声のない少女編 7話 一音だけの返事
夜の水鈴町エルネは、音を失ったまま震えていた。
中央水路の水位は、いつもより高くなっている。旧排水路で突然水門が開いた影響だった。警備隊が周囲を調べ、町長オルヴェンが水路番たちを集めて確認を進めているが、誰が、いつ、どうやって水門を開いたのかは分かっていない。
いや、本当は誰もが薄々感じていた。
黒譜の民。
リシアたちの前に現れた黒い外套の人物。
その者が、何らかの形でこの町に手を伸ばしている。
だが、町の人々にとってそれはあまりに遠い話だった。
歌を封じる者たち。
断章。
星詠みの歌。
そんな言葉よりも、今の彼らにとって切実なのは、目の前の風鈴が鳴らないことだ。水路の下から黒い鐘が響くことだ。そして、そのすべてがエマという一人の少女へ集まってしまいそうなことだった。
リシアは鈴音亭には戻らず、エマの工房へ向かっていた。
腕には、ハルクが遺した鳴らない風鈴を抱えている。乳白色の硝子に青い線が入った、不思議な風鈴。振っても鳴らない。風を受けても音を出さない。けれど、旧排水路では確かに道を示した。
鳴らない音を聞くための風鈴。
ハルクが、娘へ残した最後の音。
リシアの肩にはシルがいた。
旧排水路で水をかぶったせいで、毛並みはまだ少し湿っている。普段なら不機嫌に尻尾を振り回していそうなものだが、今のシルは静かだった。金色の目で風鈴を見つめ、時折、リシアの頬に尻尾を触れさせる。
まるで、急ぐな、と言っているようだった。
「分かってる」
リシアは小声で言った。
「急いで答えを出しちゃいけないよね」
シルが小さく鳴く。
その声を聞いて、リシアは胸の奥に残る言葉を思い出した。
『声がある者の優しさが、声なき者をどれほど追い詰めるか』
黒い外套の人物が残した言葉。
あれは、リシアを傷つけるためだけの言葉だったのだろうか。
違う。
きっと、そうではない。
リシアはエマを守ろうとした。
町人たちの視線から、役人の問い詰めから、黒譜術から。
その気持ちは嘘ではない。
けれど、守ろうとする中で、エマに書かせてしまったのも事実だ。
彼女が震えながら筆談板に刻んだ言葉。
『おとうさんが、ころされた』
あの一文を町へ示したことは、必要だったのか。
それとも、リシアが真実へ近づくために、エマの痛みを使ってしまったのか。
答えは簡単ではない。
だから、逃げてはいけない。
リシアはエマの工房の前で足を止めた。
軒先の風鈴は、夜風に揺れている。
音はしない。
ただ一つ、エマの机のそばに吊るされていた青い風鈴だけが、昼間、一音だけ鳴った。
あの一音を、リシアは忘れられなかった。
扉を叩く前に、中から開いた。
マルタだった。
目元は赤く、疲れ切った顔をしている。それでもリシアを見ると、ほっとしたように息を吐いた。
「無事だったんですね」
「はい。ご心配をおかけしました」
リシアは抱えている風鈴を少し持ち上げた。
「これを、旧排水路で見つけました」
マルタの目が揺れる。
「兄の……?」
「おそらく、ハルクさんが作った鳴らない風鈴です」
奥の部屋で、小さな物音がした。
エマだ。
リシアは工房の中へ入った。
昨日と同じ机。
同じ窓。
同じ風鈴。
けれど、空気は少し違っていた。
エマは椅子に座っていた。膝の上には筆談板。顔色は悪い。だが、リシアが風鈴を抱えているのを見ると、逃げることはしなかった。
怖がっている。
けれど、見ようとしている。
その姿に、リシアの胸が痛んだ。
「エマさん」
リシアは、前と同じ距離で膝をついた。
「旧排水路へ行ってきました」
エマの指が筆談板の上で震える。
リシアは続けた。
「そこに、黒い鐘がありました。ハルクさんが探していたものだと思います。それから、この風鈴も」
エマの視線が風鈴に吸い寄せられる。
筆談板に、ゆっくり文字が書かれた。
『おとうさんの?』
「はい。残響歌で、少しだけ聞きました。ハルクさんは、これを“鳴らない音を聞くための風鈴”として作っていました」
エマの唇が震えた。
彼女はもう一度書く。
『おとうさん、いた?』
リシアはすぐに答えられなかった。
旧排水路で聞いたのは、ハルクの残響だ。
そこに本人がいるわけではない。
死者の想いの欠片が、物や場所に残っていただけ。
それを「いた」と言っていいのか。
迷った末に、リシアは正直に答えた。
「ハルクさん本人ではありません。でも、ハルクさんが残した想いは、ありました」
エマは俯いた。
落胆したのか。
安心したのか。
リシアには分からない。
心歌は、やはり聞こえなかった。
エマの周囲には、今も無音がある。
だが、その無音は昨日より少し薄くなっている気がした。
完全な壁ではない。
凍った水面の下で、小さな流れが動き始めているような感覚。
「エマさん」
リシアは慎重に言葉を選んだ。
「この風鈴は、あなたに見せるべきものだと思って持ってきました。でも、無理に触らなくていいです。見たくなければ、私が預かります」
エマは風鈴を見つめたまま、書いた。
『こわい』
「はい」
『みたら、おもいだす』
「そうかもしれません」
『おもいだしたら、こわれるかもしれない』
「その可能性もあります」
マルタが苦しげに目を伏せる。
リシアは風鈴を床に置いた。
エマとの間。
どちらのものにもならない距離。
「だから、選んでください」
リシアは言った。
「今は見ない。少しだけ見る。触る。触らない。どれでもいいです」
エマの指が止まる。
しばらくして、文字が浮かんだ。
『りしあは、どうしてほしい?』
その問いに、リシアは胸を突かれた。
どうしてほしいか。
リシアの本音を言えば、向き合ってほしい。
ハルクの残した風鈴を見てほしい。
エマの声を奪った黒譜術の手がかりを得たい。
町の風鈴を鳴らしたい。
黒い鐘を止めたい。
でも、それをそのまま押しつければ、結局エマの選択ではなくなる。
「私は」
リシアはゆっくり口を開いた。
「あなたに向き合ってほしいと思っています」
マルタが驚いたようにリシアを見た。
エマも目を上げる。
リシアは続けた。
「でも、それは私の願いです。あなたの願いではありません」
エマの目が揺れる。
「私は、黒い鐘を止めたい。あなたの声を奪ったものを知りたい。ハルクさんが何を残したのか知りたい。そのために、この風鈴が必要だと思っています」
リシアは一度、息を吸った。
「でも、それを理由にあなたを急がせたら、私はあなたの声を奪ったものと同じになります」
言葉にして、胸が痛んだ。
自分の中にある焦りを認めることは、怖かった。
善意だけではない。
リシアは、自分が正しいことをしていると思いたい気持ちを持っている。
歌魔術師として、誰かの力になりたい。
その願いが強すぎれば、相手の沈黙を待てなくなる。
エマは筆談板を見つめたまま、長く動かなかった。
やがて、ゆっくり書く。
『りしあも、こわい?』
「怖いです」
リシアはすぐに答えた。
『うたまじゅつしなのに?』
「歌魔術師だから、怖いんです」
エマはリシアを見た。
リシアは胸元の徽章に指を添えた。
「私は昔、戦場で歌っていました。怖がる人たちが立ち上がれるように。守りたいものを思い出せるように」
マルタも黙って聞いている。
「その歌で救われた人もいます。でも、その歌に背中を押されて戦場へ行き、帰ってこなかった人もいます」
エマの目が大きくなる。
「だから私は、歌うのが怖いです。特に、人を前へ進ませる歌が怖い。自分の優しさが、誰かの逃げ道を塞ぐかもしれないから」
リシアは風鈴を見た。
「だから、あなたに“向き合って”と言うことも怖いんです。それが、本当にあなたのためなのか。私が真実を知りたいだけなのか。分からなくなるから」
沈黙。
だが、その沈黙は先ほどまでとは少し違った。
エマは逃げていない。
リシアも、言葉で飾っていない。
互いの怖さを、同じ床の上に置いている。
エマは筆談板へ視線を落とした。
『こわいままでも、いい?』
「はい」
『こわれそうなら、やめてもいい?』
「もちろんです」
『りしあは、おこらない?』
「怒りません」
『まちのみんなは?』
その文字に、リシアはすぐに答えられなかった。
町の人々は焦っている。
黒い鐘に怯えている。
エマに答えを求めている。
全員が優しく待てるとは限らない。
嘘はつけない。
「怒る人もいるかもしれません」
リシアは正直に言った。
エマの指が少し震えた。
「でも、その怒りをあなた一人が背負う必要はありません。町の人の不安は、町の大人たちも一緒に向き合うべきものです」
マルタが静かに頷いた。
「そうよ、エマ。今度は私も逃げない。あなたに全部背負わせたりしない」
エマの目に涙が浮かぶ。
彼女は筆談板を置いた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
鳴らない風鈴へ。
リシアは風鈴を持ち上げず、動かさず、ただ待った。
エマの細い指が、乳白色の硝子に触れる。
その瞬間、工房の中の空気が変わった。
風はない。
それなのに、軒先の風鈴が一斉に揺れる。
音は出ない。
ただ、揺れる。
エマは目を閉じた。
風鈴に触れた指先が震えている。
リシアの胸元で歌詞帳が淡く光った。
心歌は聞こえない。
けれど、残響が開く気配があった。
リシアは迷った。
今、エマと同じ残響を聞くべきか。
それとも、彼女だけに触れさせるべきか。
シルが肩の上で小さく鳴いた。
急ぐな。
そう聞こえた。
リシアは耳を澄ませるのをやめた。
聞きたい。
真実を知りたい。
でも、これはまずエマのものだ。
エマが父から受け取るべき音だ。
リシアは待った。
長い時間が過ぎたように感じた。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。
やがて、エマの目から涙が落ちた。
声は出ない。
けれど、唇が動いた。
音にはならない。
ただ、形だけ。
おとうさん。
そう呼んだように見えた。
その瞬間、風鈴が鳴った。
ちりん。
一音だけ。
澄んだ、寂しい、けれど確かな音。
マルタが息を呑む。
リシアの胸の奥にも、その音が届いた。
エマは目を開けた。
驚きと恐怖と、そして懐かしさに満ちた目だった。
彼女は慌てて筆談板を掴む。
震える手で、文字を書く。
『きこえた』
「はい」
リシアは頷いた。
『おとうさんの、おと』
「……はい」
リシアにはまだ聞こえていない。
でも、エマには聞こえた。
それが何より大事だった。
エマはさらに書く。
『おとうさん、いってた』
『こえは、もどさなくていい』
リシアは目を見開いた。
「戻さなくていい?」
エマは泣きながら頷いた。
そして書く。
『とりもどすのは、こえじゃなくて』
そこで手が止まる。
文字が震える。
黒い線が、筆談板の端に滲みかけた。
リシアは身を乗り出した。
黒譜術が反応している。
エマが核心に近づこうとしているからだ。
歌うべきか。
守護詩で文字を守るべきか。
しかし、エマはリシアを見ると、小さく首を横に振った。
歌わないで。
そう言っているようだった。
リシアは息を呑む。
今なら守れるかもしれない。
歌えば、文字を消されずに済むかもしれない。
けれど、エマは望んでいない。
リシアは手を握りしめ、歌わなかった。
エマは黒い滲みに邪魔されながらも、自分の手で続きを書いた。
『えらぶこと』
その文字が書かれた瞬間、黒い滲みが止まった。
リシアの歌詞帳が強く震える。
エマは呼吸を乱しながら、もう一度書く。
『こえを、もどすか』
『だまったままでいるか』
『わたしが、えらぶこと』
マルタが涙をこぼした。
リシアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
ハルクが残した音。
それは、声を無理やり戻すためのものではなかった。
エマに選択を返すためのものだった。
黒譜術は声を奪った。
町の不安は、彼女に話すことを求めた。
リシアの善意もまた、向き合うことを望んだ。
でも、ハルクが最後に娘へ残したものは、命令ではない。
選ぶこと。
声を出すか、出さないか。
話すか、話さないか。
思い出すか、まだ閉じておくか。
その選択権を、エマ自身の手へ返すものだった。
リシアは静かに頭を下げた。
「エマさん。教えてくれて、ありがとうございます」
エマは涙を拭った。
そして、筆談板へゆっくり書いた。
『りしあ』
「はい」
『わたし、こえをもどしたい』
リシアは息を止めた。
エマの手は震えている。
それでも、文字ははっきりしていた。
『でも、みんなのためじゃない』
『まちのためでもない』
『おとうさんのかわりに、ほんとうをいうためでもない』
『わたしが』
エマは一度、喉に手を当てた。
声のない喉。
奪われた音。
それでも、彼女は前を見た。
『わたしが、また、ふうりんをききたいから』
リシアの目に涙が浮かんだ。
それは、初めてエマ自身から出た願いだった。
町を救うためではない。
父の死を証明するためでもない。
誰かに求められたからでもない。
自分が、もう一度風鈴を聞きたい。
その願いが、エマの中に確かに残っていた。
「分かりました」
リシアは言った。
声が少し震えた。
「なら、私はその願いを守るために歌います」
エマはじっとリシアを見た。
『こわい』
「はい」
『おもいだすの、こわい』
「はい」
『でも、にげたくない』
「はい」
リシアは頷く。
「ただ、今すぐ全部は戻せないかもしれません」
『うん』
「一音だけかもしれません」
『うん』
「戻った音が、痛みを連れてくるかもしれません」
エマの顔が強張る。
それでも、彼女は頷いた。
『それでも、わたしがえらぶ』
その文字を見た瞬間、リシアは迷いを手放した。
答えが出たわけではない。
歌が正しいと確信したわけでもない。
けれど、今ここでエマが選んだ。
なら、リシアはその選択を守る。
歌で背中を押すのではない。
選ぶための足元を照らす。
それが、今のリシアにできることだった。
「マルタさん」
リシアは振り返った。
「そばにいてください。エマさんが苦しそうなら、すぐに止めます」
「分かりました」
マルタはエマの隣に膝をつき、手を握った。
シルが机の上へ飛び移り、鳴らない風鈴の横に座った。
小さな体なのに、不思議と頼もしく見えた。
「シルも、お願い」
ちい。
リシアは歌詞帳を開いた。
沈黙の断章のページ。
青い線が淡く光っている。
そこに、まだ歌詞はない。
でも、一つの術名だけが浮かんでいた。
一音返し。
リシアは目を閉じる。
エマの心歌は聞こえない。
聞こえないままでいい。
無理にこじ開けない。
代わりに、鳴らない風鈴に残された音を聞く。
ハルクが娘へ残した願い。
エマがもう一度聞きたいと願った風鈴の音。
声を奪われた喉ではなく、選択を奪われた心へ、ただ一音だけ返す。
リシアは歌い始めた。
それは、とても小さな歌だった。
工房の外には届かない。
町中の風鈴を鳴らすような歌ではない。
ただ、エマと、ハルクの風鈴と、リシア自身の間にだけ置かれた細い旋律。
歌詞はない。
まだ言葉にしてはいけない。
言葉にすれば、エマの願いをリシアの解釈で形にしてしまう。
だから、音だけ。
一音へ向かうための、短い旋律。
黒い譜面が動いた。
風鈴の表面に、細い黒線が浮かぶ。
エマの喉元にも、同じような黒い印が一瞬だけ現れた。
マルタが息を呑む。
リシアは歌を止めない。
けれど、強めもしない。
押し破るのではない。
返す。
奪われた音を、エマの前にそっと置くだけ。
エマが目を閉じた。
涙が頬を伝う。
苦しそうだ。
リシアは歌を止めかけた。
その瞬間、エマがリシアの袖を掴んだ。
止めないで。
声はない。
でも、その手が言っていた。
リシアは歌を続けた。
黒い譜面が強く震える。
工房の風鈴が一斉に揺れた。
音は出ない。
出ないまま、空気が震える。
ハルクの鳴らない風鈴が、淡く青く光る。
シルがその横で、じっと風鈴を見ている。
そして。
ちりん。
一音。
今度は、はっきりと鳴った。
エマの青い風鈴ではない。
ハルクの鳴らない風鈴が鳴った。
鳴らないはずの風鈴が、たった一音だけ、工房に音を返した。
同時に、エマの喉元の黒い印がひび割れる。
リシアは歌を止めた。
これ以上は危険だ。
一音でいい。
今は一音だけでいい。
工房に静寂が戻る。
しかし、それは先ほどまでの沈黙とは違っていた。
押さえつけられた無音ではない。
音の余韻を含んだ静けさ。
エマは喉に手を当てていた。
目を見開き、何かを確かめるように唇を開く。
リシアは息を呑んだ。
マルタも震えている。
エマの唇が動いた。
「……あ」
小さな音だった。
言葉にもならない。
声と呼ぶには、あまりに弱い。
けれど、確かに音だった。
エマ自身の喉から出た、一音。
マルタが声を押し殺して泣いた。
リシアも目を潤ませる。
エマは自分の喉を押さえ、信じられないという顔で震えている。
そして、もう一度。
「あ……」
同じ一音。
それ以上は出なかった。
エマは喉を押さえ、涙をこぼしながら笑った。
声は戻っていない。
まだ、たった一音だけ。
でも、それは彼女が自分で選び、自分の喉から取り戻した音だった。
リシアは深く息を吐いた。
成功した。
いや、完全な成功ではない。
黒譜術はまだ残っている。
黒い鐘も止まっていない。
町の風鈴も鳴らないままだ。
しかし、エマの中に一音が戻った。
それだけで、今は十分だった。
その時、工房の外から低い鐘の音が響いた。
ごおん。
リシアは顔を上げた。
エマの一音に反応したように、黒い鐘が鳴ったのだ。
工房の窓が震える。
軒先の風鈴が激しく揺れる。
今度は、音が出た。
ただし、美しい風鈴の音ではない。
町中の風鈴が、黒い鐘に引きずられるように、濁った音を立て始めた。
ぎり。
ちり。
ごおん。
ちりん。
歪んだ音が重なり、夜の町へ広がっていく。
マルタがエマを抱きしめる。
エマは怯えたが、今度は耳を塞がなかった。
リシアは立ち上がる。
黒い鐘が目覚めた。
エマの一音返しによって、封じられていた音の均衡が崩れたのだ。
だが、これは失敗ではない。
動かなかったものが動き出した。
沈黙していた町が、ようやく痛みを音にし始めた。
リシアは歌詞帳を開く。
ページに、新しい一節が浮かびかけていた。
『声は、戻るためだけにあるのではない。
選ぶために、震える一音がある。』
しかし、まだ最後までは刻まれない。
完成には、町全体の選択が必要なのだろう。
リシアはエマを見る。
エマは涙を流しながら、筆談板に文字を書いた。
手は震えている。
でも、その目は逃げていなかった。
『りしあ』
「はい」
『かねを、とめたい』
リシアは頷いた。
「一緒に?」
エマは少しだけ迷った。
そして、書いた。
『うん』
マルタが不安げに顔を上げる。
「エマ……」
エマはマルタの手を握った。
そして、今度は声にならない唇で、ゆっくり形を作った。
だいじょうぶ。
音にはならなかった。
けれど、マルタには届いた。
リシアは胸が熱くなるのを感じた。
エマはもう、ただ守られる少女ではない。
声を奪われたまま、沈黙に閉じ込められたままの子ではない。
自分で選び始めている。
なら、リシアはその選択を守る。
外では黒い鐘が鳴り続けている。
町の風鈴は歪んだ音を立て、夜の水路は黒く波打っていた。
リシアはハルクの鳴らない風鈴を手に取った。
その風鈴は、もう完全な無音ではない。
まだ弱い。
でも、確かに一音を返した。
シルがリシアの肩へ戻り、真剣な顔で鳴く。
ちい。
「うん」
リシアは頷いた。
「行こう。黒い鐘を止めに」
エマは筆談板を抱え、立ち上がった。
まだ声は戻っていない。
けれど、彼女の中には一音がある。
それは誰かに与えられた勇気ではない。
恐怖を消された結果でもない。
彼女自身が、怖いまま選んだ音だった。
風鈴の鳴らない町に、歪んだ鐘の音が響く。
その夜、沈黙の断章はようやく動き始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、エマが自分の意思で“声”に向き合う回でした。
リシアは歌魔術師として、エマの声を戻したいと願います。
けれど、それを決めるのはリシアではなく、町の人々でもなく、エマ自身。
ハルクが遺した“鳴らない風鈴”。
それは声を無理やり戻すためのものではなく、エマに「選ぶこと」を返すための音でした。
そして、エマが自分で選んだことで、ほんの一音だけ声が戻ります。
まだ完全に声が戻ったわけではありません。
黒い鐘も止まっていません。
むしろ、沈黙していた町の痛みが音となって動き始めました。
次話では、リシアとエマが黒い鐘を止めるため、町の沈黙そのものへ向き合っていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




