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星写しの町編 93話 読もうとする顔

リシアとシルは、セレナからの手紙を頼りに、鏡水町ミレネへ到着した。

ミレネには、水と硝子を使って記録を写す水鏡書庫があった。

写し守のルティア、書庫守のオルマに案内されたリシアは、星観測者の写し記録に触れる。

そこには、A・R、未唱声保留、返声化危険、星片、本体より離脱、保持者未確定という言葉が映っていた。

けれど、オルマはすぐに記録を閉じる。

欲しい文字を見つけた時が、一番危ない。

記録は読み手の願いを映してしまうからだった。

さらに、配達少年ニトが持ってきた点検札には、湖底棚の星片保管区に異常があり、封じ泡が一つ空になっていると記されていた。

水鏡には、ただ一言だけが浮かぶ。

返すな。

ミレネの水面は、静かに震えていた。


 水鏡書庫の中で、一番よく響いたのは沈黙だった。


 紙が擦れる音もある。


 硝子板を箱へ収める小さな音もある。


 天井の採光口から差し込む光が、水盤に落ち、揺れる光を白い壁へ返している。


 けれど、誰もすぐには言葉を発しなかった。


 湖底棚。


 星片保管区。


 浮上痕。


 返すな。


 それらの言葉が、水盤の底へ沈まず、リシアたちの間に薄く漂っている。


 配達少年ニトは、点検札を胸に抱えたまま立ち尽くしていた。


 頬のそばかすが、水盤の光を受けて少し白く見える。


 彼はまだ幼い。


 けれど、今の顔は子どもというより、何かを壊してしまったと思っている者の顔だった。


 リシアの耳に、かすかな心歌が触れる。


『僕が見つけたから、悪いことになったのかな』


 リシアはすぐに目を伏せた。


 深く聞かない。


 ただ、届いてしまった一音だけを受け止める。


 ニトは水鏡書庫の人間ではないのだろう。肩にかけた配達鞄も、靴についた泥も、町のあちこちを走り回っている子どものものだった。


 でも、この異常を最初に見つけた。


 だから、自分が何かを始めてしまったと思っている。


 リシアはゆっくりと声をかけた。


「ニトくん」


 少年の肩が跳ねる。


「はい」


「この札を届けてくれて、ありがとう」


「でも……」


「届けなかったら、誰も気づけませんでした」


 ニトは唇を噛んだ。


 心歌が、また少しだけ漏れる。


『気づかなければ、怒られなかったのに』


 その音は、リシアの胸に小さく刺さった。


 子どもは時々、正しいことをした後に叱られることを恐れる。


 大人が慌てた顔をするだけで、自分が悪かったのだと思ってしまう。


 ルティアがすぐに屈み、ニトの目の高さに合わせた。


「ニト。あなたは悪くないわ」


「でも、封じ泡が空で……」


「それを見つけて知らせたのが、あなたの仕事よ。隠したなら叱るけれど、知らせたなら叱らない」


「本当に?」


「本当に」


 ルティアの声は優しかった。


 だが、彼女の手はわずかに震えている。


 リシアには、その震えの下に別の心歌が聞こえた。


『また、湖が誰かを映した』


『今度は、誰の顔を持っていくの』


 リシアはルティアを見た。


 写し守。


 記録を写す人。


 だが、彼女は記録を守っているだけではない。


 水が誰かを映しすぎることを、怖れている。


 オルマは低い声で言った。


「ルティア。湖底棚へ行く」


「今からですか」


「昼のうちに痕跡を見る。夜まで待てば、星が映りすぎる」


 リシアは水盤を見た。


 夜なら、顔より星が映る。


 オルマはそう言った。


 だが、星が映りすぎるのも危ないということだろうか。


「私も行っていいですか」


 リシアが尋ねると、オルマはすぐには答えなかった。


 彼の片眼鏡が、リシアの顔を静かに映している。


「行きたい理由は?」


「星片に関わるかもしれないからです」


「それだけか」


 リシアは言葉を止めた。


 それだけではない。


 A・Rに近づくかもしれない。


 封書に繋がるかもしれない。


 アイシャに繋がるかもしれない。


 そう言いたくなる。


 けれど、それをそのまま言えば、水鏡はきっと、リシアの顔を先に映す。


「……私は、知りたいです」


 リシアは正直に言った。


「でも、知りたいからこそ、一人では見に行かない方がいいと思っています。オルマさんとルティアさんが止めるなら、止まります」


 シルが肩の上で頷いた。


 止める。


 必要なら全力で止める。


 そんな顔だった。


 オルマはシルを一瞥し、少しだけ眉を上げた。


「相棒も同意しているらしい」


「はい」


「なら来なさい。ただし、湖底棚で見えるものを、すぐ意味にしようとするな」


「はい」


「水は、分かりかけた顔が一番好きだ」


 その言葉に、リシアの喉が少しだけ詰まった。


 分かりかけた顔。


 自分はたぶん、昨日から何度もその顔をしている。


 星の断章が近い気がする。


 A・Rが近い気がする。


 アイシャに近い気がする。


 そのたびに、近づいているものを答えにしたくなる。


 水鏡書庫を出て、湖沿いの石道を歩いた。


 ミレネの町は、昼の光の中で穏やかに見える。


 水路の脇では、洗濯物を干す人がいて、小さな橋の上では子どもたちが水面へ花びらを流している。水に映る花を追いかけて笑う声が、町の壁にやわらかく跳ね返っていた。


 リシアはその声を聞きながら歩く。


 歌を求める声ではない。


 謎を解く声でもない。


 ただ生活の音だった。


 けれど、町の奥へ進むにつれて、別の心歌も混ざり始める。


『書庫がまた閉まるのか』


『星の記録なんて、沈めたままでいい』


『でも、湖が濁ったら困る』


『王都の人間が来ると、いつも何かが起きる』


 リシアは胸元の徽章へ視線を落とした。


 王都。


 旧歌術隊。


 自分は旅の歌魔術師として来たつもりでも、町の人々にはそう見えないこともある。


 ルティアが少し振り返った。


「気になりますか」


「少し」


「ミレネは王都と縁が深いんです。星観測者の原本を王都へ渡したこともあります。けれど、戻ってこなかったものも多い」


「記録が?」


「記録も、人も」


 ルティアの声が静かに沈んだ。


 リシアはそれ以上、すぐには聞かなかった。


 その代わり、歩幅を少しだけ合わせる。


 心歌を聞きすぎなくても、彼女が何かを失った側にいることは分かった。


 湖底棚へ向かう場所は、町の北端にあった。


 水路が集まり、湖へ落ちる手前に、半分水に沈んだ石の階段がある。


 階段の横には、小さな小屋があり、そこに丸い潜水鐘のような器具が吊られていた。


 透明な硝子ではなく、青みがかった厚い水晶でできている。


「湖底棚は、本当に湖の底にあるんですか」


 リシアが尋ねると、オルマが頷いた。


「水に触れさせておかなければ、記録が乾く」


「乾くとどうなるんですか」


「文字だけが残る」


 それがなぜ悪いのか、一瞬分からなかった。


 オルマは続ける。


「文字だけになると、読み手はそこへ自分の意味を入れる。水に沈んでいる間は、文字は揺れている。揺れているから、決めつけにくい」


 リシアは納得しかけて、少しだけ苦く笑った。


「決めつけにくいように、わざと読みづらくしているんですね」


「そうだ。読みやすい記録ほど、人を間違わせることがある」


 白紙市のリュシカが聞いたら、どんな顔をするだろう。


 記録派の彼女なら反論するかもしれない。


 だが、最後にはきっと帳面に新しい分類を書き込む。


 揺れている記録。


 まだ意味にしない写し。


 そんな言葉を。


 シルは潜水鐘を見て、明らかに嫌そうな顔をした。


 水。


 狭い器具。


 焼き菓子。


 その三つが頭の中で危険な組み合わせになったらしい。


「シルはここで待つ?」


 リシアが尋ねると、シルはすぐに首を横に振った。


 嫌だが行く。


 そういう顔だった。


 そして焼き菓子の包みを、リシアの鞄の奥へ押し込む。


 濡らしてはならないものとして、厳重に避難させたのだ。


 潜水鐘に入るのは、オルマ、ルティア、リシア、そしてシルだった。


 ニトは小屋で待つよう言われたが、彼は不安そうにリシアたちを見ていた。


 リシアの耳に、三度目の心歌が触れる。


『本当は、僕も見たものを言わなきゃいけない』


 リシアは足を止めた。


「ニトくん」


 少年がびくりとする。


「何か、まだ言っていないことがありますか」


 ルティアとオルマが振り返る。


 ニトの顔が赤くなった。


「べ、別に……」


 リシアは急かさなかった。


 ここで「聞こえたから」と言えば、彼を追い詰める。


 だから言葉を選ぶ。


「異常を見た時、怖かったんですよね」


 ニトは小さく頷く。


「怖い時、見たものを全部言えないことがあります。だから、今思い出したことがあるなら、怒られる前に言った方がいい、という話ではなくて……私たちが湖底で驚かないために、教えてもらえると助かります」


 ニトは唇を噛んだ。


 長い沈黙の後、小さく言った。


「人影を見ました」


 ルティアの顔色が変わる。


「湖底で?」


「違います。水面に。封じ泡が空になってたから、上を見たんです。そしたら、湖の上に誰かが立っているみたいに映ってて」


「姿は?」


「分かりません。水が揺れてたから。でも、髪が……薄い青みたいに見えました」


 リシアの胸が跳ねた。


 薄い青。


 ノエル。


 その名が浮かびかける。


 だが、すぐに止めた。


 水は、こちらの願いや恐れを映す。


 薄い青い髪を見たと聞けば、リシアはノエルを思い浮かべる。


 だから、まだ名前にしない。


「何か言っていましたか」


 ニトは首を横に振りかけ、途中で止めた。


「声は聞こえませんでした。でも、口が動いてた気がします」


「何と?」


「……返すな、って」


 湖から風が吹いた。


 水の匂いが、急に冷たくなる。


 シルがリシアの肩で身を低くした。


 ルティアはニトの肩に手を置く。


「話してくれてありがとう。ここで待っていて。小屋から出ないこと」


「はい」


 潜水鐘が湖へ下ろされた。


 水晶の壁越しに、外の景色が青く歪む。


 町の音が遠くなり、水の中の静けさがゆっくりと満ちていった。


 エリュナの沈黙とは違う。


 ここでは音が消えるのではなく、水に包まれて丸くなる。


 シルはリシアの肩にしがみついていた。


 普段なら尻尾で偉そうにバランスを取るのに、今は大きな尻尾まできゅっと縮めている。


「大丈夫?」


 ちい。


 大丈夫ではないが、大丈夫にする。


 そんな声だった。


 湖底棚は、湖底に沈んだ石の回廊だった。


 水晶の潜水鐘がゆっくり降りていくにつれ、白い石棚が見えてくる。棚には丸い泡のようなものがいくつも浮かんでいた。泡といっても水面へ浮かぶわけではない。透明な球が、棚のくぼみに収まっているように見える。


 その一つが、空だった。


 外側の膜だけが残り、中身が抜けている。


 膜の上には、細い銀の筋が走っていた。


 浮上痕。


 ルティアが息を呑む。


「本当に空……」


 オルマは無言で観測器を取り出し、空の封じ泡へかざした。


 薄い光が浮かぶ。


 そこに、短い文字が現れた。


 星片仮置き。


 写しではなく影。


 保持者確認まで返却不可。


 リシアは眉を寄せる。


「写しではなく影?」


「ここにあったのは本体ではない」


 オルマが答えた。


「星片の影を水に預けたものだ。星片本体がどこかにある時、その輪郭だけをここで保つ。持ち主を確認するためにな」


「では、空になったということは」


「本体が動いたか、影を呼び戻されたか」


 リシアは小袋の中の銀色の星片を思い出した。


 祈り石の場所でシルが拾ったもの。


 あれが本体なのか、薄片なのか、まだ分からない。


 オルザは本体ではないと言っていた。


 だが、水鏡が反応した以上、無関係ではない。


 封じ泡の膜に、また小さな光が走った。


 リシアの耳に、今度は心歌ではないものが触れた。


 記録の残響。


 水に溶けた声の跡。


『まだ、返さないで』


 その声は弱かった。


 だが、ニトが見た「返すな」と同じ方向を向いている。


 ルティアの手が震えていた。


 リシアは彼女を見る。


 心歌が漏れる。


『私は、あの時も止められなかった』


 あの時。


 リシアはその言葉を拾ってしまった。


 ルティアは、過去にも何かを湖から浮かばせたことがあるのかもしれない。


 あるいは、誰かが記録を読もうとして、止められなかったのか。


 聞きたい。


 だが、今は湖底棚だ。


 深く踏み込めば、ルティアの痛みと星片の異常が混ざってしまう。


 リシアは問いを飲み込んだ。


「ルティアさん。今、何を確認すればいいですか」


 ルティアは少し驚いたように顔を上げた。


 心の中を聞かれたのではなく、仕事を聞かれたからだろう。


 その表情が、少しだけ現実へ戻る。


「封じ泡の底に、残り水があります。そこに最後に映ったものが残るかもしれません」


 彼女は小さな青硝子の皿を取り出し、封じ泡の底から水を一滴だけすくった。


 その一滴を皿へ落とす。


 水の中に、小さな景色が浮かんだ。


 夜の湖。


 水面に映る星。


 そして、誰かの手。


 細く、白い手だった。


 その手は湖へ何か


今回は、ミレネの湖底棚と、読もうとする者の顔を描きました。


リシアは前話より少し多く心歌を聞いています。


ニトの「自分が見つけたせいではないか」という不安。


ルティアの「また湖が誰かを映すのでは」という恐れ。


そして、言えずにいた目撃の記憶。


心歌は便利な答えではありません。


聞こえたからといって、相手の心を分かったことにはならない。


だからリシアは、聞こえた音をすぐ答えにせず、ニトが自分で話せるように待ちました。


湖底棚では、星片の影が空になっていること、薄い青の人影が「返すな」「待て」と残していたことが見えてきます。


そして夜、水鏡に三つ目の言葉が映りました。


読むな。


次回、リシアは星観測者の写し記録へもう一度向き合うことになります。


今回も読んでくださり、ありがとうございました。


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