星降りの窪地編 90話 返らない星の下で
リシア、シル、オルザ、ネリオは、沈声層の奥にある台へたどり着いた。
そこには七つのくぼみがあり、「欠けた星は、持ち主を待つ。返す者ではなく、返さぬ者を待つ」と刻まれていた。
ネリオは、母かもしれない声をすべて自分の答えにはせず、今は持って帰ると選んだ。
リシアもまた、A・Rやアイシャに関わるかもしれない声を、星の返事にはしないと選ぶ。
その選択により、星の断章に近い言葉が歌詞帳へ浮かぶ。
だが、断章としてはまだ定着しなかった。
星は、最後の持ち主を待っている。
リシアたちはその意味を抱えたまま、沈声層を後にする。
石扉の外へ出ると、空は夕暮れに近づいていた。
エリュナの落星跡は、昼と夜の境目に沈んでいる。
白い草の先が淡い金に染まり、星混じりの石は、夕陽を受けて銀色ではなく、少しだけ橙色に光っていた。音はまだ薄い。けれど、沈声層の奥から戻ってきたばかりのリシアには、その薄ささえも外の空気として感じられた。
ここには風がある。
草が揺れている。
シルが肩の上で身じろぎすれば、その小さな音も、遠くなりすぎずに耳へ届く。
それだけで、胸の奥に溜まっていた息が少しほどけた。
ネリオは、石扉の前でしばらく立ち止まっていた。
手の中には、短い横線を一本だけ刻んだ小石がある。
母の名ではない。
許しの印でもない。
今日、ここまで聞いた印。
彼女はその石を両手で包み、閉じかけた石扉をじっと見ていた。
「閉じちゃうんですね」
ネリオが呟く。
石扉は、完全には閉じていなかった。
人が通れるほどの隙間はもうない。けれど、細い線のような隙間が残っている。無理に押し開けることはできないが、そこに道があったことだけは忘れないように、ほんの少しだけ開いている。
「閉じたわけではないと思います」
リシアは答えた。
「次に来る時まで、待っているんだと思います」
「待つ……」
ネリオは小石を握り直した。
「待たれるのも、少し怖いですね」
「はい」
「でも、急かされるよりは、いいです」
その言葉は、彼女自身のものだった。
リシアは頷くだけにする。
オルザは石扉の前に置かれた白布を見た。
開くためではなく、待つために来た。
リシアが書き、ここへ置いていったものだ。
「これは残していくのかい」
「はい」
「なら、橋守の記録にも加えておく」
オルザは腰の石札を一枚取り、裏へ短い印を刻んだ。
「石扉、再出現。待つ言葉に反応。無理に開かず」
それだけ刻むと、彼女は少し苦笑した。
「私は記録を書くのが下手だね」
「リュシカさんなら、もっと細かく書きそうです」
「その記録派という人には、会わない方が良さそうだ」
オルザが真顔で言うので、リシアは少し笑ってしまった。
シルも肩の上で頷く。
その反応だけで、オルザはだいたい察したらしい。
「やはり、厄介な人なんだね」
「厄介です。でも、少し変わった人でもあります」
「それなら、まだいい」
そんな短い会話の間に、沈声層の奥で受けた緊張が、ほんの少し薄れていった。
けれど、落星跡の中央に立つ声を閉じない石は、まだ欠けたままだった。
リシアたちは、石の輪へ戻った。
中央の銀色の石は、夕暮れの中で静かに立っている。
欠けた部分から伸びていた藍色の線は、完全には消えていない。だが、沈声層へ入る前ほど強くはなかった。石の輪の内側へ細く戻り、地面の下でゆっくりと息をしているように見える。
石の輪の縁には、いくつかのものが残されていた。
リシアの白布。
オルザの石札。
シルの焼き菓子の欠片。
その焼き菓子の欠片は、まだ形を保っていた。
風に飛ばされることも、湿気で崩れることもなく、淡い星明かりを含んでいる。
シルはそれをじっと見た。
取り返したいという顔ではなかった。
でも、食べ物を見る目ではあった。
リシアは小声で尋ねる。
「やっぱり惜しい?」
シルは、少しだけ間を置いてから鳴いた。
ちい。
惜しい。
でも置いた。
その答えは、前より少し誇らしげだった。
ネリオが焼き菓子の欠片の前にしゃがみ込む。
「返事を求めない目印、焼き菓子片」
真剣に呟き、腰の小さな帳面へ書き込む。
シルの耳がぴくりと動いた。
今度は、誇らしさが勝ったらしい。
胸を張っている。
「食べ物としての記録もしておきますね」
ネリオが付け加えると、シルはさらに満足そうになった。
リシアは笑った。
その笑い声は、今度はちゃんと自分の耳へ戻ってきた。
落星跡はまだ、音を完全には返さない。
それでも、さっきよりは少しだけ、自分の声が自分のそばにある。
オルザが中央の石へ近づきすぎない距離で立ち止まった。
「欠けは残ったままだね」
「はい」
リシアも石を見る。
「でも、溢れていた声は少し沈みました」
「ああ。祈り石の場所までは、しばらく鳴らないかもしれない」
「しばらく、ですか」
「完全に直ったわけじゃない。欠けた本体はまだどこかにある。最後の持ち主も来ていない」
オルザの言葉に、リシアは沈声層の台に浮かんだ文字を思い出す。
返さぬ者、まだ足りず。
星は、最後の持ち主を待つ。
最後の持ち主。
誰なのかは分からない。
A・Rなのか。
アイシャなのか。
ノエルなのか。
それとも、まだ出会っていない誰かなのか。
今ここで決めてはいけない。
「私は、星の断章を手に入れに来たのかもしれません」
リシアは静かに言った。
ネリオとオルザがこちらを見る。
「でも、今は違ったみたいです」
「残念ですか」
ネリオが尋ねる。
リシアは少し考えた。
「残念です」
正直に答える。
ネリオが目を瞬かせた。
「残念なんですか」
「はい。知りたかったです。星の断章が何なのか。星詠みの歌へどう繋がるのか。A・Rの記録が何を指しているのか。封書の中に何があるのか」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「それに、アイシャのことも」
その名を出した瞬間、歌詞帳がかすかに震えた。
だが、今度は開かなかった。
リシアが胸元に手を置くと、震えは静かに収まる。
「知りたいです。返してほしい声があります。だけど、それを星の返事にしてしまったら、私はまた、自分が欲しい答えを本物だと思ってしまうかもしれない」
星見台で、偽のアイシャはリシアが欲しい言葉をくれた。
帰れなくてごめん。
リシアのせいじゃない。
もう苦しまなくていい。
それは、どれもリシアが欲しかった言葉だった。
だからこそ、危なかった。
「だから、今は断章にならなくてよかったのかもしれません」
リシアは中央の石を見上げる。
「星が答えを返さなかったことが、今は少しだけありがたいです」
ネリオは何も言わなかった。
ただ、自分の小石を握っている。
オルザは静かに頷いた。
「返ってこないことに、礼を言う日が来るとはね」
「私も、少し驚いています」
その時、祈り石の場所の方から人の気配が近づいてきた。
ユアンだった。
ラウナの名を刻んだ石を置いた、あの若い男。
彼は息を切らしながら、落星跡の入口近くまで来ていた。オルザがすぐに厳しい顔になる。
「ユアン、ここまで来てはいけないと言っただろう」
「すみません。でも、石が鳴らなかったんです」
ユアンは慌てて言った。
「ラウナの石が、夜になる前にまた鳴ると思っていました。でも、鳴らなかった。静かで……それで、怖くなって」
「怖く?」
リシアが尋ねる。
ユアンは頷いた。
「はい。鳴ってほしかったわけじゃないんです。でも、本当に何も返ってこないと、今度は置いてきたことが間違いだったんじゃないかと思って」
ネリオが目を伏せる。
その気持ちが分かるのだろう。
ユアンは続けた。
「でも、さっき、少しだけ分かりました。石が鳴らないからって、ラウナが消えたわけじゃない。俺が呼べなくなったわけでもない。ただ、返事を作らなかっただけなんだって」
ユアンは胸元に手を当てた。
「名前は、ここにありました」
その言葉は、小さく、けれど確か。
リシアはほっと息を吐いた。
ラウナの石は、返事にならなかった。
でも、ユアンから名を奪いもしなかった。
沈声層の震えを一度沈めたことは、少なくとも今夜、彼の祈りを守ったのだ。
オルザは短く言う。
「なら、戻りなさい。ここはまだ危ない」
「はい」
ユアンは素直に頷いた。
そして、リシアたちへ頭を下げる。
「ありがとうございました」
「私は少し手伝っただけです」
「それでも」
ユアンは顔を上げた。
「返事がないことを、全部終わりだと思わずに済みました」
その言葉を残し、彼は祈り石の場所へ戻っていった。
ネリオはその背中を見送る。
「返事がないことを、全部終わりだと思わない」
呟くように繰り返した。
「私も、そう思える日が来るでしょうか」
「来るかもしれません」
リシアは答えた。
「来ない日もあるかもしれません」
「正直ですね」
「綺麗に言いすぎると、こぼれる声がありますから」
ネリオは少し笑った。
「それ、私も記録しておきます」
「私の言葉まで?」
「祈り石の番なので」
ネリオは真面目な顔で言った。
シルが、またリュシカを思い出したような顔をする。
その顔があまりに複雑で、リシアはもう一度笑ってしまった。
夕暮れが深くなり、空に最初の星が見え始めた。
エリュナの落星跡では、夜に星がよく見えるほど石が鳴ると言われていた。
だから本来なら、ここに長くいるべきではない。
それでもオルザは、中央の石をしばらく見守ることにした。
ネリオも、今日は祈り石の場所へ戻る前に、この石の輪を見ておきたいと言った。
リシアは、彼女の隣に立つ。
歌わない。
ただ、夜の始まりを待つ。
星がひとつ、またひとつと空に増えていく。
中央の声を閉じない石は、静かだった。
全く反応しないわけではない。
欠けた部分の藍色の線が、時々小さく呼吸する。
だが、祈り石を鳴らすような強い震えは出ない。
返事を作らない。
閉じ込めもしない。
ただ、沈めている。
その働きが、少しだけ戻っているのだろう。
リシアは歌詞帳を開いた。
今度は、無理に開いたわけではない。
胸元の震えが穏やかだったからだ。
白紙の端に、前に浮かんだ言葉が残っていた。
星は、返すための口ではない。
星は、奪うための箱でもない。
願いを映し、返さずに抱く遠い鏡。
その下に、新しい一行が、ゆっくりと浮かぶ。
返らない声も、消えた声ではない。
リシアは息を止めた。
歌詞帳の文字は淡く光った。
けれど、断章の時のように深く刻まれることはなかった。
ページの上で、星明かりのように揺れている。
まだ断章ではない。
でも、消えもしない。
リシアはその文字を見つめながら、小さく呟く。
「あなたも、待っているんですね」
歌詞帳は答えない。
けれど、シルが肩の上で小さく鳴いた。
ちい。
そうだ、と言うような声だった。
「星の断章は、まだ手に入らない」
リシアは言った。
「でも、手に入らなかったことも、今は必要だった」
ネリオがリシアの歌詞帳を覗き込む。
「その言葉は、歌詞ですか」
「まだ、歌詞の手前だと思います」
「手前」
「はい。歌になる前の、道標です」
ネリオは少し考えてから、頷いた。
「では、それも記録しておきます。歌詞の手前の道標」
シルが得意げに頷いた。
なぜシルが得意げなのかは分からなかったが、たぶん彼なりに納得したのだろう。
リシアは夜空を見上げた。
星は答えを返さない。
それでも、そこにある。
願いを映すことはあっても、それを勝手に答えにしない。
その遠さが、今は冷たさではなく、境界のように感じられた。
近づきすぎないための距離。
相手を返事にしないための距離。
それは、歌にも必要なものなのかもしれない。
リシアはネリオとオルザに向き直った。
「もしよければ、短い歌を置いてもいいですか」
ネリオは少し驚いた。
「歌うんですか」
「はい。でも、返事を求める歌ではありません。石を起こす歌でもありません。今日ここで選ばれたことを、答えにしないまま置く歌です」
オルザは中央の石を見る。
「危険は?」
「長くは歌いません。魔力も強く乗せません。もし石が鳴り始めたら、すぐ止めます」
オルザはネリオを見た。
ネリオはしばらく考えた。
そして、自分の横線の石を胸に当てて頷いた。
「聞きます。でも、母の返事にはしません」
その言葉に、リシアは静かに微笑んだ。
「はい」
リシアは歌詞帳を開いたまま、中央の石へ背を向けた。
石に歌うのではない。
星に返事を求めるのでもない。
ここにいる人たちへ。
そして、自分自身へ。
シルが肩で静かに身を寄せる。
リシアは、小さく息を吸った。
「返らない星の下で、
名は消えず、声は急がず。
置いてきた祈りも、
持ち帰る怒りも、
どちらも嘘にしないで。
返さない夜よ、
閉じない石よ、
持ち主が来るその日まで、
遠い光を抱いていて。」
歌は、落星跡の底に静かに落ちた。
反響はない。
返ってこない。
だが、消えなかった。
白い草の先に触れ、祈り石の方へ飛びすぎることもなく、中央の石を起こすこともなく、その場に淡く置かれた。
ネリオは目を閉じて聞いている。
オルザも、杖を握ったまま、深く息をしていた。
シルは、焼き菓子の包みを抱えたまま、歌の終わりを待っている。
最後の一音が沈んだ後、中央の石が一度だけ淡く光った。
返事ではない。
合図でもない。
ただ、そこに置かれたものを、そこにあるものとして受け取ったような光だった。
ネリオが目を開ける。
「返ってきませんでしたね」
「はい」
「でも、なくなりませんでした」
「はい」
ネリオは少しだけ笑った。
「それなら、今は十分です」
オルザは夜空を見上げる。
「今夜は橋を渡らせない。けれど、祈り石の場所で火を焚こう。返事を待つためではなく、戻る人の目印にするために」
「私も手伝います」
ネリオが言う。
オルザは頷いた。
そのやり取りを見て、リシアは少し安心した。
この二人の間にあるものは、すぐにはほどけない。
ネリオの母に関わる石も、まだ開かれてはいない。
許しも、答えも、戻ってきていない。
でも、選ぶ場所は少し戻った。
それだけで、今夜は十分なのかもしれない。
祈り石の場所へ戻る途中、シルはとうとう焼き菓子の包みを開いた。
残った一枚を、慎重に取り出す。
リシアは隣を歩きながら言った。
「ここで食べるの?」
シルは空を見上げた。
星が見える。
落星跡の音はまだ薄い。
けれど、祈り石の場所に近づくにつれて、少しずつ音が戻っている。
シルは一度だけ頷き、焼き菓子をかじった。
ぱり。
軽い音がした。
今度はちゃんと、リシアにも、ネリオにも、オルザにも聞こえた。
シルは目を細める。
満足そうだった。
ネリオが笑う。
「記録します。返らない星の下で、最後の焼き菓子はちゃんと鳴った」
シルは誇らしげに胸を張った。
リシアは笑いながら、夜空を見上げる。
星の断章は、まだ遠い。
けれど、遠いままでいいものがある。
返ってこないからこそ、奪われずに残るものがある。
そして、まだ持ち主が来ていない声は、誰かが勝手に答えへ変えてはいけない。
そのことを、エリュナの落星跡は教えてくれた。
祈り石の場所では、小さな火が灯された。
オルザが石を並べ、ネリオが火を守る。
ユアンは少し離れたところで、ラウナの石のある方角へ静かに頭を下げていた。
誰も返事を求めて叫ばない。
誰も声を封じない。
ただ、それぞれの沈黙を持ったまま、同じ火のそばにいた。
リシアは火の明かりから少し離れ、歌詞帳を閉じた。
鞄の中の差出人不明の封書は、もう震えていない。
A・Rの記録も、今夜は彼女を呼ばなかった。
だが、消えたわけではない。
待っている。
そのことを、リシアは少しだけ怖いと思った。
同時に、ありがたいとも思った。
すぐに答えにならないものがある。
その猶予が、今の自分には必要だった。
シルがリシアの膝に乗る。
焼き菓子を食べ終え、少し眠そうな顔をしていた。
「置いてきた欠片、よかったね」
ちい。
シルは小さく鳴いた。
よかった。
でも少し惜しい。
リシアには、そう聞こえた。
「うん。惜しいままでいいよ」
そう言うと、シルは満足そうに丸くなった。
夜空には、星が増えていた。
返らない星。
答えをくれない星。
けれど、遠くからそこにある星。
リシアはその光を見上げながら、胸の中でまだ歌にならない言葉をそっと抱いた。
星は、返すための口ではない。
星は、奪うための箱でもない。
願いを映し、返さずに抱く遠い鏡。
返らない声も、消えた声ではない。
その先は、まだ白紙だった。
白紙のままでいい、と今は思える。持ち主が来るまで。リシアが本当に聞ける時まで。星は、急かさず待っている。
ただ、手のひらの小袋には、返さなかった星片がひとつ残っている。中央の石の欠片でもなく、誰の声とも繋がらない、持ち主の知れない一片。
星の本体は、まだどこか別の場所にある。それを持つ者が、すでに動いているような気がした。
――星が落ちた場所に、声を閉じない石がある。ノエルはそう言った。けれど、その先に何があるのかは、言わなかった。
星降りの窪地編は、今回で一区切りです。
この編で、リシアは星の断章へかなり近づきました。
けれど、まだ手に入れてはいません。
星は答えを返すものではなく、願いを映し、返さずに抱く遠い鏡でした。
ネリオは、母かもしれない声をすべて許すのではなく、今は持ち帰ると選びました。
ユアンは、妹の石が鳴らないことを、終わりではなく、返事を作らなかった静けさとして受け取り始めました。
オルザも、止めるだけではなく、戻る道を持つことを学び始めます。
そしてリシアは、A・Rやアイシャに関わるかもしれない声を、星の返事にはしないと選びました。
今回、形になりかけた言葉は、まだ断章ではありません。
けれど、星の断章へ向かう大切な道標になりました。
「返らない声も、消えた声ではない」
次の旅でも、リシアとシルを見守っていただけたら嬉しいです。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




