が、茶碗の縁を握る。


「知っています」


「優秀だった。読みが早く、写しも正確で、水の癖を覚えるのも早かった。だが、それだけではない」


 オルマは茶碗の湯気を見た。


「水に映ったものを、すぐに答えへしなかった。分からないものを、分からないまま置ける子だった」


 ルティアは目を伏せた。


 姉を褒められている。


 けれど、その褒め言葉は痛みも連れてくる。


「戦争の末期、ミレネにも多くの手紙が来た。戻った者。戻らなかった者。戻らないまま、戦死とも行方不明とも決められなかった者」


「姉の婚約者も、その一人でした」


「ああ」


 オルマは頷いた。


「彼の名は、ファルド・レイス。湖東の巡礼水路の修繕に携わっていた水路技師だった。戦時中、王都側の補給路を守るために召集され、そのまま戻らなかった」


 湖東。


 リシアはその言葉だけを胸に留めた。


 旧読記室の文字が示した場所だ。


 だが、今はその関連を急いで口にしなかった。


「エルシアは、最初から彼の顔を探していたわけではない」


 オルマは続けた。


「星観測者の写し記録を読んでいた。A・Rの記録、未唱声保留、返声化危険。今、お前たちが見たものに近い」


 リシアは静かに聞いていた。


 水の前ではない。


 だから、その文字は今のところ顔を返してこない。


「ある夜、旧読記室で記録を読んでいる時、彼女は水面にファルドの手を見たと言った」


「手……」


 ルティアが呟く。


「顔ではなく?」


「ああ。最初は手だった。彼の右手には、水路技師の傷があった。石で擦れた古い傷だ。エルシアはそれを見て、記録の中にファルドがいると思った」


「実際に、いたんですか」


 リシアが尋ねた。


 オルマはすぐに答えなかった。


「分からない」


 その返事は、逃げではなかった。


 長く考え続けた人の言葉だった。


「星観測者の記録と、湖東の巡礼水路の記録は一部で繋がっている。ファルドが何かを運んだ可能性はある。だが、それが本人の意思だったのか、記録の混線だったのか、水がエルシアの願いを読んだのか、私には分からない」


 ルティアは茶碗を見つめたまま言った。


「先生は、それを止めなかった」


「ああ」


「なぜですか」


 責める声ではなかった。


 けれど、軽くもなかった。


 オルマは一度、深く息を吐いた。


「私も、知りたかったからだ」


 店内の空気が静かになる。


「星観測者の記録は、ずっと欠けていた。王都へ渡された原本。戻ってこない写し。封じられた旧読記室。私は、知りたかった。水がどこまで真実を映すのか。どこから願いになるのか」


 オルマの手が震えた。


 老いた指先が、茶碗の縁を叩きそうになり、止まる。


「エルシアは弟子だった。だが、同時に優秀な読記者だった。私は彼女の痛みを、研究の手がかりにしてしまった」


 ルティアの顔が強張った。


 リシアの胸にも、重いものが沈む。


 悪意だけなら、責めやすい。


 けれど、オルマの言葉には悪意だけではないものがあった。


 知りたいという欲。


 真実に近づきたいという執念。


 そして、それを誰かの痛みの上に置いてしまった後悔。


 ルティアの心歌が、細く揺れる。


『怒りたい』


『でも、先生も傷ついている』


『それで許していいの?』


 リシアは黙っていた。


 これはリシアが答えることではない。


 ルティアは茶碗から手を離した。


「私は、今すぐ許すとは言えません」


「当然だ」


「姉が旧読記室に通っていた時、私はまだ見習いでした。何度も止めようとした。でも、姉は私に言ったんです」


 ルティアは目を閉じる。


「ファルドが呼んでいる。もう少しで分かる。水の中にいるのは、私が会いたい顔じゃない。本当に彼なの、と」


 声が震えた。


「私は怖くて、読まないでとしか言えませんでした。どうして危ないのかも、どう止めればいいのかも分からなかった」


 ニトが膝の上の鈴を見つめている。


 昨日までの彼なら、たぶん何も言えなかった。


 けれど今日は、そっと口を開いた。


「戻る声が、なかったんですね」


 ルティアがニトを見る。


 ニトは少し怯えたように首をすくめたが、言葉を続けた。


「旧読記室で、水が顔を返すのは、戻る声がない時なんですよね。だったら、エルシアさんは……読まないでって言われるより、戻ってきてって呼ばれる方がよかったのかなって」


 その言葉は、まっすぐすぎて、少し痛かった。


 ルティアは目を見開いた。


 オルマも、静かにニトを見る。


 ニトは慌てて俯いた。


「すみません。ぼく、分かったみたいに」


「いいえ」


 ルティアが首を横に振った。


「今のは、聞けてよかった」


 ニトの肩から、少し力が抜ける。


 シルが膝の上で、深く頷いた。


 かなり偉そうだった。


 その姿を見て、張り詰めていた空気がほんの少し緩む。


 リシアはシルの頭を撫でた。


「あなたも呼ばれて嬉しかったものね」


 シルは何も答えない。


 だが、尻尾だけはゆっくり揺れている。


 オルマはニトへ向かって、小さく頭を下げた。


「その通りだ。私は、読記を止める決まりは作った。だが、戻ってこいと呼ぶ仕組みを軽く見た」


「でも、昨日はニトが呼びました」


 リシアが言った。


「だから戻れました」


 オルマはリシアを見た。


 その目には、ほんの少しだけ驚きがあった。


「お前は、私を責めないのか」


「責めるかどうかは、ルティアさんの話です」


 リシアはそう答えた。


「私は、次に同じことを起こさない方法を知りたいです」


 オルマはゆっくり頷いた。


「湖東の巡礼水路へ行く必要がある」


 その言葉で、場の空気が変わった。


 語られていた過去が、今の事件へ繋がる。


 オルマは茶屋の壁に掛けられた古い地図を示した。


 店主が無言で地図を外し、席の横へ持ってきてくれる。


 ミレネ湖の東側には、細い水路が何本も描かれていた。


 その一番外れに、古い巡礼水路と記されている。


「この水路は、昔、星鏡の小祠へ向かう巡礼者のために作られた。水面に顔を映さず、足元だけを映すように浅く作られている」


「顔を映さないために?」


 ルティアが尋ねる。


「ああ。巡礼者は自分の顔ではなく、自分の歩いている足を見る。願いへ溺れないためだ」


 リシアは地図を見る。


 足元だけを映す水路。


 それは、今の水鏡書庫にとって大事な意味を持つように思えた。


「でも、今は使われていないんですよね」


 ニトが言う。


「なぜですか」


 オルマの返事は短かった。


「水路が深くなった」


「え?」


「地盤が沈んだ。あるいは、誰かが水門を変えた。詳しい時期は分からない。だが、今の巡礼水路は足元だけではなく、顔も映る」


 ルティアの表情が険しくなる。


「つまり、巡礼水路は本来の役目を失っている」


「ああ」


「そこへ未確認影が流れたなら」


「水路全体が、大きな鏡になる」


 茶屋の外から、水路を渡る小舟の音がした。


 いつもなら穏やかな生活の音なのだろう。


 だが今は、町全体が水面の上にあることを思い出させる音だった。


 店主が小さく口を挟んだ。


「東の水路なら、昨日から鈴が鳴りにくいと聞いています」


 全員が店主を見る。


 店主は少し困ったように続けた。


「水路沿いの子どもたちが遊びで鈴を流すんです。普段なら石橋の下で音が返るんですが、昨日の夕方から、東の方だけ鳴らないと」


 ニトの顔が強張る。


「鈴が、鳴らない……」


 戻る声。


 鈴。


 顔を映す水。


 話が一本に繋がっていく。


 シルも膝の上で姿勢を正した。


 焼き菓子の包みを、さらに強く抱える。


 音が鳴らない場所は、彼にとっても大問題なのだろう。


 オルマは立ち上がりかけ、すぐに座り直した。


 ルティアがその動きを見て、首を横に振る。


「先生、すぐに行くのは駄目です」


「分かっている」


「今の私たちは、旧読記室から戻ったばかりです。水路へ行く前に、戻る声の役目を決め直す必要があります」


 ルティアの言葉は、もう迷っていなかった。


 ニトが鈴を握り直す。


「ぼく、行きます」


「ニト」


 ルティアが名前を呼ぶ。


 今度は叱る声ではなく、確認する声だった。


「怖くないの?」


「怖いです」


 ニトは正直に言った。


「でも、外で呼ぶ係ならできます。中へ入らなくても、声を届ける係なら」


 ルティアはしばらくニトを見ていた。


 それから、小さく頷く。


「では、あなたは水路の外側で呼ぶ係。勝手に中へ入らない。水面を覗き込まない」


「はい」


 リシアはそのやり取りを聞きながら、星麦茶を一口飲んだ。


 温かさが喉を通る。


 今日の話は、リシアが決めるものではなかった。


 オルマが過去を語り、ルティアが聞く場所を選び、ニトが戻る声になることを選ぶ。


 リシアはそのそばにいる。


 必要なら手を伸ばす。


 それでいい。


 シルが膝の上で、ついに焼き菓子の包みを開いた。


 リシアは目を瞬かせる。


「今?」


 シルは茶屋の中を見回した。


 水面はない。


 湯気がある。


 人の声がある。


 鈴もある。


 そして、話は一度、ちゃんとこちら側へ戻ってきた。


 だから、ここで鳴らしてよい。


 そう判断したらしい。


 シルは薄い焼き菓子を一枚取り出し、慎重にかじった。


 ぱり。


 音がした。


 水に吸われず、鏡に読まれず、茶屋の木の壁に小さく跳ねる音だった。


 ニトが思わず笑った。


 ルティアも、目元に残った涙を拭いながら、少しだけ笑った。


 オルマは何も言わなかったが、肩の力がわずかに抜けている。


 リシアはその音を聞きながら、茶碗を両手で包んだ。


 戻る声は、大きな言葉だけではないのかもしれない。


 鈴の音。


 名前を呼ぶ声。


 茶屋の湯気。


 焼き菓子が割れる音。


 そういうものがあるから、人は水面の中へ入りきらずに済む。


 その時、茶屋の入口が乱暴に開いた。


 水路番の男が、息を切らして駆け込んでくる。


「オルマさん、ルティアさん!」


 彼の服の裾は濡れていた。


 顔色も悪い。


「東の巡礼水路で、舟が戻りません」


 ルティアが立ち上がる。


「舟?」


「子どもたちの遊び舟です。小さな木舟に鈴を乗せて流す、いつもの遊びです。だけど、今朝流した舟が、東の橋の下で止まったまま動かない。鈴も鳴らない。それで覗いた子が……」


 男は言葉を詰まらせた。


 オルマが低く問う。


「どうした」


「水面に、自分じゃない顔が映ったと言っています」


 茶屋の空気が凍る。


 シルが焼き菓子を抱えたまま、ぴたりと動きを止めた。


 ニトの鈴が、膝の上で小さく震える。


 ルティアは深く息を吸った。


 さっきまで泣いていた人の顔ではない。


 写し守の顔だった。


「行きます」


 オルマが頷く。


「戻る声を忘れるな」


「忘れません」


 ルティアはニトを見る。


「ニト、鈴を持って」


「はい」


「リシアさん」


 ルティアがこちらを見る。


「一緒に来てください。ただし、水面を見る前に、子どもの話を聞きます」


 リシアは立ち上がった。


「はい」


 それが、今のリシアにできる一番確かな返事だった。


 茶屋の外では、朝の水路が光っている。


 美しく、静かで、どこか底の見えない光。


 その東へ、未確認の影が流れている。


 今度は、誰かが水に読まれる前に。


 戻る声を持って、向かわなければならない。


今回は、水の前ではなく、茶屋で語る回でした。


オルマは、ルティアの姉エルシアが旧読記室で何を見たのか、そして自分がなぜ止められなかったのかを語ります。


真実を知りたいという思いが、誰かの痛みを研究の手がかりにしてしまうことがある。


その傷が、今の水鏡書庫にも残っていました。


ルティアは、今すぐ許すとは言いません。


でも、姉の話を聞く場所を選び、次に同じことを起こさないために動き始めます。


ニトもまた、ただ待つ少年ではなく、戻る声を届ける役目を自分で選びました。


そして東の巡礼水路では、子どもが自分ではない顔を水面に見てしまいます。


水がまた、誰かを読もうとしているのかもしれません。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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