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夢の残り火編 3話 灰の底に残る火

 町の入口に、ミラが立っていた。


 正確には、立っているだけで精一杯だった。


 杖を両手で握り、怪我をした足を庇いながら、それでも彼女は誰かに支えられることを拒むように、まっすぐ北の森の方を見つめていた。


 その顔は青ざめている。


 唇は震え、頬には乾ききらない涙の跡があった。


 だが、カイルの背中に負われた小さな姿を見つけた瞬間、ミラの表情が崩れた。


「トマ……?」


 声にならない声だった。


 カイルが足を速める。


 背中のトマが、涙で濡れた顔を上げた。


「お姉ちゃん……」


 その一言で、ミラは杖を取り落とした。


 倒れそうになりながらも、彼女は前へ出る。カイルが慌てて屈み、トマを背中から下ろした。


 トマは裸足の片足を引きずりながら、ミラの方へ駆け寄ろうとした。だが疲れ切っていたのだろう。二歩目で足がもつれ、倒れかける。


 ミラが膝をつき、彼を抱き止めた。


「トマ!」


「お姉ちゃん……お姉ちゃん……!」


 トマは声を上げて泣いた。


 森でずっと我慢していたものが、一気に溢れ出したようだった。


 ミラも泣いていた。


 弟の頭を抱きしめ、泥だらけの服も、煤の匂いも、傷だらけの手も構わず、ただ何度も名前を呼んだ。


「ごめんね、トマ。ごめんね。手、離してごめんね……!」


「ぼくも、ごめんなさい……焼き栗、つぶれちゃった……」


 トマは震える手を開いた。


 そこには、泥と涙でぐしゃぐしゃになった焼き栗があった。


 形は崩れ、食べられるものには見えない。


 それでも、トマは森の中でそれを手放さなかった。


 ミラの顔がまた歪む。


「そんなの……そんなの、いいの……!」


 ミラは焼き栗ごとトマの手を握った。


「帰ってきてくれたなら、それでいいの」


 その瞬間、リシアの耳に柔らかな心歌が届いた。


 『守れなかった。』


 『でも、生きている。』


 『もう一度、抱きしめられる。』


 『まだ、終わっていない。』


 リシアは少し離れた場所で、その音を聞いていた。


 胸の奥が温かくなる。


 けれど同時に、痛みもあった。


 救えた命がある。


 それは確かだ。


 けれど、救えなかった命もある。


 戦争で、砦で、あの進軍詩の中で。


 リシアは思わず胸元の徽章に触れた。


 青い宝石入りの旧歌術隊の徽章。


 誇りであり、傷でもあるもの。


 肩の上でシルが小さく鳴いた。


 ちい。


「大丈夫」


 リシアは小声で答えた。


「今は、ちゃんと見てる」


 シルは納得したのか、しなかったのか、リシアの頬に大きな尻尾をそっと当てた。


 慰めるようでいて、少しだけくすぐったい。


「……ありがとう。でも、ちょっと毛が口に入った」


 シルは何も悪くないという顔で前を向いた。


 そんなやり取りをしている間にも、町の人々が集まってきた。


 安堵の声。


 泣き声。


 トマの無事を喜ぶ声。


 それらは確かに明るいものだった。


 だが、その下には別の音が沈んでいる。


 『よかった。』


 『本当によかった。』


 『でも、影狼はまだ森にいる。』


 『黒い火とは何だったんだ。』


 『また子どもが狙われたら。』


 『炉が消えた町に、まだ災いが来るのか。』


 喜びは、完全な安心にはならなかった。


 リシアは森の方を振り返る。


 北の森は、夕暮れの影を早くも抱え込んでいた。


 あの炭焼き窯に刻まれていた黒い譜面。


 火の断章は、まだ眠らせておけ。


 その言葉が、喉の奥に棘のように残っている。


 トマを助け出したことで、一つの事件は終わった。


 だが、この町に落ちている黒譜術こくふじゅつの影は、まだ消えていない。


 リシアは視線を町の入口へ戻した。


 そこに、ガルドがいた。


 老人は人々の輪から少し離れ、黙ってトマを見ている。


 助かったことを喜んでいないわけではない。


 けれど、その目には安堵よりも、深い疲労と恐れがあった。


 カイルがガルドの前まで歩いた。


 手には、借りた短槍がある。


「……これ」


 カイルは短槍を差し出した。


「助かった。ありがとう」


 ガルドは短槍を受け取らなかった。


「礼を言う相手が違う」


「違わない。これがなかったら、俺は森で何もできなかった」


「それはお前が使ったからだ」


「でも、あんたが貸してくれた」


 カイルの声は素直だった。


 森へ向かう前の怒りに満ちた声とは違う。


 ガルドはしばらく短槍を見ていた。


 それから、無言で受け取る。


 短槍の穂先には、影狼の黒い靄がわずかにこびりついていた。普通の汚れとは違う。煤のようでいて、触れれば音が歪みそうな気配を持っている。


 ガルドの眉が動いた。


「これは……」


「影狼の喉元に、黒い譜面のような印がありました」


 リシアが言うと、ガルドはゆっくり顔を上げた。


「黒い譜面?」


歌魔術うたまじゅつを歪める術です。おそらく、影狼もその影響を受けていました」


 町の人々がざわつく。


「歌魔術を歪める?」


「そんなものがあるのか」


「じゃあ、森に出た魔物は自然に来たんじゃないのか?」


 不安が再び広がり始める。


 リシアはその空気を感じ取り、声を強めすぎないように言った。


「まだ断定はできません。ただ、炭焼き窯に黒譜術の痕跡がありました。トマくんの心歌も、一時的に覆われていました」


「心歌……」


 ミラがトマを抱いたまま、リシアを見る。


「それで、トマの声を聞いてくれたんですね」


「はい。でも、私は一度、聞き違えました」


 リシアは正直に言った。


 カイルが目を向ける。


「聞き違え?」


「トマくんが火を怖がっていると知って、火から離れた場所にいると思い込みかけました。でも実際には、黒い歌がその恐怖を利用していました。火が怖いからこそ、逃げる方向を乱されていたんです」


 リシアは小さく頭を下げる。


「もっと早く気付くべきでした」


 ミラはすぐには答えなかった。


 トマを抱きしめる腕に力が入る。


 リシアの胸が小さく痛んだ。


 責められても仕方がない。


 心歌を聞けるからといって、すべてが分かるわけではない。むしろ、聞こえた断片に引っ張られて、間違った解釈をしてしまうこともある。


 その危うさを、今のリシアは忘れてはいけない。


 やがて、ミラは首を横に振った。


「それでも、トマを連れて帰ってくれました」


「……はい」


「だから、ありがとうございます。でも」


 ミラは唇を噛んだ。


「まだ終わってないんですよね」


 リシアは頷いた。


「おそらく」


 空気が重くなる。


 その時、トマが小さくリシアの方を見た。


「お姉さん」


「はい」


「あの火、まだいる?」


 リシアは息を呑んだ。


「トマくん、何か見たんですか」


 トマはミラの服をぎゅっと掴んだ。


「森の小屋の火。赤いのに、黒い歌がした。こわかった。火なのに、あったかくなかった」


 ミラが弟の頭を撫でる。


 リシアは膝をつき、トマと目線を合わせた。


「その歌は、何て言っていましたか」


「……忘れろって」


 トマの声が震える。


「こわいのも、いたいのも、さみしいのも、ぜんぶ火に入れたらなくなるって。だから、おいでって」


 周囲の大人たちが沈黙した。


 リシアの背筋に冷たいものが走る。


 星詠みの歌の暴走。


 憎しみだけでなく、愛や夢、願いまでも薄れさせた伝説の歌。


 黒譜術が、それを模倣しているのだろうか。


 苦しみを消す。


 恐怖を忘れさせる。


 だが、それは救いではない。


 痛みと一緒に、その人が抱えていた大切な想いまで奪うものだ。


 リシアは歌詞帳に手を置いた。


 ページの奥で、火の印が小さく震えている。


「ガルドさん」


 リシアは老人を見た。


「この町の炉にも、同じような黒譜術がかかっている可能性があります」


 ガルドの目が鋭くなった。


「何を根拠に」


「森の炭焼き窯と、あなたの工房の炉から、似た音が聞こえました。消えかけた火の下に、何かが封じられているような音です」


「歌術師の耳か」


「はい」


「便利な耳だな」


 ガルドの声には棘があった。


 リシアはその棘を受け止める。


「便利ではありません。聞き間違えます。聞きすぎれば、自分の感情と混ざります。今も、あなたが私を拒んでいることは分かります。でも、その理由までは分かりません」


 ガルドは何も言わない。


「だから、聞かせてください」


「断る」


 即答だった。


 カイルが顔を上げる。


「ガルド!」


「お前は黙っていろ」


「黙ってられるかよ! トマがこんな目に遭ったんだぞ!」


「だから何だ」


 ガルドの声が低くなる。


「炉を開ければ全部解決するのか。俺がまた鉄を打てば、影狼も黒い歌も消えるのか。違うだろう」


「でも、何か知ってるんだろ!」


「知らん」


「嘘だ!」


 カイルが短槍の柄を握りしめる。


「森の黒い火を見た時、あんたの顔が変わった。町の炉の話になったら、また逃げようとしてる。あんたはずっとそうだ! 剣を打たない、炉を開けない、何も話さない! そのくせ、全部知ってるみたいな顔をする!」


「知ったところでどうなる」


 ガルドの声に、初めて怒りが滲んだ。


「話せば戻るのか。折れた剣が戻るのか。死んだ奴らが帰るのか。夢だの希望だの言って町を出ていった若造どもが、みんな笑って帰ってくるのか!」


 通りが静まり返った。


 リシアはガルドの心歌が揺れるのを感じた。


 閉ざされていた炉の扉が、ほんの少しだけ開いたように。


 そこから漏れたのは、怒りではなかった。


 焼けるような後悔。


 『俺が打った。』


 『俺が持たせた。』


 『折れなければ。』


 『いや、折れてよかったのか。』


 『剣などなければ。』


 『夢など見せなければ。』


 リシアは息を止めた。


 ガルドの後悔は、ただ戦争で武器を作ったことだけではない。


 もっと個人的な傷がある。


 誰かに剣を打った。


 誰かに夢を渡した。


 そして、その誰かは帰ってこなかった。


「ガルドさん」


 リシアは静かに言った。


「あなたは、誰の剣を打ったんですか」


 ガルドの顔色が変わった。


「……黙れ」


「その人は、あなたにとって――」


「黙れと言った!」


 怒号が響いた。


 リシアの胸に、拒絶の痛みが跳ね返る。


 共鳴詩を紡ぐ前に、心が押し返された。


 踏み込みすぎたのだ。


 リシアは一歩下がった。


 シルが肩の上で低く鳴く。


 ガルドは荒い息を吐き、工房へ向かって歩き出した。


「俺の炉に近づくな。歌もいらん。慰めもいらん。町のことは町の者で何とかする」


「何とかって、どうするんだよ!」


 カイルが叫ぶ。


 ガルドは振り返らなかった。


「影狼が出るなら、森へ入らなければいい」


「それじゃ薪も炭も取れない! 炉も動かせない! 町が終わるだろ!」


「終わればいい」


 その言葉に、町の空気が凍った。


 ガルドは立ち止まり、背を向けたまま続けた。


「人を戦場へ送る剣を打つくらいなら、炉など消えた方がいい」


 誰も何も言えなかった。


 ガルドは工房の中へ入り、重い扉を閉めた。


 その音が、通りに長く残った。


 夜。


 ラグナ工房町には、いつもより早く灯りが落ちた。


 トマは町医者に診てもらい、命に別状はないと分かった。足の傷も深くはない。ただ、恐怖と疲労で高い熱を出し、今はミラのそばで眠っているという。


 カイルは一度も休もうとしなかった。


 森から戻った直後は気が張っていたが、時間が経つにつれて、体のあちこちに痛みが出始めたらしい。腕には影狼の爪を受けた擦り傷があり、肩も打っている。それでも彼は工房町の広場に残り、北の森を見張る人々と話していた。


 リシアは宿の小さな部屋で、歌詞帳を開いていた。


 机の上には、宿の女将が持たせてくれた温かい薬草茶がある。シルはその横で丸くなり、木の実を抱えていた。


「シル、それはどこから?」


 シルは目を逸らした。


「宿の台所?」


 シルはさらに目を逸らした。


「あとで謝りに行こうね」


 シルは、聞こえないふりをした。


 リシアはため息をつきながらも、少しだけ笑った。


 その小さな笑いが消えると、部屋には静かな重さが戻った。


 歌詞帳のページには、火の印がある。


 その下に浮かびかけた一節。


 ――怖くても、消さなかった小さな火は……


 そこから先は、まだ白紙のままだ。


 リシアは羽ペンを手に取る。


 続きを書こうとして、止まる。


 違う。


 まだ書けない。


 トマの焼き栗だけでは、この町の歌には届かない。


 カイルの後悔も、ミラの涙も、ガルドの閉ざした炉も、まだ一つの歌になっていない。


 それなのに、綺麗な言葉でまとめてしまえば、歌詞は嘘になる。


 リシアは羽ペンを置いた。


「難しいね、シル」


 シルは木の実をかじりながら、ちい、と鳴いた。


「今のは、分かるって意味?」


 シルはもう一度鳴いた。


「それとも、木の実がおいしいって意味?」


 シルは木の実を抱え直した。


「そっちかもしれないね」


 リシアは苦笑し、窓の外を見た。


 工房町の夜は暗い。


 王都のように夜遅くまで灯る店もなければ、吟遊詩人の歌も聞こえない。


 ただ、どこかから微かな鉄の匂いが漂ってくる。


 そして、その奥に、消えかけた火の残響がある。


 ――まだ、終われない。


 リシアは立ち上がった。


「行こう、シル」


 シルが木の実を抱えたまま顔を上げる。


「ガルドさんの工房へ」


 シルは一瞬、動きを止めた。


 それから、木の実を頬袋に押し込み、リシアの肩へ駆け上がる。


「……今、何個入れたの?」


 シルの頬は少し膨らんでいた。


「あとで水を飲もうね」


 夜の工房町は、昼間よりさらに静かだった。


 リシアは灯りを持たず、月明かりを頼りに通りを歩いた。歌術師かじゅつしだからといって、夜目が利くわけではない。何度か石畳の段差につまずき、そのたびにシルが肩の上で揺れた。


「ごめん」


 ちい。


「今のは怒ってるね」


 そんな小声のやり取りをしながら、リシアはガルドの工房の前に着いた。


 昼間見た時よりも、その工房は大きく見えた。


 扉は重く閉ざされている。


 看板は煤で黒ずみ、窓の内側は暗い。


 だが、完全な闇ではなかった。


 扉の隙間から、かすかに赤い光が漏れている。


 炉の火。


 リシアは眉を寄せた。


 ガルドは炉を閉ざしているはずだった。


 誰も火を入れていないはずの工房で、なぜ光が漏れているのか。


 その時、工房の中から低い声が聞こえた。


「帰れ」


 リシアは驚かなかった。


 気付かれていると思っていた。


「入ってもいいですか」


「駄目だ」


「では、ここで話します」


「話すことはない」


「私はあります」


 扉の向こうで、沈黙が落ちた。


 リシアは扉に触れないまま、静かに続ける。


「森の炭焼き窯に刻まれていた黒譜術は、町の炉にも繋がっていると思います。あの黒い歌は、痛みや恐怖を消すふりをして、想いごと眠らせようとしていました」


「……」


「それは、あなたの炉にもかかっているのではありませんか」


 長い沈黙。


 やがて、扉の向こうから鍵の外れる音がした。


 扉がわずかに開く。


 中から、煤と冷えた鉄の匂いが流れてきた。


「入れ」


 ガルドの声は疲れていた。


 リシアは一礼し、工房へ入った。


 中は広かった。


 壁には道具が整然と並び、使い込まれた金槌や火箸、やすりが月明かりを受けて鈍く光っている。長く使われていないはずなのに、埃はほとんどなかった。ガルドが毎日手入れだけはしているのだと分かる。


 奥に大きな炉があった。


 ラグナ工房町を支えてきた炉。


 今、その火床には灰が積もっている。


 だが灰の底に、小さな赤い光があった。


 火というより、傷口のような光。


 そして、その上に黒い譜面の線が巻きついている。


 森の炭焼き窯で見たものと同じ。


 いや、こちらの方がずっと古く、深い。


 リシアの歌詞帳が強く震えた。


 シルが肩の上で身を低くする。


「触るな」


 ガルドが言った。


「歌うな。近づきすぎるな。あれは、火じゃない」


「黒譜術ですね」


「名前は知らん」


 ガルドは炉の前に立った。


 赤い光に照らされた顔は、昼間よりずっと老いて見えた。


「ある日から、炉の底であれが鳴るようになった。火を入れようとすると、声が聞こえる」


「声?」


「忘れろ、と」


 リシアは息を呑む。


 トマが聞いた黒い歌と同じだ。


「打った剣のことを忘れろ。戦場へ送った鉄のことを忘れろ。帰らなかった若者の顔を忘れろ。そうすれば楽になると、あれは歌う」


 ガルドは炉の縁に手を置いた。


「最初は、悪くないと思った」


 その言葉は、あまりにも苦しかった。


「眠れなかった。炉を見るたび、あいつらの顔が浮かんだ。剣を打てば、また誰かが死ぬ気がした。槌を握る手が震えた。そんな時、炉の底から歌が聞こえた。忘れればいい。痛みを灰に沈めればいい。夢も、後悔も、全部燃やしてしまえばいい」


 ガルドは自嘲するように笑った。


「笑えるだろう。歌など嫌いだと言いながら、俺はその歌に縋りかけた」


 リシアは何も言えなかった。


 歌を憎む人がいる。


 歌に救われた人がいる。


 そして、救いに見える歌に縋りたくなるほど、傷ついた人もいる。


 ガルドは炉の奥を見つめたまま続けた。


「だが、途中で気付いた。あれに耳を澄ませるほど、何かが薄れていく。悔しさも、悲しみも、あいつらの顔も、声も。俺が大事にしていたはずのものまで、全部ぼやけていく」


「だから、炉を閉ざしたんですね」


「そうだ」


 ガルドは頷いた。


「火を入れれば、あの黒い歌が強くなる。俺が槌を打てば、町中に広がる気がした。だから閉じた。炉を閉じれば、町はゆっくり死ぬ。だが、あの歌に呑まれるよりはましだと思った」


 リシアは炉を見る。


 灰の底の赤い光。


 その周りに巻きつく黒い譜面。


 ガルドは逃げていただけではない。


 町を守ろうとしていた。


 ただし、その守り方が、町そのものを窒息させていた。


「誰の剣を打ったんですか」


 リシアは静かに尋ねた。


 ガルドの肩がわずかに揺れる。


「昼間の続きか」


「はい」


「聞いてどうする」


「歌にするためではありません」


 リシアはそう言った。


「まず、あなたが何を閉じ込めているのか、知りたいんです」


 ガルドは長く黙った。


 拒絶されると思った。


 だが、今度は違った。


 彼は炉の横に置かれた木箱を開けた。


 中から一本の剣を取り出す。


 古い剣だった。


 刃は半ばで折れている。


 カイルの剣よりも、ずっと古い。


 柄には焦げた革紐が巻かれ、鍔には小さな花の模様が刻まれていた。


 リシアはその花を見た瞬間、胸の奥で残響が揺れるのを感じた。


「俺の娘の剣だ」


 ガルドは言った。


 声は静かだった。


 静かすぎるほどだった。


「名はリナ。鍛冶師になると言っていた。女が槌を握るなと笑う連中を、全部腕で黙らせるような娘だった」


 リシアは折れた剣を見つめる。


 刃の根元に、丁寧な打ち跡がある。


 実用一点張りではない。


 使う者の手に馴染むよう、何度も調整された剣だ。


「戦争が始まって、あいつは騎士団へ志願した」


 ガルドの手が、剣の柄を撫でた。


「俺は止めた。鍛冶師なら後方でできることがある。炉を守れと言った。だが、あいつは聞かなかった。自分が打つ剣を、誰かに持たせるだけでは嫌だと言った。守るとは何か、自分の手で知りたいと」


 リシアの胸に痛みが走る。


 夢。


 鍛冶師としての夢。


 守る者になりたいという願い。


 それは、きっと美しいものだった。


 だからこそ、残酷だ。


「出征前、リナは俺に剣を打ってくれと言った」


 ガルドは目を伏せた。


「俺は断るべきだった。鉄など渡さず、泣いてでも止めるべきだった。だが……あいつの目が、炉の火みたいにまっすぐだった」


 リシアは言葉を挟まなかった。


「俺は打った。父親としてではなく、鍛冶師として。最高の剣を打ったつもりだった。折れない剣を。守れる剣を。帰ってくるための剣を」


 ガルドの声がかすれた。


「だが、折れた」


 炉の火が、かすかに揺れた。


「戦場から戻ってきたのは、この剣だけだ。リナは帰らなかった。遺体も見つからなかった。折れた剣と、戦死の知らせだけが戻った」


 リシアは息をするのを忘れそうになった。


 アイシャ。


 遺体の戻らなかった幼なじみ。


 戦死したと記録され、名前だけが石碑に刻まれた少女。


 ガルドの痛みは、遠いものではなかった。


 リシア自身の傷と、あまりにも近い場所にあった。


「それからだ」


 ガルドは言った。


「俺は剣を打てなくなった。町の若い奴らが冒険者になりたいと言っても、笑って背中を押すことができなくなった。夢を持つなと言いたくなった。剣を持つなと言いたくなった。守りたいものなど持つから、失うのだと思った」


 その声は、昼間の怒鳴り声よりずっと痛かった。


「カイルも、ミラも、トマも。あいつらはリナのことを知らん。だが、あの目をしていた。外へ出たい。誰かを守りたい。自分の手で何かを掴みたい。そういう、若い火を持っていた」


「だから、止めたんですね」


「止めたかった」


 ガルドは折れた剣を握りしめた。


「だが、止めれば止めるほど、あいつらは俺を越えて行こうとした。リナと同じだ。俺にはもう、何が正しいのか分からん」


 リシアはガルドの心歌を聞いた。


 今度は、無理に聞こうとしなくても届いた。


 『夢など燃え尽きればいい。』


 『だが、あの目を消したくない。』


 『剣など打ちたくない。』


 『でも、守るための鉄まで捨てていいのか。』


 『リナ。』


 『俺は、お前の夢まで憎んでしまったのか。』


 リシアの胸が震えた。


 ここで歌うべきなのか。


 ガルドはまだ歌を拒んでいる。


 彼の傷は深い。


 綺麗な言葉で「娘さんはあなたを恨んでいない」などと言うことはできない。リナの心を聞いていない以上、そんな歌は嘘になる。


 だが、残響歌なら。


 この剣に残った想いを聞くことはできるかもしれない。


「ガルドさん」


 リシアは慎重に言った。


「その剣に触れてもいいですか」


 ガルドの目が鋭くなる。


「リナを歌にするつもりか」


「いいえ。リナさんを勝手に歌にはしません」


「なら、なぜ」


「剣に残っている想いを聞きます。ただし、聞こえたものが真実のすべてとは限りません。断片です。私が間違えることもあります」


 リシアはまっすぐガルドを見た。


「それでも、聞きますか」


 ガルドはすぐには答えなかった。


 炉の底で、黒い譜面が静かに鳴っている。


 忘れろ。


 忘れれば楽になる。


 その歌が、微かにリシアにも届く。


 甘く、優しく、恐ろしい歌。


 ガルドは折れた剣を見つめ続けた。


 やがて、掠れた声で言った。


「聞け」


 リシアは両手で剣を受け取った。


 重い。


 古い鉄の重み。


 血と煤と、長い時間を閉じ込めた重み。


 シルが肩の上で静かになる。


 リシアは目を閉じた。


 残響歌を開く。


 瞬間、熱が流れ込んだ。


 炉の火。


 槌の音。


 若い女性の笑い声。


『父さん、もっと軽くできない? これじゃ腕が先に疲れる』


『軽けりゃいいってもんじゃない。お前は力任せに振りすぎる』


『うるさいなあ。分かってるって』


 明るい声。


 リナだ。


 ガルドによく似た強さと、まっすぐな熱を持った声。


 場面が変わる。


 出征の朝。


 若い女性が剣を腰に下げ、工房の前に立っている。


 ガルドは何も言わない。


 言えば止めてしまうから。


 リナは笑っていた。


『父さん』


 彼女は剣の柄を叩く。


『この剣、絶対に誰かを守るために使うよ』


 ガルドは答えない。


 リナは少し困ったように笑う。


『帰ってきたら、今度は私が父さんを越える剣を打つから。炉、消さないでよ』


 リシアの胸に、熱いものが込み上げる。


 次の残響は戦場だった。


 煙。


 叫び声。


 崩れる防壁。


 リナは剣を振るっている。


 強い。


 けれど、圧倒的な英雄ではない。


 怖がっている。


 足は震えている。


 それでも、彼女は誰かの前に立っている。


 背後には、逃げ遅れた子どもたちがいた。


 剣に亀裂が入る。


 魔物の爪を受けたせいではない。


 何度も何度も、限界を越えて受け止め続けたからだ。


『折れるな……!』


 リシアの心が震えた。


 カイルの剣に残っていた叫びと、同じ音。


 守るために、折れないでくれと願う声。


 けれど、剣は折れた。


 甲高い音。


 リナの腕から力が抜ける。


 彼女は膝をつく。


 それでも、折れた剣の柄を握ったまま、背後の子どもへ言った。


『走って』


 子どもが泣きながら逃げる。


 リナは笑っていた。


 怖いのに。


 痛いのに。


 笑っていた。


『父さん、ごめん』


 その声が、リシアの胸を貫いた。


『でも、この剣、折れたけど……負けてないよ』


 景色が白く弾けた。


 リシアは現実に戻った。


 息が荒い。


 頬に涙が流れていた。


 剣を握る手が震えている。


 ガルドが目の前に立っていた。


 その顔は、今にも崩れそうだった。


「何が……聞こえた」


 リシアはすぐに答えられなかった。


 言葉にすれば、ガルドの傷に触れる。


 でも、黙ればリナの想いが届かない。


 リシアは剣を両手で持ち直し、ゆっくりと口を開いた。


「リナさんは、あなたの剣を恨んでいませんでした」


 ガルドの顔が歪む。


「そんな慰めは――」


「慰めではありません」


 リシアは静かに遮った。


「でも、これが真実のすべてだとも言いません。私に聞こえたのは、剣に残った最後の断片です」


 ガルドは唇を噛む。


 リシアは続けた。


「リナさんは怖がっていました。痛がっていました。死にたくなかったと思います。あなたに謝っていました。でも、その剣で守った子どもがいました」


 ガルドの目が見開かれた。


「子ども……?」


「はい。リナさんは最後に、その子へ走ってと言いました。そして、こう言いました」


 リシアの声が震える。


「この剣は、折れたけど、負けていない、と」


 ガルドの手から力が抜けた。


 彼はその場に立ったまま、折れた剣を見つめた。


 長い沈黙。


 炉の底で、黒い譜面がざわめく。


 忘れろ。


 そんなものは都合のいい残響だ。


 痛みを手放せ。


 夢など灰にしろ。


 黒い歌が強くなる。


 リシアの喉が痛んだ。


 黒譜術が、ガルドの心を再び閉じようとしている。


 ここだ。


 ここで逃げれば、ガルドはまた炉を閉ざす。


 でも、無理に歌えば、彼の痛みを押し流してしまう。


 リシアは自分に問いかけた。


 今、必要な歌は何か。


 励ましではない。


 夢を諦めるなという歌でもない。


 娘は望んでいるという、都合のいい言葉でもない。


 ガルドの痛みを消す歌でもない。


 必要なのは、彼が灰の底に残してしまった火を、彼自身のものとして見つめ直すための歌。


 リシアは歌詞帳を開いた。


 火の印が強く光る。


 黒い滲みがページに広がろうとする。


 シルが歌詞帳の上に前足を置き、低く鳴いた。


 まるで、その黒い滲みを押し返すように。


「シル……」


 リシアは小さく頷いた。


 そして、歌い始めた。


 それは明るい歌ではなかった。


 炉に火を入れる時のように、低く、静かで、灰の奥を探るような歌。


 ガルドの心をこじ開けるのではない。


 リナの想いを押しつけるのでもない。


 ただ、折れた剣に残っていた熱を、彼の前に置く。


 ――折れた刃は、帰れなかった道を知っている。


 ――焦げた柄は、握った手の震えを覚えている。


 ――守れなかった夜もある。


 ――守れた命も、確かにある。


 黒譜術が唸る。


 炉の底の赤い光が黒く濁る。


 リシアの声が一瞬、歪んだ。


 喉に鋭い痛み。


 歌が途切れそうになる。


 ガルドが叫んだ。


「やめろ! 無理に歌うな!」


 その声に、リシアは目を開けた。


 初めてだった。


 ガルドが歌を拒むためではなく、リシアを案じて声を上げたのは。


「……大丈夫です」


「大丈夫な声じゃない!」


「それでも、ここで止めたら、あなたはまた忘れようとします」


 リシアは苦しげに微笑んだ。


「忘れた方が楽な痛みはあります。でも、忘れてしまったら、一緒に消えてしまう想いもあります」


 ガルドが息を呑む。


 リシアは歌を続けた。


 声はかすれていた。


 美しいとは言えない。


 けれど、それでいい。


 綺麗な歌でなくてもいい。


 この歌は、灰の底を掘り起こす歌だから。


 ――夢は、叶わなければ無意味なのか。


 ――火は、燃え尽きれば終わりなのか。


 ――いいえ。


 ――誰かを照らした熱は、灰の底にも残っている。


 ガルドの手が震えた。


 リナの折れた剣を、彼は胸に抱いた。


「リナ……」


 その名が、初めて工房に落ちた。


 黒い譜面が大きく揺らいだ。


 炉の底の赤い光が、一瞬だけ本物の火の色に戻る。


 リシアの歌詞帳に文字が浮かぶ。


 だが、まだ完成しない。


 最後の一節には、ガルド自身の選択が必要だった。


 リシアは歌を止めた。


 喉が焼けるように痛む。


 だが、これ以上は歌わない。


 最後に火を入れるのは、リシアではない。


「ガルドさん」


 リシアは掠れた声で言った。


「私は、あなたの代わりに炉へ火を入れることはできません」


 ガルドは折れた剣を抱いたまま、炉を見た。


「……俺が入れた火で、また誰かが死ぬかもしれん」


「はい」


「俺が打った鉄で、誰かが傷つくかもしれん」


「はい」


「それでも、鉄がなければ守れない命もある」


「はい」


 リシアは頷いた。


「決めるのは、あなたです」


 ガルドの心歌が震える。


 『怖い。』


 『もう打ちたくない。』


 『でも、炉を消したままでは、リナの夢まで灰にしてしまう。』


 『俺は、何を守りたかった。』


 ガルドはゆっくりと炉の前に立った。


 壁に掛けられた火打ち具を手に取る。


 何年も使っていないはずなのに、その動きは鍛冶師そのものだった。


 リシアは一歩下がる。


 シルが肩の上で息を潜めている。


 ガルドは火打ち石を構えた。


 だが、手が止まる。


「リシア」


 初めて、彼は名を呼んだ。


「この火は、夢を叶える火ではないな」


 リシアは静かに答えた。


「はい」


「死者を戻す火でもない」


「はい」


「痛みを消す火でもない」


「はい」


 ガルドは目を閉じた。


「なら……残った者が、まだ何を守るのかを見るための火だ」


 火打ち石が打たれた。


 小さな火花が散る。


 乾いた火口に、赤い点が宿る。


 その瞬間、炉の底に巻きついていた黒い譜面が激しく暴れた。


 忘れろ。


 眠れ。


 火を消せ。


 その歌が工房いっぱいに響く。


 リシアの歌術を妨害する黒譜術。


 けれど今、火を入れているのはリシアではない。


 ガルド自身だ。


 彼の手が、彼の意志が、黒い歌を押し返していく。


 火口の赤が大きくなる。


 灰の底に眠っていた熱が、少しずつ息を吹き返す。


 シルが高く鳴いた。


 ちいっ!


 リシアの歌詞帳が眩しく光る。


 ページの黒い滲みが、火の線に焼かれるように退いていく。


 炉に火が入った。


 まだ小さい。


 頼りない火だ。


 けれど、確かに燃えている。


 ガルドはその火を見つめ、声を震わせた。


「リナ。俺は……お前の夢を、憎みたかった」


 火が揺れる。


「憎めば楽だった。剣が悪い。戦争が悪い。夢が悪い。そう言えれば、俺は鍛冶師でなくて済んだ」


 ガルドの頬を涙が伝った。


「だが、お前は……折れても負けていなかったのか」


 その問いに、死者は答えない。


 けれど、炉の火は消えなかった。


 リシアは歌詞帳を見た。


 白紙だった部分に、文字が浮かんでいく。


 今度はリシアが書いたのではない。


 旅の中で拾った想いが、一節として形を持ち始めていた。


 ――怖くても、消さなかった小さな火は、

 ――灰の底で、次の手を待っている。


 リシアは息を呑んだ。


 火の断章。


 完全ではない。


 まだ断章の一部にすぎない。


 けれど、確かに一節が生まれた。


 炉の火がもう一度揺れる。


 黒い譜面の線は完全には消えていない。炉の石の奥に、薄く焦げ跡のように残っている。


 だが、さっきまでのように歌ってはいない。


 眠ったのではない。


 押し返されたのだ。


 ガルドの選択によって。


 その時、工房の扉の外から声が聞こえた。


「ガルド!」


 カイルだった。


 扉が開き、カイル、ミラ、トマ、そして数人の町人が顔を覗かせる。


 夜の通りに、炉の火の光が漏れていたのだろう。


 ミラはトマを抱え、驚いたように炉を見ている。


「火が……」


 カイルは呆然と呟いた。


「炉に火が入ってる……」


 ガルドは慌てて顔を拭った。


「見るな」


「いや、見えるだろ」


「見るなと言っている」


「無理だって」


 カイルは少しだけ笑った。


 だが、その目にも涙が浮かんでいた。


 ミラが静かに言う。


「ガルドさん」


「何だ」


「剣を打ってほしいとは、まだ言いません」


 ガルドが彼女を見る。


「でも、トマが怖がらずに持てる火掻き棒を作ってください。工房の火を、怖いものだけにしたくないんです」


 トマがミラの腕の中で小さく頷いた。


「火、まだちょっと怖い。でも……シルといっしょなら見る」


 シルがリシアの肩の上で、なぜ自分が巻き込まれたのか分からない顔をした。


「シル、頼りにされてるよ」


 シルは少し考えたあと、胸を張った。


「褒められるとすぐ得意になるね」


 カイルが短槍を持って一歩前に出た。


「ガルド。俺の剣は、まだ直さなくていい」


 ガルドは目を細める。


「何だと」


「今の俺が持つには、たぶんまだ早い。森で分かった。剣が折れたのは、剣だけのせいじゃない。俺が無茶をしたせいでもある」


 カイルは悔しそうに、それでも逃げずに言った。


「だから、まず短槍の使い方を覚える。守るために、突っ込むんじゃなくて、止まることも覚える」


 リシアはカイルの心歌を聞いた。


 まだ後悔はある。


 消えていない。


 けれど、その後悔は彼を死地へ走らせる炎ではなく、次に何を選ぶか考える火へ変わり始めていた。


 ガルドは短槍を見た。


「……柄が歪んでいる」


「影狼にぶつけたからな」


「下手な使い方をする」


「悪かったよ」


「明日、直してやる」


 カイルが目を見開いた。


「本当か」


「剣ではない」


「分かってる」


「戦うためだけの槍でもない」


「ああ」


「守るために使え。逃げるためにも使え。人を連れ帰るためにも使え」


 カイルは深く頷いた。


「分かった」


 そのやり取りを聞きながら、リシアは胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。


 全員が救われたわけではない。


 ガルドの痛みが消えたわけではない。


 リナは帰ってこない。


 町の炉が再び完全に栄えるかも分からない。


 黒譜術の痕跡も残っている。


 それでも、一つだけ確かだった。


 炉の火は、戻った。


 誰かの命を戦場へ送り出すためではなく、残った者たちが何を守るのかを考えるために。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 その表紙が、ほんのり温かかった。


 翌朝。


 ラグナ工房町には、久しぶりに槌の音が響いた。


 高らかな音ではない。


 まだ遠慮がちな、確かめるような一打。


 それでも、町の人々はその音に足を止めた。


 誰かが窓を開ける。


 誰かが通りに出る。


 誰かが泣きそうな顔で笑う。


 ガルドの工房では、炉に小さな火が入っていた。


 ガルドはカイルの短槍を直している。


 カイルは隣で真剣に見ていた。


 ミラは椅子に座り、トマを膝に乗せている。トマは最初こそ火を怖がっていたが、シルが炉の近くで堂々と木の実をかじっているのを見ると、少しずつ顔を上げた。


「シル、そこは熱いから近づきすぎないで」


 リシアが注意すると、シルは自分は分かっているという顔をした。


 その直後、熱気に驚いたのか、尻尾を膨らませてリシアの肩へ逃げ戻ってきた。


「分かってなかったね」


 シルは悔しそうに鳴いた。


 トマが笑った。


 その笑い声に、ミラの表情も和らぐ。


 ガルドは槌を振る手を一度止め、工房の隅に置かれた折れた剣を見た。


 リナの剣。


 それはもう隠されていなかった。


 壁に掛けられ、花の模様が朝の光を受けている。


 折れたまま。


 けれど、恥じるものとしてではなく、工房の一部としてそこにあった。


 リシアはその光景を見つめる。


 そして、歌詞帳を開いた。


 昨夜生まれた一節が、はっきりと刻まれている。


 ――怖くても、消さなかった小さな火は、

 ――灰の底で、次の手を待っている。


 その下に、小さな火の印があった。


 火の断章の欠片。


 リシアには、それがまだ大きな歌のほんの一部にすぎないことが分かった。


 星詠みの歌。


 失われた伝説の歌。


 自分が集めている歌詞がそこへ繋がるのだとしたら、この旅はただ人々の想いを記録するだけでは終わらない。


 黒譜術はそれを封じようとしている。


 火の断章は、まだ眠らせておけ。


 あの言葉の主は誰なのか。


 なぜ、この町の火を狙ったのか。


 リシアはページを指でなぞった。


「リシア」


 ガルドが呼んだ。


 彼は作業台から、小さなものを持ってきた。


 金属で作られた小さな栞だった。


 火と槌の紋様が刻まれている。


「これは?」


「余り鉄だ。礼には足りんが、歌詞帳にでも挟んでおけ」


「ありがとうございます」


「勘違いするな。歌を全部認めたわけじゃない」


 ガルドはぶっきらぼうに言った。


「歌は怖い。人を酔わせることもある。痛みを綺麗に見せることもある。俺はまだ、歌が好きにはなれん」


「はい」


 リシアは頷いた。


「でも、昨日の歌は」


 ガルドは少しだけ視線を逸らした。


「炉を開ける前に、置いておくには悪くなかった」


 それは不器用な感謝だった。


 リシアは微笑んだ。


「それで十分です」


 ガルドは鼻を鳴らし、炉へ戻っていった。


 カイルが小声で言う。


「あれ、かなり褒めてるぞ」


「そうなんですか?」


「あの頑固じじいが『悪くなかった』って言うのは、王様が勲章くれるくらい珍しい」


 ガルドの槌がカイルの足元に落ちた。


「聞こえている」


「わざと聞こえるように言った!」


「なら、その曲がった根性から叩き直すか」


「短槍だけでお願いします!」


 工房に笑いが起きた。


 小さな笑い。


 戦争で失ったものを取り戻すには足りない。


 町の未来を保証するにも足りない。


 それでも、昨日までのラグナにはなかった音だった。


 リシアはその音を胸にしまった。


 旅立ちの準備を終えたのは、昼前だった。


 町の出口まで、カイルとミラ、トマ、そしてガルドが見送りに来た。


 トマはシルに小さな袋を差し出した。


「これ、焼き栗」


 シルの目が輝く。


「シル、ちゃんとお礼」


 シルは袋を抱えたまま、ちい、と鳴いた。


 トマは嬉しそうに笑った。


「また来てね」


「はい」


 リシアは膝をつき、トマの目を見た。


「でも、今度は森で迷わないように」


「うん。怖かったら、怖いって言う」


「それが一番大事です」


 ミラが静かに頭を下げた。


「ありがとうございました。リシアさん」


「私だけではありません。カイルさんも、ドランさんも、ガルドさんも、町の皆さんも動いたからです」


「それでも、あなたが聞いてくれたから」


 ミラは弟の手を握る。


「トマの小さな声を、消さずにいてくれたから」


 リシアは胸が詰まりそうになった。


「……はい」


 カイルは短槍を肩に担いでいた。


 穂先は綺麗に直され、柄も調整されている。


「次に会う時は、もう少しましに扱えるようになってる」


「無茶はしないでください」


「分かってる。行くためだけじゃなく、帰るために使うんだろ」


「はい」


 カイルは少し照れたように笑った。


 最後に、ガルドがリシアの前に立った。


「旅を続けるのか」


「はい」


「歌が怖くてもか」


「怖いです。でも、怖いからこそ、聞き続けたいと思っています」


「そうか」


 ガルドは頷いた。


「なら、覚えておけ。火は、人を暖める。鉄を鍛える。飯も作る。だが、家を焼くこともある」


「はい」


「歌も同じだ。使い方を間違えれば、優しい顔で人を焼く」


 リシアは胸元の徽章に触れた。


「忘れません」


「忘れそうになったら、その栞を見ろ」


 ガルドはそう言って、ぶっきらぼうに背を向けた。


 けれど、数歩歩いたところで立ち止まる。


「それと」


 振り返らずに言った。


「あの歌詞。悪くなかった」


 リシアは目を丸くした。


 カイルが小声で言う。


「二回目だ。明日は雪が降るな」


「カイル」


「はい、すみません」


 リシアは笑った。


 自然に。


 胸の奥に残る痛みは消えていない。


 アイシャのことも、進軍詩のことも、答えはまだどこにもない。


 それでも、ラグナの町で一つだけ知った。


 夢は、燃え尽きたら終わりではない。


 折れた剣にも、消えかけた炉にも、誰かが守ろうとした熱は残っている。


 それを未来へ渡すかどうかは、生きている者が選ぶことなのだ。


 リシアは町を出た。


 肩の上では、シルが焼き栗の袋を大事そうに抱えている。


「シル。それ、全部一人で食べないでね」


 シルは目を逸らした。


「聞いてる?」


 ちい。


「今の返事、信用できない」


 シルは袋をさらに強く抱えた。


 リシアは呆れながらも笑い、街道の先を見る。


 歌詞帳の中で、火の断章の一節が静かに光っている。


 だが、そのページの隅には、まだ薄く黒い線が残っていた。


 完全には消えていない黒譜術の跡。


 リシアはそれを指でなぞる。


 すると、ほんの一瞬だけ、どこか遠くから冷たい旋律が聞こえた。


 歌を、集めるな。


 その声は男とも女ともつかなかった。


 けれど、明確な意志があった。


 リシアは足を止める。


 シルも焼き栗を抱えたまま、同じ方向を見た。


 西の空。


 雲一つない青空の向こうで、見えない誰かがこちらを見ているような気がした。


「……黒譜の民」


 リシアは小さく呟いた。


 名前を知っていたわけではない。


 けれど、その言葉が自然に口から落ちた。


 歌を封じようとする者たち。


 星詠みの歌の完成を止めようとする者たち。


 彼らはもう、リシアの旅を見ている。


 リシアは歌詞帳を閉じた。


 怖くないわけではない。


 むしろ、怖い。


 それでも、ラグナで得た火は消えなかった。


「行こう、シル」


 リシアは歩き出す。


 銀色のリスが、肩の上で小さく鳴いた。


 その声はいつもより少しだけ真剣で、でも焼き栗の袋だけはしっかり抱えたままだった。


 リシアは空を見上げる。


 旅はまだ始まったばかりだ。


 歌は人を救えるのか。


 その答えは、まだ遠い。


 けれど、灰の底に残る火のように、消えていない音がある。


 ならばリシアは、それを聞きに行く。


 歌うために。


 歌わないために。


 そして、誰かが自分の手で次の火を選べるように。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


「夢の残り火編」は、消えかけた炉と、折れた剣と、それでも残っていた小さな火の物語でした。


リシアがラグナ工房町で受け取った歌詞は


『怖くても、消さなかった小さな火は、

 灰の底で、次の手を待っている。


 折れた刃が、終わりを告げても、

 守った熱は、まだ消えない。


 夢は叶うためだけにあるんじゃない。

 誰かの明日を、少し照らすためにある。』


ガルド、カイル、ミラ、トマ。

それぞれの後悔と願いが、リシアの歌詞帳に一節として刻まれました。


けれど、黒譜術こくふじゅつの影はまだ消えていません。

リシアとシルの旅は、次の町へ続きます。


次話も読んでいただけたら嬉しいです。

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