星写しの町編 92話 水鏡に残る星
エリュナの落星跡を後にしたリシアとシルは、星戻りの茶屋でひと息ついた。
落星跡では、声を閉じない石、沈声層、返さぬ者を待つ星に触れたが、星の断章はまだ手に入らなかった。
リシアは、A・Rやアイシャに関わるかもしれない声を、星の返事にはしないと選んだ。
茶屋では、湯気が逃げないくらいの短い歌を歌い、歌が日常の中で受け入れられる温かさも思い出す。
そこへ、王都のセレナから手紙が届く。
A・Rの表記はまだ確定しない。
アイシャの名に結びつけて読むな。
封書は一人で開けるな。
そして、北東の鏡水町ミレネに、星観測者の写し記録が残っている可能性があると知らされる。
リシアとシルは、星写しの町ミレネへ向かう。
鏡水町ミレネへ向かう道は、思っていたよりも明るかった。
エリュナの落星跡から離れるほど、音は少しずつ戻ってくる。
草を踏む音。
荷馬車の車輪が石を噛む音。
遠くの鳥が、短く鳴いて飛び立つ音。
どれも当たり前のものなのに、リシアには一つずつ確かめたくなるほど新鮮に聞こえた。
返らない場所に長くいたせいだろう。
音が自分の耳へ戻ってくるだけで、体の輪郭が少しはっきりする。
シルも同じなのか、肩の上でときどき前足を鳴らしていた。
ぱた。
ぱた。
自分の音が聞こえることを確かめているらしい。
「大丈夫。ちゃんと鳴ってるよ」
リシアが言うと、シルは当然だと言いたげに胸を張った。
その前足には、ネリオからもらった薄い焼き菓子の包みがある。
短い横線の模様が入った、まだ答えにしない印の焼き菓子。
昨日、星戻りの茶屋で一枚食べた。
その音はちゃんと鳴った。
それでも、シルは残りを簡単には食べようとしない。
どこで鳴らすべきか、まだ慎重に見極めているのだろう。
「ミレネで食べる?」
ちい。
返事はした。
ただし、すぐ食べるとは言っていない顔だった。
リシアは苦笑する。
「鳴る場所かどうか、確認してから?」
ちい。
今度は力強い。
焼き菓子に関して、シルはとても真剣だった。
昼近くになると、道の先に水の光が見えてきた。
湖だった。
山あいに広がる大きな湖で、縁はなだらかな草地に囲まれている。水面は不思議なほど静かで、風が吹いているのに大きく波立たない。空の青がそのまま落ちたように見えた。
湖の向こう岸には、白い壁と青い屋根の町がある。
水路が町の中まで入り込み、細い橋がいくつも架かっていた。建物の窓には、丸い鏡のような飾りが下がっている。日差しを受けるたび、きらきらと水面へ光を返していた。
鏡水町ミレネ。
セレナの手紙にあった町。
星観測者の写し記録が残っているかもしれない場所。
リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。
歌詞帳は静かだった。
反応していないわけではない。
ただ、エリュナの時のように内側から急かす震えはない。
水面を前に、息を潜めているような静けさ。
それが少し不思議だった。
「鏡みたいだね」
リシアが湖を覗き込むと、青空と自分の顔が映った。
肩の上のシルも映っている。
シルは水面に映った自分を見て、前足の焼き菓子を抱え直した。
水の中のシルも、同じように焼き菓子を抱えている。
しばらく見つめ合う。
やがて、シルはゆっくりと水面へ前足を伸ばした。
「取れないよ」
リシアが言った時には、もう水面に触れていた。
小さな波紋が広がり、鏡の中の焼き菓子が崩れる。
シルは濡れた前足を見た。
それから、リシアを見た。
かなり納得がいかない顔だった。
「だから言ったのに」
ちい。
でも、あっちにもあった。
「それは映っていただけ」
シルはもう一度水面を見る。
水面の中のシルも、不満そうにこちらを見返していた。
彼は少し考え、濡れた前足をリシアの袖で拭こうとした。
「こら」
リシアが慌てて止めると、シルは何事もなかったように自分の尻尾で拭いた。
それはそれで、尻尾が少し湿った。
シルは尻尾を見て、また不満そうな顔になる。
リシアは笑いをこらえきれなかった。
湖畔の道を歩いていると、町の入口に小さな桟橋があった。
そこに、一人の女性が立っている。
年は三十代前半ほどだろう。濃い青の作業着に、白い袖覆い。髪は黒に近い茶色で、後ろで短く結んでいる。手には薄い青硝子の板を何枚も入れた木箱を抱えていた。
彼女はリシアを見ると、旅人慣れした笑みを浮かべた。
「ミレネへようこそ。湖沿いから来る人は珍しいですね」
「こんにちは。リシア・フェルミナです」
「旅の方?」
「はい。歌魔術師です」
その言葉に、女性の視線がリシアの胸元の徽章へ移った。
驚きはあった。
だが、強い警戒ではない。
むしろ、何かを確かめるような目だった。
「王都から?」
「王都にも縁はあります。でも、今は旅の途中です」
「そうですか」
女性は小さく頷いた。
「私はルティア・セルン。水鏡書庫で写し守をしています」
「写し守」
「記録を写す仕事です。普通の紙に写すものもありますが、ミレネでは水と硝子を使います」
ルティアは抱えていた木箱を少し持ち上げた。
中には、薄い青硝子の板が何枚も収められている。どれも光に透かすと、水面のように淡く揺れて見えた。
「星観測者の写し記録について、伺いたいことがあります」
リシアがそう言うと、ルティアの表情がわずかに固くなった。
「星観測者」
「王都の知人から、この町に写しが残っている可能性があると聞きました」
「知人の名前は?」
「セレナ・アーヴェルトです」
その名を聞いた瞬間、ルティアは目を伏せた。
知らない名ではないらしい。
「……そうですか。セレナさんが、まだそこまで調べていたんですね」
「ご存じなんですか」
「直接会ったことはありません。でも、旧歌術隊の記録を追っている人の名としては聞いています」
ルティアは少し迷った後、町の中へ視線を向けた。
「水鏡書庫へ案内します。ただし、見られるかどうかは、書庫守が判断します」
「書庫守さんが?」
「はい。ミレネの記録は、紙を開けば読めるものばかりではありません。読もうとする人の顔を、水が覚えます」
リシアは眉を寄せた。
「顔を覚える?」
「言い方が少し古いですね。要するに、誰が何を見ようとしたか、写し記録側に残るんです」
シルが肩の上で低く鳴いた。
リシアも同じ違和感を覚えていた。
記録が、読む者を記録する。
白紙市とはまた違う。
けれど、少し似ている。
未読箱。
待つ記録。
本人未許可。
そして今度は、読み手の顔を覚える水鏡。
リシアは鞄の中の差出人不明の封書を意識した。
一人では開けるな。
セレナの手紙の言葉が、胸の奥で重くなる。
水鏡書庫は、町の中心ではなく、湖へせり出した半円形の建物だった。
白い石でできた壁の下半分が、水に浸かっている。窓は少なく、代わりに天井近くに丸い採光口がいくつもあった。そこから差し込む光が、室内の水盤へ落ちる仕組みらしい。
入口の扉には、星と水面を重ねた紋章が彫られていた。
扉を開けると、ひんやりした空気が流れてくる。
紙の匂いではなく、水と石と、少しだけ古い硝子の匂い。
書庫の中央には大きな水盤があり、天井から落ちる光を静かに受けていた。壁際には棚が並び、青硝子の板や薄い金属板、白い紙束がそれぞれ布に包まれて収められている。
奥から、老いた男性が歩いてきた。
白い髪を短く刈り、片目に細い硝子の片眼鏡をかけている。背は少し曲がっているが、足取りは静かで確かだった。
「ルティア。その方が?」
「はい。リシア・フェルミナさんです。セレナ・アーヴェルトさんの名を出されました」
老人はリシアを見る。
胸元の徽章。
腰の歌詞帳。
肩のシル。
その順に視線が移る。
「水鏡書庫守、オルマ・セイグだ」
「リシア・フェルミナです」
「歌魔術師が星観測者の写しを探すとは、時代が一回りしたらしい」
その言い方には、歓迎も拒絶も混じっていなかった。
ただ、長く保管してきた人の疲れがある。
「星観測者の写し記録は、ここにあるんですか」
「ある」
オルマは短く答えた。
リシアの胸が跳ねる。
だが、彼はすぐ続けた。
「ただし、全部はない。原本は王都へ渡った。写しの一部は湖に沈めた。残ったものも、読める形とは限らない」
「沈めた?」
「読まれすぎた記録は、水へ戻す。ここではそうする」
白紙市なら箱に入れる。
エリュナなら石へ置く。
ミレネでは、水へ戻す。
土地ごとに、声や記録の扱い方が違う。
それが不思議で、同時に少し怖かった。
「私が探しているのは、A・Rに関わる可能性のある記録です」
リシアは慎重に言った。
アイシャの名は出さない。
セレナにも、結びつけて読むなと言われている。
オルマの片眼鏡が、淡く光を拾った。
「A・Rか」
「ご存じなんですか」
「文字だけならな」
オルマは奥の棚へ歩き出した。
リシアたちも続く。
棚の前で、オルマは一つの箱を取り出した。青い布に包まれた細長い箱だ。紐は古びているが、丁寧に結ばれている。
表には小さく記されていた。
星観測写し。
第七封鎖期。
未唱声保留。
リシアは息を止めた。
未唱声。
保留。
沈声層で見た板にも、似た言葉があった。
鞄の中の封書が、わずかに震えた気がする。
シルがすぐに鞄の口へ前足を置いた。
開けるな。
そう言われる前から、リシアも分かっていた。
「開けません」
小さく言うと、シルは頷く。
オルマはその様子を見ていた。
「賢い相棒だ」
「はい」
リシアは素直に頷いた。
オルマは箱を直接開けず、中央の水盤へ向かった。
「星観測の写しは、直に読むものではない。文字だけを追うと、欠けを勝手に埋める。読み手の願いが、隙間へ入り込む」
リシアの喉が少し乾いた。
それは、今の自分に一番危ない読み方だった。
「では、どう読むんですか」
「水に映す」
オルマは箱から薄い青硝子の板を一枚取り出した。
板にはほとんど何も書かれていないように見える。
けれど、水盤の上へかざした瞬間、映った文字が水面に浮かび上がった。
反転した文字。
欠けた記号。
星図のような線。
リシアは身を乗り出しかけ、すぐに止めた。
水面の文字は読めそうで読めない。
読もうとすると、揺れる。
焦点を合わせるほど、形がほどけていく。
「無理に読もうとしないことだ」
オルマが言った。
「水は、急いで読む者の顔を先に映す」
その言葉通りだった。
水面に、文字ではなくリシアの顔が映り込む。
その顔は、少し青ざめていた。
自分がどれほど知りたがっているのか、水に見透かされたようで、リシアは一歩下がった。
シルが肩の上で、小さく鳴いた。
ちい。
落ち着け。
そう聞こえた。
「すみません」
「謝ることではない。知りたい者は、みなそうなる」
オルマは水面を静かに撫でる。
波紋が広がり、リシアの顔が消えた。
代わりに、文字が少しだけ整う。
読めたのは、数行だけだった。
観測者 A・R。
未唱声保留。
返声化危険。
星片、本体より離脱。
保持者、未確定。
リシアの指が震えた。
星片。
持ち主不明の、あの銀色の欠片。
エリュナで返さずに持ち帰った星のかけら。
それと同じ言葉が、ここにある。
「星片……」
口にした瞬間、水面の文字が大きく揺れた。
オルマがすぐに青硝子の板を引いた。
水面は元の静けさへ戻る。
「今日はそこまでだ」
「でも」
「欲しい文字を見つけた時が、一番危ない」
オルマの声は厳しくなかった。
経験から来る、冷静な制止だった。
「この記録は、読み手の願いを映す。A・Rを誰かの名にしたいなら、いくらでもそう見える。星片を自分の役目にしたいなら、いくらでもそう読める」
セレナの手紙と同じ警告だった。
アイシャの名に結びつけて読むな。
リシアは深く息を吸う。
「……分かりました」
その言葉を言うのに、少し時間がかかった。
水鏡書庫の空気は冷たい。
けれど、エリュナの沈声層のように声を奪う冷たさではない。
急ぎすぎた熱を冷ますための冷たさだった。
ルティアが心配そうに見ている。
「大丈夫ですか」
「はい。読めると分かっただけでも、十分です」
「十分、ですか」
「本当は、全然十分じゃないです」
リシアは正直に言った。
ルティアが少し驚く。
「でも、今日はそう言っておかないと、私はきっと読みすぎます」
オルマは、ほんの少しだけ目を細めた。
「セレナ・アーヴェルトが、なぜお前をここへ寄越したのか分かった気がする」
「セレナさんは、私を止めるために?」
「止めるためだけではないだろう。水に顔を映せるか、確かめるためだ」
リシアは水盤を見る。
さっきまでそこに浮かんでいた自分の顔。
知りたいと焦る顔。
星を答えにしたがる顔。
それを見せられることは、楽ではなかった。
でも、必要だったのだろう。
「この記録は、いつ読めますか」
オルマは青硝子の板を箱へ戻しながら答える。
「今夜、月が水盤に入る頃なら、もう少し読める。昼の光は強すぎる。読み手の顔を映しすぎる」
「夜なら?」
「顔より、星が映る」
リシアは窓の外の湖を見る。
昼の湖は空を映している。
夜になれば、星を映すのだろう。
星は答えを返さない。
願いを映し、返さずに抱く遠い鏡。
エリュナで浮かんだ言葉が、また胸の中で揺れた。
その時、水鏡書庫の入口で、鈴が鳴った。
高く澄んだ音。
振り返ると、小さな配達箱を持った少年が立っていた。年は十二、三ほど。頬に水しぶきのようなそばかすがあり、息を切らしている。
「ルティアさん、湖底棚の点検札です」
「ありがとう、ニト」
少年はルティアへ札束を渡しかけ、リシアを見て動きを止めた。
旅人が珍しいのだろうか。
それとも、歌魔術師の徽章を見たのか。
彼は少し警戒した目をしたが、肩のシルを見ると表情が変わった。
「リス?」
シルは胸を張った。
リスです。
たぶん、そんな顔だった。
少年はおずおずと近づいてくる。
「触ってもいい?」
シルはリシアを見る。
「嫌なら断っていいよ」
シルは少し考え、焼き菓子の包みを背中側に隠した。
食べ物は守る。
その上で、頭だけなら許す。
そういう態度だった。
少年がそっと指先でシルの頭に触れる。
シルは目を細めた。
「ふわふわだ」
少年が笑う。
その笑い声で、書庫の空気が少しだけやわらいだ。
けれど次の瞬間、少年が持ってきた点検札の一枚が、はらりと床へ落ちた。
リシアは拾おうとして、そこに書かれた文字を見た。
湖底棚。
星片保管区。
異常。
浮上痕あり。
リシアの手が止まる。
ルティアの顔色も変わった。
「ニト。これ、いつの点検?」
「今朝です。湖底の保管棚を見たら、封じ泡が一つ空になっていて」
「空?」
オルマの声が低くなる。
少年ニトは少し怯えたように頷いた。
「はい。でも、中にあったはずのものは、沈んだままじゃなくて……上へ行った跡がありました」
リシアは、鞄の中の小袋を意識した。
自分が持つ星片とは違う。
だが、星片保管区という言葉。
浮上した何か。
星の本体は別の場所にあり、持ち主が動いている気配。
それらが一本の細い線になって、胸の奥へ走る。
シルが肩の上で固まっていた。
焼き菓子を抱える前足に、少しだけ力が入っている。
水盤の水面が、誰も触れていないのに揺れた。
そこに、一瞬だけ星のような光が映る。
そして、文字にならない影が浮かんだ。
返すな。
それだけだった。
リシアは水面を見つめる。
声ではない。
歌でもない。
けれど、確かに誰かが、ここでも同じ言葉を残している。
返すな。
ミレネの水鏡が、昼の光の中で静かに震えていた。
今回は、星写しの町ミレネへの到着回でした。
エリュナの落星跡では「返らない星」に触れましたが、ミレネでは「映す水」が出てきます。
同じ星に関わる場所でも、エリュナは声を沈める場所。
ミレネは、星と記録を水に映して読む町です。
リシアは、星観測者の写し記録に近づきました。
そこには、A・R、未唱声保留、星片、本体より離脱、保持者未確定という言葉が残っていました。
けれど、オルマに止められ、リシアは今日は読みすぎないことを選びます。
次へ急ぎたい気持ちがあるからこそ、一度水面に映った自分の顔を見る。
そんな回になりました。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




