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声のない少女編 8話 沈黙が鳴る夜

エマは、自分の意志で黒い鐘を止めたいと示した。

まだ声は戻っていない。

けれど、彼女の中には確かに一音が生まれている。

その夜、水鈴町エルネに歪んだ音が広がり始める。

鳴らなかったはずの風鈴が、黒い鐘に引きずられるように響き出す。

沈黙に閉ざされた町で、リシアとエマは、その音の奥へ踏み込んでいく。

 水鈴町エルネの夜が、歪んだ音に満たされていく。


 ちりん。


 ごおん。


 ちり、ちりり。


 ごおん。


 町中の風鈴が、一斉に鳴り始めていた。


 けれど、それは本来の涼やかな音ではなかった。硝子の風鈴はひび割れたような濁りを帯び、陶器の風鈴は低く震え、金属の風鈴は耳の奥を削るような細い音を立てている。


 音が戻ったのではない。


 黒い鐘に引きずられて、無理やり鳴らされている。


 その音は、水路の上を渡り、石橋を震わせ、家々の窓を叩いた。眠りかけていた子どもが泣き出し、店じまいをしていた職人たちが外へ飛び出す。水路沿いでは、町人たちが顔を青くして空を見上げていた。


「風鈴が……鳴ってる?」


「違う、こんな音じゃない」


「耳が痛い」


「また黒い鐘だ」


「水路の下からじゃないのか?」


 不安が町を駆け抜ける。


 黒い鐘の音は、旧排水路の奥だけではなくなっていた。


 町全体に散った風鈴を通して、恐怖を鳴らしている。


 リシアは工房の扉を開け、外へ出た。


 夜風が頬を打つ。


 冷たい。


 水路から上がってくる湿った空気の中に、黒譜術こくふじゅつ特有の冷たさが混じっていた。


 肩にはシル。


 腕にはハルクの鳴らない風鈴。


 背後には、筆談板を抱えたエマと、彼女を支えるマルタがいる。


「エマさん、無理はしないでください」


 リシアは振り返った。


 エマは青ざめていた。


 当然だ。


 自分の声を奪った黒い鐘が、町中の風鈴を使って鳴り始めているのだから。


 それでも、エマは首を横に振った。


 筆談板に、震える文字を書く。


『いく』


 リシアはその文字を見た。


「怖いままでも?」


 エマは頷いた。


 そして、もう一度書く。


『こわいまま、いく』


 リシアは深く息を吸った。


 それは、リシアが彼女に与えた言葉ではない。


 エマが自分で選んだ言葉だ。


 ならば、止める理由にはならない。


「分かりました」


 リシアは頷く。


「でも、約束してください。苦しくなったら、必ず止まること。逃げてもいいこと。声が出せなくても、首を振るだけでいいこと」


 エマは少しだけ迷い、それから頷いた。


 マルタがエマの肩を抱く。


「私も一緒に行くわ。もう、あなたを一人にはしない」


 エマはマルタを見上げ、かすかに笑った。


 声はまだ出ない。


 さっき取り戻した一音は、奇跡のように短いものだった。


 けれど、その一音がエマの中に灯ったことを、リシアは感じていた。


 完全に戻ったわけではない。


 でも、失われたままではない。


 シルがリシアの肩で鋭く鳴いた。


 ちい。


 その視線の先には、中央水路がある。


 黒い鐘の音は、そこから強く響いていた。


「中央水路へ行きます」


 リシアは言った。


 工房を出て、石畳の道を進む。


 町は混乱していた。


 家々の扉が開き、町人たちが水路へ向かって集まり始めている。誰もが恐怖に押されている。黒い鐘の音は、人の中にある不安を探り当て、それを何倍にも膨らませる。


 リシアの耳にも、いくつもの心歌しんかが飛び込んできた。


『やっぱりこの町は呪われている』


『風鈴が鳴らない方がまだよかった』


『誰かが止めてくれ』


『歌魔術師は何をしている』


『エマが何かしたのか』


『違う、あの子も被害者だ』


『でも怖い』


『怖い』


『怖い』


 多すぎる。


 リシアは一瞬、足を止めかけた。


 恐怖は伝染する。


 怒りより速く、悲しみより深く、人の判断を濁らせる。


 そして、恐怖が行き場を失えば、弱い誰かへ向かう。


 エマへ。


 それだけは止めなければならない。


 けれど、恐怖そのものを消してはいけない。


 怖いと感じることは、悪ではない。


 黒い鐘が歪めているのは、恐怖を持つことではない。


 恐怖を自分で扱う力を奪っているのだ。


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 火の断章。


 沈黙の断章。


 どちらも、誰かの痛みをなかったことにする歌ではない。


 痛みの奥に残った選択を、そっと照らす歌だ。


 中央水路の広場に着くと、そこにはすでに多くの人が集まっていた。


 町長オルヴェン、警備隊長ベイル、職人のユアン、水路番のロシュ老人、鈴音亭の女将、白髪の職人老人。そして、町の人々。


 皆が水路を見つめている。


 水面は黒く波打っていた。


 夜空の星を映すはずの水路に、譜面のような黒い線が浮かんでいる。線は水面を走り、石橋の柱へ絡み、そこから町中の風鈴へ伸びていた。


 風鈴は揺れ続けている。


 鳴り続けている。


 黒い鐘の音に合わせて。


 ごおん。


 そのたびに、町人たちの顔が歪む。


 町長オルヴェンがリシアに気付いた。


「リシアさん!」


 彼は駆け寄ろうとして、エマの姿を見て足を止めた。


「エマまで……」


 その声には戸惑いがあった。


 責める響きではない。


 だが、心歌の奥には恐れが残っている。


『この子を巻き込んでいいのか』


『だが、この子しか知らないことがある』


『また背負わせるのか』


 町長自身も迷っている。


 リシアは正面から彼を見た。


「町長さん。エマさんは、自分で来ると選びました」


 オルヴェンはエマを見る。


「本当かね」


 エマは頷いた。


 筆談板へ書く。


『わたしが、きめた』


 町長の顔が苦しげに歪んだ。


「……そうか」


 彼は深く頭を下げた。


 町人たちの前で。


 エマに向かって。


「今まで、すまなかった」


 広場が静まる。


 風鈴の歪んだ音だけが鳴っている。


 オルヴェンは顔を上げないまま続けた。


「君の父が何かを訴えていた時、私は町を守るためだと言って、耳を塞いだ。君が声を失った時も、悲しみのせいだと決めつけた。町の評判を守ることを優先し、真実を掘り返さなかった」


 エマは何も言わない。


 筆談板にも書かない。


 ただ、町長を見ている。


「君一人に、町の沈黙を背負わせた」


 オルヴェンの声が震えた。


「町長として、大人として、謝る。すまなかった」


 エマの指が筆談板の上で動く。


 ゆっくりと、文字が書かれた。


『ゆるすかは、まだわからない』


 町長はその文字を見て、静かに頷いた。


「それでいい」


 リシアは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 許す必要はない。


 すぐに前を向く必要もない。


 謝罪があったからといって、傷が消えるわけではない。


 でも、責任の置き場所が少しだけ変わった。


 エマ一人ではなく、町の大人たちの手にも戻った。


 それが必要だった。


 黒い鐘が、また鳴る。


 ごおん。


 今度はさらに強かった。


 町人たちが一斉に耳を塞ぐ。


 水面の黒い譜面が盛り上がり、まるで水から黒い蔓が伸びるように広場へ広がった。


 リシアは咄嗟に前へ出る。


「下がってください!」


 黒い譜面は人々の足元へ絡みつき、そこから心の奥へ侵入しようとしている。


 怒り。


 恐怖。


 後悔。


 罪悪感。


 黒い鐘は、それらを音に変えようとしていた。


 町人たちの心歌が乱れる。


『私もハルクを疑った』


『エマを避けた』


『風鈴が鳴らないのをあの子のせいにした』


『戦争中の鐘を作った』


『仕方なかった』


『仕方なかったはずだ』


『でも、本当に?』


 町全体の沈黙が、黒い鐘に拾われていく。


 これはエマだけの問題ではない。


 ハルクだけの問題でもない。


 町が戦争中に作った恐怖の音。


 それを封じ、なかったことにし、誰かが傷ついた後も見ないふりをしてきた沈黙。


 黒い鐘は、そのすべてを鳴らしている。


 リシアはハルクの鳴らない風鈴を胸に抱いた。


「町長さん!」


 リシアは声を張った。


「黒い鐘を止めるには、町の人たちにも聞いてもらう必要があります!」


「何をだ!」


「自分たちが閉じ込めてきた音です!」


 オルヴェンの顔が強張る。


 リシアは続ける。


「黒い鐘は恐怖を操っています。でも、その恐怖の元になったものは、この町に残っていた沈黙です。誰か一人を責めるのではなく、皆が自分の沈黙を認めないと、音は止まりません!」


 広場にざわめきが広がる。


「そんなことを言われても」


「俺たちにどうしろっていうんだ」


「戦争中のことなんて、今さら」


「風鈴を鳴らせばいいのか?」


 混乱が広がる。


 黒い鐘の音がそれを煽る。


 リシアは歌いたくなった。


 静律結界で一瞬止めることはできる。


 共鳴詩で心を繋げることも、もしかしたらできるかもしれない。


 だが、今それをすれば、町人たちはリシアの歌に頼るだけになる。


 自分たちで聞くべき音を、また誰かに預けてしまう。


 リシアは息を吸った。


 歌わない。


 今は、言葉で踏み込む。


「皆さん!」


 リシアの声が広場に響いた。


「怖いなら、怖いと言ってください!」


 町人たちが驚いてリシアを見る。


「後悔しているなら、後悔していると言ってください。知らなかったなら、知らなかったと言ってください。見ないふりをしたなら、見ないふりをしたと言ってください」


 リシアは黒い水面を見た。


「黒い鐘は、皆さんの沈黙を勝手に音に変えています。なら、先に自分の声で言ってください。上手くなくていい。正しくなくていい。誰かを責めるためじゃなく、自分が抱えていたものを、自分の言葉にしてください」


 誰もすぐには動かなかった。


 当然だ。


 人前で自分の弱さを言葉にするのは怖い。


 まして、町全体が隠してきたことならなおさらだ。


 その時、最初に口を開いたのは、白髪の職人老人だった。


「俺は……ハルクを信じなかった」


 風鈴の音が、わずかに揺れた。


 老人は震える拳を握る。


「あいつが水路の下から黒い音がすると言った時、疲れているんだと思った。音に敏感すぎるだけだと笑った。あいつは真剣だったのに、俺は聞かなかった」


 ユアンが老人を見る。


 老人は続けた。


「すまなかった、ハルク。すまなかった、エマ」


 エマの目が揺れる。


 次に声を上げたのは、鈴音亭の女将だった。


「私は、エマに何を聞けばいいのか分からなくて、優しくするふりをして黙っていたよ」


 彼女は苦笑するように、でも泣きそうに言った。


「声が出ない子に聞くのはかわいそうだって思っていた。でも、本当は私が怖かったんだ。聞いて、答えが返ってきたら、町が壊れる気がして」


 また、風鈴の音が揺れる。


 濁っていた音に、一瞬だけ透明な響きが混じった。


 町長オルヴェンが杖を握りしめる。


「私は、町を守ると言いながら、町の過ちを見るのを避けた」


 彼の声は広場に広がった。


「戦争中、恐怖を刺激する警鐘を作る決定に関わった。必要だと思った。今も、あの時の判断を完全に間違いだったと言い切ることはできない。あの鐘で助かった命もある」


 彼は一度目を閉じた。


「だが、終戦後、私はその音が残した傷を見なかった。恐怖を使って人を動かした事実を、町のためという言葉で覆った。ハルクがそれを止めようとした時、私は面倒を避けた」


 黒い鐘の音が、低く唸る。


 町長の告白を拒むように。


 しかし、オルヴェンは続けた。


「私は怖かった。この町が、風鈴の町ではなく、恐怖の鐘を作った町だと知られるのが怖かった」


 広場に沈黙が落ちる。


 だが、その沈黙はもう、押し殺されたものではなかった。


 誰かが一歩、前へ出る。


「俺も……エマを避けてた」


「私、あの子を見るのがつらくて、道を変えたことがある」


「ハルクさんの話、噂にするだけで何もしなかった」


「風鈴が鳴らないのを、あの子のせいかもしれないって思った。ごめん」


 声が少しずつ増えていく。


 完全な懺悔ではない。


 美しい和解でもない。


 言葉は拙く、時に言い訳も混じっている。


 それでも、人々は沈黙を自分の口でほどき始めた。


 黒い鐘が激しく鳴った。


 ごおん。


 水面の黒い譜面が膨れ上がる。


 それは、告白によって弱まるどころか、最後の抵抗を始めたようだった。


 町人たちの足元から、黒い線が伸びる。


 恐怖が、怒りが、罪悪感が、再び絡みつく。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 今だ。


 町の人々が自分の声を出した。


 大人たちが責任を取り戻し始めた。


 エマも、自分でここへ来ると選んだ。


 ここでなら、歌は命令にならない。


 逃げ道を塞ぐ歌ではなく、皆が出した声をつなぎ止める歌になる。


 リシアはエマを見る。


「エマさん」


 エマは筆談板を抱えたまま、リシアを見上げた。


「私は、黒い鐘を止めるために歌います。でも、この歌はあなたの声を奪い返す歌ではありません」


 エマは頷く。


「あなたが出した一音と、町の人たちが出した言葉を、黒い鐘に奪わせないための歌です」


 エマの指が動く。


『わたしも』


「はい」


『わたしも、いっしょに』


 リシアは頷いた。


「一音だけでいいです」


 エマは喉に手を当てた。


 怖い。


 その顔に、はっきりと書いてあった。


 けれど、逃げてはいない。


 マルタが隣でエマの手を握る。


 シルがリシアの肩から降り、エマの足元へ向かった。


 そして、ちょこんと座る。


 まるで、ここにいる、と伝えるように。


 エマはほんの少しだけ笑った。


 リシアはハルクの鳴らない風鈴を持ち上げる。


 乳白色の硝子が、淡い青の光を帯びた。


 黒い鐘の音が迫る。


 ごおん。


 恐怖が胸を打つ。


 でも、もうそれだけではない。


 広場には、人々の声がある。


 後悔の声。


 謝罪の声。


 怖いという声。


 信じなかったという声。


 逃げていたという声。


 それらは決して美しいだけのものではない。


 けれど、人が自分の中から出した本当の音だった。


 リシアは歌い始めた。


 最初は低く。


 水路の流れに沿うように。


 黒い鐘と争うのではなく、その下に沈んでいた声を拾うように。


 風鈴の町に、歌が落ちる。


 町人たちは息を呑んだ。


 その歌は、彼らを励ます歌ではなかった。


 前を向けと命じる歌でもなかった。


 ただ、今ここにある声を、声のまま認める歌。


 リシアの歌詞帳から青い光が広がる。


 火の断章の赤い光とは違う。


 水と風を含んだ、淡い青。


 その光が水路へ伸び、黒い譜面に触れた。


 黒い線が抵抗する。


 リシアの喉に痛みが走った。


 だが、今日は一人ではない。


「怖かった!」


 誰かが叫んだ。


「俺もだ!」


「ごめん、エマ!」


「ハルクさん、ごめんなさい!」


 町人たちの声が、歌の周囲に重なっていく。


 リシアはその声を無理に整えなかった。


 不揃いなまま。


 震えたまま。


 それでいい。


 風鈴が鳴る。


 ちりん。


 まだ濁っている。


 ごおん。


 黒い鐘が押し返す。


 リシアはハルクの風鈴をエマへ差し出した。


「エマさん」


 エマは風鈴に手を添えた。


 そして、喉に手を当てる。


 唇が震える。


 声は出ないかもしれない。


 痛むかもしれない。


 でも、エマは自分で選んだ。


 リシアは歌の中で待った。


 急がない。


 引っ張らない。


 押さない。


 エマの一音を待つ。


 黒い鐘が鳴る。


 ごおん。


 その音に負けそうになりながら、エマは口を開いた。


「……あ」


 一音。


 小さな、本当に小さな音。


 だが、それは広場に落ちた。


 ハルクの鳴らない風鈴が、ちりん、と鳴った。


 その音はエマの声に寄り添うように響いた。


 リシアの歌が、そこへ重なる。


 黒い譜面がひび割れた。


 水面に走っていた黒い線が、一本、また一本とほどけていく。


 黒い鐘が苦しむように鳴る。


 ごおん。


 しかし、今度は人々が耳を塞がなかった。


 怖い顔をしながらも、立っている。


 町長が杖を突き、声を張った。


「これは、我々の町の音だ!」


 ベイルが続く。


「誰か一人に背負わせるな!」


 ユアンが叫ぶ。


「ハルクさんの音を返せ!」


 白髪の職人老人が、懐から小さな風鈴の舌を取り出した。


 割れていない、新しいものだった。


「鳴らすぞ、エルネの音を!」


 彼は近くの風鈴にその舌を取り付ける。


 それを見た職人たちが動き始めた。


 広場に吊るされた風鈴へ。


 水路沿いの風鈴へ。


 黒い鐘に歪められた音の中で、彼らは自分たちの手で風鈴を整え始める。


 リシアは歌いながら、その光景を見た。


 歌だけではない。


 人の手が動いている。


 職人の手。


 町を守る手。


 逃げていたものに、もう一度触れる手。


 それこそが必要だった。


 エマが、もう一度声を出す。


「……き」


 リシアは目を見開いた。


 一音ではない。


 次の音。


 エマは苦しげに喉を押さえながら、それでも止まらない。


「……い、て」


 聞いて。


 完全な声ではない。


 掠れて、途切れて、今にも消えそうな音。


 けれど、確かにそう聞こえた。


 聞いて。


 その言葉に、町人たちが静まる。


 リシアの歌も、一瞬だけ細くなる。


 エマは筆談板を使わず、声になりかけた音で、必死に続けようとした。


 マルタが支える。


 リシアは無理をさせないよう、歌を柔らかくする。


 エマは首を横に振った。


 まだ。


 まだ、言いたい。


 声は出ない。


 でも、唇が動く。


 リシアには、その形が分かる。


 おとうさんは、こわがってた。


 でも、にげなかった。


 黒い鐘を止めたかったのだ。


 風鈴を、怖い音にしたくなかった。


 リシアは、その言葉を勝手に歌にはしなかった。


 ただ、エマが声にできない部分を、町の人々が聞けるように、反響歌はんきょうかでそっと空気へ映した。


 声ではない。


 文字でもない。


 エマの唇の震えが、水面に波紋となって広がる。


 町人たちは、その意味を受け取った。


 誰かが泣いた。


 ユアンが膝をつく。


 オルヴェンが目を閉じた。


 黒い鐘が最後の抵抗をする。


 水路の中央に、黒い鐘の影が浮かび上がった。


 実物は旧排水路の奥にあるはずだ。


 だが、黒譜術がその音を水面へ映している。


 黒い鐘は、まるで巨大な口のように開き、町の声を呑み込もうとしていた。


 リシアは歌詞帳を掲げる。


 沈黙の断章のページが開く。


 そこに、文字が浮かび上がる。


『声は、戻るためだけにあるのではない。


 選ぶために、震える一音がある。』


 まだ続く。


 リシアはその歌詞を見て、息を吸った。


 今なら歌える。


 エマが選んだ。


 町も声を出した。


 ハルクの風鈴も鳴った。


 これはリシアが一方的に与える歌ではない。


 この場にいる人々の声から生まれた歌だ。


 リシアは歌った。


『声は、戻るためだけにあるのではない。


 選ぶために、震える一音がある。


 言えなかった夜も、


 聞けなかった朝も、


 消えたわけではなく、水底で待っていた。


 怖いと告げる声を、恥じなくていい。


 ごめんと震える声を、遅いと捨てなくていい。


 沈黙は、終わりではない。


 耳を澄ませた誰かの手で、


 もう一度、風になる。』


 歌詞が広場へ広がる。


 黒い鐘の影に、青い光が触れる。


 黒い譜面が砕ける。


 ごおん、と最後の鐘が鳴った。


 それは恐怖を煽る音ではなかった。


 長く閉じ込められていたものが、ようやく外へ出る時の、重い音だった。


 水面が大きく揺れる。


 黒い線が溶けるように薄れていく。


 町中の風鈴が、一瞬だけ沈黙した。


 完全な静寂。


 誰も息をしない。


 そして。


 ちりん。


 一つの風鈴が鳴った。


 続いて、別の風鈴。


 ちりん。


 ちりりん。


 水路沿いの風鈴が、夜風を受けて鳴り始める。


 今度は濁っていない。


 涼やかで、澄んだ音。


 それぞれの風鈴が違う音を持ちながら、町全体で一つの旋律のように響いていく。


 エルネの音だった。


 町人たちは、しばらく呆然としていた。


 やがて、誰かが泣き出す。


 別の誰かが空を見上げた。


 職人たちは膝をつき、風鈴の音を聞いている。


 オルヴェンは杖を握ったまま、深く頭を垂れていた。


 ユアンは涙を拭いながら、ハルクの名を呼んだ。


 マルタはエマを抱きしめている。


 エマは、風鈴の音を聞いていた。


 両耳を塞がず。


 逃げず。


 涙を流しながら、夜の町に戻った音を聞いていた。


 リシアは歌を終えた。


 喉に痛みが残っている。


 でも、立っていられる。


 シルが肩へ戻ってきて、リシアの頬に小さな前足を当てた。


「大丈夫」


 リシアは小さく笑った。


「少し痛いけど、大丈夫」


 シルは信じていないような目で見た。


「本当だよ」


 ちい。


 リシアは苦笑した。


 その時、エマがリシアの袖を引いた。


 振り返ると、エマは筆談板を持っていなかった。


 両手で、ハルクの鳴らない風鈴を抱えている。


 そして、喉に手を当て、ゆっくり口を開いた。


「……あ、り……」


 声が掠れる。


 途中で途切れる。


 それでも、エマは続けた。


「……が、と」


 ありがとう。


 その言葉は、まだ完全ではなかった。


 音も弱く、聞き取りづらい。


 けれど、リシアには届いた。


 マルタにも。


 町の人々にも。


 リシアは目に涙を浮かべながら、首を横に振った。


「こちらこそ、選んでくれてありがとうございます」


 エマは泣きながら笑った。


 その笑顔を見て、リシアは思った。


 声が戻ったから救われたのではない。


 声をどうするかを、自分で選べたから、エマは少しだけ前へ進めたのだ。


 黒い鐘は止まった。


 しかし、すべてが終わったわけではない。


 旧排水路の奥には、まだ実物の鐘がある。


 黒い外套の人物も逃げたままだ。


 黒譜の民は、確かにリシアの旅を見ている。


 それでも今夜、エルネの風鈴は鳴った。


 それは小さな勝利だった。


 翌朝。


 エルネの町には、久しぶりに穏やかな風が吹いていた。


 風鈴は鳴っている。


 まだ音の戻らないものもある。


 ひび割れたままのものもある。


 修理が必要なものも多い。


 それでも、町は完全な沈黙ではなくなっている。


 中央水路では、ベイルたち警備隊が旧排水路の再調査に向けて準備をしていた。黒い鐘の本体は、町の職人たちと歌術に詳しい者を呼んで慎重に封じることになった。


 町長オルヴェンは、戦争中の特殊警鐘について正式に記録を残すと宣言した。


 隠すのではなく、町の過ちとして。


 そして、二度と恐怖で人を動かす音を作らないために。


 ハルクの工房には、朝から職人たちが訪れていた。


 謝罪に来る者。


 風鈴の修理を申し出る者。


 何も言えず、ただ頭を下げて帰る者。


 エマはそのすべてに答えたわけではない。


 会いたくない人には会わなかった。


 話したくないことは話さなかった。


 筆談板を使う時もあれば、首を振るだけの時もある。


 時々、小さく声を出そうとして、喉が痛んで顔をしかめることもあった。


 でも、彼女はもう、自分の沈黙を悪いものだとは思っていないようだった。


 リシアは工房の窓辺で、青い風鈴を見上げている。


 ハルクの鳴らない風鈴は、エマの手元に戻った。


 今もほとんど鳴らない。


 けれど、エマが触れると時折、小さく震える。


 まるで父の声を思い出すように。


 エマは筆談板に文字を書いた。


『りしあ、もういく?』


「はい。黒譜の民の手がかりも追わなければいけません」


 エマは寂しそうに目を伏せた。


 それから、少し迷って書く。


『こえ、まだぜんぶもどってない』


「はい」


『でも、だいじょうぶ』


 リシアは微笑んだ。


「そうですね」


『だいじょうぶって、いわれるより』


 エマは一度止まり、少し笑ってから続けた。


『じぶんで、そうおもった』


 リシアの胸が温かくなった。


「それが、一番大事だと思います」


 シルが窓辺に置かれた干し果物へ手を伸ばす。


 エマがすぐに気付き、筆談板に書いた。


『シル、それはわたしの』


 シルは動きを止めた。


 リシアが笑う。


「シル」


 シルは少し考えた後、干し果物を半分に割り、片方をエマへ差し出した。


 エマは驚いた後、小さく笑った。


「……は、ん、ぶん」


 掠れた声。


 でも、確かに言葉だった。


 半分。


 シルは得意げに胸を張る。


 リシアはその光景を見て、静かに歌詞帳を開いた。


 沈黙の断章のページには、昨夜の歌詞が刻まれている。


『声は、戻るためだけにあるのではない。


 選ぶために、震える一音がある。


 言えなかった夜も、


 聞けなかった朝も、


 消えたわけではなく、水底で待っていた。


 怖いと告げる声を、恥じなくていい。


 ごめんと震える声を、遅いと捨てなくていい。


 沈黙は、終わりではない。


 耳を澄ませた誰かの手で、


 もう一度、風になる。』


 ページの端には、小さな青い風鈴の印が浮かんでいた。


 火の断章に続く、二つ目の欠片。


 リシアは歌詞帳を閉じる。


 その瞬間、ページの奥から微かな黒い染みが浮かんだ。


 すぐに消えた。


 だが、リシアは見逃さなかった。


 黒譜の民はまだ近くにいる。












 リシアは窓の外を見た。


 エルネの風鈴が鳴っている。


 完全ではない。


 傷も残っている。


 でも、町は音を取り戻し始めた。


 それでいい。


 歌も、人も、町も、すぐに完全にはならない。


 少しずつでいい。


 一音ずつでいい。


 リシアは肩にシルを乗せ、工房を出た。


 エマとマルタが見送ってくれる。


 町の入口へ向かう道で、風鈴が優しく鳴った。


 ちりん。


 それは別れの音ではなかった。


 またいつか、という小さな約束のような音だった。


 リシアは振り返り、エマへ手を振る。


 エマは筆談板を掲げた。


『またね』


 その下に、震える文字で一つだけ追加される。


『リシア』


 そして、エマは小さく口を開いた。


「……ま、た」


 まだたどたどしい。


 でも、確かに彼女の声だった。


 リシアは笑った。


「またね、エマさん」


 旅は続く。


 火の断章。


 沈黙の断章。


 黒譜の民。


 そして、失われた星詠みの歌。


 リシアの歌詞帳は、少しずつ重くなっていく。


 けれど、その重さはもう、罪だけではなかった。


 誰かが怖いまま選んだ一音。


 誰かが遅れてでも口にした謝罪。


 誰かがもう一度鳴らそうとした風鈴。


 それらが、確かに刻まれている。


 リシアは前を向いた。


 次の町へ続く道の向こうで、まだ見ぬ誰かの心歌が、かすかに揺れた気がした。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


「声のない少女編」は、今回でひとつの区切りとなります。


風鈴が鳴らなくなった町、エルネ。

声を失った少女エマ。

そして、水路の下で鳴り続けていた黒い鐘。


この編でリシアが向き合ったのは、ただ「声を取り戻すこと」ではありませんでした。


声を出すこと。

沈黙すること。

向き合うこと。

まだ向き合わないこと。


そのどれも、本来は本人が選ぶべきものです。


エマが取り戻したのは、完全な声ではなく、自分で選んだ一音でした。

そして町の人々もまた、長く見ないふりをしてきた沈黙に向き合い始めます。


今回、リシアの歌詞帳に刻まれた歌詞は。


『声は、戻るためだけにあるのではない。

 選ぶために、震える一音がある。


 言えなかった夜も、

 聞けなかった朝も、

 消えたわけではなく、水底で待っていた。


 怖いと告げる声を、恥じなくていい。

 ごめんと震える声を、遅いと捨てなくていい。


 沈黙は、終わりではない。

 耳を澄ませた誰かの手で、

 もう一度、風になる。』


火の断章に続き、リシアの歌詞帳には新たに「沈黙の断章」が刻まれました。


けれど、黒譜のこくふのたみの影はまだ消えていません。

星詠みの歌とは何なのか。

なぜ黒譜の民は、その完成を止めようとするのか。


リシアとシルの旅は、次の町へ続きます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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