声のない少女編 4話 風鈴の鳴らない町
ラグナ工房町を離れたリシアとシルは、次の町へ向かう。
辿り着いたのは、水路と風鈴で知られる水鈴町エルネ。
本来なら、風が吹くたびに涼やかな音が町を満たすはずだった。
けれど、町に吊るされた風鈴は鳴らない。
音を失った町で、リシアは声にならない想いと出会うことになる。
ラグナ工房町を出て三日目の朝、リシアは道端の石に腰を下ろし、歌詞帳を開いていた。
街道の脇には、名も知らない白い花が小さく咲いている。朝露を含んだ花びらは、陽の光を受けて淡く光り、風が吹くたびに細い茎を揺らした。
空はよく晴れていた。
王都を出たばかりの頃は、晴れた空を見るたびに胸が少し痛んだ。戦争が終わった日の広場の空を思い出すからだ。人々の拍手と、進軍詩を求める声と、あの片腕の兵士の震えた心歌。
けれど今は、ほんの少しだけ違った。
晴れた空の下にも、悲しみはある。
消えない痛みもある。
でも、灰の底に残る火のように、まだ歩ける何かもある。
ラグナで受け取った一節は、歌詞帳の中で静かに光っていた。
『怖くても、消さなかった小さな火は、
灰の底で、次の手を待っている。』
リシアは指先でその文字をなぞった。
自分が書いた文字ではない。
けれど、自分が聞いた想いから生まれた歌詞だ。
ガルドの炉。
リナの折れた剣。
カイルの短槍。
ミラの涙。
トマが握りしめていた焼き栗。
それらが一つの火として、ここに残っている。
「……不思議だね」
リシアは小さく呟いた。
「私の歌詞帳なのに、私だけのものじゃないみたい」
肩の上から、ちい、と声がした。
銀色のリス、シルである。
シルはリシアの肩に乗り、大事そうに小さな布袋を抱えていた。ラグナを出る時、トマからもらった焼き栗の袋だ。すでに半分以上が消えている。
「シル。それ、残りはいざという時用だからね」
シルは目を逸らした。
「いざという時って、今じゃないよ」
シルは布袋を抱え直し、しれっとした顔で空を見た。
「聞こえてる?」
ちい。
「聞こえてる返事をしたのに、食べる気はあるんだね」
シルは今度こそ完全に知らん顔をした。
リシアは呆れたように笑う。
旅はまだ慣れない。
野宿の準備も、宿代の節約も、街道の分かれ道で迷わないことも、王都で暮らしていた頃には考えなくてよかったことばかりだ。けれど、シルがいるだけで、重くなりすぎる心が少し軽くなる。
もちろん、シルは木の実と焼き菓子のためにリシアの肩に乗っているのかもしれない。
少なくとも本人、いや、本リスはそういう顔をしている。
けれど、ラグナの炉で黒譜術の黒い滲みが歌詞帳へ広がった時、シルは確かにそれを押し返そうとした。
ただのリスではない。
そう思う場面は増えている。
それでもリシアは、今のところ深く問いただしてはいなかった。
シルが喋るわけではないから、という理由もある。
しかしそれ以上に、今のリシアには、シルがそばにいてくれること自体がありがたかった。
正体を知ることよりも、今は一緒に歩くことの方が大切な気がしていた。
リシアは歌詞帳のページをめくった。
火の断章の一節が刻まれた次のページは、まだ白紙だ。
ただ、その白紙の端に、ほんの薄い線が浮かんでいる。
黒ではない。
火の赤でもない。
透明に近い、細い青。
まるで、音にならなかった息が紙の上に残ったような線だった。
「次は、何だろう」
リシアが呟くと、シルが布袋から顔を上げた。
その金色の目が、街道の先を見つめる。
リシアも同じ方向を見る。
遠くに、町が見えた。
山あいの低い丘を越えた先に、薄い青い屋根がいくつも並んでいる。町の周囲には小さな水路が巡り、光を反射してきらきらと輝いていた。
旅人用の道標には、町の名が刻まれている。
水鈴町エルネ。
古くから水路と風鈴作りで知られる町だと、昨日泊まった宿の主人が教えてくれた。
風が通るたび、町中に吊るされた風鈴が涼やかな音を鳴らす。夏には各地から旅人が訪れ、工房で作られた水晶風鈴を土産に買っていくという。
戦後で人の往来は減っているものの、比較的穏やかな町だと聞いていた。
リシアは立ち上がり、歌詞帳を閉じる。
「行こうか、シル。次の町は風鈴が有名なんだって」
シルは首をかしげた。
「風鈴、分かる?」
ちい。
「風で鳴る小さな飾り。綺麗な音がするんだよ」
シルは少し考え、それからリシアの髪飾りを前足でつついた。
「それは髪留め」
シルはもう一度つついた。
「鳴らないよ」
ちい。
「不満そうにしないで」
リシアは笑いながら歩き出した。
だが、町へ近づくにつれて、その笑みは少しずつ薄れていった。
風は吹いている。
水路沿いの柳は揺れ、丘の草も波のように倒れている。町の入口には、確かにいくつもの風鈴が吊るされていた。透明な水晶、青い陶器、薄い金属で作られたもの。それぞれが細い紐で門や軒先から下がり、風を受けて揺れている。
けれど、音がしなかった。
一つも。
風鈴は揺れている。
短冊も揺れている。
なのに、澄んだ音が鳴らない。
まるで町全体が、息を潜めているようだった。
「……おかしい」
リシアは足を止めた。
シルも肩の上で身を低くする。
水鈴町エルネの門は開いている。
門番もいる。
人の姿もある。
だが、ラグナのような怒りや焦りとは違う、奇妙な静けさがあった。
人々は普通に歩き、店の準備をし、桶に水を汲み、荷物を運んでいる。
けれど、声が少ない。
会話が短い。
笑い声がない。
町に吊るされた風鈴と同じように、人々の声までどこか鈍っている。
リシアは耳を澄ませた。
心歌を探る。
すると、いくつものかすかな音が届いた。
『今日も鳴らない』
『あの子のせいなのか』
『いや、そんなはずはない』
『でも、あの子が声を失ってからだ』
『風鈴の町なのに、音が死んでいる』
『歌術師でも呼べればいいのに』
『歌術師は嫌だ。余計なことをされる』
リシアは眉を寄せた。
声を失った子。
風鈴が鳴らない町。
そして、歌術師への期待と拒絶。
ラグナとは違う。
だが、ここにも何かがある。
リシアは門へ近づいた。
門番の男が彼女を見て、少し驚いたように目を開く。
リシアの胸元の徽章と、淡い青のローブ、そして肩の銀色のリスを順番に見た。
「旅の方か」
「はい。リシアといいます。歌魔術師です」
歌魔術師。
その言葉に、門番の顔色がかすかに変わった。
警戒。
期待。
困惑。
感情が一度に混ざり、声に出る前に押し込められる。
「歌魔術師か……」
「何か、問題が起きているんですか」
リシアが尋ねると、門番はすぐには答えなかった。
視線を町の中へ向ける。
そこには、揺れる風鈴がいくつもあった。
音のしない風鈴。
「いや。旅人が気にすることじゃない」
そう言った。
だが、心歌は別のことを言っていた。
『誰かに見てほしい』
『でも、町長は外へ話すなと言った』
『歌術師なら、あの子の声を戻せるのか』
『戻してほしい』
『いや、歌なんて余計に傷つけるかもしれない』
リシアは門番を見つめた。
「私は、勝手に踏み込むつもりはありません」
門番の目が揺れる。
「ただ、町に入ってもいいですか」
「あ、ああ。宿なら中央水路沿いの『鈴音亭』がある。飯もうまい」
「ありがとうございます」
リシアは一礼して町へ入った。
石畳の道の両脇には、水路が細く流れていた。透き通った水が光を弾き、時折、小さな魚が影のように泳いでいく。家々は白い壁と青い屋根で統一され、窓辺には風鈴が吊るされている。
本来なら、美しい町なのだろう。
涼しげで、穏やかで、歌がよく似合う町。
けれど今は、その美しさがかえって不安を強めていた。
どれだけ風鈴が揺れても、音が鳴らない。
町の人々はそれに慣れてしまったように、風鈴を見上げようとしない。
見てしまえば、鳴らないことを認めなければならないから。
リシアには、そう感じられた。
中央通りに出ると、朝市が開かれていた。
野菜、果物、布、陶器、小さな風鈴。品物は多い。だが、売り声は控えめで、客とのやり取りもどこかぎこちない。
シルだけは、干し果物の屋台に目を輝かせていた。
「宿が先」
リシアが言うと、シルは抗議するように鳴いた。
「さっき焼き栗食べたよね」
シルは首を横に振った。
「食べてないことにするのは無理だよ。頬、まだ少し膨らんでるから」
シルは慌てて頬を押さえた。
その仕草を見て、近くの屋台の女性が小さく笑った。
本当に小さな笑い。
すぐに口元を押さえたが、確かに笑いだった。
リシアはその女性に目を向ける。
四十代ほどの、優しそうな女性だった。籠に入った果物を並べている。彼女の店先にも水晶風鈴が吊られていたが、やはり音はない。
「かわいいリスね」
女性が言った。
「ありがとうございます。食いしん坊ですけど」
シルが不満そうに鳴く。
「ほら、干し果物を一つあげるわ」
女性が小さな干し杏を差し出した。
シルの目が輝く。
「すみません」
「いいのよ。久しぶりに、少し笑った気がする」
女性はそう言ってから、はっとしたように口を閉ざした。
リシアはその表情を見逃さなかった。
「この町では、笑うことも少なくなっているんですか」
女性は周囲を見回した。
声を落とす。
「あなた、歌魔術師さんなのよね」
「はい」
「なら、もしかして……」
女性は言いかけて、途中でやめた。
心歌が揺れる。
『話したい』
『でも、町長に叱られる』
『あの子を見世物にしたくない』
『けれど、このままでは町も、あの子も壊れてしまう』
リシアは静かに言った。
「無理に話さなくて大丈夫です」
女性が顔を上げる。
「私は、聞かせてもらえる時に聞きます。話したくないことを歌でこじ開けるつもりはありません」
女性の目に、少しだけ安堵が浮かんだ。
「……鈴音亭に泊まるなら、女将に聞いてみるといいわ。あの人なら、町のことを少し話してくれるかもしれない」
「ありがとうございます」
「それと」
女性はリシアの肩のシルを見た。
「その子、干し杏をもう一つ欲しそうな顔をしているけど、あげてもいい?」
「一つだけなら」
シルの尻尾が跳ねた。
「二つは駄目」
シルの尻尾が下がった。
女性は今度こそ、少しだけ声に出して笑う。
その瞬間だった。
頭上の風鈴が、かすかに揺れた。
ちり、と。
ほんの一音。
それは聞き間違いかと思うほど小さな音だった。
だが、リシアには確かに聞こえた。
女性も聞こえたのだろう。
目を見開き、風鈴を見上げる。
「今……」
周囲の人々も振り返った。
沈黙が落ちる。
風鈴は揺れている。
しかし、二音目は鳴らなかった。
先ほどの一音が嘘だったように、町は再び静けさに戻る。
リシアは胸元の歌詞帳に手を置いた。
ページの奥で、白紙が微かに震えている。
今の音は、ただの風鈴の音ではない。
町のどこかに閉じ込められている声が、一瞬だけ漏れたような音だった。
鈴音亭は、中央水路に面した二階建ての宿だった。
白い壁に青い屋根。入口には大きな風鈴が三つ吊るされている。透明な硝子で作られ、中には小さな青い花の絵が描かれていた。
きっと本来なら、涼やかな音で旅人を迎えるのだろう。
今は、揺れているだけだった。
リシアが扉を開けると、中から温かい香草の匂いがした。
宿の食堂には数人の客がいたが、会話は少ない。木製の床は丁寧に磨かれ、窓辺には小さな花瓶が置かれている。静かながら、手入れの行き届いた宿だった。
帳場にいた女将が顔を上げる。
五十歳前後のふくよかな女性で、穏やかな目をしている。だが、その目元には疲れがあった。
「いらっしゃい。旅の方かい」
「はい。一泊お願いできますか」
「もちろん。おや、その子は?」
「シルです。私の相棒です」
シルはリシアの肩の上で、まるで立派な同行者であるかのように胸を張った。
女将は目を細める。
「まあ、賢そうなリスだね」
「賢い時と、食べ物に正直な時があります」
シルが抗議するように鳴いた。
女将はくすりと笑った。
その笑いも、どこか久しぶりに出たもののようだった。
「いいよ。部屋に傷をつけなければ、リスも泊まって構わない」
「ありがとうございます」
「ただし、台所には入れないでおくれよ。干し果物の袋を開けられたら困るからね」
シルが不自然に目を逸らした。
リシアは深く頭を下げた。
「気をつけます」
部屋を案内された後、リシアは食堂で温かい茶をもらった。
シルはテーブルの上に乗ろうとしてリシアに止められ、仕方なく椅子の上で丸くなっている。だが、女将が小皿に木の実を少し置いてくれたため、すぐに機嫌を直した。
リシアは茶の湯気を見つめながら、女将に尋ねた。
「この町の風鈴は、いつから鳴らなくなったんですか」
女将の手が止まった。
食堂の空気も、少しだけ変わる。
客の一人がこちらを見た。
別の客は目を伏せた。
女将はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように椅子へ腰を下ろした。
「三月ほど前からだよ」
「三月……」
「最初は、風が弱いのだろうと思っていた。でも、そうじゃなかった。どれだけ風が吹いても鳴らない。水晶を替えても、紐を替えても、吊るす場所を変えても駄目だった」
「町中の風鈴が?」
「全部じゃない。最初は中央通りだけだった。それが少しずつ広がって、今は町のほとんどが鳴らない」
リシアは窓辺の風鈴を見る。
風は入ってきている。
短冊も揺れている。
だが、やはり音はない。
「原因に心当たりはありますか」
女将は視線を落とした。
「町では、ある子のせいだと言う者もいる」
リシアは門番や果物売りの心歌を思い出す。
「声を失った子ですか」
女将の目が鋭くなった。
「誰に聞いたんだい」
「町の人たちの心歌です」
「……心歌」
「人の本音や、言葉にならない想いが、歌のように聞こえることがあります。ただ、心を完全に読めるわけではありません。断片だけです」
女将は警戒するようにリシアを見た。
「それは、嫌な力だね」
「はい。そう感じる人もいると思います」
リシアは否定しなかった。
女将の表情が少しだけ揺れる。
「あなたは、不思議な歌魔術師だね。普通は、そんなふうに言われたら言い返すものだよ」
「言い返したら、嫌だと思った気持ちが消えるわけではありませんから」
リシアは茶の器に目を落とした。
「私も、自分の力がいつも正しいとは思っていません。聞こえたことで、相手を傷つけてしまうこともあります」
食堂の沈黙が少し緩む。
女将は小さく息を吐いた。
「……声を失った子は、エマという。十二歳の女の子だよ」
「エマさん」
「風鈴職人の娘でね。父親のハルクは、この町で一番の腕を持つ職人だった。エマもよく工房を手伝っていた。小さい頃から耳がよくて、風鈴の音の違いを聞き分ける子だったよ」
「その子が、三月前に声を失ったんですか」
「そうだね」
女将は頷いた。
「でも、病気じゃない。喉に異常はないと医者は言った。怪我もない。ただ、ある日を境に声が出なくなった」
「ある日?」
女将は口を閉じた。
明らかに、言うか迷っている。
リシアは待った。
急かさない。
歌わない。
沈黙もまた、聞くことの一部だ。
やがて、女将は重い口を開いた。
「エマの父親が死んだ日だよ」
シルが木の実をかじる音も止まった。
「ハルクさんが……」
「水路で見つかった。事故だとされた。夜遅くに工房から出て、足を滑らせたのだろうとね」
「実際は違うんですか」
「分からない」
女将は首を横に振った。
「ただ、エマは何かを見たらしい。その夜から声が出なくなった。そして、その日を境に風鈴が鳴らなくなり始めた」
リシアの胸元で、歌詞帳が微かに震えた。
父を失った少女。
声を失った夜。
鳴らなくなった風鈴。
そして、町全体へ広がる沈黙。
「エマさんは今どこに?」
「父親の工房にいる。叔母が世話をしているけれど、ほとんど外へ出ない」
「会うことはできますか」
女将はすぐには答えなかった。
「歌で声を戻すつもりかい」
「分かりません」
リシアは正直に言った。
「戻せるかどうかも、戻すことが正しいかどうかも、まだ分かりません」
「声を戻すのが正しくないことなんてあるのかい」
「あります」
リシアは静かに答えた。
「もし、その子が声を出さないことで自分を守っているのなら。もし、思い出すことが今の彼女を壊してしまうなら。無理に声を戻すことは、救いではないかもしれません」
女将の顔に、驚きが浮かぶ。
食堂の客たちも、ひそかにこちらを見ていた。
「でも」
リシアは続けた。
「声を失ったまま、誰にも本当のことを聞いてもらえないのなら。それもまた、苦しいことだと思います」
女将は長くリシアを見つめた。
やがて、ゆっくり頷いた。
「夕方、案内しよう。エマの叔母には、私から話しておく」
「ありがとうございます」
「ただし」
女将の声が少し厳しくなる。
「あの子を見世物にしないでおくれ。町の連中は、あの子が何かを隠していると噂している。中には、あの子のせいで風鈴が鳴らないと言う者もいる」
「そんなことはしません」
「ならいい」
女将は立ち上がる。
「それと、エマの前で歌うなら、先にあの子の許しをもらうんだよ」
リシアは少し驚いた。
それは、自分が言おうとしていたことだった。
「はい。必ず」
女将は満足したように頷き、厨房へ戻っていった。
リシアは茶を一口飲む。
香草の香りが喉を通った。
ラグナで黒譜術に削られた喉の痛みは、もうほとんど引いている。けれど、完全に忘れたわけではない。
歌は届かないことがある。
歌が届かない方がいい場面もある。
この町では、それをさらに深く問われる気がした。
夕方までの間、リシアは町を歩いた。
水鈴町エルネは、小さいながらも美しい町だった。
水路の上には低い石橋がいくつも架かり、橋の欄干には風鈴が並んでいる。工房通りには、風鈴を作る店が軒を連ねていた。硝子、陶器、金属、木。素材ごとに音色が違うはずなのに、どの店先も静まり返っている。
職人たちは仕事をしている。
硝子を磨き、紐を結び、短冊に絵を描く。
でも、完成した風鈴を試しに鳴らすことはない。
鳴らないと分かっているから。
リシアはある工房の前で足を止めた。
若い職人が、青い硝子風鈴を手にしていた。彼はそれを窓辺に吊るし、風が吹くのを待つ。
風鈴は揺れた。
音はしない。
職人の顔が、ほんの一瞬だけ歪む。
『また駄目だ』
『俺の腕が悪いのか』
『いや、町中が鳴らないんだ』
『でも、父さんなら鳴らせたかもしれない』
『ハルクさんなら』
リシアは立ち止まったまま、その心歌を聞いた。
職人はリシアに気付くと、慌てて風鈴を外した。
「旅人さん、何か?」
「綺麗な風鈴ですね」
「鳴らない風鈴だよ」
彼は自嘲するように笑った。
「飾りなら売れるかもしれないけど、風鈴は音が命だ。音が出ないなら、ただの硝子だ」
「音を出そうとはしないんですか」
「したさ。何度も。けど駄目だ。原因も分からない。町長は『一時的なものだ』と言ってるけど、誰も信じちゃいない」
「ハルクさんなら、鳴らせたと思いますか」
その名を出した瞬間、若い職人の表情が変わった。
「……あんた、誰に聞いた」
「宿の女将さんです」
「そうか」
職人は青い風鈴を見た。
「ハルクさんはすごい人だった。風の音を聞くんじゃなくて、風が鳴りたがっている音を探すんだって言ってた」
「風が鳴りたがっている音……」
「変な言い方だろ。でも、あの人の風鈴は本当に鳴った。どんな弱い風でも、ちゃんと音にしてくれた」
リシアはその言葉を胸に留めた。
風が鳴りたがっている音。
心歌と少し似ている。
人の中にある、まだ言葉にならない想い。
それを歌として聞き取る力。
もしかすると、ハルクという職人も、音の奥にあるものを聞ける人だったのかもしれない。
「エマさんも、風鈴作りを?」
「ああ。小さいけど耳がよかった。ハルクさんが作った風鈴のわずかな違いも分かってた。あの子が将来、町一番の職人になるって、皆言ってたんだ」
職人は苦しげに目を伏せた。
「なのに、今じゃ声も出せない。風鈴も鳴らない。ひどい話だよ」
「エマさんに会ったことは?」
「事故の後は一度だけ。いや、事故って言っていいのか分からないけど」
リシアは聞き逃さなかった。
「事故ではないと思っているんですか」
職人は慌てて周囲を見る。
声を落とした。
「大きな声じゃ言えない。けど、ハルクさんは酔って水路に落ちるような人じゃない。あの人は音に敏感だった。夜道で水の流れを聞き違えるなんて考えにくい」
「では、何があったと?」
「分からない。ただ……」
職人は工房の奥を見た。
壁にはいくつもの風鈴が吊るされている。
「ハルクさんは死ぬ少し前、変な音がするって言ってた」
「変な音?」
「ああ。町の水路の下から、黒い鐘の音がするって」
リシアの指が、無意識に歌詞帳へ触れた。
黒い鐘。
黒い歌。
黒譜術。
ラグナの炉に残っていたものとは形が違う。
けれど、黒い音という共通点がある。
職人は苦い顔で続けた。
「皆は疲れてるんだと思ってた。戦争中、風鈴の注文も減って、町を守るための警鐘や合図鈴ばかり作らされていたから。ハルクさんは、風鈴は人を脅かすための音じゃないってよく言ってた」
「警鐘……」
リシアは呟いた。
風鈴の町で、戦争中に作られた警鐘。
人を和ませる音と、人を恐怖で動かす音。
歌と進軍詩の関係に似ている。
「ありがとうございます」
リシアが礼を言うと、職人は首を横に振った。
「俺は何も知らない。余計なことを言っただけだ」
「余計ではありません」
リシアは言った。
「誰かの小さな違和感が、埋もれていた真実に繋がることもあります」
職人は少しだけ目を見開いた。
それから、青い風鈴をリシアに差し出した。
「これ、持っていってくれ」
「え?」
「売り物にならない。鳴らないからな」
「でも、とても綺麗です」
「鳴らない風鈴を綺麗だって言ってくれた礼だ」
リシアは迷ったが、両手で受け取った。
透明な青い硝子の風鈴。
中の小さな舌も、短冊も、丁寧に作られている。
本来なら、きっと澄んだ音がするのだろう。
「ありがとうございます。大切にします」
肩の上のシルが、前足で風鈴をつついた。
「割らないでね」
シルは不満そうに鳴く。
その時、風が吹いた。
リシアの手の中で、青い風鈴がかすかに揺れる。
音は鳴らない。
だが、リシアの胸の奥にだけ、細い音が触れた。
『聞こえない』
それは、心歌だったのか。
風鈴に残った残響だったのか。
それとも、どこか遠くにいる少女の声だったのか。
リシアには分からなかった。
けれど、その音は確かに痛かった。
夕暮れ。
リシアは鈴音亭の女将に案内され、エマの家へ向かった。
町の西側、水路が細く枝分かれした先に、小さな工房があった。
他の工房よりも古い。
けれど、窓枠も扉も綺麗に磨かれている。軒先にはたくさんの風鈴が吊るされていた。水晶の風鈴、青い硝子の風鈴、白い陶器の風鈴。どれも美しく、丁寧に作られている。
だが、やはり音はない。
女将が扉を叩くと、中から細身の女性が出てきた。
年は三十代後半ほどだろう。髪をきっちりまとめ、疲れた顔をしている。
「マルタ。こちらが昼に話した歌魔術師さんだよ」
女将が言う。
マルタと呼ばれた女性は、リシアを警戒するように見た。
「歌魔術師……」
「リシアです。突然すみません」
リシアは頭を下げた。
「エマさんに無理をさせるつもりはありません。会うことを嫌がるなら、すぐに帰ります」
マルタは少し驚いたようだった。
おそらく、もっと強引に「治してみせる」と言われると思っていたのだろう。
「……あの子は、話せません」
「はい」
「返事も筆談だけです。知らない人を怖がります」
「分かりました」
「歌を聞くのも、たぶん嫌がります」
「許しがなければ歌いません」
マルタは長くリシアを見た。
やがて、扉を開ける。
「入ってください」
工房の中は、静かだった。
壁一面に風鈴の部品が並び、作業台には細い工具や硝子片が置かれている。窓辺には未完成の風鈴がいくつも吊るされていた。
その奥。
小さな机の前に、ひとりの少女が座っていた。
十二歳ほど。
淡い栗色の髪を肩で切りそろえ、細い指で紙に何かを書いている。膝には小さな膝掛け。目は大きく、灰青色をしていた。
その目が、リシアを見た瞬間に揺れた。
警戒。
恐怖。
そして、深い疲れ。
リシアは一歩以上近づかなかった。
「初めまして。リシアです」
少女、エマは何も言わない。
代わりに、机の上の板へ文字を書いた。
『うたまじゅつし?』
「はい。旅の歌魔術師です」
エマの指が止まる。
それから、少し乱れた字で書いた。
『うたわないで』
その文字を見た瞬間、リシアの胸が小さく痛んだ。
拒絶。
だが、予想していた。
リシアは静かに頷く。
「歌いません」
エマはリシアをじっと見た。
信じていない目だった。
リシアは両手を前で重ね、少し距離を取ったまま立つ。
「あなたが嫌なら、ここに長くいることもしません」
エマはまた板に書く。
『なぜきたの』
「この町の風鈴が鳴らない理由を知りたいと思いました」
エマの顔が強張る。
マルタが不安そうに一歩動いたが、リシアはそれ以上踏み込まなかった。
「でも、それより先に、あなたが困っているなら聞きたいと思いました」
エマは下を向く。
心歌を聞こうと、リシアは無意識に耳を澄ませた。
次の瞬間。
何も聞こえなかった。
完全な無音。
心を閉ざしている、という感覚とも違う。
普通、人の心歌が聞こえない時でも、何かしら気配はある。硬い扉の向こうに音があると分かるような、遠い震え。
けれど、エマにはそれがない。
まるで彼女の周囲だけ、音そのものが切り取られているようだった。
リシアは息を呑みかけ、必死に表情を抑えた。
エマはその変化に気付いたのか、板に文字を書く。
『きこえない?』
リシアの心臓が跳ねた。
「……はい」
嘘をつくべきではない。
リシアは正直に頷いた。
「あなたの心歌が、聞こえません」
エマの指が震える。
それから、ひどく小さな字で書いた。
『やっぱり』
「やっぱり?」
エマは板を抱きしめるようにして、書くのをやめた。
マルタが震える声で言う。
「エマは、事故の後から時々そう書くんです。自分の中の音がなくなったって。誰にも聞こえないって」
リシアはエマを見る。
少女は俯いたまま、唇を固く結んでいる。
声を失っている。
だが、それだけではない。
心歌までも聞こえない。
黒譜術の影響か。
それとも、もっと別の術か。
リシアは歌詞帳に触れた。
反応はある。
ページの奥で、青い線が震えている。
けれど、エマ本人からは何も聞こえない。
この子は、声を失ったのではない。
声を封じられている。
そんな直感が、リシアの中に落ちた。
その時、シルがリシアの肩で小さく鳴いた。
いつもの気楽な鳴き声ではない。
警戒している。
シルの視線は、エマではなく、工房の奥の棚に向けられていた。
そこには、布をかけられた小さな箱が置かれている。
リシアもその箱を見る。
黒い気配。
ごく薄いが、確かにある。
「マルタさん」
リシアは静かに尋ねた。
「あの箱は?」
マルタの顔色が変わった。
「ハルク兄さんの遺品です」
「見せていただけますか」
「それは……」
マルタは迷った。
すると、エマが突然、激しく首を横に振った。
板に急いで文字を書く。
『だめ』
リシアはすぐに頷いた。
「分かりました。見ません」
エマの目が揺れる。
驚いている。
本当に見ないとは思っていなかったのかもしれない。
「でも、理由だけ教えてもらえますか。あの箱が怖いですか」
エマは板を握りしめた。
書こうとして、やめる。
また書こうとして、手が震える。
声が出ない。
心歌も聞こえない。
書くことさえ、何かに邪魔されているように見えた。
リシアは胸が痛くなった。
「無理に書かなくて大丈夫です」
エマはリシアを見る。
「今日は、ここまでにしましょう」
マルタが驚いたように言った。
「もう、いいんですか」
「はい。これ以上は、エマさんを苦しめます」
リシアはエマへ向き直る。
「会ってくれてありがとう。歌わないと約束したので、今日は歌いません」
エマは黙ったまま、板を見つめていた。
リシアが背を向けようとした時、カリ、と小さな音がした。
エマが板に何かを書いた音だった。
リシアは振り返る。
そこには、一言だけ書かれていた。
『ほんとうに?』
「はい」
『こえをもどせるっていわないの?』
「言いません」
『だいじょうぶっていわないの?』
「言いません」
エマの目が少しだけ揺れた。
リシアは柔らかく言った。
「私は、あなたが大丈夫かどうかを勝手に決めません」
エマはしばらくリシアを見つめていた。
そして、震える手で板に書いた。
『なら、またきて』
リシアの胸に、静かな熱が灯る。
「はい。また来ます」
工房を出る時、風が吹いた。
軒先の風鈴が一斉に揺れる。
だが、やはり音は鳴らない。
ただ一つ。
エマの机のそばに吊るされた、小さな青い風鈴だけが、ほんのかすかに震えた。
音はしなかった。
けれどリシアの胸の奥に、文字にならない気配が触れた。
『たすけて』
声ではない。
心歌でもない。
それでも、確かに届いた。
リシアは振り返った。
エマは工房の奥からこちらを見ている。
その目はまだ怯えていた。
けれど、完全な拒絶ではなくなっていた。
夜。
鈴音亭の部屋で、リシアは歌詞帳を開いた。
白紙のページに、青い細線が浮かんでいる。
ラグナの火の断章とは違う。
これは、沈黙の断章。
まだ文字にはなっていない。
ただ、音を待つような空白があるだけだ。
リシアは羽ペンを持ったが、すぐに置いた。
まだ書いてはいけない。
エマの声を、リシアが勝手に歌詞へしてはいけない。
今必要なのは、歌うことではない。
待つこと。
そして、彼女が書けなかったものを、彼女自身が選べるようにすること。
シルが机の上に乗り、歌詞帳の端を前足で押さえた。
「シル、そこに乗ると書けないよ」
シルは小さく鳴いた。
「書くなって言ってるの?」
シルはもう一度鳴く。
リシアは少しだけ笑った。
「うん。分かってる。まだ書かない」
その時、窓の外から低い鐘の音が聞こえた。
ごおん、と。
風鈴の町には似つかわしくない、重く暗い音だった。
リシアは顔を上げる。
シルの尻尾が一気に膨らんだ。
「今の……」
部屋の外が騒がしくなる。
宿の廊下を誰かが走る音。
階下で女将の声がした。
「水路だ! また水路の下から鐘が鳴った!」
リシアは歌詞帳を掴み、部屋を飛び出した。
町の夜風は冷たかった。
中央水路の方へ人々が集まっている。
誰も風鈴を見ていない。
誰も鳴らない風鈴のことを気にしていない。
ただ、水路の暗い水面を恐れた目で見つめている。
リシアが人垣を抜けると、水路の中央に黒い波紋が広がっていた。
普通の水の揺れではない。
譜面のような黒い線が、水面に浮かんでは沈んでいる。
そして、その奥から低い鐘の音が鳴った。
ごおん。
その音を聞いた瞬間、町中の風鈴が一斉に揺れた。
だが、音は出ない。
鳴ろうとして、何かに喉を押さえられているように。
リシアの耳に、人々の心歌が流れ込む。
『まただ』
『ハルクが死んだ夜も、この音がした』
『エマが何か知っている』
『あの子が黙っているから』
『違う、あの子を責めるな』
『でも、このままでは町が終わる』
音が混ざる。
恐怖が広がる。
誰かが言った。
「やっぱり、エマが……」
その言葉に、人々の視線が揺れた。
危険だった。
町の不安が、一人の少女へ向かおうとしている。
リシアは水路の前に立った。
「エマさんを責めないでください」
静かな声だった。
だが、周囲に届いた。
「まだ何が起きているのか分かっていません。分からないものを、誰か一人のせいにしないでください」
町人の一人が言い返す。
「でも、あの子が声を失ってからだ!」
「だからこそです」
リシアはその人を見た。
「声を失った子がいるなら、まず聞くべきです。責めるのではなく」
「聞くって、あの子は話せない!」
「なら、話せない理由を探します」
リシアは水路へ視線を戻した。
黒い譜面の波紋は、まだ消えない。
この町の沈黙は、エマの沈黙だけではない。
町全体が、何かを見ないようにしている。
ハルクの死。
黒い鐘。
鳴らない風鈴。
エマの声。
それらはすべて繋がっている。
リシアの歌詞帳が強く震えた。
白紙のページに、青い線が一本だけ浮かぶ。
だが、それは歌詞ではなかった。
ただ、短い言葉。
『声を奪ったのは、沈黙ではない』
リシアは息を呑む。
その瞬間、水路の黒い波紋がふっと消えた。
鐘の音も止む。
町には再び、音のない風鈴だけが残った。
人々は不安げに互いを見た。
誰も答えを持っていない。
リシアも、まだ持っていなかった。
けれど、一つだけ分かった。
この町でリシアが向き合うべきものは、声を失った少女だけではない。
声を失わせた何か。
そして、その沈黙を都合よく利用しようとしている町の恐怖そのものだ。
リシアは夜の水路を見つめた。
肩の上で、シルが低く鳴く。
その金色の目は、黒い波紋が消えた水面ではなく、町の西側を見ていた。
エマの工房がある方角。
リシアは小さく頷く。
「明日、もう一度会いに行こう」
シルは焼き栗の袋を抱えたまま、真剣な顔で鳴いた。
風鈴は、まだ鳴らない。
少女の声も、まだ聞こえない。
けれど、沈黙の奥で何かが確かに震えている。
それは歌になる前の、最初の一音だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
「声のない少女編」が始まりました。
風鈴が鳴らなくなった町、エルネ。
そして、父を亡くした夜から声を失った少女エマ。
リシアは歌魔術師として彼女に向き合いますが、今回はすぐに歌いません。
歌うことだけが救いではなく、歌わないまま待つことも、リシアにとって大切な選択です。
水路の下から響いた黒い鐘。
鳴らない風鈴。
エマの声を封じているもの。
次話では、リシアが沈黙の奥に隠された真実へ、さらに踏み込んでいきます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。




