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旅路小休止編 100話 鈴の鳴る焼き菓子

リシアたちは、星鏡の小祠で巡礼水路の異変に向き合った。

巡礼水路は、本来、顔ではなく足元を映すための場所だった。

けれど水位が上がったことで、水は人の顔を映し、読み手の願いや不安を返そうとしていた。

ルティアとオルマは、反照糸をほどき、星片の影を返さずに星鏡受けへ置くことを選ぶ。

ニトとセイは、鈴の音で戻る声を支えた。

リシアは短い歌を置き、水路は顔ではなく足元を映す浅さへ戻った。

星の断章はまだ得ていない。

けれど、歌詞帳には星へ近づくための道標が残った。

星は、顔を返す水ではない。

足もとを照らし、戻る道を残す小さな光。

リシアとシルは、ミレネを離れ、次の道へ向かう。


 ミレネを発つ朝、町は少しだけ賑やかだった。


 水路沿いには、まだ白布が張られている。


 風に揺れる布の下で、水は浅く流れていた。顔を映すほど深くはない。靴先と石畳と、時々流れてくる小さな葉だけが、水面に淡く揺れている。


 昨日までなら、リシアはその水を少し怖いと思ったかもしれない。


 けれど今朝の水路には、子どもたちの声があった。


「一人で覗かない!」


「鈴が鳴らなかったら大人を呼ぶ!」


「顔じゃなくて足を見る!」


 水路番の男が、子どもたちへ新しい約束を教えている。


 子どもたちは真剣に頷いているが、その横ではセイが小舟リルを胸に抱えて、弟らしい小さな子に鈴を鳴らして聞かせていた。


 ちりん。


 りん。


 小さな弟は、目を丸くして笑う。


 セイも少し照れながら笑っていた。


 ニトはその隣で、鈴の鳴らし方を得意げに教えている。


 昨日まで怖いものを見た子どもたちが、今は鈴の音を確かめ合っている。


 それだけで、ミレネの朝は少し明るく見えた。


 ルティアは水鏡書庫の前で、リシアたちを見送ってくれた。


 手には小さな布包みがある。


「これを」


「何ですか?」


「返る鈴です。特別な魔道具ではありません。ただ、ミレネでは旅に出る人へ、道に迷わないよう渡すことがあります」


 布を開くと、青い紐の先に小さな鈴がついていた。


 銀ではなく、少し青みがかった金属でできている。


 揺らすと、澄んだ音がした。


 ちりん。


 水に沈まない、軽い音だった。


「いただいていいんですか」


「はい。リシアさんにというより……」


 ルティアの視線が、リシアの肩へ移る。


 シルが、何かを察したように身を引いた。


「シルさんに」


 シルは目を見開いた。


 鈴。


 首元。


 青い紐。


 リス。


 その組み合わせに、彼は明らかな警戒を示した。


「シル、似合うと思うよ」


 リシアが言うと、シルは即座に首を横に振る。


 ちい。


 断固拒否。


 そう聞こえた。


 ルティアは少し困ったように笑った。


「首につけなくても構いません。荷物につけても」


 シルは考えた。


 それから、リシアの鞄を指した。


「私の鞄?」


 ちい。


 それなら許す。


 そんな顔だった。


 リシアは青い紐を鞄の留め具へ結んだ。


 鈴が小さく揺れる。


 ちりん。


 シルはその音を聞いて、満足そうに頷いた。


 どうやら、自分が鳴らされるのは嫌だが、旅の音として鳴る分には悪くないらしい。


 オルマも書庫の奥から出てきた。


 手には薄い青水耐紙の小片がある。


「水鏡書庫からの記録だ」


 リシアは受け取った。


 そこには短く記されていた。


 星片の影、ミレネにて保留。


 返却せず、持ち主確認まで置く。


 戻る声、確認済み。


 記録者、ルティア・セルン。


 確認者、オルマ・セイグ。


 協力者、リシア・フェルミナ、シル、ニト、セイ。


 リシアは最後の行を見て、思わずシルを見る。


「シル、協力者だって」


 シルは大きく胸を張った。


 かなり当然だと思っている顔だった。


「焼き菓子を鳴らしたからかな」


 ちい。


 それだけではない。


 そう主張しているようだった。


 ルティアが笑う。


「もちろん、それだけではありません。でも、あの音に助けられた人もいます」


 シルはさらに胸を張った。


 胸を張りすぎて、肩の上で少し後ろへ倒れかける。


 リシアが慌てて支えた。


「誇るのはいいけど、落ちないで」


 シルは何事もなかったように尻尾で体勢を整えた。


 ニトとセイも駆け寄ってきた。


「リシアさん!」


「シルさん!」


 シルは名前を呼ばれると、さっと姿勢を正す。


 セイは小さな紙袋を差し出した。


「これ、弟からです。焼き菓子」


 シルの耳がぴんと立った。


 紙袋からは甘く香ばしい匂いがする。


 薄く焼いた菓子のようだが、丸くはない。


 鈴の形だった。


 中央に小さな穴があり、表面には細い線が刻まれている。


「鈴の形?」


 リシアが尋ねると、セイは頷いた。


「弟が、シルさんの音が好きだって。だから、鈴みたいに鳴る焼き菓子にしたらって」


「作ったの?」


「茶屋のおばさんに頼みました」


 シルは紙袋を凝視している。


 その目は、星片を前にした時より真剣かもしれない。


 リシアは一枚取り出し、シルへ渡した。


「よかったね」


 シルは両前足で鈴型の焼き菓子を受け取った。


 そして、すぐには食べなかった。


 まず、リシアの鞄についた返る鈴を見る。


 次に、自分の前足の焼き菓子を見る。


 鈴。


 焼き菓子。


 鳴るもの。


 食べるもの。


 その二つをどう扱うべきか、真剣に悩んでいる。


 ニトが小さく笑った。


「シルさん、考えてる」


「食べ物に関しては、いつも真剣なんです」


 リシアが言うと、シルは抗議するように鳴いた。


 ちい。


 これは大事な儀式だ。


 そんな声だった。


 シルは焼き菓子をそっと揺らした。


 当然、鳴らない。


 鈴ではないのだから。


 シルは少し不満そうに焼き菓子を見る。


 それから、小さくかじった。


 ぱり。


 澄んだ、軽い音がした。


 その瞬間、シルの表情が明るくなる。


 鳴った。


 ちゃんと鳴った。


 そして食べられる。


 完璧なものを見つけた顔だった。


 ニトとセイが笑い出す。


 ルティアも口元を押さえ、オルマでさえ片眼鏡の奥で目を細めていた。


 リシアも笑った。


 水鏡の町で、最後に残った音が焼き菓子の音になる。


 それは、少しだけおかしくて、少しだけ温かかった。


 ミレネを出る道は、湖から離れる細い街道だった。


 水路の音は少しずつ遠ざかる。


 代わりに、草を踏む音、鳥の羽音、鞄についた返る鈴の音が聞こえてくる。


 ちりん。


 ぱり。


 ちりん。


 ぱり。


 リシアが一歩歩くたびに鈴が鳴り、シルが焼き菓子をかじるたびに別の音が混ざった。


「シル」


 リシアは肩の上を見る。


「歩調に合わせて食べてる?」


 シルは焼き菓子を抱えたまま、何も知らない顔をした。


 ちりん。


 ぱり。


「合わせてるよね」


 ちい。


 偶然。


 明らかにそうではなかった。


 しばらく歩くと、街道沿いに小さな休み場があった。


 旅人用の丸太椅子と、雨よけの屋根だけの簡素な場所だ。


 そこからは、少し遠くにミレネの湖が見えた。


 水面は空を映している。


 けれど、今はもう追いかけるような光ではない。


 リシアは腰を下ろし、歌詞帳を開いた。


 星写しの町で残った二行は、まだ薄く光っている。


 星は、顔を返す水ではない。


 足もとを照らし、戻る道を残す小さな光。


 その下は白紙のままだ。


 シルが覗き込む。


 リシアはページを撫でた。


「まだ、歌にはならないね」


 シルは焼き菓子をかじる手を止め、白紙を見た。


 それから、前足でページの端を軽く叩く。


 急ぐな。


 そんな仕草だった。


「うん。急がない」


 リシアはページを閉じた。


 前なら、その白紙に何かを書き足したくなったかもしれない。


 けれど今は、白いままでもよかった。


 ミレネで学んだのは、映ったものをすぐ答えにしないことだけではない。


 足元を見ること。


 戻る声を持つこと。


 そして、誰かと一緒に確かめること。


 それだけで、少し遠くまで歩ける。


 シルが鈴型の焼き菓子をもう一枚取り出した。


 今度は自分で食べず、リシアへ差し出す。


「くれるの?」


 シルは少しだけ名残惜しそうに菓子を見た。


 それでも、差し出した前足は引っ込めない。


 リシアは受け取った。


「ありがとう」


 焼き菓子を半分だけかじる。


 ぱり。


 軽い音がした。


 甘さは控えめで、香ばしい。


 少し麦の味がする。


「おいしいね」


 シルは満足そうに頷いた。


 それから、自分の分をすぐにかじる。


 ぱり。


 二つの音が、休み場の屋根の下で並んだ。


 その音を聞いて、リシアはふと昔のことを思い出した。


 騎士団に入ったばかりの頃。


 休憩時間に、アイシャが焼き菓子を二枚持って訓練場の隅へ来たことがある。


『リシア、半分こ』


『一枚ずつあるなら半分こじゃないでしょ』


『気持ちの問題』


 アイシャはそう言って、自分の菓子をかじった。


 ぱき、と音がした。


『いい音』


『そこ?』


『うん。食べ物って、音がいいとちょっと元気出るじゃん』


 リシアは呆れながら笑った。


 その時、アイシャは焼き菓子の欠片を指先でつまみ、得意そうに言った。


『リシアの歌もさ、こういうのでいい時あると思うよ』


『どういうの?』


『大きく勇気出せーってやつじゃなくて、ぱきって鳴って、あ、今ちょっと生きてるって思うやつ』


『何それ』


『分かんない。でも、リシアなら作れそう』


 何気ない言葉だった。


 その時のリシアは、笑って流した。


 けれど今、その言葉が妙に胸へ残る。


 ぱり、と鳴る焼き菓子。


 ちりん、と鳴る鈴。


 大きな救いではなく、こちら側へ戻ってくるための小さな音。


 リシアは空を見上げた。


 雲がゆっくり流れている。


 アイシャの声は、もう聞こえない。


 けれど、昔の何でもない言葉が、今の道にそっと置かれることはある。


 シルがリシアの頬を前足でつついた。


「ん?」


 見ると、シルが自分の焼き菓子を抱えたまま、じっとリシアを見ている。


 少し心配そうだった。


 リシアは笑った。


「大丈夫。ちょっと思い出してただけ」


 シルはまだ見ている。


「悲しいだけじゃない思い出」


 そう言うと、シルはようやく頷いた。


 そして焼き菓子をかじる。


 ぱり。


 今度は少し大きな音だった。


 リシアは小さく笑った。


「励ましてくれた?」


 シルは首を傾げる。


 そんなつもりではない。


 ただ食べた。


 そんな顔だった。


「うん。そういうのも助かる」


 休み場でしばらく過ごしてから、二人は再び歩き出した。


 道は北東へ伸びている。


 ミレネでもらった小さな旅地図には、湖を越えた先に古い石柱道が描かれていた。


 そこには、かすれた文字でこう書かれている。


 星渡りの石列。


 かつて星を測る者たちが、夜に歩いた道。


 今はほとんど使われていないらしい。


 ルティアは地図を渡す時、そこを指差して言った。


『星観測者の写し記録を追うなら、いずれそこへ出ます。ただ、急がなくていい。あの道は、夜になると足音が遅れて聞こえるそうです』


 足音が遅れて聞こえる。


 リシアはその言葉を思い出す。


 ミレネでは、戻る声と足元を学んだ。


 次の道では、足音が遅れる。


 それが何を意味するのかは、まだ分からない。


 でも、今はそれでいい。


 遠くの方で、旅人の馬車が見えた。


 荷台には、乾いた草束と布袋が積まれている。


 その後ろに、小さな風鈴のようなものがいくつも吊るされていた。


 馬車が揺れるたび、かすかな音が鳴る。


 りん。


 りん。


 ミレネの鈴とは少し違う。


 もっと乾いていて、風に近い音。


 馬車の御者がリシアを見ると、手を上げた。


「旅の歌魔術師さんかい?」


「はい」


「なら、北へ行くなら気をつけな。昨夜、星渡りの石列で妙な音を聞いたって旅人がいた」


「妙な音?」


「足音だよ。自分の後ろから、自分の歩いた音が遅れてついてくるんだとさ」


 御者は肩をすくめる。


「まあ、旅人の怖がり話かもしれないがね」


 馬車が通り過ぎる。


 風鈴の音が少しずつ遠ざかる。


 リシアは道の先を見た。


 シルも同じ方を見ている。


 焼き菓子を抱えたまま、少しだけ耳を立てていた。


 ちりん。


 鞄の返る鈴が鳴る。


 ぱり。


 シルが焼き菓子をかじる。


 りん。


 遠くの風鈴が返る。


 三つの音が、旅の空気に混ざった。


 星はまだ答えない。


 でも、道は続いている。


 リシアは鞄の鈴を指先で軽く押さえた。


「行こうか、シル」


 シルは焼き菓子の残りを大事そうに包み直した。


 次の音のために、取っておくつもりらしい。


 そして、リシアの肩の上で小さく鳴いた。


 ちい。


 その声は、急げでも、止まれでもなかった。


 ただ、歩こう。


 そう聞こえた。


 リシアは北東へ続く道を歩き出す。


 背中の遠くで、ミレネの鈴がまだかすかに鳴っていた。


今回は、星写しの町編の後の小休止でした。


ミレネを離れる朝、リシアとシルは、ルティアたちから返る鈴と鈴型の焼き菓子を受け取ります。


重い水鏡の出来事の後に残ったのは、大きな答えではなく、小さな音でした。


鈴が鳴ること。


焼き菓子が鳴ること。


誰かの名前を呼ぶこと。


そういう小さな音が、人を水の中へ入りきらせず、こちら側へ戻してくれるのかもしれません。


リシアは、昔アイシャが言った「ぱきって鳴って、今ちょっと生きてるって思う歌」のことを思い出します。


星の断章はまだ手に入っていません。


けれど、星へ近づく道は続いています。


次の導線は、星渡りの石列。


そこでは、自分の足音が遅れてついてくるという噂があるようです。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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