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声のない少女編 6話 水路の下で鳴る鐘



 夕刻の水鈴町エルネは、青く沈んでいた。


 空にはまだ夕陽の名残がある。西の山並みの向こうで、薄い橙色の光が雲の端を染めていた。けれど町の中を流れる水路には、もう夜の色が落ちている。石橋の下を抜ける水は黒く、家々の窓に灯り始めたランプの光だけが、細く揺れていた。


 風は止んでいない。


 軒先に吊るされた風鈴は、昼間と同じように揺れている。


 けれど、町はやはり鳴らなかった。


 リシアは鈴音亭から役場へ向かう途中、何度もその風鈴を見上げた。水晶、硝子、陶器、薄い金属。形も色も違う風鈴が、まるで自分の役目を忘れてしまったように、ただ沈黙している。


 いや、違う。


 リシアには、もうその沈黙がただの無音には思えなかった。


 鳴らないのではない。


 鳴ろうとしているのに、何かに押さえつけられている。


 声を出そうとして、喉元を塞がれているエマのように。


 リシアの肩で、シルが小さく身じろぎした。


 銀色のリスは、いつもなら焼き栗や木の実に夢中になっている時間なのに、今はほとんど食べ物へ意識を向けていない。大きな尻尾を膨らませ、町の水路の方を警戒するように見つめている。


「シル」


 リシアは小声で呼んだ。


「やっぱり、水路の下が気になる?」


 シルは、ちい、と短く鳴いた。


 いつもの気楽な返事ではない。


 それは、警告に近かった。


「うん。私も」


 リシアは胸元の歌詞帳に手を添えた。


 中には、沈黙の断章と記された白紙のページがある。まだ歌詞は刻まれていない。ただ、青い細線と、一音だけ返った風鈴の余韻が残っている。


 エマは、まだ声を取り戻していない。


 けれど、彼女は筆談板に書いた。


『おとうさんが、ころされた』


『かねのした』


 ハルクは事故死ではなかった。


 エマは何かを見ている。


 そして、水路の下には、黒い鐘に関わる何かがある。


 リシアは役場の前で足を止めた。


 水鈴町エルネの役場は、中央水路に面した二階建ての建物だった。白い壁に青い屋根。町の他の建物より少し大きく、入口の上には町の紋章が掲げられている。


 水滴を模した輪の中に、小さな鈴。


 本来なら、涼やかな音を思わせる紋章だった。


 だが今は、その鈴まで沈黙を背負っているように見えた。


 入口には、鈴音亭の女将が待っていた。


「来たね」


「お待たせしました」


「いいや。まだ始まっていないよ。町長が関係者を集めている」


「関係者、ですか」


「町長、役人、警備隊長、職人組合の代表。それから、ハルクの弟子だったユアンも来ている」


 リシアは昼間に青い風鈴を渡してくれた若い職人を思い出した。


「ユアンさんも」


「ハルクのことを一番近くで見ていた職人だからね。ただ、あの子は気が強い。町長とぶつからなければいいけど」


 女将はそう言ってから、リシアの肩のシルを見た。


「その子も入るのかい」


「駄目ですか?」


「いいや。今さらリス一匹に驚く町でもないさ」


 シルは胸を張った。


「シル、偉そうにしない」


 リシアが言うと、シルは不満そうに尻尾を揺らした。


 女将は少しだけ笑った。


 その笑顔は疲れていたが、朝よりは柔らかい。


「行こうか」


 役場の会議室には、すでに十人ほどが集まっていた。


 中央には長い木の机があり、その周りに町の有力者らしき大人たちが座っている。壁には古い地図が貼られ、棚には町の記録らしき分厚い帳面が並んでいた。


 部屋の窓辺にも風鈴が吊られている。


 青い硝子で作られた、立派なものだ。


 だが、ここでも音は鳴らない。


 リシアが入ると、会議室の視線が一斉に集まった。


 町長オルヴェンは、上座に座っていた。濃紺の上着をきっちり着込み、杖を椅子の横に置いている。昼間より少し顔色が悪いが、その目にはまだ町長としての矜持があった。


 その隣には、がっしりした体格の男がいる。短く刈った灰色の髪、鋭い目。腰には剣ではなく、警棒に近い短い鉄杖を下げていた。


 警備隊長だろう。


 反対側には、白髪の職人らしき老人と、昼間の若い職人ユアンが座っている。ユアンはリシアを見ると、小さく頷いた。


「旅の歌魔術師うたまじゅつしリシアさん」


 町長が口を開いた。


「来ていただき感謝する」


「こちらこそ、話し合いの場を作ってくださりありがとうございます」


 リシアは丁寧に頭を下げた。


 町長の視線が、肩のシルに移る。


「……そのリスも同席するのかね」


「はい。相棒ですので」


 シルは当たり前だと言うように胸を張る。


 会議室の何人かが、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 だが、空気はすぐに重く戻る。


 町長は咳払いをした。


「では、始めよう。昨夜と本日、中央水路から黒い鐘のような音が確認された。また、ハルクの遺児であるエマが、父親の死について事故ではない可能性を示す筆談を行った」


 その言い方に、ユアンが机を叩いた。


「可能性じゃないでしょう。エマは書いたんです。ハルクさんは殺されたって」


「落ち着きなさい、ユアン」


「落ち着けるわけがない。ハルクさんは事故死だと言われて、皆それを信じようとしてきた。でも本当は違ったかもしれない。しかも町長、あなたは何か知っているんじゃないですか」


 会議室の空気が鋭くなる。


 町長の眉が動いた。


「言葉を慎め」


「慎んできた結果がこれでしょう!」


 ユアンの声は震えていた。


「ハルクさんが死んで、エマは声を失って、町の風鈴は鳴らなくなった。それでも僕たちは、町長が事故だと言うから黙っていた。外に悪い噂が出れば、町が困るからって。でも、もう無理です」


「ユアン」


 白髪の職人老人が低く諫めた。


「気持ちは分かるが、今は怒鳴る場ではない」


「師匠は悔しくないんですか」


「悔しくないわけがあるか」


 老人の声もまた、静かに震えていた。


「だが、怒りだけで鳴らせる風鈴はない」


 その言葉に、ユアンは唇を噛んで黙った。


 リシアは二人の心歌を聞いた。


 ユアンの中には、焦げるような怒りがあった。


『なぜ誰も動かなかった』


『ハルクさんは僕に音を教えてくれた』


『エマを一人にした』


『今度こそ黙らない』


 老人の心歌は、もっと沈んでいた。


『ハルク』


『お前が聞いた黒い音を、俺たちは笑った』


『止めるべきだった』


『弟子を守れなかった』


 ここにも後悔がある。


 ラグナの炉とは違う。


 けれど、失われた人の周りには、必ず言葉にならなかった後悔が残る。


 リシアは胸が痛むのを感じながら、黙って聞いた。


 町長は机の上で手を組んだ。


「私が知っていることを話す。その前に、誤解のないよう言っておく。私はハルクを殺していない」


 ユアンが何か言いかけたが、老人が手で制した。


「続けてください、町長」


「ハルクの死は、少なくとも私が知る限り、事故として処理された。水路に落ちて亡くなった。遺体には争った痕もなかった。そう報告を受けている」


 町長の心歌に、かすかな濁りが混じった。


『報告はそうだった』


『だが、あの夜の鐘』


『ハルクは何を見つけた』


『私は止められたのか』


 リシアは眉を寄せる。


 町長は嘘をついているというより、語っていない部分がある。


「では、水路の下について話してください」


 リシアが言うと、町長はゆっくり視線を向けた。


「あなたは、旅人でありながら踏み込みますな」


「踏み込まなければ、エマさんにばかり重荷が向かいます」


「……そうだな」


 町長は小さく息を吐いた。


「水鈴町エルネの水路には、古い排水路がある。町が今の形になるより前、山からの水を逃がすために掘られた地下の通路だ。普段は使われていないが、大雨の時などには今も水が流れ込むことがある」


「そこが、鐘の下ですか」


「おそらくな」


 町長は壁の地図へ目を向けた。


 警備隊長が立ち上がり、地図の一部を指した。


「中央水路の下に、旧排水路の入り口がある。だが戦争中に封鎖した」


「老朽化が理由だと聞きました」


 リシアが言うと、警備隊長は町長を見た。


 町長は少し沈黙してから答える。


「表向きはそうだ」


 会議室の空気が変わった。


 ユアンが低く言う。


「表向き?」


「戦争中、この町は風鈴だけを作っていたわけではない」


 町長の声は硬かった。


「警鐘を作った。魔物襲撃を知らせるための鐘。避難を促すための鈴。国境の砦へ送る合図鐘。王国からの要請だった」


 リシアは女将から聞いた話を思い出す。


 風鈴は人を脅かすための音ではない。


 ハルクはそう言っていた。


「それ自体は、必要なことだったのではありませんか」


 リシアは尋ねた。


「戦争中、危険を知らせる音は多くの人を救ったはずです」


「そうだ」


 町長は頷いた。


「警鐘によって助かった村もある。逃げる時間を得た人々もいる。私たちは町を守るため、王国を支えるために作った。そこに後悔はない」


 けれど、その心歌には後悔があった。


『本当に、後悔はないのか』


『あの音は、人を助けた』


『だが、人を動かしすぎた』


『逃げろという音が、時に戦えという音に変わった』


 リシアは胸元の徽章に触れた。


 進軍詩と似ている。


 人を守るための歌。


 しかし、その歌が誰かを死地へ向かわせることもある。


 警鐘も同じだったのかもしれない。


 危険を知らせる音。


 けれど、使い方によっては人を恐怖で動かす音にもなる。


「その後、何が起きたんですか」


 リシアが促すと、町長はさらに重い声になった。


「終戦間際、王国軍の一部から特殊な警鐘の依頼があった」


 白髪の職人老人が目を伏せた。


 ユアンは知らなかったらしく、眉をひそめる。


「特殊な警鐘?」


「魔物だけでなく、人間にも強い危機感を与える音を出す鐘だ。音を聞いた者が即座に避難するように、恐怖を刺激する音域を使う」


 リシアの背筋が冷えた。


「人の感情に干渉する鐘、ということですか」


「そこまで大げさなものではない」


 町長はそう言ったが、言葉は弱かった。


 警備隊長が苦い顔で続ける。


「実際には、近かった。試作鐘を鳴らした時、聞いた者の多くが強い不安を訴えた。中には泣き出す者や、我先に出口へ走る者もいた」


「そんなものを作ったんですか」


 ユアンが掠れた声で言った。


 町長は目を伏せる。


「戦争中だった」


「それで何でも許されるんですか」


「許されるとは言っていない」


 町長の声に、初めて疲労が滲んだ。


「だが当時、国境の村々は魔物の襲撃を受けていた。警告が遅れれば、村が全滅する。ならば、誰もが必ず反応する鐘が必要だと考えた」


 リシアは唇を引き結んだ。


 理解はできる。


 同意はできない。


 その狭間にある痛みが、この町を縛っている。


「ハルクさんは反対したのですね」


 リシアが言うと、部屋の全員が静かになった。


 町長は頷いた。


「ハルクは最後まで反対した。風鈴の町が、人の心を脅かす音を作るべきではないと。警鐘は危険を知らせるための音であって、恐怖を植えつける音ではないと」


 老人職人が目を閉じた。


「ハルクらしい」


「しかし、王国からの要請を断ることは難しかった。町も戦争で困窮していた。警鐘の注文がなければ、職人たちの生活も守れなかった」


 町長の言葉は、言い訳にも聞こえた。


 しかし同時に、町を預かる者としての現実でもあった。


 リシアは何も言わなかった。


 ここで善悪を簡単に決めてしまえば、何も聞けなくなる。


「その特殊な警鐘は完成したんですか」


「完全にはな」


 町長は地図の地下部分を指した。


「試作鐘は旧排水路の奥に保管された。外へ出せば危険だからだ。終戦後、正式に破棄する予定だった」


「予定だった、ということは」


「鐘が消えた」


 ユアンが立ち上がった。


「消えた?」


「終戦後の混乱の中、地下に保管していた試作鐘の一つが行方不明になった。関係者の誰かが持ち出したのか、廃棄したのか、分からないままだ」


 リシアの歌詞帳が、腰のポーチの中でかすかに震えた。


 黒い鐘。


 水路の下から響く音。


 消えた試作鐘。


 それが今、黒譜術によって変質しているのだろうか。


「ハルクさんは、その鐘を探していたんですね」


 リシアが言うと、町長は苦しげに頷いた。


「死ぬ少し前、ハルクは旧排水路の封鎖を解くべきだと言っていた。水路の下から、あの試作鐘に似た音がすると」


「似た音?」


「我々には聞こえなかった。だから、ハルクが疲れているのだと思った」


 老人職人が拳を握った。


「俺もそう言った。お前は音に敏感すぎる、休めと。あいつは真剣だったのに」


 会議室に沈黙が落ちる。


 ハルクは、誰にも信じてもらえなかった。


 エマもまた、声を失い、誰にも聞いてもらえなかった。


 父娘は同じ沈黙に閉じ込められていたのだ。


 リシアは静かに尋ねた。


「ハルクさんが作っていた鳴らない風鈴については、知っていましたか」


 町長は眉を寄せた。


「鳴らない風鈴?」


 老人職人が顔を上げる。


「まさか、あれを完成させていたのか」


「ご存じなんですか」


「聞いたことはある。ハルクが言っていた。鐘の音を鳴らすのではなく、鐘が奪った音を聞くための風鈴を作ると」


 ユアンが呆然と呟く。


「先生は、そんなものを……」


 老人は続けた。


「風鈴は、風を受けて鳴る。だがハルクは、逆を考えた。鳴らない場所にある沈黙の形を聞く風鈴。音がないことを、音として捉える道具だ」


 リシアはエマの言葉を思い出す。


『ならないおとをきくためのもの』


 ハルクは黒い鐘の正体を探るために、鳴らない風鈴を作った。


 そして、おそらくそれを使って、水路の下へ向かった。


 その夜、死んだ。


「旧排水路へ入る必要があります」


 リシアは言った。


 会議室の視線が集まる。


 警備隊長が首を横に振った。


「危険だ。崩落の恐れもある。水も流れている。さらに、その黒い鐘とやらがあるなら、なおさらだ」


「でも、そこに原因があります」


「旅人を危険な場所へ入れるわけにはいかない」


「私が行きます」


 ユアンが言った。


 老人職人が怒鳴る。


「馬鹿を言うな!」


「ハルクさんの弟子です。僕が行くべきです」


「お前が行ってどうなる。地下水路の知識もない。黒い鐘を聞けば、どうなるか分からんのだぞ」


「だからって、このまま何もしないんですか!」


 また怒りが広がりかける。


 リシアは息を吸った。


 ここで強く言うだけでは、皆の恐怖を煽る。


 静かに、だが確かに届くように。


「一人で行くのは危険です」


 リシアは言った。


「でも、誰も行かないままでは、何も変わりません」


 警備隊長が腕を組む。


「なら、町の警備隊が調べる。あなたは待っていればいい」


黒譜術こくふじゅつの影響があるなら、普通の警備隊だけでは危険です。音で恐怖を煽られたり、心を乱されたりする可能性があります」


歌術師かじゅつしなら耐えられると?」


「耐えられる保証はありません」


 リシアは正直に答えた。


 警備隊長が眉をひそめる。


「ならば、なぜ行く」


「聞こえるからです」


 リシアは胸元に手を添えた。


「私は心歌しんか残響歌ざんきょうかを聞き取ることができます。完全ではありません。間違えることもあります。でも、地下に残ったハルクさんの想いや、黒い鐘の音の歪みを拾える可能性があります」


 町長が静かに言う。


「あなたは、この町のためにそこまで危険を負う理由があるのか」


 リシアは少しだけ考えた。


 理由。


 人を救いたいから。


 歌魔術師だから。


 旅の途中で出会ったから。


 どれも間違いではない。


 けれど、それだけでは足りない気がした。


「エマさんが、一音だけ聞けたからです」


 リシアは答えた。


 会議室が静まる。


「今日、エマさんは風鈴の音を一音だけ聞きました。声はまだ戻っていません。町の風鈴もほとんど鳴りません。でも、完全な沈黙ではなくなった」


 リシアは顔を上げる。


「その一音を、消したくありません」


 シルが肩の上で小さく鳴いた。


 ちい。


 その声は、不思議と会議室の空気を少しだけ和らげた。


 町長は長く黙った。


 やがて、警備隊長へ視線を向ける。


「ベイル。旧排水路の入口を開けられるか」


 警備隊長ベイルは渋い顔をした。


「開けるだけならできます。ただ、入るなら人数は絞るべきです。狭い。多人数で入れば、何かあった時に身動きが取れない」


「誰が行く」


 ベイルはリシアを見た。


「私。リシアさん。道を知る者として水路番の老人を一人」


「僕も行きます」


 ユアンが言った。


 ベイルは即座に首を振る。


「足手まといだ」


「ハルクさんの鳴らない風鈴が関わっているなら、職人の目が必要です。あれが何なのか、僕なら少しは分かるかもしれない」


「感情で動くな」


「感情だけじゃありません」


 ユアンは悔しそうに拳を握る。


「僕はハルクさんから、音の調整を学びました。風鈴の舌の形、硝子の厚み、吊るし紐の張り。鳴らない風鈴が普通の風鈴とどう違うのか、警備隊の人よりは分かる」


 老人職人が苦い顔をしながらも頷いた。


「悔しいが、その通りだ。俺が行ければいいが、この足では地下は無理だ。職人を一人入れるなら、ユアンしかいない」


 ベイルは不満そうだったが、町長を見る。


 町長はしばらく考え、頷いた。


「よかろう。ただし、ベイルの指示には従うこと」


「分かっています」


「リシアさん」


 町長はリシアを見る。


「あなたにも同じことをお願いする。無理に歌わないでほしい」


 その言葉に、リシアは少し驚いた。


「なぜですか」


「今日、あなたがエマの言葉を守るために歌った時、喉を痛めていた。私は見ていた」


 町長の声は苦かった。


「町のためにあなたを使い潰すつもりはない。私は、これ以上この町で誰かの声を奪いたくない」


 それは、町長自身の後悔から出た言葉だった。


 リシアは静かに頭を下げた。


「ありがとうございます。無理に歌わないよう、気をつけます」


 シルがリシアの頬を尻尾で叩いた。


「シルも気をつけろって言ってるね」


 ユアンが小さく笑った。


 張り詰めた空気の中、その笑いは一瞬だけ救いになった。


 だが、次の鐘の音が鳴れば、そんな余裕はすぐに消えるだろう。


 探索は、夜半を待たずに行われることになった。


 黒い鐘が夜に強まるなら、日没直後の今がまだましだという判断だった。


 リシアたちは役場の裏手から中央水路へ向かった。


 同行するのは四人。


 リシア。


 警備隊長ベイル。


 若い職人ユアン。


 そして、水路番の老人ロシュ。


 ロシュは小柄で痩せた老人だったが、目は鋭く、足取りも意外なほどしっかりしている。若い頃から水路の管理をしており、旧排水路の入口を知る数少ない人物だという。


 シルは当然のようにリシアの肩にいた。


 ベイルがそれを見て、何度目かのため息をついた。


「本当に連れていくのか」


「離れようとしないので」


 シルはベイルを見て、得意げに鳴いた。


「鳴かれてもな。地下で騒ぐなよ」


 シルは目を細めた。


 言われなくても分かっている、という顔だった。


 ユアンが小声で言う。


「賢いですね」


「賢い時は賢いです」


「賢くない時もあるんですか」


「食べ物がある時は、少し判断が甘くなります」


 シルが不満そうに尻尾を揺らす。


 リシアは微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。


 中央水路には、町人たちが集まりかけていた。


 町長が人払いをしてくれているが、それでも遠巻きに見守る者がいる。皆、不安そうだった。


 エマの姿はない。


 マルタが工房で見ているのだろう。


 リシアは少しだけ安心した。


 今のエマをここへ連れてくるべきではない。


 ただ、水路の方へ近づいた瞬間、リシアの胸の奥に細い痛みが走った。


 エマの心歌は聞こえない。


 けれど、彼女の書いた言葉がここに残響として沈んでいる気がした。


『かねのした』


 その言葉に導かれるように、リシアたちは水路沿いの石段を下りた。


 水路の壁面には、古い鉄格子があった。


 普段は水面下に半分隠れているらしい。ロシュ老人が膝をつき、苔むした留め具を外していく。金属は錆びつき、何度も軋んだ。


「本当に開ける日が来るとは思わなかった」


 ロシュ老人が呟く。


「最後に開けたのはいつですか」


 リシアが尋ねる。


「戦争が終わる少し前だ。あの時、町長とハルクもいた」


 ユアンが顔を上げる。


「ハルクさんが?」


「ああ。あいつは水路下の音を気にしていた。何度も入ろうとして、町長に止められていた」


 ベイルが眉をひそめた。


「その話は初耳だ」


「言わなかったからな」


 ロシュは錆びた鍵を回す。


「言えば面倒になると思った。今思えば、それが悪かった」


 鍵が外れた。


 鉄格子が重い音を立てて開く。


 中から、冷たい空気が流れ出した。


 水と苔と、古い鉄の匂い。


 その奥に、リシアだけが感じ取れる黒い音の気配がある。


 シルの体が硬くなった。


「行きましょう」


 リシアが言うと、ベイルが先頭に立った。


「順番は私、ロシュ、リシアさん、ユアン。リスは……まあ、肩から落ちるなよ」


 シルは尻尾を揺らした。


 旧排水路の中は狭かった。


 人が二人並んで歩くのがやっとの幅だ。天井は低く、背の高いベイルは時折身をかがめる必要があった。足元には浅く水が流れている。靴が水を踏むたび、ちゃぷ、ちゃぷ、と湿った音が響いた。


 壁は古い石造りで、ところどころに補修跡がある。


 ランタンの光が届く範囲は狭い。


 その先はすぐに闇へ沈む。


 リシアは歩きながら耳を澄ませた。


 水音。


 足音。


 ランタンの金具が揺れる音。


 ユアンの緊張した息。


 ロシュ老人の慎重な足取り。


 ベイルの鉄杖が時折壁に触れる音。


 そして。


 ごおん。


 遠くから、低い鐘の音が響いた。


 ユアンが足を止める。


 ベイルが振り返った。


「止まるな。音に意識を持っていかれる」


「すみません」


 ユアンは顔を青くしている。


 リシアも胸の奥が重くなった。


 鐘の音は、ただ聞こえるだけではない。


 心の奥に沈み込み、恐怖の形を探ってくる。


 ラグナの黒い歌が痛みを忘れさせようとしたのなら、この黒い鐘は恐怖を起こそうとしている。


 逃げろ。


 戻れ。


 危険だ。


 そういう音を、心の内側へ直接打ち込んでくる。


 リシアは唇を噛んだ。


 ここで全員に静律結界を張ることはできる。


 だが、黒譜術の影響下では消耗が激しい。


 まだ奥に何があるか分からない以上、温存するべきだ。


 リシアは歌わず、言葉を選んだ。


「皆さん、自分の足音を聞いてください」


 ベイルがわずかに目を向ける。


「足音?」


「はい。鐘の音ではなく、自分が今歩いている音を。水を踏む音でも構いません。自分がここにいる音を確かめてください」


 ロシュ老人が頷いた。


「なるほどな」


 ユアンも慌てて足元を見る。


 ちゃぷ。


 ちゃぷ。


 水を踏む音。


 それは頼りない。


 けれど、自分のものだ。


 鐘の音に呑まれそうになった意識が、少しずつ足元へ戻ってくる。


 リシアも自分の足音を聞いた。


 自分はここにいる。


 水路の下を歩いている。


 エマの声を探すために。


 歌うためだけではなく、まだ歌わないためにも。


 シルが肩の上で、リシアの髪を軽く掴んだ。


「髪は痛いけど、ありがとう」


 ちい。


 いつもの小さな声が、地下では思ったより心強かった。


 しばらく進むと、通路が二手に分かれた。


 右は水が多く、奥から冷たい風が流れている。


 左は乾いているが、壁に黒い染みのようなものがある。


 ロシュ老人が地図を確認する。


「本来なら右だ。中央の排水溜まりへ出る」


 リシアは左の通路を見た。


 壁の黒い染み。


 ただの湿気ではない。


 譜面のように、細い線が絡み合っている。


 ラグナの炉。


 エマの箱。


 同じ種類の黒い印。


「左です」


 リシアは言った。


 ベイルが眉をひそめる。


「地図では行き止まりだ」


「黒譜術の痕跡があります」


 ユアンが壁に近づきかける。


「触らないでください」


 リシアが止めると、ユアンは慌てて手を引いた。


「これが黒譜術……?」


「はい。歌魔術を妨害する術です。ただ、この町では音そのものを封じたり、歪めたりしているようです」


 ベイルは左の通路を睨んだ。


「行き止まりなら、何かを隠すには向いている」


「進みますか」


 リシアが尋ねると、ベイルは短く頷いた。


「私が先に行く」


 左の通路は、さらに狭かった。


 空気が淀み、壁の黒い染みは進むほど濃くなる。風鈴の町の地下だというのに、風の気配がない。水音も遠ざかり、代わりに低い鐘の余韻だけが壁の奥から響いている。


 リシアは不意に、残響歌を感じた。


 誰かがここを通った。


 おそらく、三月前の夜。


 ハルクだ。


 リシアは足を止めた。


「少し、残響を聞きます」


 ベイルが振り返る。


「危険か」


「分かりません。でも、手がかりになるかもしれません」


 リシアは壁に触れようとして、ためらった。


 黒譜術の染みがある。


 触れれば、黒い鐘の恐怖が流れ込む可能性がある。


 シルが肩の上で低く鳴いた。


「うん。直接は触らない」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 沈黙の断章のページが、淡く青く光る。


 その光を壁へ近づけると、黒い染みの端がわずかに震えた。


 リシアは目を閉じる。


 深く入りすぎない。


 表面だけをなぞる。


 そう自分に言い聞かせた。


 瞬間、冷たい残響が流れ込んだ。


 暗い地下通路。


 ランタンを持つ男性の手。


 ハルクだ。


 彼の足音は落ち着いているが、呼吸は浅い。


 背後に小さな気配。


 エマ。


 幼い少女が、父の後を追ってきている。


『エマ、戻りなさい』


 ハルクの声。


 優しいが、焦っている。


『ここは危ない。工房で待っていなさい』


 エマは首を振る。


 声はまだある。


『お父さん、あの音、また鳴ってる。風鈴が苦しそう』


 リシアの胸が痛む。


 エマは聞いていた。


 この町の風鈴が苦しむ音を、父と同じように。


 残響は続く。


 ハルクは小さな箱を持っている。


 あの遺品箱だ。


 中には、鳴らない風鈴。


『これで、黒い鐘の場所が分かるかもしれない』


 ハルクはそう言った。


『でも、もし音が強すぎたら、お前は耳を塞いで戻るんだ』


『お父さんは?』


『私は、風鈴職人だからね』


 彼は笑った。


『鳴ってはいけない音を、放っておくわけにはいかない』


 場面が揺れる。


 黒い鐘が鳴る。


 ごおん。


 ハルクの顔が歪む。


 エマが泣きそうになる。


 鳴らない風鈴が、箱の中で震える。


 ちりん。


 それは黒い鐘とは違う音だった。


 優しく、細く、しかし確かに黒い鐘の位置を示す音。


 ハルクが壁を見る。


 行き止まりのはずの壁。


 そこに、黒い譜面が浮かび上がっている。


『隠し扉……?』


 ハルクが呟く。


 その瞬間、残響が激しく乱れた。


 誰かがいる。


 黒い外套。


 顔は見えない。


 歌でも、鐘でもない、歪んだ低い音が響く。


『その音は、開けてはならない』


 男か女か分からない声。


『人は、聞かない方がいい痛みもある』


 ハルクが叫ぶ。


『痛みを奪うな! 怖がることも、悲しむことも、人が自分で選ぶための音だ!』


 黒い外套の人物が手を上げる。


 黒い譜面が広がる。


 エマが叫ぶ。


 その声が、途中で切れる。


 リシアは息を呑んだ。


 エマの声が奪われる瞬間。


 残響が刃のように胸を刺す。


 ハルクがエマを庇う。


 鳴らない風鈴が強く光る。


 黒い鐘が鳴る。


 そして、水の音。


 何かが水へ落ちる音。


 そこで残響は途切れた。


「リシアさん!」


 ユアンの声で、リシアは現実に戻った。


 膝をついていた。


 いつの間にか息が乱れ、額には冷たい汗が滲んでいる。


 シルがリシアの手にしがみついていた。


 ベイルが警戒しながら周囲を見ている。


「大丈夫か」


「……はい」


 リシアはゆっくり立ち上がった。


「ハルクさんは、ここまで来ています。エマさんも一緒でした」


「エマも……?」


 ユアンの顔が青ざめる。


「エマさんは、ここで声を奪われたんだと思います」


 その言葉に、全員が沈黙した。


 ロシュ老人が小さく呟く。


「あの子は、やはり見ていたのか」


「黒い外套の人物がいました。黒譜術を使っていた可能性が高いです」


 ベイルの表情が険しくなる。


「人為的なものか」


「はい」


「つまり、町の誰か、あるいは外部の誰かがハルクを襲った」


「まだ断定はできません。でも、ハルクさんは事故ではありません」


 ユアンが拳を震わせた。


「誰が……」


 リシアは首を横に振った。


「顔は見えませんでした。ただ、その人物はこう言いました」


 リシアは、残響で聞いた声を思い出す。


「その音は、開けてはならない。人は、聞かない方がいい痛みもある、と」


 会議室での町長の言葉とは違う。


 ガルドが炉で聞いた黒い歌にも似ている。


 痛みを忘れさせようとする思想。


 恐怖を制御しようとする音。


 歌や音を、人の選択から切り離そうとする力。


 黒譜の民。


 その名前が、リシアの胸の中で再び浮かぶ。


 シルが低く鳴いた。


 まるで、その名を知っているように。


「隠し扉があるはずです」


 リシアは壁を見た。


 黒い染みの中央。


 行き止まりに見える壁の一部に、譜面の線が集まっている。


 ベイルが鉄杖で壁を軽く叩いた。


 音が違う。


「空洞だ」


 ロシュ老人が壁の端を探る。


「古い点検扉かもしれん。地図には載っていないが、昔の水路にはこういう隠し口がある」


 ユアンがランタンを近づける。


 壁の継ぎ目が見えた。


 ロシュ老人が苔の下から小さな金具を見つける。


 だが、金具には黒い譜面が絡んでいた。


「触るな」


 ベイルが言う。


「これは危険だ」


 リシアは歌詞帳を開いた。


 沈黙の断章のページが青く光る。


 黒い譜面と青い線が、互いに反応するように震えた。


 この黒譜術を完全に解くことは、今のリシアにはできない。


 だが、一瞬だけ緩めることなら。


「一音返しを試します」


 リシアは言った。


 ユアンが不安げに見る。


「それは、エマに使うものじゃないんですか」


「まだ完成していません。エマさんに使うには、早すぎます」


「なら、なぜ」


「この扉は、音を封じて閉じられています。なら、一音だけ本来の音を返せば、継ぎ目が開くかもしれません」


 ベイルが厳しい顔で言う。


「危険ならやめろ」


「危険です」


「なら」


「でも、ここで引き返せば、エマさんの声を奪った場所を見つけられません」


 リシアは深く息を吸った。


 無理に歌わないと約束した。


 だが、必要な時に歌うことから逃げるのも違う。


 問題は、何を歌うか。


 強い歌では駄目だ。


 黒い譜面を力で押し切れば、反発も強くなる。


 必要なのは、一音だけ。


 閉じられた扉が、本来持っていた開く音を返すこと。


 リシアは目を閉じた。


 壁に残る音を探す。


 古い金具が動く音。


 石扉が開く音。


 水路番が点検のために通った日の音。


 長い年月の中で、忘れられた音。


 それを、黒譜術の下から拾い上げる。


 リシアは小さく歌った。


 歌というより、息に近い一音。


 高くも低くもない。


 水滴が石へ落ちるような音。


 その一音が、壁の黒い譜面に触れた。


 黒い線がざわめく。


 リシアの喉に痛みが走った。


 しかし、ラグナの時ほどではない。


 一音だけだからだ。


 シルがリシアの肩で前足を握るように毛を掴んだ。


 青い光が、壁の金具へ届く。


 かちり。


 小さな音がした。


 リシアは息を止める。


 ロシュ老人が目を見開く。


「開いた」


 ベイルが慎重に扉を押した。


 石壁の一部が、重い音を立てて奥へ動く。


 冷たい空気が流れ出す。


 同時に、黒い鐘の音が強くなった。


 ごおん。


 ユアンが耳を押さえる。


 ロシュ老人がよろめく。


 ベイルも歯を食いしばった。


 リシアの胸の奥に、恐怖が叩き込まれる。


 逃げろ。


 戻れ。


 ここに来てはいけない。


 声を出すな。


 聞くな。


 知るな。


 リシアは膝をつきかけた。


 その時、シルがリシアの耳元で鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 黒い鐘の音に、銀色の小さな声が割り込む。


 ほんの一瞬。


 けれど、その一瞬でリシアは息を取り戻した。


「ありがとうございます、シル」


 シルは震えていた。


 小さな体で、黒い音に耐えている。


 リシアはシルをそっと撫でた。


「無理しないで」


 シルは不満そうに鳴いた。


 まるで、それはお互い様だと言うように。


 隠し扉の奥には、小さな空間があった。


 古い点検室だろう。


 天井は低く、壁には錆びた工具や朽ちた木箱が置かれている。中央には、石で組まれた台座があった。


 その上に、黒い鐘が置かれていた。


 大きくはない。


 両手で抱えられるほどの鐘だ。


 だが、その存在感は異様だった。


 表面は黒ずみ、普通の金属とは違う艶を持っている。鐘の胴には譜面のような線が刻まれ、そこから黒い靄がゆっくり立ち上っていた。


 そして、鐘の周囲には風鈴がいくつも吊るされていた。


 割れた風鈴。


 紐の切れた風鈴。


 音を失った風鈴。


 それらが黒い鐘を囲むように、天井から下がっている。


 ユアンが掠れた声で言った。


「これは……」


 彼は一つの風鈴へ近づいた。


 青い硝子。


 ひび割れているが、形は美しい。


「ハルクさんの作り方だ。間違いない」


 リシアは台座の横に目を向けた。


 そこに、小さな金属片が落ちていた。


 風鈴の舌だ。


 鳴るために必要な、内側の小さな部品。


 だが、それは真っ二つに割れている。


 リシアが近づこうとした瞬間、黒い鐘が鳴った。


 ごおん。


 強い。


 リシアの視界が揺れる。


 心の奥に、過去の恐怖が流れ込む。


 王都の広場。


 進軍詩を求める声。


 片腕の兵士の震え。


 アイシャの笑顔。


『リシアの歌を聞くとさ、怖いのに、怖くないって思える』


 やめて。


 今それを見せないで。


 リシアは胸を押さえた。


 黒い鐘は、人の恐怖を探り当てる。


 そして、その恐怖を音として増幅する。


 ユアンも膝をついた。


「やめろ……」


 彼の心歌が乱れる。


『ハルクさん』


『僕は何もできなかった』


『エマを守れなかった』


 ロシュ老人は壁にもたれ、目を閉じている。


 ベイルは鉄杖を握りしめ、必死に耐えていた。


 このままでは全員が呑まれる。


 リシアは歌うべきか迷った。


 静律結界なら、恐怖に一呼吸の空白を作れる。


 しかし黒い鐘の中心で歌えば、反発は大きい。


 喉が耐えられるか分からない。


 それでも、ここで倒れるわけにはいかない。


 リシアは息を吸った。


 その時、シルが肩から飛び降りた。


「シル!」


 シルは黒い鐘へ向かったのではない。


 床に落ちた割れた風鈴の舌へ走った。


 小さな前足で、それを必死に押す。


 ちり、とも鳴らない。


 割れた部品だ。


 音など出るはずがない。


 だが、その姿を見た瞬間、リシアは気付いた。


 黒い鐘を止めるのは、黒い鐘に対抗する強い歌ではない。


 奪われた音を返すこと。


 ハルクが作った鳴らない風鈴は、そのためのものだった。


 リシアはユアンへ声をかけた。


「ユアンさん!」


 ユアンが顔を上げる。


「ハルクさんの風鈴は、どれですか!」


「え……?」


「この中に、黒い鐘を探すための風鈴があるはずです!」


 ユアンは必死に周囲を見た。


 黒い鐘の音に震えながら、職人としての目を働かせる。


「たぶん……あれです」


 彼が指したのは、台座の奥に吊るされた小さな風鈴だった。


 透明ではない。


 乳白色の硝子に、青い線が細く入っている。


 他の風鈴と違い、短冊がない。


 中の舌も見えない。


 本当に、鳴るための形をしていない風鈴。


 リシアはそれへ近づいた。


 黒い鐘がまた鳴る。


 ごおん。


 足が止まりそうになる。


 恐怖が胸を締めつける。


『歌うな』


『また誰かを傷つける』


『声を奪われる』


『アイシャも帰ってこない』


 リシアは歯を食いしばった。


 怖い。


 怖いに決まっている。


 でも、怖いまま進むことはできる。


 ラグナでトマにそう歌った。


 エマに、そう言った。


 なら、自分もそうしなければならない。


 リシアは鳴らない風鈴へ手を伸ばした。


 触れた瞬間、残響が流れ込んだ。


 ハルクの手。


 硝子を削る音。


 息を詰めて音を探る横顔。


『鳴らない音にも、形はある』


 ハルクの声が聞こえる。


『声にならない声にも、揺れはある』


 隣にはエマがいる。


 まだ声を失う前のエマだ。


『お父さん、この風鈴、本当に鳴らないの?』


『鳴らない。でも、聞くためにある』


『変なの』


『そうだな。でも、エマ』


 ハルクは笑った。


『世界には、鳴らすより先に、聞かなければいけない音があるんだ』


 残響が揺れる。


 ハルクは鳴らない風鈴を箱に収める。


『もし私に何かあったら、これを無理に鳴らしてはいけない。まず、沈黙を聞け』


 その言葉を最後に、残響が薄れる。


 リシアは現実に戻った。


 手の中には、鳴らない風鈴。


 軽い。


 けれど、確かに何かを抱えている。


 黒い鐘が唸る。


 ベイルが叫んだ。


「長居は無理だ!」


 旧排水路そのものが震え始めていた。


 天井から砂が落ちる。


 水路の奥で水位が変わる音がした。


 ロシュ老人が顔を上げる。


「まずい。上流の水門が開いている。水が来るぞ!」


「誰が開けたんですか!」


 ユアンが叫ぶ。


「知らん! だが、この時間に開くはずがない!」


 リシアは黒い鐘を見る。


 鐘の譜面が光っている。


 まるで、彼らをここで流し去ろうとしているように。


 黒譜術が、水門に干渉したのか。


 あるいは、誰かが外から開けたのか。


 考えている暇はない。


 ベイルが即断した。


「撤退する!」


「でも鐘は!」


 ユアンが叫ぶ。


「今は持ち出せん! 死にたいのか!」


 リシアは鳴らない風鈴を抱えた。


「これだけは持っていきます」


「急げ!」


 水の音が近づく。


 ごう、と低い響き。


 リシアたちは来た道を走った。


 足元の水が急に冷たく増えていく。最初は足首ほどだった水位が、すぐに脛まで上がった。


 黒い鐘が背後で鳴る。


 ごおん。


 そのたびに足が重くなる。


 恐怖が心に打ち込まれる。


 逃げられない。


 沈め。


 声を出すな。


 リシアは鳴らない風鈴を胸に抱きしめた。


 歌ってはいけない。


 今歌えば、走る息が乱れる。


 でも、何もしなければ鐘に足を止められる。


 リシアは歌ではなく、短く声を出した。


「足音を聞いて!」


 ベイルが前を走りながら叫ぶ。


「水音に飲まれるな!」


 ユアンも必死に頷く。


 ちゃぷ。


 ばしゃ。


 ごう。


 足音と水音が混ざる。


 だが、自分の足がまだ動いていることだけを確かめる。


 ロシュ老人が滑った。


「ロシュさん!」


 ユアンが手を伸ばすが、届かない。


 ベイルが引き返そうとする。


 その瞬間、シルがリシアの肩から飛び出した。


 ロシュ老人の外套に飛びつき、必死に引っ張る。


 もちろん、リスの力で老人を引き上げることはできない。


 けれど、シルの動きで位置が分かった。


 ベイルが水を蹴って戻り、ロシュ老人の腕を掴む。


「立て!」


「すまん!」


 リシアも駆け寄り、反対側から支えた。


 鳴らない風鈴を抱えた腕が濡れる。


 風鈴が微かに震えた。


 音はしない。


 しかし、リシアの胸の中に一つの感覚が流れ込む。


 右。


 右の壁に、別の水路口。


 リシアは顔を上げた。


「右に逃げ道があります!」


 ロシュ老人が目を見開く。


「古い点検口か!」


 ベイルが叫ぶ。


「どこだ!」


「三歩先、右の壁!」


 リシアには見えない。


 だが、鳴らない風鈴が示している。


 音のない揺れで。


 ベイルが壁を探り、手をかける。


 そこには小さな鉄扉があった。


 錆びているが、黒譜術はかかっていない。


「開くぞ!」


 鉄扉が軋みながら開く。


 水が一気に流れ込みかける前に、全員がその中へ滑り込んだ。


 狭い階段。


 上へ続いている。


 背後で水が本流を走り抜ける音が響いた。


 間一髪だった。


 リシアは階段の途中で膝をついた。


 息が切れている。


 腕の中の鳴らない風鈴は濡れていたが、割れてはいない。


 シルがリシアの肩へ戻ってきた。


 びしょ濡れで、毛がぺたんとしている。


 普段のふわふわした姿とは違い、少し細く見えた。


「シル……」


 リシアは思わず笑いそうになり、すぐに堪えた。


「ごめん。でも、助かったよ」


 シルは不満そうに鳴いた。


 たぶん、笑いかけたことに気付いたのだ。


 ユアンが壁にもたれて息を吐く。


「死ぬかと思った……」


 ベイルが水の流れる音を聞きながら言う。


「誰かが水門を開けた可能性がある」


 ロシュ老人が震える声で答えた。


「上流の水門は役場の管理だ。勝手には開かん」


「なら、町の中に協力者がいるかもしれない」


 その言葉に、全員が黙った。


 黒い外套の人物。


 黒譜術。


 水門の開閉。


 外部の者だけでは難しい。


 エルネの中に、黒譜の民と繋がる者がいるのかもしれない。


 リシアは鳴らない風鈴を見つめた。


 ハルクが遺したもの。


 沈黙を聞くための風鈴。


 これがあれば、エマの声を奪った黒譜術に近づけるかもしれない。


 だが、同時に危険でもある。


 箱から出したことで、黒い鐘も動き始めるだろう。


「戻りましょう」


 リシアは言った。


「エマさんに、これを見せる必要があります」


 ユアンが不安げに言う。


「大丈夫でしょうか。エマは、箱を開けるのを怖がっていた」


「無理には見せません」


 リシアは風鈴を抱え直した。


「でも、これはハルクさんがエマさんに残したものです。彼女自身が、向き合うかどうかを選ぶべきです」


 ベイルは頷いた。


「まずは地上へ出る。町長に報告するぞ」


 階段を上がると、地上の空気が流れ込んできた。


 出た場所は、町の西側にある古い水車小屋の裏だった。使われなくなった小屋で、周囲には背の高い草が生えている。空はすっかり夜になっていた。


 遠くで町人たちの声が聞こえる。


 水門が開いたことで、中央水路の水位が上がったのだろう。


 町は騒ぎになっている。


 リシアたちは濡れたまま水車小屋を出た。


 その時、町の方から風が吹いた。


 軒先の風鈴が一斉に揺れる。


 音は鳴らない。


 けれど、リシアの腕の中の鳴らない風鈴だけが、小さく震えた。


 音はない。


 それなのに、リシアには聞こえた気がした。


『エマ』


 ハルクの声。


 あるいは、残響。


 リシアは風鈴を強く抱きしめる。


 その時、水車小屋の影から、誰かの声がした。


「それを持ち出してしまったのですね」


 全員が振り返った。


 夜の闇の中に、人影が立っていた。


 黒い外套。


 顔はフードに隠れて見えない。


 リシアの背筋に冷たいものが走る。


 残響で見た人物。


 ハルクの前に現れ、エマの声を奪った者。


 ベイルが鉄杖を構える。


「誰だ」


 黒い外套の人物は答えなかった。


 代わりに、リシアを見た。


 顔は見えない。


 けれど、視線を感じる。


「歌魔術師リシア」


 その声は、男とも女ともつかない。


 低く、静かで、黒い譜面のように歪んでいた。


「火の断章に続き、沈黙の断章にも触れるつもりですか」


 リシアの心臓が跳ねた。


 火の断章。


 ラグナで得た歌詞。


 この人物は知っている。


 リシアの旅を。


 歌詞帳を。


 星詠みの歌へ繋がる断章を。


「あなたは……黒譜の民ですか」


 リシアが問いかけると、黒い外套の人物はわずかに首を傾けた。


「そう呼ぶ者もいます」


 シルが肩の上で強く威嚇した。


 黒い外套の人物は、シルへ一瞬だけ視線を向ける。


「まだ、その姿でいるのですね」


 リシアは息を呑む。


「シルを知っているんですか」


 返事はない。


 代わりに、黒い外套の人物は言った。


「その風鈴をエマに渡せば、あの子は思い出す。父の死を。自分の叫びを。声を奪われた瞬間を」


「だから、渡すなと?」


「痛みを知らないまま生きることも、救いです」


 リシアの胸に怒りが灯った。


「それを決めるのは、あなたではありません」


「では、あなたが決めるのですか」


「いいえ」


 リシアは鳴らない風鈴を抱えたまま、まっすぐ立った。


「エマさんが決めます」


 黒い外套の人物は沈黙した。


 その周囲に、黒い譜面が淡く浮かび上がる。


 ベイルが前に出る。


「逃がすな!」


 しかし次の瞬間、黒い外套の人物の足元から音のない波紋が広がった。


 風鈴が揺れる。


 音はない。


 ベイルの足が一瞬止まる。


 ユアンも、ロシュ老人も動けない。


 リシアは歌おうとした。


 だが、黒い外套の人物は静かに首を横に振った。


「今はまだ、その歌では届きません。あなたは、沈黙の痛みを知らない」


「……」


「エマの声を返したいなら、まず知りなさい。声がある者の優しさが、声なき者をどれほど追い詰めるかを」


 その言葉は、リシアの胸を深く刺した。


 反論しようとした。


 けれど、すぐに言葉が出なかった。


 リシアは今日、エマを守ろうとした。


 しかし、守るつもりで彼女に前へ出る機会を作ったのも事実だ。


 エマが自分で書いたとはいえ、その場は大人たちに囲まれていた。


 怖かったはずだ。


 リシアの善意は、本当に彼女のためだけだったのか。


 町を動かすために、エマの言葉を必要としてしまったのではないか。


 その迷いを見透かしたように、黒い外套の人物は言った。


「あなたの歌は優しい。だから危うい」


 リシアの脳裏に、どこかで聞いたような言葉がよぎった。


 優しすぎる歌。


 誰かが、いつかそう言った気がした。


 だが思い出す前に、黒い外套の人物の姿が霧のように薄れていく。


「待って!」


 リシアは叫んだ。


「あなたは誰ですか!」


 返事はなかった。


 ただ、最後に一言だけ残る。


「星詠みの歌を、完成させてはいけない」


 黒い外套の人物は消えた。


 夜風が吹く。


 風鈴が揺れる。


 音は鳴らない。


 ベイルが周囲を見回し、舌打ちした。


「逃げられたか」


 ユアンは青ざめた顔で呟く。


「今のが、ハルクさんを……」


 ロシュ老人は膝をつき、震えていた。


 リシアはその場に立ち尽くしていた。


 腕の中には、鳴らない風鈴。


 肩には、毛を逆立てたシル。


 そして胸の中には、黒い外套の人物が残した言葉が沈んでいる。


『声がある者の優しさが、声なき者をどれほど追い詰めるか』


 リシアは拳を握った。


 痛い。


 けれど、目を逸らしてはいけない。


 黒譜の民は間違っている。


 人の声を奪い、痛みを封じ、恐怖を操る術は許せない。


 だが、彼らの言葉のすべてが嘘とは限らない。


 だからこそ、恐ろしい。


 だからこそ、向き合わなければならない。


 リシアは夜の町を見た。


 エマの工房のある方角に、小さな灯りが見える。


 あの灯りの下で、エマはまだ声を失ったまま待っている。


 鳴らない風鈴を、彼女に渡すべきか。


 それとも、まだ待つべきか。


 リシアには、すぐに答えを出せなかった。


 けれど、一つだけ決めた。


 今度は、エマの前で迷いも隠さない。


 自分が何をできて、何をできないのか。


 何が怖いのか。


 それを伝えた上で、彼女に選んでもらう。


 それが、声を持つリシアにできる最低限の誠実さだと思った。


 遠くで、また黒い鐘が鳴った。


 ごおん。


 水路の下ではなく、町のどこか別の場所から。


 黒い音は、少しずつ広がっている。


 夜はまだ終わらない。


 そして沈黙の断章は、まだ歌になっていなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、水鈴町エルネの水路の下へ踏み込む回でした。


戦争中に作られた、人の恐怖を刺激する黒い鐘。

ハルクが遺した“鳴らない風鈴”。

そして、エマの声を奪った黒い外套の人物。


リシアは真実に近づきましたが、同時に黒譜のこくふのたみから厳しい言葉を突きつけられます。


『声がある者の優しさが、声なき者をどれほど追い詰めるか』


歌魔術師うたまじゅつしとして、リシアはエマにどう向き合うのか。

次話では、エマ自身が“声”と“沈黙”をどう選ぶのかが描かれていきます。


続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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