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星写しの町編 99話 足元に映る星

リシアたちは、東の巡礼水路で異変を確認した。

本来、巡礼水路は顔ではなく足元だけを映すための浅い水路だった。

けれど水位が上がったことで、子どものセイは水面に自分ではない顔を見てしまう。

セイの小舟リルは鈴の音を沈められ、水に引かれかけていた。

リシアは短い歌で、沈んだ鈴の音がどこへ引かれているのかを探る。

そして、星片の影そのものではなく、その通った跡に残る反照糸が見つかった。

影は、巡礼水路の終点にある星鏡の小祠へ向かっていた。

小祠の鈴が、戻る声に返事をする。

リシアたちは、星鏡の小祠へ向かう。


 星鏡の小祠へ向かう道は、水の上を歩いているようだった。


 巡礼水路の両側には、白い石の細道が続いている。


 本来なら、浅い水に自分の靴先だけが映る道なのだろう。


 けれど今は、水位が上がりすぎていた。


 歩くたび、白布の隙間から顔が映り込みそうになる。


 町の人々が張った布は、風に揺れながら水面の光を切っていた。


 その下で、水は静かに流れている。


 静かすぎるほどに。


 ニトは水路の入口に残った。


 約束通り、小祠の内側には入らない。


 胸の前には鈴。


 その隣にはセイが立っていた。


 セイは戻ってきた小舟リルを抱えている。


 弟に見せるはずだった舟。


 鈴はもう鳴る。


 けれど、セイはそれを家へ持ち帰る前に、もう一度だけ役に立てたいと言った。


「リルの鈴、使ってください」


 少年はそう言って、舟から鈴を外した。


 手は震えていた。


 でも、目は水面を見ていない。


 ニトの鈴を見ていた。


「弟には、あとで鳴らして聞かせます。だから、先にこっちで」


 ルティアは鈴を両手で受け取った。


「ありがとう。セイ」


「水の中に持っていかれないようにしてください」


「持っていかせない」


 ルティアは短く答えた。


 それは慰めではなく、仕事の約束だった。


 セイは小さく頷き、ニトの横に並ぶ。


 二つの鈴が、入口に置かれた。


 戻る声のための鈴。


 水の中へ入りすぎないための音。


 シルはリシアの肩で、その鈴をじっと見ていた。


 焼き菓子の包みは鞄の奥にしまわれている。


 今日はまだ、鳴らす時ではないらしい。


 小祠は、巡礼水路の終点にあった。


 古い石橋の先に、白い屋根だけが低く見える。


 大きな建物ではない。


 人が数人入ればいっぱいになるほどの、小さな祠だった。


 屋根の下には、丸い水鏡が吊るされている。


 ただし、反照塔や水鏡書庫のものとは違う。


 顔の高さではなく、膝より低い位置にある。


 覗き込まなければ、顔は映らない。


 代わりに、足元が映るように作られていた。


 オルマが杖で石畳を軽く叩く。


「ここは、願いを問う場所ではなかった」


 低い声だった。


「巡礼者はこの祠で、自分の顔ではなく足を見た。自分がどこから来て、どこへ戻るのかを確かめるために」


「だから、足元だけを映す水路だったんですね」


 ルティアが言う。


「ああ。顔を見ると、人は答えを欲しがる。足を見ると、次の一歩を考える」


 リシアは小祠の中へ目を向けた。


 床には浅い水が張られている。


 その下に、白い石が並んでいた。


 飛び石のようにも、星座のようにも見える。


 石の一つ一つに、古い文字が刻まれていた。


 戻れ。


 止まれ。


 渡れ。


 呼べ。


 選べ。


 どれも、答えではなかった。


 動きの言葉だ。


 ルティアは祠の入口に境目札を貼り、オルマは水位を測った。


 目盛の位置を見た瞬間、彼の眉が動く。


「やはり、ここも深い」


「水門ですか」


「水門だけではない。祠の奥にある星鏡受けが詰まっている」


 オルマは祠の奥、低い水鏡の下を指した。


 そこには、小さな石の受け皿があった。


 皿の中には水が溜まり、銀色の細い糸が幾重にも絡まっている。


 前話で見た反照糸と同じものだ。


 ただ、ここではもっと密度が高い。


 糸は水の流れを塞ぎ、鈴の音や足元の反射まで引っかけていた。


 ルティアが膝をつく。


「これを解けば、水位が下がるはずです」


「触れるな。反照糸は音に絡む」


 オルマが止める。


「下手に触れば、声を持っていかれる」


 ルティアは手を止めた。


 けれど、退かなかった。


「なら、声を置きながら解きます」


 彼女は振り返り、祠の外へ声をかけた。


「ニト、セイ。鈴を」


 すぐに返事があった。


「はい!」


 二つの鈴が鳴る。


 ちりん。


 りん。


 音が重なった。


 一つはニトの鈴。


 一つはセイの小舟から外した鈴。


 どちらも大きな音ではない。


 けれど、祠の水はそれに反応した。


 銀の反照糸がかすかに震える。


 リシアは水面を見ないよう、飛び石の文字を見る。


 足元。


 足元だけ。


 そうすれば、祠はまだこちら側にある。


 ルティアが細い青糸を取り出した。


 境目札を補修するための糸だ。


 それを反照糸へ直接触れさせず、石の縁に渡していく。


「絡まった音を、切るのではなく、戻す」


 ルティアは小さく呟いた。


「姉なら、たぶんこうした」


 水鏡の下の受け皿が揺れた。


 そこに、人の顔が浮かびかける。


 長い髪。


 柔らかな目元。


 ルティアの手が止まりかけた。


 オルマが何か言おうとする。


 だが、ルティアは自分で息を吐いた。


「見ない」


 短い言葉だった。


 彼女は顔ではなく、受け皿の縁を見た。


「エルシア・セルン。水鏡書庫の写し手。私の姉」


 顔は揺れる。


「でも、今ここにいるあなたは、水が返した顔」


 ルティアの指が、青糸を結ぶ。


「私は、姉の話を後で聞く。水からではなく、人の声で」


 反照糸の一つがほどけた。


 水が小さく流れる。


 鈴がまた鳴った。


 ちりん。


 りん。


 小祠の床の水が、ほんの少しだけ下がった。


 白い飛び石の文字が、はっきり見える。


 戻れ。


 止まれ。


 渡れ。


 呼べ。


 選べ。


 オルマはその文字を見て、深く息を吐いた。


「忘れていたな」


「何をですか」


 リシアが尋ねる。


「水鏡の記録は、答えを得るためのものではなかった。足を戻すためのものだった」


 その声には、悔いがあった。


 だが、そこに沈みきってはいない。


 オルマは杖を祠の床へつき、ルティアの隣に膝をついた。


「私もやる」


「先生」


「弟子にばかり働かせるわけにはいかん」


 ルティアは少しだけ目を丸くした。


 それから、短く頷いた。


「では、こちらを押さえてください。強くではなく、流れを逃がすように」


「分かった」


 二人が並んで反照糸をほどく。


 オルマの手は老いている。


 ルティアの手は若い。


 どちらも、完全には震えを隠せていない。


 それでも手は動いている。


 水が時折、誰かの顔を返そうとした。


 若い男の手。


 長い髪の女性。


 泣いている子ども。


 笑っている誰か。


 けれど、二人は顔を追わなかった。


 外から鈴が鳴るたび、祠の中の水は少しずつ浅くなっていく。


 その時、リシアの足元の石が淡く光った。


 選べ。


 その文字の下に、水色の線が走る。


 歌詞帳が胸元で震えた。


 リシアはそれを開いた。


 白紙の奥に、短い言葉が浮かびかけている。


 星は、顔を返す水ではない。


 そこで止まっていた。


 続きはまだ出てこない。


 リシアは無理に書き足さなかった。


 今は、先に祠を戻す。


 その時、反照糸の中心から、銀色の小さな光が浮いた。


 星片の影。


 本体ではない。


 けれど、本体の輪郭をかたどるような淡い光。


 それは水の上で震え、リシアの方へ一度だけ近づいた。


 シルが肩の上で、静かに身を起こす。


 止めるような声は出さない。


 ただ、見ている。


 銀の影は、リシアの胸元の歌詞帳へ触れそうになり、そこで止まった。


 そして、小祠の奥にある星鏡受けへ戻っていく。


 オルマが目を細めた。


「戻った……いや、置かれたか」


 星片の影は、受け皿の中に収まった。


 水が澄む。


 反照糸は完全には消えていない。


 けれど、音や顔を引く力は弱まっていた。


 受け皿の縁に、文字が浮かぶ。


 星片の影。


 保持者、未確認。


 返却、延期。


 戻る声、確認。


 ルティアが小さく息を吐いた。


「返さずに、置く」


「エリュナと同じだ」


 オルマが言った。


「声を返さずに置く。星片も、持ち主が確認されるまでは返さない」


 リシアは歌詞帳を見た。


 白紙の言葉が、少しだけ続く。


 星は、顔を返す水ではない。


 足もとを照らし、戻る道を残す小さな光。


 その二行は、断章のようには輝かなかった。


 火や沈黙や名や雪の断章とは違う。


 もっと薄い。


 道標に近い。


 リシアはそれでいいと思った。


 今ここで欲しいのは、完成した歌ではない。


 水の中へ入りすぎないための線だった。


「リシアさん」


 ルティアが声をかける。


「少しだけ、歌えますか」


 リシアは顔を上げた。


「何のために?」


「祠を閉じるためではありません。水を浅く戻したことを、町の人たちに知らせるために」


 ルティアは外を見た。


「水面を怖いものとして封じるだけでは、また誰かが一人で覗きます。ここは、本来は足元を見る場所だった。それを思い出せる歌が必要です」


 リシアは少し考えた。


 歌で解決する場面ではない。


 けれど、選ばれた場所へ言葉を置くことはできる。


 彼女は頷いた。


「短くします」


「お願いします」


 リシアは小祠の外へ出た。


 水路の入口には、ニトとセイ。


 少し離れた場所には、水路番や町の人々がいる。


 皆、不安そうにこちらを見ていた。


 リシアは水面ではなく、白い石畳を見て歌った。


「顔を探す水よ、静かに浅く。


 願いを沈めず、足音を返して。


 鈴が鳴る道を、町へ残して。


 星は答えず、歩く先だけ照らせ。」


 大きな歌ではなかった。


 けれど、巡礼水路の水が細く揺れた。


 白布の下で、反射がゆっくり弱まっていく。


 水位が下がり、顔ではなく靴先だけが映る高さへ戻っていく。


 セイが恐る恐る足元を見た。


 水に映ったのは、顔ではなかった。


 彼の靴。


 そして、手に持った小舟リルの影。


 セイは小さく息を吐いた。


「足だけだ」


 ニトが鈴を鳴らした。


 ちりん。


 今度は、水に吸われず、橋の下で軽く跳ね返った。


 りん。


 小祠の古い鈴が、それに応える。


 二つの音が、町の朝に重なった。


 シルはリシアの肩から鞄を覗き込んだ。


 そして、ついに焼き菓子の包みを取り出した。


「ここで?」


 リシアが小声で聞くと、シルは慎重に周囲を見た。


 水は浅い。


 顔は映らない。


 鈴は鳴る。


 子どもたちは笑っている。


 そして、星片の影は返されず、置かれた。


 条件は揃ったらしい。


 シルは薄い焼き菓子を一枚かじった。


 ぱり。


 音は、驚くほど明るく鳴った。


 セイが笑う。


 ニトも笑う。


 ルティアが目元を緩め、オルマは口元だけで少し笑った。


 シルは満足そうに胸を張る。


 この音も、戻る声の一つだと言わんばかりだった。


 小祠の後始末は、町の人々の手で進められた。


 水路番たちは水門を開き、水位を下げる作業に入った。


 白布はしばらく張っておくことになった。


 子どもたちが舟を流す遊びは、すぐに禁止にはしない。


 ただし、一人で水面を覗かないこと。


 鈴が鳴らなければ、大人を呼ぶこと。


 足元を見る場所では、顔を探さないこと。


 その三つを、町の新しい約束にする。


 決めたのはルティアだった。


 オルマは、その横で頷いていた。


 かつて閉じる決まりばかりを作った書庫守が、今は戻るための決まりを受け入れている。


 リシアはその姿を見ていた。


 何かを言う必要はなかった。


 町は、町の声で変わり始めている。


 夕方。


 水鏡書庫の前に、リシアたちは集まった。


 小祠から戻された星片の影は、正式に星鏡受けへ保管された。


 ルティアは記録板に今日の出来事を書き込んでいる。


 その横には、ニトが運んできた鈴の記録札。


 セイの小舟リルの名前も、短く添えられた。


 返る声の協力物。


 そう書かれていて、セイはかなり照れていた。


 オルマはリシアに向き直る。


「星片の影は、しばらくミレネで預かる」


「はい」


「持ち主が確認されるまでは、返さない。そう記録する」


「お願いします」


 リシアは胸元の歌詞帳に触れた。


 星の断章は、まだ来ない。


 けれど、それでよかった。


 ルティアが書き終えた記録板を閉じる。


「リシアさん」


「はい」


「私は、姉の話をこれから少しずつ聞きます。先生からも、記録からも。でも、水に顔を返してもらう形では聞きません」


 ルティアの声は静かだった。


「姉が何を見たのか、全部は分からないかもしれません。それでも、分からないことを水に埋めさせないようにします」


 オルマが目を伏せた。


「私も、話す。隠したことも、間違えたことも」


「はい」


 二人の間に、まだ許しはない。


 けれど、向き合うための机は置かれた。


 水面ではなく、人の声の前に。


 ニトが鈴を持って駆け寄ってくる。


「リシアさん、シルさん」


 シルが名前に反応して胸を張る。


「また来ますか」


「うん。きっと」


 リシアが答えると、ニトは少しだけ笑った。


「その時は、鈴も焼き菓子も鳴る場所に案内します」


 シルの目が輝いた。


 それはとても魅力的な約束だったらしい。


 水鏡書庫を出る時、リシアの歌詞帳が一度だけ淡く光った。


 開くと、そこには先ほどの二行が残っている。


 星は、顔を返す水ではない。


 足もとを照らし、戻る道を残す小さな光。


 その下に、まだ白紙が続いていた。


 断章ではない。


 歌も完成していない。


 けれど、星へ近づくための大事な道標だった。


 リシアはページを閉じた。


 湖の向こうに、夕星が一つ浮かんでいる。


 水面にも同じ星が映っていた。


 でも、リシアは水の中の星には手を伸ばさなかった。


 代わりに、足元を見た。


 白い石道の上に、自分の影とシルの影が並んでいる。


 シルの影はちゃんとあった。


 水鏡に映らなかった理由は、まだ分からない。


 けれど、今はそれも急がない。


 シルはリシアの肩で、最後の焼き菓子を大切そうに抱えていた。


「それ、まだ食べないの?」


 ちい。


 これは次の道で鳴らす。


 そう言っているようだった。


 リシアは笑った。


「じゃあ、次の道で」


 ミレネの水路では、鈴が鳴っている。


 ちりん。


 りん。


 水に沈まず、町へ返る音。


 その音を背に、リシアは歩き出した。


 星はまだ、答えを返さない。


 けれど、足元を照らす光なら、確かにそこに残っていた。


星写しの町編は、今回で一区切りです。


ミレネの水は、答えを返すものではありませんでした。


本来は、顔ではなく足元を映し、自分がどこから来て、どこへ戻るのかを確かめるための場所でした。


ルティアは、姉の顔かもしれないものを追うのではなく、境目札を戻し、町の水路を直すことを選びました。


オルマは、閉じるだけではなく、戻る声を置くことの大切さを認めます。


ニトとセイも、それぞれの鈴で戻る声を支えました。


リシアが得たのは、星の断章ではありません。


けれど、星へ近づくための道標が残りました。


星は、顔を返す水ではない。


足もとを照らし、戻る道を残す小さな光。


次は、重い水鏡の町を離れ、リシアとシルの旅路に少し息を戻す回になります。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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