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声のない少女編 5話 声を閉じた箱

 翌朝、水鈴町エルネには、いつもより濃い霧が降りていた。


 水路の町だから、朝霧そのものは珍しくないのだろう。宿の女将も「この季節はよくあることだよ」と言っていた。


 けれど、その霧はリシアにはただの朝霧に見えなかった。


 白い。


 だが、底の方が少しだけ黒ずんでいる。


 水路の表面を這うように流れ、橋の下に溜まり、家々の軒先から吊るされた風鈴の短冊を濡らしている。


 風は吹いていた。


 風鈴は揺れていた。


 だが、やはり音は鳴らない。


 昨日、水路の下から響いた黒い鐘の音。


 それ以来、町の空気はさらに重くなっていた。


 リシアは鈴音亭の二階の窓から、町を見下ろしていた。水路沿いの道には、朝の仕込みへ向かう職人や、桶を抱えた女性たちが歩いている。けれど、誰も必要以上に声を出さない。挨拶も短く、目が合えばすぐに逸らす。


 沈黙が町の習慣になりかけている。


 そんな印象だった。


 机の上では、シルが丸くなっていた。


 ただし、寝ているわけではない。


 前足の間には、昨日トマからもらった焼き栗の袋がある。すでに残りはわずかだ。シルはそれを大事そうに抱え、リシアの方をちらちら見ている。


「シル」


 リシアは振り返った。


「今、食べようとしてたよね」


 シルは動きを止めた。


「してない、みたいな顔をしても駄目」


 ちい。


「鳴いたから許されるわけじゃないよ」


 シルは少し考えたあと、袋から焼き栗を一つ取り出し、リシアの方へ差し出した。


「くれるの?」


 シルは得意げに鳴いた。


 リシアは少しだけ笑った。


「ありがとう。でも、それを私に渡したら、残りを自分が食べる流れにしようとしてるよね」


 シルは目を逸らした。


「やっぱり」


 リシアは焼き栗を受け取り、半分に割った。半分を自分の口に入れ、残りをシルへ返す。


「半分こ」


 シルは一瞬だけ不満そうにしたが、すぐに受け取ってかじり始めた。


 その小さな音が、部屋の静けさに妙に温かく響く。


 リシアは窓辺へ戻り、歌詞帳を開いた。


 白紙のページには、昨夜浮かび上がった短い言葉が残っている。


『声を奪ったのは、沈黙ではない』


 その下には何もない。


 歌詞ではない。


 ただの手がかり。


 それでも、リシアの胸には重く沈んでいた。


 声を奪ったのは沈黙ではない。


 では、何がエマの声を奪ったのか。


 黒い鐘か。


 水路の底に沈む何かか。


 ハルクの遺品箱か。


 それとも、町全体が見ないふりをしてきた何かなのか。


 リシアは指先で紙の上をなぞった。


 エマの心歌は聞こえなかった。


 完全な無音。


 心を閉ざしているのではなく、音そのものが切り取られているような感覚。


 あれは、普通ではない。


 黒譜術こくふじゅつ


 ラグナで見たものと同じ流れを感じる。


 ただし、ラグナの黒譜術は火に絡みつき、痛みや後悔を忘れさせようとしていた。


 エルネの黒譜術は、声を奪い、音を殺している。


 同じ組織か。


 同じ術者か。


 そこまではまだ分からない。


 しかし、リシアの旅が偶然この町へ流れ着いたとは思えなかった。


 シルが机から降り、リシアの肩へ登ってきた。


 焼き栗の袋はしっかり抱えたままだ。


「持っていくの?」


 ちい。


「エマさんの前で食べ散らかさないでね」


 シルは、そんな失礼なことはしないという顔をした。


「昨日、宿の台所を狙ってた子が言うと、説得力が少し足りないかな」


 シルは尻尾でリシアの頬を軽く叩いた。


「はいはい。ごめんね」


 リシアは歌詞帳を閉じ、腰のポーチへしまった。


 今日は、エマにもう一度会う。


 けれど、何を聞くべきか。


 どこまで踏み込むべきか。


 リシアはまだ答えを持っていなかった。


 ただ一つ、決めていることがある。


 歌わない。


 少なくとも、エマが許すまでは。


 そして、彼女の声を戻すと勝手に約束しない。


 声が戻ることが必ず救いになるとは限らないからだ。


 それでも、声を奪われたままなら。


 その鎖だけは、断ち切らなければならない。


 リシアは深く息を吸い、部屋を出た。


 食堂へ降りると、女将が水路側の窓を閉めているところだった。


 窓の外から霧が入り込み、床を白く濡らしている。


「おはようございます」


「ああ、おはよう。よく眠れたかい」


「はい。少しだけ」


「正直な子だね」


 女将は苦笑した。


 だが、その笑みには疲れが滲んでいる。


 リシアは食堂を見回した。


 朝食を取っている客は数人いる。皆、食器を動かす音まで小さくしているようだった。


 昨日の黒い鐘の影響は明らかだった。


「女将さん」


「何だい」


「エマさんの工房へ、もう一度行きたいと思っています」


「だろうね。マルタには朝のうちに伝えておいたよ」


「ありがとうございます」


「ただし、気をつけな」


 女将は声を落とした。


「町長が動き始めた」


「町長さんが?」


「オルヴェン町長だよ。戦争中、この町の警鐘作りを取りまとめていた男さ。悪人というわけじゃない。町を守るために必死だったのも本当だ。でもね」


 女将は窓の外へ視線を向けた。


「町の面子を守ることに、少しこだわりすぎるところがある」


「昨日の鐘のことも、外へ漏らしたくない?」


「そうだろうね。風鈴が鳴らない町なんて噂が広まれば、旅人は来なくなる。職人の注文も減る。すでに苦しいのに、これ以上は耐えられないと思っている」


「だから、原因を急いで決めたい」


 リシアが言うと、女将は苦い顔で頷いた。


「人は、不安に名前をつけたがるからね」


 その名前にエマが選ばれかけている。


 リシアは昨夜の人々の心歌を思い出した。


『エマが何か知っている』


『あの子が黙っているから』


『あの子のせいで』


 声を失った少女が、さらに沈黙の責任を負わされようとしている。


 リシアの胸に、静かな怒りが灯った。


 人の痛みを、町の不安の置き場所にしてはいけない。


「町長さんは、エマさんをどうするつもりなんですか」


「分からない。ただ、話を聞くと言っていた」


「声が出ない子に?」


「だから、筆談をさせるつもりなんだろう」


「……今のエマさんに、人前でそれをさせるのは危険です」


「私もそう思うよ」


 女将はため息をついた。


「けれど、町長は町の不安を抑えたい。何かしら答えが必要なんだ」


 リシアは唇を引き結んだ。


 ここで自分が前に出れば、余計に事態を混乱させるかもしれない。


 旅人の歌魔術師が町の問題に口を出す。


 しかも、戦争時代に王国騎士団直属歌術隊にいた者が。


 歌術師かじゅつしを信じる人もいれば、恨む人もいる。


 ラグナで学んだばかりだ。


 善意で踏み込めば、必ず届くわけではない。


 それでも。


 ここで沈黙すれば、エマの沈黙はますます深くなる。


 女将はリシアの顔を見て、少しだけ表情を和らげた。


「無茶はしないでおくれよ」


「はい」


「その顔、無茶をする人の顔だよ」


「……気をつけます」


「気をつけるだけじゃ足りない顔だね」


 シルが肩の上で、ちい、と鳴いた。


 女将がシルを見る。


「ほら、相棒もそう言っている」


「今のはたぶん、焼き栗が欲しいという意味です」


 シルは不満そうに尻尾を揺らした。


 女将は小さく笑い、厨房から小さな干し果物を一つ持ってきた。


「これで頼むよ。リシアをちゃんと見張っておくれ」


 シルは干し果物を受け取り、胸を張った。


「買収されてない?」


 リシアが言うと、シルは目を逸らした。


 そのやり取りに、食堂の空気がほんの少しだけ緩む。


 だが、リシアの心は軽くならなかった。


 エマの工房へ向かう道中、町の空気は昨日より明らかに刺々しくなっていた。


 水路沿いの石畳には、まだ霧が薄く残っている。


 風鈴の短冊は湿り、風を受けても重そうに揺れていた。軒先の鈴は静かなまま。音がないことに慣れてしまった町人たちは、風鈴を見上げない。


 しかし今日は、別のものを見ていた。


 リシアだ。


 旅の歌魔術師。


 昨日、水路の前でエマを責めるなと声を上げた者。


 人々の視線には、期待と警戒が混ざっていた。


『歌魔術師なら何とかしてくれるのか』


『でも、歌で町をかき乱されたら困る』


『エマを庇っていた』


『なぜ旅人があの子を庇う』


『あの子が黙っているから、町がこんなことに』


 心歌が、霧のようにまとわりつく。


 リシアは足を止めかけた。


 声が多い。


 怒り、不安、期待、疑い。


 いくつもの感情が重なり、リシア自身の中にも焦りが生まれる。


 言い返したい。


 エマを責めないでほしい。


 でも、今ここで全員に向かって何かを言えば、町人たちの不安はさらに反発に変わるかもしれない。


 リシアは胸元に手を添えた。


 徽章ではなく、その下にある歌詞帳へ。


 ラグナで得た一節を思い出す。


『怖くても、消さなかった小さな火は、

 灰の底で、次の手を待っている。』


 焦って火を煽れば、燃え広がる。


 今は、次の手を間違えないこと。


 シルが肩の上で小さく鳴いた。


「大丈夫」


 リシアは小声で言った。


「まだ、歌わない」


 エマの工房の前には、すでに人がいた。


 マルタではない。


 灰色の上着を着た中年の男が二人、工房の扉の前に立っている。どちらも町の役人だろう。表情は硬く、戸惑いながらも職務としてそこにいる様子だった。


 扉の前でマルタが言い争っている。


「だから、エマは今、人前に出せる状態ではありません!」


「町長の命令です。昨夜の件で、町民の不安が高まっています。エマさんが何かを知っているなら、町として確認しなければなりません」


「確認って、あの子は声が出ないんですよ!」


「筆談で構いません」


「そういう問題ではありません!」


 リシアは足を速めた。


「マルタさん」


 マルタが振り返る。


 その顔に、安堵と困惑が同時に浮かんだ。


「リシアさん……」


 役人の一人がリシアを見る。


「あなたが旅の歌魔術師ですか」


「はい。リシアです」


「ちょうどよかった。町長があなたにも話を聞きたいと」


「私は後で伺います。今はエマさんに会う約束があります」


「そのエマさんを、町長の屋敷へお連れするところです」


 役人は淡々と言った。


 悪意はない。


 だが、言葉の奥には面倒事を早く片付けたいという気配がある。


 リシアの耳に、彼らの心歌が触れた。


『子どもを責めたいわけじゃない』


『でも町中が不安なんだ』


『町長に逆らえない』


『誰かが説明しないと』


 彼らもまた、恐怖に動かされている。


 だからといって、エマを引きずり出していい理由にはならない。


 リシアは静かに尋ねた。


「エマさん本人は、それを望んでいるんですか」


 役人は言葉に詰まった。


「それは……町のために必要なことで」


「町のために必要なら、本人の意思は確認しなくていいんですか」


「しかし」


「声が出ない子だからこそ、確認が必要です」


 リシアの声は穏やかだった。


 けれど、引くつもりはなかった。


「筆談ができるから平気、ではありません。人前で書くことそのものが苦痛になることもあります」


「あなたは旅人でしょう。町の事情を知らない」


「はい。すべては知りません」


 リシアは頷いた。


「だから、勝手に決めないようにしています」


 役人の表情が少し険しくなった。


「では、あなたは町がこのままでいいと言うのですか。風鈴は鳴らず、水路から黒い鐘が鳴り、町民は不安で眠れない。エマさんが何かを知っているなら、話してもらう必要がある」


「話してもらうことと、追い詰めることは違います」


「追い詰めているつもりはありません」


「つもりがなくても、そうなることがあります」


 言いながら、リシア自身の胸にも刺さった。


 善意が誰かを追い詰めることがある。


 励ましが逃げ道を塞ぐことがある。


 自分の歌もそうだったかもしれない。


 だからこそ、今この場で引くわけにはいかなかった。


 工房の内側から、かすかな物音がした。


 リシアは扉の方を見る。


 隙間から、エマの姿が見えた。


 小さな手で筆談板を抱え、こちらを見ている。


 顔は青ざめ、唇は固く閉じられている。


 リシアの心歌には、やはり何も聞こえない。


 無音。


 しかし、その目だけが言っていた。


 怖い、と。


 リシアは扉の前に立った。


「エマさん」


 声を柔らかくする。


「私は、昨日の約束を守ります。歌いません。無理に聞きません。だから、今どうしたいか、あなたが選んでください」


 エマの指が震える。


 筆談板を抱えたまま、なかなか書けない。


 役人が焦れたように口を開きかける。


 リシアは手で制した。


「待ってください」


「しかし」


「待ってください」


 今度は少し強く言った。


 役人が黙る。


 町の通りに人が集まり始めていた。


 遠巻きに見ている人々の心歌が、ざわめく。


『何を書くだろう』


『やっぱり何か知っている』


『早く言えばいいのに』


『子どもを見せ物にするな』


『でも、町はどうなる』


 音が増える。


 リシアの胸が少し苦しくなる。


 こんな中でエマに書かせるのは酷だ。


 だが、完全に人払いする権限はリシアにはない。


 ならば、せめて。


 リシアはエマへ視線を戻した。


「ここではなく、中で書いてもいいです。見せる相手も、あなたが選んでください」


 エマの目が揺れた。


 小さな手が、ようやく板に文字を書き始める。


 短い文字だった。


『りしあだけ』


 マルタが息を呑む。


 役人は戸惑った。


「それでは町長への説明が」


「私が後で伝えます」


 リシアは答えた。


「エマさんが許した範囲だけを」


「それでは困ります」


「では、町長さんに直接確認してください。声を失った子に、人前で書かせることが本当に町のためなのか」


 役人はしばらく黙った。


 やがて、片方が深いため息をつく。


「分かりました。ただし、昼までに町長の屋敷へ来てください。あなたにも、エマさんにも話があります」


 リシアは頷いた。


「分かりました」


 役人たちは不満そうにしながらも引き下がった。


 集まっていた町人たちも、ざわめきながら少しずつ散っていく。


 だが視線は残った。


 エマへの視線。


 リシアへの視線。


 沈黙の町に、不安だけが音もなく積もっていく。


 工房の中に入ると、マルタはすぐに扉を閉めた。


 その音に、エマの肩がびくりと震える。


「ごめんね、エマ」


 マルタが慌てて言う。


 エマは首を横に振った。


 だが、顔色は悪い。


 リシアは近づきすぎないよう、昨日と同じ距離で床に膝をついた。


「怖かったですね」


 エマは筆談板を握ったまま、リシアを見る。


 しばらくして、小さく書いた。


『こわかった』


「はい」


『でも、こえがでないから、いやっていえない』


 その文字を見た瞬間、リシアの胸が締めつけられた。


 声が出ないということは、ただ話せないだけではない。


 拒むことが難しくなる。


 助けを呼ぶことが難しくなる。


 自分の意思を、誰かに軽く扱われやすくなる。


 エマは、そのことを誰よりも知っている。


「嫌な時は、板に書いていいです」


 リシアは言った。


「書けない時は、首を横に振るだけでもいい。目を逸らしてもいい。何もしないことも、拒むことです」


 エマはじっとリシアを見ていた。


『なにもしないのも?』


「はい」


『だまってるのは、わるいことじゃない?』


「悪いことではありません」


 リシアはゆっくり答えた。


「でも、黙らされているなら、それはあなたの沈黙ではありません」


 エマの指が止まった。


 その言葉が届いたのかどうか、リシアには分からない。


 心歌が聞こえないから。


 けれど、エマの目の奥で何かが揺れた。


「エマさん」


 リシアは慎重に続けた。


「昨日、私はあなたの心歌が聞こえないと言いました」


 エマは小さく頷く。


「それは、あなたの心に何もないという意味ではありません」


 エマの目が見開かれた。


「声が聞こえないから、想いがないわけじゃない。心歌が聞こえないから、あなたの中が空っぽなわけでもありません」


 エマの指が震える。


 筆談板に、ゆっくり文字が書かれる。


『からっぽじゃない?』


「はい」


『でも、なかがしずか』


「静かなんですね」


『しずかすぎる』


 エマは唇を噛んだ。


『おとうさんのこえも、かぜのおとも、ふうりんも、なにもきこえない』


 リシアは黙って読んだ。


 エマは続ける。


『まえは、ふうりんをみたら、どんなおとがするかわかった』


『まだならしてなくても、わかった』


『でも、いまは、みてもわからない』


『おとうさんのふうりんも、わからない』


 マルタが口元を押さえた。


 泣きそうな顔だった。


 リシアはエマの文字を見つめる。


 これは単なる失声ではない。


 声だけでなく、内側の音までも封じられている。


 風鈴職人の娘にとって、それはどれほど残酷なことか。


 歌術師のリシアが、心歌を失うようなものだ。


「エマさん。昨日、箱を見せるのを嫌がりましたね」


 エマの体が強張る。


 リシアはすぐに言葉を添えた。


「見せたくないなら、見ません。ただ、あの箱があなたの声と関係しているのかどうかだけ、聞いてもいいですか」


 エマは板を抱え込んだ。


 長い沈黙。


 マルタも口を挟まない。


 リシアも待った。


 シルだけが肩の上で身じろぎし、工房の奥の棚をじっと睨んでいた。


 やはり、あの箱に何かある。


 だが、エマが拒むなら触れない。


 ここで無理に開ければ、リシアも町の役人たちと同じになる。


 やがて、エマが震える手で文字を書いた。


『はこは、おとうさんのさいごのおと』


 リシアは息を止めた。


「最後の音……」


『おとうさんがしぬまえにつくった』


『ならないふうりん』


「鳴らない風鈴?」


 エマは頷く。


『おとうさんは、ならないふうりんをつくってた』


『まちのみんなにはないしょ』


 マルタが驚いたように言う。


「そんな話、私も知らない」


 エマは続けて書く。


『おとうさんは、くろいかねのおとをとめるっていった』


『ふうりんは、かぜをならすもの』


『でも、そのふうりんは、ならないおとをきくためのものだって』


 リシアの胸元で、歌詞帳が震えた。


 鳴らない音を聞くための風鈴。


 ハルクは黒い鐘の音に気付いていた。


 そして、それを止めるために何かを作っていた。


 その結果、死んだ。


 事故ではない可能性が、いよいよ濃くなる。


「その風鈴が、箱の中に?」


 エマは頷いた。


『でも、あけたらだめ』


「どうしてですか」


 エマの手が止まった。


 少し迷い、それから書く。


『あけたら、おとがでる』


「風鈴の音ですか」


 エマは首を横に振った。


『くろいかね』


 工房の空気が冷えた。


 シルが低く鳴く。


 リシアは箱を見ないようにした。


 見れば、すぐにでも確かめたくなる。


 けれど今、エマが恐れているものを、勝手に開けてはいけない。


「分かりました。開けません」


 エマはリシアを見た。


 その目には、昨日より少しだけ信じたいという気持ちが見えた。


 リシアは続ける。


「でも、いつかあなたが開けてもいいと思った時、一緒に見せてください」


 エマはすぐには頷かなかった。


 その代わり、別の文字を書いた。


『りしあは、こえをもどしたい?』


 リシアは少し考えた。


 ここで「戻したい」と言うのは簡単だ。


 けれど、それはリシアの願いであって、エマの願いではない。


「私は、あなたが奪われたものを取り戻せるなら、取り戻したいと思います」


 エマは目を伏せる。


「でも、あなたが声を出すかどうかは、あなたが決めることです」


『こえがもどっても、はなしたくなかったら?』


「話さなくていいです」


『みんながききたがっても?』


「話したくないことは、話さなくていいです」


『でも、まちがこまる』


 リシアは胸が痛んだ。


 十二歳の少女が、町の困りごとを背負おうとしている。


 自分の声を失っているのに。


 父を亡くしているのに。


「町が困っていることと、あなた一人が全部背負うことは違います」


 リシアは言った。


「町の問題なら、町の大人たちも向き合うべきです」


 マルタが顔を伏せた。


「……その通りです」


 彼女の声は震えていた。


「私たちは、エマを守っているつもりで、何も聞かないことにしていたのかもしれません。あの夜のことも、兄のことも、風鈴のことも」


 エマはマルタを見上げる。


 マルタは膝をつき、エマの手を握った。


「ごめんね。話せないから聞けない、じゃなかった。話せなくても、聞き方はあったのに」


 エマの目に涙が浮かんだ。


 声は出ない。


 けれど、彼女は小さく首を横に振った。


 責めていない、というように。


 リシアはその光景を見て、胸の奥が静かに温まるのを感じた。


 だが、次の瞬間だった。


 外からざわめきが聞こえた。


 足音。


 人々の声。


 そして、重い男の声。


「マルタさん。中にいるのは分かっています」


 マルタの顔色が変わる。


「町長……」


 リシアは立ち上がった。


 扉の外には、数人の人影があった。


 中心にいるのは、五十代ほどの男。


 濃紺の上着を着て、銀の飾りがついた杖を持っている。整えられた髭と、よく通る声。立ち姿には、町の責任者としての重みがあった。


 オルヴェン町長。


 彼は扉の前で、丁寧に頭を下げた。


「急に押しかけて申し訳ない。しかし、町として見過ごせない状況になっている」


 リシアは扉を開け、外へ出た。


「リシアです。先ほど役人の方からお話は聞きました」


「あなたが旅の歌魔術師か」


「はい」


「ならば、町のために協力していただきたい」


 町長の声は落ち着いている。


 だが、リシアにはその心歌の奥に硬い焦りが聞こえた。


『早く収めなければ』


『町が壊れる』


『風鈴の町が、沈黙の町などと呼ばれてはならない』


『ハルクの件を掘り返されるのはまずい』


 最後の音に、リシアはわずかに眉を動かした。


 ハルクの件を掘り返されるのはまずい。


 町長は、何か知っている。


「協力とは、何をすればいいのでしょうか」


 リシアが尋ねる。


 町長は工房の奥へ視線を向けた。


 エマはマルタの背後に隠れている。


「エマに、昨夜の鐘について知っていることを書いてもらいたい。それだけだ」


「それだけ、ではありません」


 リシアは静かに言った。


「彼女にとっては、とても大きなことです」


「もちろん配慮はする。だが、町民の不安も限界だ。昨夜から、エマが黒い鐘を呼んでいるのではないかという噂まで出ている」


「その噂を止めるのが、町長さんの役目ではありませんか」


 町長の目が細くなる。


 周囲の町人たちが息を呑んだ。


「旅人に町政を説かれるとは思わなかったな」


「失礼を承知で言っています」


「では聞こう。あなたはこの町を救えるのか」


 町長の声が少し低くなった。


「風鈴を鳴らせるのか。黒い鐘を止められるのか。エマの声を戻せるのか。できないのなら、町として可能な手を打つしかない」


 リシアは言葉に詰まった。


 できる、と言えない。


 まだ何も分かっていない。


 エマの声を戻せる保証もない。


 黒い鐘を止められる確証もない。


 リシアの沈黙を、町長は肯定と取ったようだった。


「あなたの優しさは分かる。だが、優しさだけでは町は守れない」


 その言葉は、リシアの胸に刺さった。


 優しさだけでは守れない。


 それは事実だ。


 歌だけでは救えないように。


 けれど。


「優しさを捨てれば守れる、というわけでもありません」


 リシアは言った。


 声は静かだった。


「エマさんを人前に立たせ、怯えたまま書かせれば、何かは分かるかもしれません。でも、その代わりに彼女がさらに声を閉ざしたら、それは町を守ったことになるのでしょうか」


 町長は答えなかった。


「私はまだ、風鈴を鳴らせません。黒い鐘も止められません。エマさんの声を戻せるとも言えません」


 リシアは自分の弱さを隠さなかった。


「でも、彼女を町の不安の置き場所にしてはいけないことだけは分かります」


 周囲の町人たちの心歌が揺れた。


『置き場所』


『不安の』


『でも、じゃあどうすれば』


『エマを責めたいわけじゃない』


『ただ、怖い』


 恐怖は消えない。


 当然だ。


 言葉だけで人の心は変わらない。


 その時だった。


 水路の方から、ごおん、と低い鐘の音が響いた。


 昨日より近い。


 昨日より重い。


 町人たちが一斉に振り返る。


 軒先の風鈴が激しく揺れた。


 音は鳴らない。


 鳴らないまま、硝子が震え、短冊が乱れる。


 エマが両耳を押さえた。


 声にならない悲鳴が、その顔に浮かぶ。


 リシアは振り返った。


 水路の方ではない。


 黒い鐘の音は、今、工房の奥からも響いている。


 ハルクの遺品箱。


 布をかけられた小さな箱が、棚の上で震えていた。


 エマが必死に首を横に振る。


 マルタが彼女を抱きしめる。


 町長の顔色も変わった。


「何だ、あれは」


 リシアは答えなかった。


 箱から黒い譜面のような線が漏れ出している。


 細く、煙のように。


 それが工房の天井へ伸び、軒先の風鈴に絡みついていく。


 風鈴はさらに激しく揺れる。


 音は、出ない。


 まるで喉を締められた人のように。


 町人たちがざわめく。


「やっぱり、あの箱が」


「エマは知っていたんじゃないか」


「隠していたのか」


 不安が怒りへ変わる。


 まずい。


 リシアは前へ出た。


「下がってください!」


 黒い譜面の線が水路へ向かって伸びる。


 同時に、人々の心歌が激しく乱れ始める。


『隠していた』


『町が苦しんでいるのに』


『あの子が』


『でも子どもだ』


『怖い』


『何とかしろ』


 音が多すぎる。


 リシアの中で、他人の恐怖と自分の焦りが混ざりかける。


 静律結界を使うべきか。


 だが、ここは狭い。


 工房の前に町人が密集している。


 長くは持たない。


 黒譜術の影響下では効果も落ちる。


 それでも、今必要なのは一呼吸だ。


 ラグナでそうしたように。


 リシアは息を吸った。


 歌う。


 ただし、エマへ向けてではない。


 この場の暴走を止めるために。


「静律結界」


 低く、短い旋律が工房前に広がった。


 風鈴の鳴らない町に、久しぶりに人の歌声が落ちる。


 それは大きな歌ではない。


 誰かを励ます歌でもない。


 混乱する場に、一呼吸だけ隙間を作るための歌。


 町人たちの怒声が、わずかに遅れる。


 足音が止まる。


 エマを責めようとしていた視線が、一瞬だけ揺らぐ。


 だが同時に、箱から漏れる黒い譜面がリシアの歌に絡みついた。


 喉に痛みが走る。


 音が削られる。


 ラグナの黒譜術よりも、音に対する妨害が強い。


 リシアは顔を歪めた。


 シルが肩の上で鋭く鳴く。


 黒い線が一本、リシアの歌詞帳へ伸びた。


 シルが飛び出し、前足でその線を叩くように跳ねた。


 黒い線が弾ける。


「シル!」


 リシアは叫びかけたが、歌を止められなかった。


 シルは床へ着地し、箱に向かって威嚇するように尻尾を膨らませる。


 エマがその姿を見た。


 恐怖で震えていた彼女の目に、わずかな驚きが浮かぶ。


 その時、エマがマルタの腕を振りほどいた。


「エマ!」


 声は出ない。


 それでも、エマは筆談板を抱えて前へ出る。


 リシアは静律結界を維持しながら、必死に首を横に振った。


 無理をしないで。


 まだ前へ出なくていい。


 そう言いたかった。


 だが、声にできない。


 歌を止めれば、町人たちの恐怖が再び爆ぜる。


 エマは震える手で、板に文字を書いた。


 何度も手が滑り、文字が歪む。


 それでも、彼女は書いた。


『はこを、あけないで』


 町長がその文字を見た。


「なぜだ」


 エマの顔が苦しげに歪む。


 リシアは歌いながら思った。


 聞かないで。


 今、その問いは彼女を追い詰める。


 しかし、町長は続けてしまった。


「なぜ、開けてはいけない。あれが原因なら、調べる必要がある」


 エマの手が震える。


 筆談板に、次の文字が書かれた。


『おとうさんが』


 そこで止まる。


 黒い鐘の音が強くなった。


 ごおん。


 エマの顔が真っ青になる。


 それでも彼女は書く。


『おとうさんが、ころされた』


 工房前にいた全員が凍りついた。


 ハルクは事故死ではない。


 エマは、そう書いた。


 リシアの歌が一瞬、揺らいだ。


 その隙を突くように、黒い譜面が箱から大きく伸びた。


 水路へ向かうのではなく、エマへ向かって。


 リシアは咄嗟に歌を切り替えようとした。


 静律結界から守護詩へ。


 しかし遅い。


 黒い線がエマの筆談板へ絡みつく。


 板の上の文字が黒く滲み始めた。


 『おとうさんが、ころされた』


 その文字が消されていく。


 エマの目に恐怖が浮かぶ。


 自分がやっと書いた言葉が、また奪われる。


 リシアの胸が熱くなった。


 怒りだった。


 人の声を奪う。


 書いた言葉まで奪う。


 こんなものを、許してはいけない。


「その言葉を、消さないでください」


 リシアは歌を止め、はっきりと言った。


 静律結界が途切れる。


 町人たちのざわめきが戻る。


 だが、リシアはもう止まらなかった。


「それは、エマさんがやっと書いた言葉です」


 黒い譜面がリシアの喉に絡む。


 痛い。


 声が掠れる。


 それでも、リシアは前へ出た。


「誰かの痛みを、なかったことにしないでください」


 胸元の歌詞帳が光る。


 まだ歌詞は生まれていない。


 でも、今ここで必要なのは完成した歌ではない。


 一音。


 閉じられた声へ返すための、一音。


 リシアはエマを見る。


「エマさん」


 声が痛む。


「声を出さなくていい。歌わなくていい。書かなくてもいい」


 エマの目が揺れる。


「でも、その言葉を消されるのが嫌なら」


 リシアは手を伸ばした。


「板を、私に見せてください」


 エマは震えていた。


 黒い線は今も文字を消そうとしている。


 だが、エマは筆談板を抱え直した。


 そして、一歩。


 リシアの方へ踏み出した。


 その瞬間、シルが箱へ飛びついた。


 前足で布を引っ張る。


 布がずれた。


 箱の表面が露わになる。


 黒い木箱。


 蓋には、風鈴の形をした銀細工が埋め込まれている。


 その銀細工の中心に、黒い譜面の印が刻まれていた。


 ラグナの炉にあったものと似ている。


 だが、より細く、より冷たい。


 音を殺すための印。


 シルがその印に触れた瞬間、強い光が弾けた。


 シルが吹き飛ばされる。


「シル!」


 リシアは反射的に手を伸ばした。


 シルは床を転がり、すぐに起き上がった。怪我はなさそうだが、毛が逆立っている。


 そして、今まで聞いたことがないほど鋭く鳴いた。


 ちいっ!


 その声に反応したように、箱の中から一つの音が漏れた。


 ちりん。


 風鈴の音だった。


 この町に来てから初めて聞く、はっきりした風鈴の音。


 だが、それは美しいだけではなかった。


 音の底に、黒い鐘の響きが混じっている。


 ごおん。


 ちりん。


 ごおん。


 ちりん。


 二つの音が重なり、工房の空気を震わせる。


 エマが両耳を押さえて膝をついた。


 マルタが駆け寄る。


 町長も、町人たちも動けない。


 リシアは歯を食いしばった。


 今、箱を開けてはいけない。


 エマがそう言った理由が分かった。


 中にある鳴らない風鈴は、黒い鐘の音と繋がっている。


 開ければ、おそらく町中にその音が広がる。


 けれど、完全に閉じたままでは、エマの声も町の風鈴も戻らない。


 なら、まず黒譜術を弱める必要がある。


 そのためには、ハルクが何を作ろうとしていたのかを知る必要がある。


 リシアはエマの筆談板を見る。


 黒く滲みかけた文字。


 エマは震えながらも、それを消されまいと板を抱えている。


 リシアは膝をつき、エマの目を見る。


「エマさん。私は、あなたの言葉を勝手に歌にはしません」


 エマの目から涙がこぼれる。


「でも、今だけ。あなたが書いた言葉を、消されないように守るための歌を歌ってもいいですか」


 エマは震えていた。


 迷っていた。


 歌わないでと言った相手を、信じていいのか。


 リシアは待った。


 急がない。


 黒い音は迫っている。


 町人たちもざわめいている。


 それでも、この許しだけは奪ってはいけない。


 やがて、エマは小さく頷いた。


 声はない。


 でも、確かな許しだった。


 リシアは目を閉じた。


 歌うのは、声を戻す歌ではない。


 真実を暴く歌でもない。


 ただ、書かれた言葉を守る歌。


 守護詩。


 リシアは低く歌った。


 その声は黒い鐘に何度も削られた。


 美しくはなかった。


 掠れていた。


 それでも、エマの筆談板に向かってまっすぐ届いた。


 ――書かれた痛みを、消させない。


 ――震えた指先を、なかったことにしない。


 ――声にならない言葉にも、居場所はある。


 黒い滲みが止まった。


 完全に消えたわけではない。


 だが、エマの文字は残った。


『おとうさんが、ころされた』


 町人たちは、その文字を見た。


 町長も見た。


 マルタは震えながらエマを抱きしめた。


 リシアは歌を止め、ゆっくり息を吐いた。


 喉が焼けるように痛む。


 けれど、今は立っていられた。


 町長が、かすれた声で言った。


「エマ。誰に……」


 エマは泣いていた。


 だが、もう板を隠さなかった。


 彼女は震える手で、次の文字を書いた。


『かねのした』


 誰も意味が分からなかった。


 リシアだけが、水路を思い浮かべる。


 黒い鐘の音。


 水路の下。


 その下に、何かがある。


 エマはさらに書いた。


『おとうさんは、みずのしたに、いった』


 そこで、箱が再び震えた。


 リシアは咄嗟に振り返る。


 黒い譜面が、箱の表面に深く刻まれていく。


 まるで、これ以上書かせるなと叫んでいるように。


 シルが威嚇する。


 町長が一歩下がる。


 リシアは箱を見つめた。


 今なら分かる。


 これはただの遺品箱ではない。


 ハルクが作った鳴らない風鈴を封じる箱であり、同時に、黒譜術によって口を塞がれた証拠でもある。


 リシアの歌詞帳が震えた。


 白紙のページに、青い線が増える。


 まだ歌詞にはならない。


 しかし、一つの言葉が浮かび上がった。


『一音返し』


 リシアは息を呑んだ。


 一音返し。


 エマの失われた声を一度に戻す歌ではない。


 黒い鐘に奪われた音を、一音だけ返す歌。


 おそらく、それがこの編の鍵になる。


 だが、今はまだ歌えない。


 エマの心歌が聞こえない。


 ハルクの残した風鈴も見ていない。


 黒い鐘の正体も分からない。


 今歌えば、失敗する。


 そして失敗すれば、エマは二度とリシアを信じないかもしれない。


 リシアは拳を握った。


「町長さん」


 彼女は言った。


「水路の下を調べる必要があります」


 町長は顔色を悪くしたまま、黙っている。


 リシアは続けた。


「ハルクさんは事故で亡くなったのではない可能性があります。エマさんは何かを見ています。でも、今これ以上問い詰めてはいけません」


「……水路の下は危険だ」


 町長がようやく口を開いた。


「古い排水路がある。戦争中に封鎖した場所だ。崩落の危険がある」


「なぜ封鎖を?」


「老朽化だ」


 心歌が揺れた。


『違う』


 リシアはその音を聞いた。


 町長は嘘をついている。


 あるいは、すべてを語っていない。


「本当に老朽化だけですか」


 リシアが尋ねると、町長の表情が硬くなった。


「旅人が踏み込む話ではない」


「エマさんの父親がそこへ向かったなら、踏み込む必要があります」


「町を危険に晒すわけにはいかない」


「すでに危険です」


 リシアははっきり言った。


「黒い鐘は昨夜も鳴りました。今も鳴りました。風鈴は鳴らないままです。このまま見ないふりをしても、音は戻りません」


 町長は返事をしなかった。


 周囲の町人たちも沈黙している。


 だが、その沈黙の質は少し変わっていた。


 エマを責める沈黙ではない。


 自分たちも何かを見ないふりしていたのではないか、という沈黙。


 リシアはエマを見た。


 エマはマルタに抱かれたまま、筆談板を握っている。


 そこにはまだ、黒く滲みかけた文字が残っていた。


『おとうさんが、ころされた』


『かねのした』


 声は出ない。


 けれど、確かに一つの言葉が町へ届いた。


 その時、工房の奥の箱から、また小さな風鈴の音がした。


 ちりん。


 今度は黒い鐘と重ならなかった。


 ほんの一音。


 澄んだ、寂しい音だった。


 エマが顔を上げる。


 リシアの歌詞帳が震える。


 青い線が、白紙の上で一瞬だけ文字になりかけた。


『声は、まだ死んでいない』


 だが、すぐに消えた。


 まだ足りない。


 エマ自身の心歌が、まだ聞こえない。


 ハルクの遺した音も、まだ箱の中だ。


 そして水路の下には、黒い鐘が眠っている。


 町長は長い沈黙の後、低く言った。


「夕刻、町の役場で話し合いを開く」


「エマさんを呼ぶのですか」


「……呼ばない」


 町長は苦々しげに言った。


「まずは大人だけで話す。水路下の排水路についても説明する」


 リシアは頷いた。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではない。町長として当然の判断だ」


 そう言った町長の心歌には、まだ迷いと恐れがあった。


 けれど、少なくともエマを今すぐ吊し上げる流れは止まった。


 町人たちは少しずつ散っていった。


 誰も軽い足取りではなかった。


 ただ、去り際にエマを見る目は、先ほどまでとは少し違っていた。


 責める目だけではない。


 恐れだけでもない。


 初めて、彼女が何かを抱えていたのだと気付いた目だった。


 工房の扉が閉まる。


 中には、リシア、マルタ、エマ、そしてシルだけが残った。


 エマは筆談板を抱えたまま、床に座り込んでいる。


 リシアは彼女の前に膝をついた。


「よく、書いてくれました」


 エマの涙がまたこぼれた。


 彼女は震える手で、板に小さく書く。


『こわかった』


「はい」


『けされるとおもった』


「消させませんでした」


『うた、こわくなかった』


 その文字を見て、リシアの胸が熱くなった。


 歌が怖くなかった。


 たったそれだけの言葉が、今のリシアには何より重かった。


 リシアは深く頭を下げた。


「聞いてくれて、ありがとうございます」


 エマは少しだけ首を傾げた。


 なぜ歌った側が礼を言うのか、分からないという顔だった。


 リシアは微笑む。


「歌は、聞いてくれる人がいなければ届きませんから」


 エマはしばらく考え、それから小さく頷いた。


 シルがエマの足元へ歩いていき、焼き栗の袋から一つ取り出した。


 そして、エマへ差し出す。


 リシアは目を丸くした。


「シル、自分から分けるの?」


 シルは胸を張った。


 エマは戸惑いながら、焼き栗を受け取った。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


 声はない。


 でも確かに笑った。


 その瞬間、工房の窓辺に吊るされた青い風鈴が揺れた。


 ちり。


 小さな音。


 今度はリシアだけでなく、マルタも、エマも聞いた。


 三人は同時に風鈴を見る。


 音はすぐに消えた。


 けれど、鳴った。


 ほんの一音だけ。


 エマの目に、大粒の涙が浮かぶ。


 筆談板に、震える字が書かれる。


『きこえた』


 リシアは頷いた。


「はい。聞こえました」


『わたしにも』


 リシアは息を呑む。


 エマにも聞こえた。


 内側の音を失っていた彼女に、今、一音だけ返った。


 一音返し。


 まだ術として完成していない。


 けれど、その兆しが確かにあった。


 リシアは歌詞帳を開く。


 白紙のページに、青い線が一つ増えていた。


 歌詞ではない。


 けれど、次へ進むための一音。


 そこに、小さな文字が浮かんだ。


『沈黙の断章』


 リシアはその文字を見つめた。


 この町の真実は、まだ水路の下にある。


 ハルクが死の直前に作った鳴らない風鈴。


 声を奪われたエマ。


 水路の下の黒い鐘。


 そして、黒譜術に覆われた箱。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 エマはまだ声を取り戻していない。


 町の風鈴も、ほとんど鳴らないままだ。


 しかし、完全な沈黙ではなくなった。


 たった一音。


 されど、一音。


 その一音は、夜明け前の暗闇に灯る小さな光のように、確かにそこにあった。


 夕刻の役場で、何が明かされるのか。


 水路の下には、何が眠っているのか。


 リシアにはまだ分からない。


 ただ、今度は歌うだけでは届かないことだけは分かっていた。


 沈黙の奥に隠された真実へ、踏み込まなければならない。


 そして、その時こそ。


 エマ自身が、自分の声をどうするのか選ぶことになる。


 リシアは立ち上がり、窓辺の風鈴を見た。


 青い硝子の小さな風鈴は、もう鳴っていない。


 それでも、先ほどの一音の余韻は、リシアの胸に残っていた。


 シルが肩へ戻ってくる。


 焼き栗の袋は、少し軽くなっていた。


「シル。分けてくれてありがとう」


 シルは照れたように顔を背けた。


 それから、思い出したようにリシアの耳元で鳴く。


 ちい。


「うん」


 リシアは頷いた。


「行こう。夕方までに、聞けることを聞かないと」


 工房の外では、霧が少しずつ晴れ始めていた。


 けれど、水路の底だけは、まだ黒く沈んでいる。


 その奥で、誰にも鳴らされていない鐘が、静かに次の音を待っていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、エマが初めて自分の言葉を町へ示す回でした。


声は出なくても、筆談板に刻んだ言葉。

そして、リシアが守ったその一文。


『おとうさんが、ころされた』


エマの沈黙は、ただの悲しみではありませんでした。

水路の下に響く黒い鐘、ハルクが遺した鳴らない風鈴、そして声を奪う黒譜術こくふじゅつ


リシアはまだ真実へ辿り着いていません。

けれど、エマに一音だけ風鈴の音が返りました。


次話では、水路の下に隠されたものへ踏み込んでいきます。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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