星降りの窪地編 89話 返さぬ者を待つ星
ネリオは、橋守オルザから沈声層の奥に「娘へ」と震える声胞石があったことを聞いた。
それが母のものかもしれないと知ったネリオは、怖さを抱えながらも、自分で行くことを選ぶ。
リシア、シル、オルザと共に沈声層へ入ったネリオは、母に関わるかもしれない石の前に立つ。
そこで返ってきたのは、優しいだけの答えではなかった。
置いていったのではない。
戻れなくなった。
それでも、置いていったことに変わりはない。
ネリオはそれをすぐには許さず、「今日はここまでにします」と自分で決めた。
その選択に応えるように、沈声層の奥が震え、欠けた星を戻す台が反応する。
リシアたちは、さらに奥へ進むことにした。
石廊の奥へ進むにつれて、声はさらに薄くなっていった。
足音はある。
呼吸もある。
衣が擦れる音も、シルが肩の上で小さく体勢を直す音も、確かにそこにある。
けれど、それらは耳に届く前に一度、水の中を通るように遠ざかる。聞こえているのに、自分のものだという感覚が少し遅れてくる。
リシアは歩きながら、胸元の歌詞帳に手を添えていた。
開きたがっている。
強くではない。
だが、白紙の奥で、何かが息をひそめている。
ここで開けば、何かが見える。
A・Rの裂け目。
星の断章の前触れ。
あるいは、アイシャに関わる何か。
その可能性があるからこそ、リシアは開けなかった。
欲しい答えに近づく時ほど、手を止める必要がある。
星見台で学んだ。
白紙市で学んだ。
けれど、この沈声層で試されているのは、同じ我慢ではない。
ネリオは、母に関わるかもしれない石の前で刻んだ横線のある小石を握っていた。
顔色はまだ悪い。
泣いた跡も残っている。
それでも、足取りは崩れていなかった。
オルザはその少し後ろを歩く。
止めるためではなく、戻る道を持つために。
その姿勢が、今ははっきり見えた。
石廊の最奥にある広間へ戻ると、中央の丸い台が淡く光っていた。
七つのくぼみ。
そのうち一つは空。
一つには薄い藍色の光。
一つには白い粉のような光。
残りのくぼみも、さきほどよりわずかに明るくなっている。
台の中央には、古い文字が刻まれていた。
欠けた星は、持ち主を待つ。
返す者ではなく、返さぬ者を待つ。
リシアはその文字の前に立った。
何度読んでも、不思議な言葉だった。
返さぬ者。
返せない者ではない。
返さない者。
それは、拒む人のことなのか。
閉じる人のことなのか。
それとも、返事にしてしまえる声を、あえて返事にしないと選べる人のことなのか。
ネリオが小さく言った。
「返さぬ者って、誰のことですか」
オルザは答えられなかった。
リシアもすぐには答えなかった。
代わりに、シルが肩の上で短く鳴いた。
ちい。
それは、急ぐな、と言うような声だった。
リシアは小さく頷く。
「たぶん、答えを返さない人のことではないと思います」
「では?」
「返事にしてはいけない声を、返事にしない人……かもしれません」
ネリオは台を見つめた。
「母の言葉を、私の答えにしない人」
「はい」
「私は、さっきそうしました」
ネリオの声は震えていた。
「置いていったのではない。戻れなくなった。でも、置いていったことに変わりはない。そう聞きました。私は、それを母の全部の答えにはしませんでした。まだ許さないって言いました」
「はい」
「それで、よかったんでしょうか」
リシアはネリオを見た。
その問いに、安易に「よかった」と言うことはできない。
誰かを許すかどうか。
母の言葉をどう受け取るか。
それはリシアが判定するものではない。
「よかったかどうかは、すぐには分からないと思います」
リシアは静かに答えた。
「でも、それはネリオさんの言葉でした」
ネリオは握っていた石を胸に寄せた。
「私の言葉」
「はい。お母さんかもしれない声の答えではなく、ネリオさん自身の言葉です」
ネリオは黙った。
その沈黙の中で、丸い台の白い光が少しだけ強くなった。
台の一つのくぼみが、淡く震える。
ネリオが持っている小石が、同じように震えた。
オルザが息を呑む。
「反応している」
「置いた方がいいんでしょうか」
ネリオが不安そうに尋ねる。
リシアはくぼみを見る。
置けば、何かが動く。
それは分かる。
だが、置くことが正しいとは限らない。
「置きたいですか」
リシアはそう尋ねた。
ネリオは目を見開いた。
「それを、私に聞くんですか」
「はい」
「ここまで来て、置かなかったら、何も分からないかもしれません」
「それでも、置くかどうかはネリオさんのものです」
ネリオは小石を見下ろした。
短い横線が一本だけ刻まれている。
今日、ここまで聞いた印。
それは母の石ではない。
返事でもない。
ネリオが、自分の手元に置くと決めた石だった。
長い沈黙の後、ネリオは首を横に振った。
「今は置きません」
台の光が揺れた。
拒絶されたからではない。
むしろ、その答えを聞いたような揺れ方だった。
「これは、まだ私の手に置いておく石です。母へ返すものでも、ここへ預けるものでもない」
ネリオは台へ向き直る。
「私は、持って帰ります」
その瞬間、七つのくぼみのうち、白い粉のような光を持つ場所が柔らかく灯った。
石は置かれていない。
それでも、くぼみは空のまま光った。
リシアは息を止めた。
置かなくても反応する。
持ち主が自分で「まだ持つ」と選んだから。
持ち主が来るまで、ここに置け。
その言葉は、必ずここへ置けという意味ではなかったのかもしれない。
持ち主が来るまで、勝手に返すな。
勝手に閉じるな。
持ち主が来たなら、その人の選択を待て。
置くことも。
持って帰ることも。
まだ開かないことも。
そのすべてを。
リシアの歌詞帳が震えた。
ページが一枚、胸元のポーチの中で開こうとする。
リシアは押さえた。
まだ。
台の光が、今度はリシアの小袋へ向かった。
祈り石の場所でシルが拾った銀色の石片。
それが小袋の中で熱を持つ。
シルが肩から降り、リシアの鞄の前に立った。
置くべきか。
置かないべきか。
リシア自身が、今度は問われている。
小袋を開くと、銀色の石片が淡く光っていた。
薄い欠片だ。
中央の声を閉じない石から剥がれたものなのか。
それとも、誰かが持ち出した本体に近いものなのか。
分からない。
石片の奥から、前にも触れた震えが届く。
返せない。
閉じない。
ただ、沈めている。
そして今、新しい震えが一つ加わった。
返さないで。
リシアの指が止まる。
返さないで。
それは誰の声だろう。
石の声か。
ネリオの母かもしれない誰かの声か。
沈声層そのものの声か。
それとも、返事になってしまうことを恐れた、名も知らない誰かの祈りか。
リシアは、石片をくぼみへ近づけようとした。
しかし、台の中央に刻まれた文字が淡く光る。
返す者ではなく、返さぬ者を待つ。
リシアは息を呑んだ。
石片を戻せば、中央の石の欠けが少しは塞がるかもしれない。
沈声層の不安定さも、少しは鎮まるかもしれない。
でも、それは「返す」ことになるのではないか。
石片の持ち主がまだ分からない。
欠けた本体でもない。
そして、石片自身が「返さないで」と震えている。
なら、今ここで戻すことは違う。
リシアは石片をくぼみへ置かなかった。
代わりに、自分の手のひらへ戻す。
「今は、返しません」
台が静かに震えた。
「持ち主が誰か分かるまで。返していいのか、返さない方がいいのか分かるまで。これは、私が勝手に星へ戻すものではありません」
シルが小さく鳴いた。
ちい。
その声は、よし、と言っているようだった。
リシアは石片を小袋へ戻した。
すると、七つのくぼみの一つ、空だった場所に、淡い銀色の光だけが灯った。
石は置いていない。
それでも光った。
ネリオの時と同じだ。
返さなかったこと。
勝手に戻さなかったこと。
その選択に、台が反応している。
オルザが呟く。
「これは……石を集める台ではないのか」
リシアも同じことを考えていた。
欠けた星を戻す場所。
そう思っていた。
けれど、違うのかもしれない。
これは、欠けたものを無理に埋める台ではない。
返してしまえば答えになる声を、返さないと選べるかを見る場所。
持ち主の選択を越えて、星が勝手に声を返さないようにするための場所。
その時、石廊の空気が変わった。
台の周囲に、いくつもの細い光が立ち上がる。
火のような赤。
沈黙のような淡い灰。
名を呼ぶような金。
雪のような白。
境界のような薄紫。
記憶のような深い青。
そして、まだ形を持たない銀。
リシアは息を呑んだ。
それらは、今までリシアが集めてきた断章の気配に似ていた。
火。
沈黙。
名。
雪。
境界。
記憶。
そして、星。
だが、星だけがまだ輪郭を持たない。
銀の光は揺れ、何かになろうとして、まだならない。
歌詞帳が強く震える。
ページが開く。
今度は、リシアが押さえる前に、白紙が一枚だけ開いてしまった。
そこに文字が浮かぶ。
星は、返すための口ではない。
星は、奪うための箱でもない。
願いを映し、返さずに抱く遠い鏡。
リシアの喉が震えた。
星見台で得た言葉に似ている。
星は答えではない。
願いを映す、遠い鏡。
けれど今、そこに新しい言葉が加わった。
返さずに抱く。
返さないことも、役目なのか。
歌詞帳の文字が淡く光る。
断章に近い。
けれど、まだ断章ではない。
リシアには分かった。
最後の一節が足りない。
それは、リシアがここで書いていいものではない。
誰かの選択が、まだ必要なのだ。
その時、広間の奥で薄い板が震えた。
A・Rの文字が浮かんだ未唱声の板。
リシアが読まずに通り過ぎたもの。
それが、遠くから光を放っている。
鞄の中の差出人不明の封書も震えた。
黒い糸が、音のない音を立てる。
開ければ、星の一節が埋まるかもしれない。
A・Rが誰なのか。
アイシャに繋がるのか。
この場で分かるかもしれない。
リシアの手が震えた。
知りたい。
どうしても。
アイシャのことなら。
A・Rが本当にアイシャ・リーヴェルトなら。
自分は、今ここでその声を聞きたい。
聞いてしまいたい。
胸の奥から、心歌のようで心歌ではない声が浮かぶ。
『返して』
リシア自身の声だった。
アイシャを返して。
声だけでもいい。
理由だけでもいい。
もう一度だけ、答えて。
その願いが、台の銀の光に触れかけた。
シルが、リシアの手に飛びついた。
小さな前足が、歌詞帳と封書の間に入る。
ちい。
鳴き声は、叱るようだった。
リシアは息を詰める。
シルの目が、真っ直ぐにリシアを見ていた。
まだ。
その一言だけが、声にならず届く。
まだ、閉じるな。
でも、まだ、返すな。
リシアは目を閉じた。
アイシャの笑顔が浮かぶ。
固いパンとスープの歌。
雨の日の物置。
行ってきますの練習。
リシアの歌を、救えるからではなく、帰りたくなるから好きだと言ってくれた声。
それを今ここで、星の返事にしてしまっていいのか。
答えとして受け取ってしまっていいのか。
違う。
それは、違う。
リシアは封書から手を離した。
歌詞帳のページを押さえる。
震える声で言った。
「アイシャの声を、星の返事にはしません」
言った瞬間、胸の奥が痛んだ。
まるで自分で自分の願いを引き裂いたようだった。
それでも続ける。
「A・Rが何であっても、今ここで、私の欲しい答えにしません」
台の銀の光が、強く震えた。
「返してほしい。知りたい。聞きたい。それでも、返事として受け取らない。持ち主が来るまで。私が本当に聞ける時まで。今は、返しません」
それは、歌ではなかった。
けれど、言葉には旋律のような震えが宿っていた。
台の七つの光が、一斉に静まる。
銀の光だけが、ほんの少し輪郭を持った。
まだ断章ではない。
だが、星の形に近づいた。
広間の奥で、未唱声の板が光を弱める。
封書の震えも、ゆっくり収まった。
開けろという圧は消える。
代わりに、黒い糸の下から、ごく微かな温かさが残った。
まるで、今はそれでいい、と言われたようだった。
ネリオが小さく息を吐く。
「リシアさんも、返したい声があるんですね」
「はい」
リシアは正直に答えた。
「あります」
「返してほしいんですね」
「はい」
「でも、返事にしない」
「……はい」
ネリオは自分の横線の石を見た。
「難しいですね」
「とても」
リシアは小さく笑った。
うまく笑えたかは分からない。
シルが肩へ戻り、リシアの頬にそっと頭を寄せた。
それは慰めというより、確認に近かった。
ここにいる。
今は、それでいい。
オルザは台の文字を見つめていた。
「返さぬ者を待つ、か」
彼女は低く言った。
「返せない者ではなく、返さないと選ぶ者。持ち主の選択を越えて声を答えにしない者」
リシアは頷いた。
「それが、この場所の鍵なのかもしれません」
「なら、ネリオも、お前も、少しだけそれに近づいたんだろうね」
ネリオは慌てたように首を横に振る。
「私は、まだ何も分かっていません」
「分からないまま持って帰ると決めた。それも、ここでは大事なんだろう」
オルザの声は、以前より柔らかかった。
その時、台の中央に細い亀裂のような光が走った。
亀裂ではない。
隙間だ。
台の奥から、小さな紙片のようなものが浮かび上がる。
紙ではない。
薄い石片でもない。
星の光が一枚の札の形を取ったようなもの。
そこに、短い文字が刻まれていた。
返さぬ者、まだ足りず。
星は、最後の持ち主を待つ。
文字はすぐに消えた。
広間は静かになる。
リシアはその言葉を胸に刻んだ。
まだ足りない。
最後の持ち主。
それは誰なのか。
ネリオではない。
リシアだけでもない。
A・Rなのか。
アイシャなのか。
それとも、星の断章そのものの持ち主が、まだ別にいるのか。
分からない。
けれど、今ここで星の断章を得ることはないのだと分かった。
まだ、足りない。
台はそう告げた。
シルが、小さく鳴いた。
ちい。
不満そうではない。
むしろ、少しだけ安心したような声だった。
リシアは歌詞帳を閉じた。
ページに浮かんだ星の言葉は、まだ完全には消えていない。
だが、断章として定着することもなかった。
リシアはそれを受け入れた。
「今日は、ここまでですね」
ネリオが言った。
リシアは頷く。
「はい」
オルザも杖を引いた。
「長くいる場所ではない。戻ろう」
誰も反対しなかった。
石廊を戻る途中、A・Rの薄い板の前を通った。
今度は、文字は浮かばなかった。
ただ、板の端に淡い青の染みのような光が残っている。
リシアは立ち止まりかけた。
けれど、歩き続けた。
今は返さない。
今は答えにしない。
その選択を、胸の中で何度も確かめる。
ネリオもまた、母かもしれない石の前で立ち止まった。
石は静かだった。
彼女は触れず、ただ言った。
「また来るかは、私が決めます」
石は返事をしなかった。
それでよかった。
石扉の外へ出ると、窪地の空は夕方に近づいていた。
昼間は見えなかった薄い星が、白い空の端に一つだけ浮かんでいる。
まだ夜ではない。
それでも、その星は確かにそこにあった。
中央の声を閉じない石は、欠けたままだ。
藍色の線も、完全には消えていない。
けれど、さっきよりも静かに沈んでいる。
石の輪の縁に置かれたシルの焼き菓子の欠片は、淡い星明かりを帯びていた。
シルはそれを見て、少しだけ誇らしそうに胸を張った。
ネリオが言う。
「やっぱり、記録します。返事を求めない目印、焼き菓子片」
シルが今度こそ満足そうに頷いた。
リシアは笑った。
声は、小さく戻ってきた。
完全ではない。
けれど、自分の胸に届いた。
その音を聞きながら、リシアは思った。
星はまだ、答えをくれない。
でも、答えをくれないことが、今は少しだけありがたかった。
返さないまま抱くこと。
持ち主が来るまで待つこと。
その難しさを知ったから。
白い草の向こうで、沈声層の石扉は静かに閉じていった。
完全には閉じなかった。
細い隙間だけを残して。
また来る者を、急かさず待つように。
今回は、「返さぬ者を待つ星」の意味へ近づく回でした。
返さぬ者とは、何も返せない者ではなく、返事にしてしまえる声を、あえて返事にしないと選べる者のことでした。
ネリオは、母かもしれない声をすべて自分の答えにせず、今は持って帰ると選びました。
リシアもまた、A・Rやアイシャに関わるかもしれない声を、星の返事にはしないと選びます。
星は、答えではない。
願いを映し、返さずに抱く遠い鏡。
その言葉は見えましたが、まだ星の断章としては定着しません。
星は、最後の持ち主を待っているようです。
次回、この星降りの窪地編は一区切りへ向かいます。
今回も読んでくださり、ありがとうございました。




