声のない少女編 6話 水路の下で鳴る鐘
夕刻の水鈴町エルネは、青く沈んでいた。
空にはまだ夕陽の名残がある。西の山並みの向こうで、薄い橙色の光が雲の端を染めていた。けれど町の中を流れる水路には、もう夜の色が落ちている。石橋の下を抜ける水は黒く、家々の窓に灯り始めたランプの光だけが、細く揺れていた。
風は止んでいない。
軒先に吊るされた風鈴は、昼間と同じように揺れている。
けれど、町はやはり鳴らなかった。
リシアは鈴音亭から役場へ向かう途中、何度もその風鈴を見上げた。水晶、硝子、陶器、薄い金属。形も色も違う風鈴が、まるで自分の役目を忘れてしまったように、ただ沈黙している。
いや、違う。
リシアには、もうその沈黙がただの無音には思えなかった。
鳴らないのではない。
鳴ろうとしているのに、何かに押さえつけられている。
声を出そうとして、喉元を塞がれているエマのように。
リシアの肩で、シルが小さく身じろぎした。
銀色のリスは、いつもなら焼き栗や木の実に夢中になっている時間なのに、今はほとんど食べ物へ意識を向けていない。大きな尻尾を膨らませ、町の水路の方を警戒するように見つめている。
「シル」
リシアは小声で呼んだ。
「やっぱり、水路の下が気になる?」
シルは、ちい、と短く鳴いた。
いつもの気楽な返事ではない。
それは、警告に近かった。
「うん。私も」
リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。
中には、沈黙の断章と記された白紙のページがある。まだ歌詞は刻まれていない。ただ、青い細線と、一音だけ返った風鈴の余韻が残っている。
エマは、まだ声を取り戻していない。
けれど、彼女は筆談板に書いた。
『おとうさんが、ころされた』
『かねのした』
ハルクは事故死ではなかった。
エマは何かを見ている。
そして、水路の下には、黒い鐘に関わる何かがある。
リシアは役場の前で足を止めた。
水鈴町エルネの役場は、中央水路に面した二階建ての建物だった。白い壁に青い屋根。町の他の建物より少し大きく、入口の上には町の紋章が掲げられている。
水滴を模した輪の中に、小さな鈴。
本来なら、涼やかな音を思わせる紋章だった。
だが今は、その鈴まで沈黙を背負っているように見えた。
入口には、鈴音亭の女将が待っていた。
「来たね」
「お待たせしました」
「いいや。まだ始まっていないよ。町長が関係者を集めている」
「関係者、ですか」
「町長、役人、警備隊長、職人組合の代表。それから、ハルクの弟子だったユアンも来ている」
リシアは昼間に青い風鈴を渡してくれた若い職人を思い出した。
「ユアンさんも」
「ハルクのことを一番近くで見ていた職人だからね。ただ、あの子は気が強い。町長とぶつからなければいいけど」
女将はそう言ってから、リシアの肩のシルを見た。
「その子も入るのかい」
「駄目ですか?」
「いいや。今さらリス一匹に驚く町でもないさ」
シルは胸を張った。
「シル、偉そうにしない」
リシアが言うと、シルは不満そうに尻尾を揺らした。
女将は少しだけ笑った。
その笑顔は疲れていたが、朝よりは柔らかい。
「行こうか」
役場の会議室には、すでに十人ほどが集まっていた。
中央には長い木の机があり、その周りに町の有力者らしき大人たちが座っている。壁には古い地図が貼られ、棚には町の記録らしき分厚い帳面が並んでいた。
部屋の窓辺にも風鈴が吊られている。
青い硝子で作られた、立派なものだ。
だが、ここでも音は鳴らない。
リシアが入ると、会議室の視線が一斉に集まった。
町長オルヴェンは、上座に座っていた。濃紺の上着をきっちり着込み、杖を椅子の横に置いている。昼間より少し顔色が悪いが、その目にはまだ町長としての矜持があった。
その隣には、がっしりした体格の男がいる。短く刈った灰色の髪、鋭い目。腰には剣ではなく、警棒に近い短い鉄杖を下げていた。
警備隊長だろう。
反対側には、白髪の職人らしき老人と、昼間の若い職人ユアンが座っている。ユアンはリシアを見ると、小さく頷いた。
「旅の歌魔術師リシアさん」
町長が口を開いた。
「来ていただき感謝する」
「こちらこそ、話し合いの場を作ってくださりありがとうございます」
リシアは丁寧に頭を下げた。
町長の視線が、肩のシルに移る。
「……そのリスも同席するのかね」
「はい。相棒ですので」
シルは当たり前だと言うように胸を張る。
会議室の何人かが、ほんの少しだけ表情を緩めた。
だが、空気はすぐに重く戻る。
町長は咳払いをした。
「では、始めよう。昨夜と本日、中央水路から黒い鐘のような音が確認された。また、ハルクの遺児であるエマが、父親の死について事故ではない可能性を示す筆談を行った」
その言い方に、ユアンが机を叩いた。
「可能性じゃないでしょう。エマは書いたんです。ハルクさんは殺されたって」
「落ち着きなさい、ユアン」
「落ち着けるわけがない。ハルクさんは事故死だと言われて、皆それを信じようとしてきた。でも本当は違ったかもしれない。しかも町長、あなたは何か知っているんじゃないですか」
会議室の空気が鋭くなる。
町長の眉が動いた。
「言葉を慎め」
「慎んできた結果がこれでしょう!」
ユアンの声は震えていた。
「ハルクさんが死んで、エマは声を失って、町の風鈴は鳴らなくなった。それでも僕たちは、町長が事故だと言うから黙っていた。外に悪い噂が出れば、町が困るからって。でも、もう無理です」
「ユアン」
白髪の職人老人が低く諫めた。
「気持ちは分かるが、今は怒鳴る場ではない」
「師匠は悔しくないんですか」
「悔しくないわけがあるか」
老人の声もまた、静かに震えていた。
「だが、怒りだけで鳴らせる風鈴はない」
その言葉に、ユアンは唇を噛んで黙った。
リシアは二人の心歌を聞いた。
ユアンの中には、焦げるような怒りがあった。
『なぜ誰も動かなかった』
『ハルクさんは僕に音を教えてくれた』
『エマを一人にした』
『今度こそ黙らない』
老人の心歌は、もっと沈んでいた。
『ハルク』
『お前が聞いた黒い音を、俺たちは笑った』
『止めるべきだった』
『弟子を守れなかった』
ここにも後悔がある。
ラグナの炉とは違う。
けれど、失われた人の周りには、必ず言葉にならなかった後悔が残る。
リシアは胸が痛むのを感じながら、黙って聞いた。
町長は机の上で手を組んだ。
「私が知っていることを話す。その前に、誤解のないよう言っておく。私はハルクを殺していない」
ユアンが何か言いかけたが、老人が手で制した。
「続けてください、町長」
「ハルクの死は、少なくとも私が知る限り、事故として処理された。水路に落ちて亡くなった。遺体には争った痕もなかった。そう報告を受けている」
町長の心歌に、かすかな濁りが混じった。
『報告はそうだった』
『だが、あの夜の鐘』
『ハルクは何を見つけた』
『私は止められたのか』
リシアは眉を寄せる。
町長は嘘をついているというより、語っていない部分がある。
「では、水路の下について話してください」
リシアが言うと、町長はゆっくり視線を向けた。
「あなたは、旅人でありながら踏み込みますな」
「踏み込まなければ、エマさんにばかり重荷が向かいます」
「……そうだな」
町長は小さく息を吐いた。
「水鈴町エルネの水路には、古い排水路がある。町が今の形になるより前、山からの水を逃がすために掘られた地下の通路だ。普段は使われていないが、大雨の時などには今も水が流れ込むことがある」
「そこが、鐘の下ですか」
「おそらくな」
町長は壁の地図へ目を向けた。
警備隊長が立ち上がり、地図の一部を指した。
「中央水路の下に、旧排水路の入り口がある。だが戦争中に封鎖した」
「老朽化が理由だと聞きました」
リシアが言うと、警備隊長は町長を見た。
町長は少し沈黙してから答える。
「表向きはそうだ」
会議室の空気が変わった。
ユアンが低く言う。
「表向き?」
「戦争中、この町は風鈴だけを作っていたわけではない」
町長の声は硬かった。
「警鐘を作った。魔物襲撃を知らせるための鐘。避難を促すための鈴。国境の砦へ送る合図鐘。王国からの要請だった」
リシアは女将から聞いた話を思い出す。
風鈴は人を脅かすための音ではない。
ハルクはそう言っていた。
「それ自体は、必要なことだったのではありませんか」
リシアは尋ねた。
「戦争中、危険を知らせる音は多くの人を救ったはずです」
「そうだ」
町長は頷いた。
「警鐘によって助かった村もある。逃げる時間を得た人々もいる。私たちは町を守るため、王国を支えるために作った。そこに後悔はない」
けれど、その心歌には後悔があった。
『本当に、後悔はないのか』
『あの音は、人を助けた』
『だが、人を動かしすぎた』
『逃げろという音が、時に戦えという音に変わった』
リシアは胸元の徽章に触れた。
進軍詩と似ている。
人を守るための歌。
しかし、その歌が誰かを死地へ向かわせることもある。
警鐘も同じだったのかもしれない。
危険を知らせる音。
けれど、使い方によっては人を恐怖で動かす音にもなる。
「その後、何が起きたんですか」
リシアが促すと、町長はさらに重い声になった。
「終戦間際、王国軍の一部から特殊な警鐘の依頼があった」
白髪の職人老人が目を伏せた。
ユアンは知らなかったらしく、眉をひそめる。
「特殊な警鐘?」
「魔物だけでなく、人間にも強い危機感を与える音を出す鐘だ。音を聞いた者が即座に避難するように、恐怖を刺激する音域を使う」
リシアの背筋が冷えた。
「人の感情に干渉する鐘、ということですか」
「そこまで大げさなものではない」
町長はそう言ったが、言葉は弱かった。
警備隊長が苦い顔で続ける。
「実際には、近かった。試作鐘を鳴らした時、聞いた者の多くが強い不安を訴えた。中には泣き出す者や、我先に出口へ走る者もいた」
「そんなものを作ったんですか」
ユアンが掠れた声で言った。
町長は目を伏せる。
「戦争中だった」
「それで何でも許されるんですか」
「許されるとは言っていない」
町長の声に、初めて疲労が滲んだ。
「だが当時、国境の村々は魔物の襲撃を受けていた。警告が遅れれば、村が全滅する。ならば、誰もが必ず反応する鐘が必要だと考えた」
リシアは唇を引き結んだ。
理解はできる。
同意はできない。
その狭間にある痛みが、この町を縛っている。
「ハルクさんは反対したのですね」
リシアが言うと、部屋の全員が静かになった。
町長は頷いた。
「ハルクは最後まで反対した。風鈴の町が、人の心を脅かす音を作るべきではないと。警鐘は危険を知らせるための音であって、恐怖を植えつける音ではないと」
老人職人が目を閉じた。
「ハルクらしい」
「しかし、王国からの要請を断ることは難しかった。町も戦争で困窮していた。警鐘の注文がなければ、職人たちの生活も守れなかった」
町長の言葉は、言い訳にも聞こえた。
しかし同時に、町を預かる者としての現実でもあった。
リシアは何も言わなかった。
ここで善悪を簡単に決めてしまえば、何も聞けなくなる。
「その特殊な警鐘は完成したんですか」
「完全にはな」
町長は地図の地下部分を指した。
「試作鐘は旧排水路の奥に保管された。外へ出せば危険だからだ。終戦後、正式に破棄する予定だった」
「予定だった、ということは」
「鐘が消えた」
ユアンが立ち上がった。
「消えた?」
「終戦後の混乱の中、地下に保管していた試作鐘の一つが行方不明になった。関係者の誰かが持ち出したのか、廃棄したのか、分からないままだ」
リシアの歌詞帳が、腰のポーチの中でかすかに震えた。
黒い鐘。
水路の下から響く音。
消えた試作鐘。
それが今、黒譜術によって変質しているのだろうか。
「ハルクさんは、その鐘を探していたんですね」
リシアが言うと、町長は苦しげに頷いた。
「死ぬ少し前、ハルクは旧排水路の封鎖を解くべきだと言っていた。水路の下から、あの試作鐘に似た音がすると」
「似た音?」
「我々には聞こえなかった。だから、ハルクが疲れているのだと思った」
老人職人が拳を握った。
「俺もそう言った。お前は音に敏感すぎる、休めと。あいつは真剣だったのに」
会議室に沈黙が落ちる。
ハルクは、誰にも信じてもらえなかった。
エマもまた、声を失い、誰にも聞いてもらえなかった。
父娘は同じ沈黙に閉じ込められていたのだ。
リシアは静かに尋ねた。
「ハルクさんが作っていた鳴らない風鈴については、知っていましたか」
町長は眉を寄せた。
「鳴らない風鈴?」
老人職人が顔を上げる。
「まさか、あれを完成させていたのか」
「ご存じなんですか」
「聞いたことはある。ハルクが言っていた。鐘の音を鳴らすのではなく、鐘が奪った音を聞くための風鈴を作ると」
ユアンが呆然と呟く。
「先生は、そんなものを……」
老人は続けた。
「風鈴は、風を受けて鳴る。だがハルクは、逆を考えた。鳴らない場所にある沈黙の形を聞く風鈴。音がないことを、音として捉える道具だ」
リシアはエマの言葉を思い出す。
『ならないおとをきくためのもの』
ハルクは黒い鐘の正体を探るために、鳴らない風鈴を作った。
そして、おそらくそれを使って、水路の下へ向かった。
その夜、死んだ。
「旧排水路へ入る必要があります」
リシアは言った。
会議室の視線が集まる。
警備隊長が首を横に振った。
「危険だ。崩落の恐れもある。水も流れている。さらに、その黒い鐘とやらがあるなら、なおさらだ」
「でも、そこに原因があります」
「旅人を危険な場所へ入れるわけにはいかない」
「私が行きます」
ユアンが言った。
老人職人が怒鳴る。
「馬鹿を言うな!」
「ハルクさんの弟子です。僕が行くべきです」
「お前が行ってどうなる。地下水路の知識もない。黒い鐘を聞けば、どうなるか分からんのだぞ」
「だからって、このまま何もしないんですか!」
また怒りが広がりかける。
リシアは息を吸った。
ここで強く言うだけでは、皆の恐怖を煽る。
静かに、だが確かに届くように。
「一人で行くのは危険です」
リシアは言った。
「でも、誰も行かないままでは、何も変わりません」
警備隊長が腕を組む。
「なら、町の警備隊が調べる。あなたは待っていればいい」
「黒譜術の影響があるなら、普通の警備隊だけでは危険です。音で恐怖を煽られたり、心を乱されたりする可能性があります」
「歌術師なら耐えられると?」
「耐えられる保証はありません」
リシアは正直に答えた。
警備隊長が眉をひそめる。
「ならば、なぜ行く」
「聞こえるからです」
リシアは胸元に手を添えた。
「私は心歌や残響歌を聞き取ることができます。完全ではありません。間違えることもあります。でも、地下に残ったハルクさんの想いや、黒い鐘の音の歪みを拾える可能性があります」
町長が静かに言う。
「あなたは、この町のためにそこまで危険を負う理由があるのか」
リシアは少しだけ考えた。
理由。
人を救いたいから。
歌魔術師だから。
旅の途中で出会ったから。
どれも間違いではない。
けれど、それだけでは足りない気がした。
「エマさんが、一音だけ聞けたからです」
リシアは答えた。
会議室が静まる。
「今日、エマさんは風鈴の音を一音だけ聞きました。声はまだ戻っていません。町の風鈴もほとんど鳴りません。でも、完全な沈黙ではなくなった」
リシアは顔を上げる。
「その一音を、消したくありません」
シルが肩の上で小さく鳴いた。
ちい。
その声は、不思議と会議室の空気を少しだけ和らげた。
町長は長く黙った。
やがて、警備隊長へ視線を向ける。
「ベイル。旧排水路の入口を開けられるか」
警備隊長ベイルは渋い顔をした。
「開けるだけならできます。ただ、入るなら人数は絞るべきです。狭い。多人数で入れば、何かあった時に身動きが取れない」
「誰が行く」
ベイルはリシアを見た。
「私。リシアさん。道を知る者として水路番の老人を一人」
「僕も行きます」
ユアンが言った。
ベイルは即座に首を振る。
「足手まといだ」
「ハルクさんの鳴らない風鈴が関わっているなら、職人の目が必要です。あれが何なのか、僕なら少しは分かるかもしれない」
「感情で動くな」
「感情だけじゃありません」
ユアンは悔しそうに拳を握る。
「僕はハルクさんから、音の調整を学びました。風鈴の舌の形、硝子の厚み、吊るし紐の張り。鳴らない風鈴が普通の風鈴とどう違うのか、警備隊の人よりは分かる」
老人職人が苦い顔をしながらも頷いた。
「悔しいが、その通りだ。俺が行ければいいが、この足では地下は無理だ。職人を一人入れるなら、ユアンしかいない」
ベイルは不満そうだったが、町長を見る。
町長はしばらく考え、頷いた。
「よかろう。ただし、ベイルの指示には従うこと」
「分かっています」
「リシアさん」
町長はリシアを見る。
「あなたにも同じことをお願いする。無理に歌わないでほしい」
その言葉に、リシアは少し驚いた。
「なぜですか」
「今日、あなたがエマの言葉を守るために歌った時、喉を痛めていた。私は見ていた」
町長の声は苦かった。
「町のためにあなたを使い潰すつもりはない。私は、これ以上この町で誰かの声を奪いたくない」
それは、町長自身の後悔から出た言葉だった。
リシアは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。無理に歌わないよう、気をつけます」
シルがリシアの頬を尻尾で叩いた。
「シルも気をつけろって言ってるね」
ユアンが小さく笑った。
張り詰めた空気の中、その笑いは一瞬だけ救いになった。
だが、次の鐘の音が鳴れば、そんな余裕はすぐに消えるだろう。
探索は、夜半を待たずに行われることになった。
黒い鐘が夜に強まるなら、日没直後の今がまだましだという判断だった。
リシアたちは役場の裏手から中央水路へ向かった。
同行するのは四人。
リシア。
警備隊長ベイル。
若い職人ユアン。
そして、水路番の老人ロシュ。
ロシュは小柄で痩せた老人だったが、目は鋭く、足取りも意外なほどしっかりしている。若い頃から水路の管理をしており、旧排水路の入口を知る数少ない人物だという。
シルは当然のようにリシアの肩にいた。
ベイルがそれを見て、何度目かのため息をついた。
「本当に連れていくのか」
「離れようとしないので」
シルはベイルを見て、得意げに鳴いた。
「鳴かれてもな。地下で騒ぐなよ」
シルは目を細めた。
言われなくても分かっている、という顔だった。
ユアンが小声で言う。
「賢いですね」
「賢い時は賢いです」
「賢くない時もあるんですか」
「食べ物がある時は、少し判断が甘くなります」
シルが不満そうに尻尾を揺らす。
リシアは微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。
中央水路には、町人たちが集まりかけていた。
町長が人払いをしてくれているが、それでも遠巻きに見守る者がいる。皆、不安そうだった。
エマの姿はない。
マルタが工房で見ているのだろう。
リシアは少しだけ安心した。
今のエマをここへ連れてくるべきではない。
ただ、水路の方へ近づいた瞬間、リシアの胸の奥に細い痛みが走った。
エマの心歌は聞こえない。
けれど、彼女の書いた言葉がここに残響として沈んでいる気がした。
『かねのした』
その言葉に導かれるように、リシアたちは水路沿いの石段を下りた。
水路の壁面には、古い鉄格子があった。
普段は水面下に半分隠れているらしい。ロシュ老人が膝をつき、苔むした留め具を外していく。金属は錆びつき、何度も軋んだ。
「本当に開ける日が来るとは思わなかった」
ロシュ老人が呟く。
「最後に開けたのはいつですか」
リシアが尋ねる。
「戦争が終わる少し前だ。あの時、町長とハルクもいた」
ユアンが顔を上げる。
「ハルクさんが?」
「ああ。あいつは水路下の音を気にしていた。何度も入ろうとして、町長に止められていた」
ベイルが眉をひそめた。
「その話は初耳だ」
「言わなかったからな」
ロシュは錆びた鍵を回す。
「言えば面倒になると思った。今思えば、それが悪かった」
鍵が外れた。
鉄格子が重い音を立てて開く。
中から、冷たい空気が流れ出した。
水と苔と、古い鉄の匂い。
その奥に、リシアだけが感じ取れる黒い音の気配がある。
シルの体が硬くなった。
「行きましょう」
リシアが言うと、ベイルが先頭に立った。
「順番は私、ロシュ、リシアさん、ユアン。リスは……まあ、肩から落ちるなよ」
シルは尻尾を揺らした。
旧排水路の中は狭かった。
人が二人並んで歩くのがやっとの幅だ。天井は低く、背の高いベイルは時折身をかがめる必要があった。足元には浅く水が流れている。靴が水を踏むたび、ちゃぷ、ちゃぷ、と湿った音が響いた。
壁は古い石造りで、ところどころに補修跡がある。
ランタンの光が届く範囲は狭い。
その先はすぐに闇へ沈む。
リシアは歩きながら耳を澄ませた。
水音。
足音。
ランタンの金具が揺れる音。
ユアンの緊張した息。
ロシュ老人の慎重な足取り。
ベイルの鉄杖が時折壁に触れる音。
そして。
ごおん。
遠くから、低い鐘の音が響いた。
ユアンが足を止める。
ベイルが振り返った。
「止まるな。音に意識を持っていかれる」
「すみません」
ユアンは顔を青くしている。
リシアも胸の奥が重くなった。
鐘の音は、ただ聞こえるだけではない。
心の奥に沈み込み、恐怖の形を探ってくる。
ラグナの黒い歌が痛みを忘れさせようとしたのなら、この黒い鐘は恐怖を起こそうとしている。
逃げろ。
戻れ。
危険だ。
そういう音を、心の内側へ直接打ち込んでくる。
リシアは唇を噛んだ。
ここで全員に静律結界を張ることはできる。
だが、黒譜術の影響下では消耗が激しい。
まだ奥に何があるか分からない以上、温存するべきだ。
リシアは歌わず、言葉を選んだ。
「皆さん、自分の足音を聞いてください」
ベイルがわずかに目を向ける。
「足音?」
「はい。鐘の音ではなく、自分が今歩いている音を。水を踏む音でも構いません。自分がここにいる音を確かめてください」
ロシュ老人が頷いた。
「なるほどな」
ユアンも慌てて足元を見る。
ちゃぷ。
ちゃぷ。
水を踏む音。
それは頼りない。
けれど、自分のものだ。
鐘の音に呑まれそうになった意識が、少しずつ足元へ戻ってくる。
リシアも自分の足音を聞いた。
自分はここにいる。
水路の下を歩いている。
エマの声を探すために。
歌うためだけではなく、まだ歌わないためにも。
シルが肩の上で、リシアの髪を軽く掴んだ。
「髪は痛いけど、ありがとう」
ちい。
いつもの小さな声が、地下では思ったより心強かった。
しばらく進むと、通路が二手に分かれた。
右は水が多く、奥から冷たい風が流れている。
左は乾いているが、壁に黒い染みのようなものがある。
ロシュ老人が地図を確認する。
「本来なら右だ。中央の排水溜まりへ出る」
リシアは左の通路を見た。
壁の黒い染み。
ただの湿気ではない。
譜面のように、細い線が絡み合っている。
ラグナの炉。
エマの箱。
同じ種類の黒い印。
「左です」
リシアは言った。
ベイルが眉をひそめる。
「地図では行き止まりだ」
「黒譜術の痕跡があります」
ユアンが壁に近づきかける。
「触らないでください」
リシアが止めると、ユアンは慌てて手を引いた。
「これが黒譜術……?」
「はい。歌魔術を妨害する術です。ただ、この町では音そのものを封じたり、歪めたりしているようです」
ベイルは左の通路を睨んだ。
「行き止まりなら、何かを隠すには向いている」
「進みますか」
リシアが尋ねると、ベイルは短く頷いた。
「私が先に行く」
左の通路は、さらに狭かった。
空気が淀み、壁の黒い染みは進むほど濃くなる。風鈴の町の地下だというのに、風の気配がない。水音も遠ざかり、代わりに低い鐘の余韻だけが壁の奥から響いている。
リシアは不意に、残響歌を感じた。
誰かがここを通った。
おそらく、三月前の夜。
ハルクだ。
リシアは足を止めた。
「少し、残響を聞きます」
ベイルが振り返る。
「危険か」
「分かりません。でも、手がかりになるかもしれません」
リシアは壁に触れようとして、ためらった。
黒譜術の染みがある。
触れれば、黒い鐘の恐怖が流れ込む可能性がある。
シルが肩の上で低く鳴いた。
「うん。直接は触らない」
リシアは歌詞帳を開いた。
沈黙の断章のページが、淡く青く光る。
その光を壁へ近づけると、黒い染みの端がわずかに震えた。
リシアは目を閉じる。
深く入りすぎない。
表面だけをなぞる。
そう自分に言い聞かせた。
瞬間、冷たい残響が流れ込んだ。
暗い地下通路。
ランタンを持つ男性の手。
ハルクだ。
彼の足音は落ち着いているが、呼吸は浅い。
背後に小さな気配。
エマ。
幼い少女が、父の後を追ってきている。
『エマ、戻りなさい』
ハルクの声。
優しいが、焦っている。
『ここは危ない。工房で待っていなさい』
エマは首を振る。
声はまだある。
『お父さん、あの音、また鳴ってる。風鈴が苦しそう』
リシアの胸が痛む。
エマは聞いていた。
この町の風鈴が苦しむ音を、父と同じように。
残響は続く。
ハルクは小さな箱を持っている。
あの遺品箱だ。
中には、鳴らない風鈴。
『これで、黒い鐘の場所が分かるかもしれない』
ハルクはそう言った。
『でも、もし音が強すぎたら、お前は耳を塞いで戻るんだ』
『お父さんは?』
『私は、風鈴職人だからね』
彼は笑った。
『鳴ってはいけない音を、放っておくわけにはいかない』
場面が揺れる。
黒い鐘が鳴る。
ごおん。
ハルクの顔が歪む。
エマが泣きそうになる。
鳴らない風鈴が、箱の中で震える。
ちりん。
それは黒い鐘とは違う音だった。
優しく、細く、しかし確かに黒い鐘の位置を示す音。
ハルクが壁を見る。
行き止まりのはずの壁。
そこに、黒い譜面が浮かび上がっている。
『隠し扉……?』
ハルクが呟く。
その瞬間、残響が激しく乱れた。
誰かがいる。
黒い外套。
顔は見えない。
歌でも、鐘でもない、歪んだ低い音が響く。
『その音は、開けてはならない』
男か女か分からない声。
『人は、聞かない方がいい痛みもある』
ハルクが叫ぶ。
『痛みを奪うな! 怖がることも、悲しむことも、人が自分で選ぶための音だ!』
黒い外套の人物が手を上げる。
黒い譜面が広がる。
エマが叫ぶ。
その声が、途中で切れる。
リシアは息を呑んだ。
エマの声が奪われる瞬間。
残響が刃のように胸を刺す。
ハルクがエマを庇う。
鳴らない風鈴が強く光る。
黒い鐘が鳴る。
そして、水の音。
何かが水へ落ちる音。
そこで残響は途切れた。
「リシアさん!」
ユアンの声で、リシアは現実に戻った。
膝をついていた。
いつの間にか息が乱れ、額には冷たい汗が滲んでいる。
シルがリシアの手にしがみついていた。
ベイルが警戒しながら周囲を見ている。
「大丈夫か」
「……はい」
リシアはゆっくり立ち上がった。
「ハルクさんは、ここまで来ています。エマさんも一緒でした」
「エマも……?」
ユアンの顔が青ざめる。
「エマさんは、ここで声を奪われたんだと思います」
その言葉に、全員が沈黙した。
ロシュ老人が小さく呟く。
「あの子は、やはり見ていたのか」
「黒い外套の人物がいました。黒譜術を使っていた可能性が高いです」
ベイルの表情が険しくなる。
「人為的なものか」
「はい」
「つまり、町の誰か、あるいは外部の誰かがハルクを襲った」
「まだ断定はできません。でも、ハルクさんは事故ではありません」
ユアンが拳を震わせた。
「誰が……」
リシアは首を横に振った。
「顔は見えませんでした。ただ、その人物はこう言いました」
リシアは、残響で聞いた声を思い出す。
「その音は、開けてはならない。人は、聞かない方がいい痛みもある、と」
会議室での町長の言葉とは違う。
ガルドが炉で聞いた黒い歌にも似ている。
痛みを忘れさせようとする思想。
恐怖を制御しようとする音。
歌や音を、人の選択から切り離そうとする力。
黒譜の民。
その名前が、リシアの胸の中で再び浮かぶ。
シルが低く鳴いた。
まるで、その名を知っているように。
「隠し扉があるはずです」
リシアは壁を見た。
黒い染みの中央。
行き止まりに見える壁の一部に、譜面の線が集まっている。
ベイルが鉄杖で壁を軽く叩いた。
音が違う。
「空洞だ」
ロシュ老人が壁の端を探る。
「古い点検扉かもしれん。地図には載っていないが、昔の水路にはこういう隠し口がある」
ユアンがランタンを近づける。
壁の継ぎ目が見えた。
ロシュ老人が苔の下から小さな金具を見つける。
だが、金具には黒い譜面が絡んでいた。
「触るな」
ベイルが言う。
「これは危険だ」
リシアは歌詞帳を開いた。
沈黙の断章のページが青く光る。
黒い譜面と青い線が、互いに反応するように震えた。
この黒譜術を完全に解くことは、今のリシアにはできない。
だが、一瞬だけ緩めることなら。
「一音返しを試します」
リシアは言った。
ユアンが不安げに見る。
「それは、エマに使うものじゃないんですか」
「まだ完成していません。エマさんに使うには、早すぎます」
「なら、なぜ」
「この扉は、音を封じて閉じられています。なら、一音だけ本来の音を返せば、継ぎ目が開くかもしれません」
ベイルが厳しい顔で言う。
「危険ならやめろ」
「危険です」
「なら」
「でも、ここで引き返せば、エマさんの声を奪った場所を見つけられません」
リシアは深く息を吸った。
無理に歌わないと約束した。
だが、必要な時に歌うことから逃げるのも違う。
問題は、何を歌うか。
強い歌では駄目だ。
黒い譜面を力で押し切れば、反発も強くなる。
必要なのは、一音だけ。
閉じられた扉が、本来持っていた開く音を返すこと。
リシアは目を閉じた。
壁に残る音を探す。
古い金具が動く音。
石扉が開く音。
水路番が点検のために通った日の音。
長い年月の中で、忘れられた音。
それを、黒譜術の下から拾い上げる。
リシアは小さく歌った。
歌というより、息に近い一音。
高くも低くもない。
水滴が石へ落ちるような音。
その一音が、壁の黒い譜面に触れた。
黒い線がざわめく。
リシアの喉に痛みが走った。
しかし、ラグナの時ほどではない。
一音だけだからだ。
シルがリシアの肩で前足を握るように毛を掴んだ。
青い光が、壁の金具へ届く。
かちり。
小さな音がした。
リシアは息を止める。
ロシュ老人が目を見開く。
「開いた」
ベイルが慎重に扉を押した。
石壁の一部が、重い音を立てて奥へ動く。
冷たい空気が流れ出す。
同時に、黒い鐘の音が強くなった。
ごおん。
ユアンが耳を押さえる。
ロシュ老人がよろめく。
ベイルも歯を食いしばった。
リシアの胸の奥に、恐怖が叩き込まれる。
逃げろ。
戻れ。
ここに来てはいけない。
声を出すな。
聞くな。
知るな。
リシアは膝をつきかけた。
その時、シルがリシアの耳元で鋭く鳴いた。
ちいっ!
黒い鐘の音に、銀色の小さな声が割り込む。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬でリシアは息を取り戻した。
「ありがとうございます、シル」
シルは震えていた。
小さな体で、黒い音に耐えている。
リシアはシルをそっと撫でた。
「無理しないで」
シルは不満そうに鳴いた。
まるで、それはお互い様だと言うように。
隠し扉の奥には、小さな空間があった。
古い点検室だろう。
天井は低く、壁には錆びた工具や朽ちた木箱が置かれている。中央には、石で組まれた台座があった。
その上に、黒い鐘が置かれていた。
大きくはない。
両手で抱えられるほどの鐘だ。
だが、その存在感は異様だった。
表面は黒ずみ、普通の金属とは違う艶を持っている。鐘の胴には譜面のような線が刻まれ、そこから黒い靄がゆっくり立ち上っていた。
そして、鐘の周囲には風鈴がいくつも吊るされていた。
割れた風鈴。
紐の切れた風鈴。
音を失った風鈴。
それらが黒い鐘を囲むように、天井から下がっている。
ユアンが掠れた声で言った。
「これは……」
彼は一つの風鈴へ近づいた。
青い硝子。
ひび割れているが、形は美しい。
「ハルクさんの作り方だ。間違いない」
リシアは台座の横に目を向けた。
そこに、小さな金属片が落ちていた。
風鈴の舌だ。
鳴るために必要な、内側の小さな部品。
だが、それは真っ二つに割れている。
リシアが近づこうとした瞬間、黒い鐘が鳴った。
ごおん。
強い。
リシアの視界が揺れる。
心の奥に、過去の恐怖が流れ込む。
王都の広場。
進軍詩を求める声。
片腕の兵士の震え。
アイシャの笑顔。
『リシアの歌を聞くとさ、怖いのに、怖くないって思える』
やめて。
今それを見せないで。
リシアは胸を押さえた。
黒い鐘は、人の恐怖を探り当てる。
そして、その恐怖を音として増幅する。
ユアンも膝をついた。
「やめろ……」
彼の心歌が乱れる。
『ハルクさん』
『僕は何もできなかった』
『エマを守れなかった』
ロシュ老人は壁にもたれ、目を閉じている。
ベイルは鉄杖を握りしめ、必死に耐えていた。
このままでは全員が呑まれる。
リシアは歌うべきか迷った。
静律結界なら、恐怖に一呼吸の空白を作れる。
しかし黒い鐘の中心で歌えば、反発は大きい。
喉が耐えられるか分からない。
それでも、ここで倒れるわけにはいかない。
リシアは息を吸った。
その時、シルが肩から飛び降りた。
「シル!」
シルは黒い鐘へ向かったのではない。
床に落ちた割れた風鈴の舌へ走った。
小さな前足で、それを必死に押す。
ちり、とも鳴らない。
割れた部品だ。
音など出るはずがない。
だが、その姿を見た瞬間、リシアは気付いた。
黒い鐘を止めるのは、黒い鐘に対抗する強い歌ではない。
奪われた音を返すこと。
ハルクが作った鳴らない風鈴は、そのためのものだった。
リシアはユアンへ声をかけた。
「ユアンさん!」
ユアンが顔を上げる。
「ハルクさんの風鈴は、どれですか!」
「え……?」
「この中に、黒い鐘を探すための風鈴があるはずです!」
ユアンは必死に周囲を見た。
黒い鐘の音に震えながら、職人としての目を働かせる。
「たぶん……あれです」
彼が指したのは、台座の奥に吊るされた小さな風鈴だった。
透明ではない。
乳白色の硝子に、青い線が細く入っている。
他の風鈴と違い、短冊がない。
中の舌も見えない。
本当に、鳴るための形をしていない風鈴。
リシアはそれへ近づいた。
黒い鐘がまた鳴る。
ごおん。
足が止まりそうになる。
恐怖が胸を締めつける。
『歌うな』
『また誰かを傷つける』
『声を奪われる』
『アイシャも帰ってこない』
リシアは歯を食いしばった。
怖い。
怖いに決まっている。
でも、怖いまま進むことはできる。
ラグナでトマにそう歌った。
エマに、そう言った。
なら、自分もそうしなければならない。
リシアは鳴らない風鈴へ手を伸ばした。
触れた瞬間、残響が流れ込んだ。
ハルクの手。
硝子を削る音。
息を詰めて音を探る横顔。
『鳴らない音にも、形はある』
ハルクの声が聞こえる。
『声にならない声にも、揺れはある』
隣にはエマがいる。
まだ声を失う前のエマだ。
『お父さん、この風鈴、本当に鳴らないの?』
『鳴らない。でも、聞くためにある』
『変なの』
『そうだな。でも、エマ』
ハルクは笑った。
『世界には、鳴らすより先に、聞かなければいけない音があるんだ』
残響が揺れる。
ハルクは鳴らない風鈴を箱に収める。
『もし私に何かあったら、これを無理に鳴らしてはいけない。まず、沈黙を聞け』
その言葉を最後に、残響が薄れる。
リシアは現実に戻った。
手の中には、鳴らない風鈴。
軽い。
けれど、確かに何かを抱えている。
黒い鐘が唸る。
ベイルが叫んだ。
「長居は無理だ!」
旧排水路そのものが震え始めていた。
天井から砂が落ちる。
水路の奥で水位が変わる音がした。
ロシュ老人が顔を上げる。
「まずい。上流の水門が開いている。水が来るぞ!」
「誰が開けたんですか!」
ユアンが叫ぶ。
「知らん! だが、この時間に開くはずがない!」
リシアは黒い鐘を見る。
鐘の譜面が光っている。
まるで、彼らをここで流し去ろうとしているように。
黒譜術が、水門に干渉したのか。
あるいは、誰かが外から開けたのか。
考えている暇はない。
ベイルが即断した。
「撤退する!」
「でも鐘は!」
ユアンが叫ぶ。
「今は持ち出せん! 死にたいのか!」
リシアは鳴らない風鈴を抱えた。
「これだけは持っていきます」
「急げ!」
水の音が近づく。
ごう、と低い響き。
リシアたちは来た道を走った。
足元の水が急に冷たく増えていく。最初は足首ほどだった水位が、すぐに脛まで上がった。
黒い鐘が背後で鳴る。
ごおん。
そのたびに足が重くなる。
恐怖が心に打ち込まれる。
逃げられない。
沈め。
声を出すな。
リシアは鳴らない風鈴を胸に抱きしめた。
歌ってはいけない。
今歌えば、走る息が乱れる。
でも、何もしなければ鐘に足を止められる。
リシアは歌ではなく、短く声を出した。
「足音を聞いて!」
ベイルが前を走りながら叫ぶ。
「水音に飲まれるな!」
ユアンも必死に頷く。
ちゃぷ。
ばしゃ。
ごう。
足音と水音が混ざる。
だが、自分の足がまだ動いていることだけを確かめる。
ロシュ老人が滑った。
「ロシュさん!」
ユアンが手を伸ばすが、届かない。
ベイルが引き返そうとする。
その瞬間、シルがリシアの肩から飛び出した。
ロシュ老人の外套に飛びつき、必死に引っ張る。
もちろん、リスの力で老人を引き上げることはできない。
けれど、シルの動きで位置が分かった。
ベイルが水を蹴って戻り、ロシュ老人の腕を掴む。
「立て!」
「すまん!」
リシアも駆け寄り、反対側から支えた。
鳴らない風鈴を抱えた腕が濡れる。
風鈴が微かに震えた。
音はしない。
しかし、リシアの胸の中に一つの感覚が流れ込む。
右。
右の壁に、別の水路口。
リシアは顔を上げた。
「右に逃げ道があります!」
ロシュ老人が目を見開く。
「古い点検口か!」
ベイルが叫ぶ。
「どこだ!」
「三歩先、右の壁!」
リシアには見えない。
だが、鳴らない風鈴が示している。
音のない揺れで。
ベイルが壁を探り、手をかける。
そこには小さな鉄扉があった。
錆びているが、黒譜術はかかっていない。
「開くぞ!」
鉄扉が軋みながら開く。
水が一気に流れ込みかける前に、全員がその中へ滑り込んだ。
狭い階段。
上へ続いている。
背後で水が本流を走り抜ける音が響いた。
間一髪だった。
リシアは階段の途中で膝をついた。
息が切れている。
腕の中の鳴らない風鈴は濡れていたが、割れてはいない。
シルがリシアの肩へ戻ってきた。
びしょ濡れで、毛がぺたんとしている。
普段のふわふわした姿とは違い、少し細く見えた。
「シル……」
リシアは思わず笑いそうになり、すぐに堪えた。
「ごめん。でも、助かったよ」
シルは不満そうに鳴いた。
たぶん、笑いかけたことに気付いたのだ。
ユアンが壁にもたれて息を吐く。
「死ぬかと思った……」
ベイルが水の流れる音を聞きながら言う。
「誰かが水門を開けた可能性がある」
ロシュ老人が震える声で答えた。
「上流の水門は役場の管理だ。勝手には開かん」
「なら、町の中に協力者がいるかもしれない」
その言葉に、全員が黙った。
黒い外套の人物。
黒譜術。
水門の開閉。
外部の者だけでは難しい。
エルネの中に、黒譜の民と繋がる者がいるのかもしれない。
リシアは鳴らない風鈴を見つめた。
ハルクが遺したもの。
沈黙を聞くための風鈴。
これがあれば、エマの声を奪った黒譜術に近づけるかもしれない。
だが、同時に危険でもある。
箱から出したことで、黒い鐘も動き始めるだろう。
「戻りましょう」
リシアは言った。
「エマさんに、これを見せる必要があります」
ユアンが不安げに言う。
「大丈夫でしょうか。エマは、箱を開けるのを怖がっていた」
「無理には見せません」
リシアは風鈴を抱え直した。
「でも、これはハルクさんがエマさんに残したものです。彼女自身が、向き合うかどうかを選ぶべきです」
ベイルは頷いた。
「まずは地上へ出る。町長に報告するぞ」
階段を上がると、地上の空気が流れ込んできた。
出た場所は、町の西側にある古い水車小屋の裏だった。使われなくなった小屋で、周囲には背の高い草が生えている。空はすっかり夜になっていた。
遠くで町人たちの声が聞こえる。
水門が開いたことで、中央水路の水位が上がったのだろう。
町は騒ぎになっている。
リシアたちは濡れたまま水車小屋を出た。
その時、町の方から風が吹いた。
軒先の風鈴が一斉に揺れる。
音は鳴らない。
けれど、リシアの腕の中の鳴らない風鈴だけが、小さく震えた。
音はない。
それなのに、リシアには聞こえた気がした。
『エマ』
ハルクの声。
あるいは、残響。
リシアは風鈴を強く抱きしめる。
その時、水車小屋の影から、誰かの声がした。
「それを持ち出してしまったのですね」
全員が振り返った。
夜の闇の中に、人影が立っていた。
黒い外套。
顔はフードに隠れて見えない。
リシアの背筋に冷たいものが走る。
残響で見た人物。
ハルクの前に現れ、エマの声を奪った者。
ベイルが鉄杖を構える。
「誰だ」
黒い外套の人物は答えなかった。
代わりに、リシアを見た。
顔は見えない。
けれど、視線を感じる。
「歌魔術師リシア」
その声は、男とも女ともつかない。
低く、静かで、黒い譜面のように歪んでいた。
「火の断章に続き、沈黙の断章にも触れるつもりですか」
リシアの心臓が跳ねた。
火の断章。
ラグナで得た歌詞。
この人物は知っている。
リシアの旅を。
歌詞帳を。
星詠みの歌へ繋がる断章を。
「あなたは……黒譜の民ですか」
リシアが問いかけると、黒い外套の人物はわずかに首を傾けた。
「そう呼ぶ者もいます」
シルが肩の上で強く威嚇した。
黒い外套の人物は、シルへ一瞬だけ視線を向ける。
「まだ、その姿でいるのですね」
リシアは息を呑む。
「シルを知っているんですか」
返事はない。
代わりに、黒い外套の人物は言った。
「その風鈴をエマに渡せば、あの子は思い出す。父の死を。自分の叫びを。声を奪われた瞬間を」
「だから、渡すなと?」
「痛みを知らないまま生きることも、救いです」
リシアの胸に怒りが灯った。
「それを決めるのは、あなたではありません」
「では、あなたが決めるのですか」
「いいえ」
リシアは鳴らない風鈴を抱えたまま、まっすぐ立った。
「エマさんが決めます」
黒い外套の人物は沈黙した。
その周囲に、黒い譜面が淡く浮かび上がる。
ベイルが前に出る。
「逃がすな!」
しかし次の瞬間、黒い外套の人物の足元から音のない波紋が広がった。
風鈴が揺れる。
音はない。
ベイルの足が一瞬止まる。
ユアンも、ロシュ老人も動けない。
リシアは歌おうとした。
だが、黒い外套の人物は静かに首を横に振った。
「今はまだ、その歌では届きません。あなたは、沈黙の痛みを知らない」
「……」
「エマの声を返したいなら、まず知りなさい。声がある者の優しさが、声なき者をどれほど追い詰めるかを」
その言葉は、リシアの胸を深く刺した。
反論しようとした。
けれど、すぐに言葉が出なかった。
リシアは今日、エマを守ろうとした。
しかし、守るつもりで彼女に前へ出る機会を作ったのも事実だ。
エマが自分で書いたとはいえ、その場は大人たちに囲まれていた。
怖かったはずだ。
リシアの善意は、本当に彼女のためだけだったのか。
町を動かすために、エマの言葉を必要としてしまったのではないか。
その迷いを見透かしたように、黒い外套の人物は言った。
「あなたの歌は優しい。だから危うい」
リシアの脳裏に、どこかで聞いたような言葉がよぎった。
優しすぎる歌。
誰かが、いつかそう言った気がした。
だが思い出す前に、黒い外套の人物の姿が霧のように薄れていく。
「待って!」
リシアは叫んだ。
「あなたは誰ですか!」
返事はなかった。
ただ、最後に一言だけ残る。
「星詠みの歌を、完成させてはいけない」
黒い外套の人物は消えた。
夜風が吹く。
風鈴が揺れる。
音は鳴らない。
ベイルが周囲を見回し、舌打ちした。
「逃げられたか」
ユアンは青ざめた顔で呟く。
「今のが、ハルクさんを……」
ロシュ老人は膝をつき、震えていた。
リシアはその場に立ち尽くしていた。
腕の中には、鳴らない風鈴。
肩には、毛を逆立てたシル。
そして胸の中には、黒い外套の人物が残した言葉が沈んでいる。
『声がある者の優しさが、声なき者をどれほど追い詰めるか』
リシアは拳を握った。
痛い。
けれど、目を逸らしてはいけない。
黒譜の民は間違っている。
人の声を奪い、痛みを封じ、恐怖を操る術は許せない。
だが、彼らの言葉のすべてが嘘とは限らない。
だからこそ、恐ろしい。
だからこそ、向き合わなければならない。
リシアは夜の町を見た。
エマの工房のある方角に、小さな灯りが見える。
あの灯りの下で、エマはまだ声を失ったまま待っている。
鳴らない風鈴を、彼女に渡すべきか。
それとも、まだ待つべきか。
リシアには、すぐに答えを出せなかった。
けれど、一つだけ決めた。
今度は、エマの前で迷いも隠さない。
自分が何をできて、何をできないのか。
何が怖いのか。
それを伝えた上で、彼女に選んでもらう。
それが、声を持つリシアにできる最低限の誠実さだと思った。
遠くで、また黒い鐘が鳴った。
ごおん。
水路の下ではなく、町のどこか別の場所から。
黒い音は、少しずつ広がっている。
夜はまだ終わらない。
そして沈黙の断章は、まだ歌になっていなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、水鈴町エルネの水路の下へ踏み込む回でした。
戦争中に作られた、人の恐怖を刺激する黒い鐘。
ハルクが遺した“鳴らない風鈴”。
そして、エマの声を奪った黒い外套の人物。
リシアは真実に近づきましたが、同時に黒譜の民から厳しい言葉を突きつけられます。
『声がある者の優しさが、声なき者をどれほど追い詰めるか』
歌魔術師として、リシアはエマにどう向き合うのか。
次話では、エマ自身が“声”と“沈黙”をどう選ぶのかが描かれていきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




