夢の残り火編 3話 灰の底に残る火
町の入口に、ミラが立っていた。
正確には、立っているだけで精一杯だった。
杖を両手で握り、怪我をした足を庇いながら、それでも彼女は誰かに支えられることを拒むように、まっすぐ北の森の方を見つめていた。
その顔は青ざめている。
唇は震え、頬には乾ききらない涙の跡があった。
だが、カイルの背中に負われた小さな姿を見つけた瞬間、ミラの表情が崩れた。
「トマ……?」
声にならない声だった。
カイルが足を速める。
背中のトマが、涙で濡れた顔を上げた。
「お姉ちゃん……」
その一言で、ミラは杖を取り落とした。
倒れそうになりながらも、彼女は前へ出る。カイルが慌てて屈み、トマを背中から下ろした。
トマは裸足の片足を引きずりながら、ミラの方へ駆け寄ろうとした。だが疲れ切っていたのだろう。二歩目で足がもつれ、倒れかける。
ミラが膝をつき、彼を抱き止めた。
「トマ!」
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……!」
トマは声を上げて泣いた。
森でずっと我慢していたものが、一気に溢れ出したようだった。
ミラも泣いていた。
弟の頭を抱きしめ、泥だらけの服も、煤の匂いも、傷だらけの手も構わず、ただ何度も名前を呼んだ。
「ごめんね、トマ。ごめんね。手、離してごめんね……!」
「ぼくも、ごめんなさい……焼き栗、つぶれちゃった……」
トマは震える手を開いた。
そこには、泥と涙でぐしゃぐしゃになった焼き栗があった。
形は崩れ、食べられるものには見えない。
それでも、トマは森の中でそれを手放さなかった。
ミラの顔がまた歪む。
「そんなの……そんなの、いいの……!」
ミラは焼き栗ごとトマの手を握った。
「帰ってきてくれたなら、それでいいの」
その瞬間、リシアの耳に柔らかな心歌が届いた。
『守れなかった。』
『でも、生きている。』
『もう一度、抱きしめられる。』
『まだ、終わっていない。』
リシアは少し離れた場所で、その音を聞いていた。
胸の奥が温かくなる。
けれど同時に、痛みもあった。
救えた命がある。
それは確かだ。
けれど、救えなかった命もある。
戦争で、砦で、あの進軍詩の中で。
リシアは思わず胸元の徽章に触れた。
青い宝石入りの旧歌術隊の徽章。
誇りであり、傷でもあるもの。
肩の上でシルが小さく鳴いた。
ちい。
「大丈夫」
リシアは小声で答えた。
「今は、ちゃんと見てる」
シルは納得したのか、しなかったのか、リシアの頬に大きな尻尾をそっと当てた。
慰めるようでいて、少しだけくすぐったい。
「……ありがとう。でも、ちょっと毛が口に入った」
シルは何も悪くないという顔で前を向いた。
そんなやり取りをしている間にも、町の人々が集まってきた。
安堵の声。
泣き声。
トマの無事を喜ぶ声。
それらは確かに明るいものだった。
だが、その下には別の音が沈んでいる。
『よかった。』
『本当によかった。』
『でも、影狼はまだ森にいる。』
『黒い火とは何だったんだ。』
『また子どもが狙われたら。』
『炉が消えた町に、まだ災いが来るのか。』
喜びは、完全な安心にはならなかった。
リシアは森の方を振り返る。
北の森は、夕暮れの影を早くも抱え込んでいた。
あの炭焼き窯に刻まれていた黒い譜面。
火の断章は、まだ眠らせておけ。
その言葉が、喉の奥に棘のように残っている。
トマを助け出したことで、一つの事件は終わった。
だが、この町に落ちている黒譜術の影は、まだ消えていない。
リシアは視線を町の入口へ戻した。
そこに、ガルドがいた。
老人は人々の輪から少し離れ、黙ってトマを見ている。
助かったことを喜んでいないわけではない。
けれど、その目には安堵よりも、深い疲労と恐れがあった。
カイルがガルドの前まで歩いた。
手には、借りた短槍がある。
「……これ」
カイルは短槍を差し出した。
「助かった。ありがとう」
ガルドは短槍を受け取らなかった。
「礼を言う相手が違う」
「違わない。これがなかったら、俺は森で何もできなかった」
「それはお前が使ったからだ」
「でも、あんたが貸してくれた」
カイルの声は素直だった。
森へ向かう前の怒りに満ちた声とは違う。
ガルドはしばらく短槍を見ていた。
それから、無言で受け取る。
短槍の穂先には、影狼の黒い靄がわずかにこびりついていた。普通の汚れとは違う。煤のようでいて、触れれば音が歪みそうな気配を持っている。
ガルドの眉が動いた。
「これは……」
「影狼の喉元に、黒い譜面のような印がありました」
リシアが言うと、ガルドはゆっくり顔を上げた。
「黒い譜面?」
「歌魔術を歪める術です。おそらく、影狼もその影響を受けていました」
町の人々がざわつく。
「歌魔術を歪める?」
「そんなものがあるのか」
「じゃあ、森に出た魔物は自然に来たんじゃないのか?」
不安が再び広がり始める。
リシアはその空気を感じ取り、声を強めすぎないように言った。
「まだ断定はできません。ただ、炭焼き窯に黒譜術の痕跡がありました。トマくんの心歌も、一時的に覆われていました」
「心歌……」
ミラがトマを抱いたまま、リシアを見る。
「それで、トマの声を聞いてくれたんですね」
「はい。でも、私は一度、聞き違えました」
リシアは正直に言った。
カイルが目を向ける。
「聞き違え?」
「トマくんが火を怖がっていると知って、火から離れた場所にいると思い込みかけました。でも実際には、黒い歌がその恐怖を利用していました。火が怖いからこそ、逃げる方向を乱されていたんです」
リシアは小さく頭を下げる。
「もっと早く気付くべきでした」
ミラはすぐには答えなかった。
トマを抱きしめる腕に力が入る。
リシアの胸が小さく痛んだ。
責められても仕方がない。
心歌を聞けるからといって、すべてが分かるわけではない。むしろ、聞こえた断片に引っ張られて、間違った解釈をしてしまうこともある。
その危うさを、今のリシアは忘れてはいけない。
やがて、ミラは首を横に振った。
「それでも、トマを連れて帰ってくれました」
「……はい」
「だから、ありがとうございます。でも」
ミラは唇を噛んだ。
「まだ終わってないんですよね」
リシアは頷いた。
「おそらく」
空気が重くなる。
その時、トマが小さくリシアの方を見た。
「お姉さん」
「はい」
「あの火、まだいる?」
リシアは息を呑んだ。
「トマくん、何か見たんですか」
トマはミラの服をぎゅっと掴んだ。
「森の小屋の火。赤いのに、黒い歌がした。こわかった。火なのに、あったかくなかった」
ミラが弟の頭を撫でる。
リシアは膝をつき、トマと目線を合わせた。
「その歌は、何て言っていましたか」
「……忘れろって」
トマの声が震える。
「こわいのも、いたいのも、さみしいのも、ぜんぶ火に入れたらなくなるって。だから、おいでって」
周囲の大人たちが沈黙した。
リシアの背筋に冷たいものが走る。
星詠みの歌の暴走。
憎しみだけでなく、愛や夢、願いまでも薄れさせた伝説の歌。
黒譜術が、それを模倣しているのだろうか。
苦しみを消す。
恐怖を忘れさせる。
だが、それは救いではない。
痛みと一緒に、その人が抱えていた大切な想いまで奪うものだ。
リシアは歌詞帳に手を置いた。
ページの奥で、火の印が小さく震えている。
「ガルドさん」
リシアは老人を見た。
「この町の炉にも、同じような黒譜術がかかっている可能性があります」
ガルドの目が鋭くなった。
「何を根拠に」
「森の炭焼き窯と、あなたの工房の炉から、似た音が聞こえました。消えかけた火の下に、何かが封じられているような音です」
「歌術師の耳か」
「はい」
「便利な耳だな」
ガルドの声には棘があった。
リシアはその棘を受け止める。
「便利ではありません。聞き間違えます。聞きすぎれば、自分の感情と混ざります。今も、あなたが私を拒んでいることは分かります。でも、その理由までは分かりません」
ガルドは何も言わない。
「だから、聞かせてください」
「断る」
即答だった。
カイルが顔を上げる。
「ガルド!」
「お前は黙っていろ」
「黙ってられるかよ! トマがこんな目に遭ったんだぞ!」
「だから何だ」
ガルドの声が低くなる。
「炉を開ければ全部解決するのか。俺がまた鉄を打てば、影狼も黒い歌も消えるのか。違うだろう」
「でも、何か知ってるんだろ!」
「知らん」
「嘘だ!」
カイルが短槍の柄を握りしめる。
「森の黒い火を見た時、あんたの顔が変わった。町の炉の話になったら、また逃げようとしてる。あんたはずっとそうだ! 剣を打たない、炉を開けない、何も話さない! そのくせ、全部知ってるみたいな顔をする!」
「知ったところでどうなる」
ガルドの声に、初めて怒りが滲んだ。
「話せば戻るのか。折れた剣が戻るのか。死んだ奴らが帰るのか。夢だの希望だの言って町を出ていった若造どもが、みんな笑って帰ってくるのか!」
通りが静まり返った。
リシアはガルドの心歌が揺れるのを感じた。
閉ざされていた炉の扉が、ほんの少しだけ開いたように。
そこから漏れたのは、怒りではなかった。
焼けるような後悔。
『俺が打った。』
『俺が持たせた。』
『折れなければ。』
『いや、折れてよかったのか。』
『剣などなければ。』
『夢など見せなければ。』
リシアは息を止めた。
ガルドの後悔は、ただ戦争で武器を作ったことだけではない。
もっと個人的な傷がある。
誰かに剣を打った。
誰かに夢を渡した。
そして、その誰かは帰ってこなかった。
「ガルドさん」
リシアは静かに言った。
「あなたは、誰の剣を打ったんですか」
ガルドの顔色が変わった。
「……黙れ」
「その人は、あなたにとって――」
「黙れと言った!」
怒号が響いた。
リシアの胸に、拒絶の痛みが跳ね返る。
共鳴詩を紡ぐ前に、心が押し返された。
踏み込みすぎたのだ。
リシアは一歩下がった。
シルが肩の上で低く鳴く。
ガルドは荒い息を吐き、工房へ向かって歩き出した。
「俺の炉に近づくな。歌もいらん。慰めもいらん。町のことは町の者で何とかする」
「何とかって、どうするんだよ!」
カイルが叫ぶ。
ガルドは振り返らなかった。
「影狼が出るなら、森へ入らなければいい」
「それじゃ薪も炭も取れない! 炉も動かせない! 町が終わるだろ!」
「終わればいい」
その言葉に、町の空気が凍った。
ガルドは立ち止まり、背を向けたまま続けた。
「人を戦場へ送る剣を打つくらいなら、炉など消えた方がいい」
誰も何も言えなかった。
ガルドは工房の中へ入り、重い扉を閉めた。
その音が、通りに長く残った。
夜。
ラグナ工房町には、いつもより早く灯りが落ちた。
トマは町医者に診てもらい、命に別状はないと分かった。足の傷も深くはない。ただ、恐怖と疲労で高い熱を出し、今はミラのそばで眠っているという。
カイルは一度も休もうとしなかった。
森から戻った直後は気が張っていたが、時間が経つにつれて、体のあちこちに痛みが出始めたらしい。腕には影狼の爪を受けた擦り傷があり、肩も打っている。それでも彼は工房町の広場に残り、北の森を見張る人々と話していた。
リシアは宿の小さな部屋で、歌詞帳を開いていた。
机の上には、宿の女将が持たせてくれた温かい薬草茶がある。シルはその横で丸くなり、木の実を抱えていた。
「シル、それはどこから?」
シルは目を逸らした。
「宿の台所?」
シルはさらに目を逸らした。
「あとで謝りに行こうね」
シルは、聞こえないふりをした。
リシアはため息をつきながらも、少しだけ笑った。
その小さな笑いが消えると、部屋には静かな重さが戻った。
歌詞帳のページには、火の印がある。
その下に浮かびかけた一節。
――怖くても、消さなかった小さな火は……
そこから先は、まだ白紙のままだ。
リシアは羽ペンを手に取る。
続きを書こうとして、止まる。
違う。
まだ書けない。
トマの焼き栗だけでは、この町の歌には届かない。
カイルの後悔も、ミラの涙も、ガルドの閉ざした炉も、まだ一つの歌になっていない。
それなのに、綺麗な言葉でまとめてしまえば、歌詞は嘘になる。
リシアは羽ペンを置いた。
「難しいね、シル」
シルは木の実をかじりながら、ちい、と鳴いた。
「今のは、分かるって意味?」
シルはもう一度鳴いた。
「それとも、木の実がおいしいって意味?」
シルは木の実を抱え直した。
「そっちかもしれないね」
リシアは苦笑し、窓の外を見た。
工房町の夜は暗い。
王都のように夜遅くまで灯る店もなければ、吟遊詩人の歌も聞こえない。
ただ、どこかから微かな鉄の匂いが漂ってくる。
そして、その奥に、消えかけた火の残響がある。
――まだ、終われない。
リシアは立ち上がった。
「行こう、シル」
シルが木の実を抱えたまま顔を上げる。
「ガルドさんの工房へ」
シルは一瞬、動きを止めた。
それから、木の実を頬袋に押し込み、リシアの肩へ駆け上がる。
「……今、何個入れたの?」
シルの頬は少し膨らんでいた。
「あとで水を飲もうね」
夜の工房町は、昼間よりさらに静かだった。
リシアは灯りを持たず、月明かりを頼りに通りを歩いた。歌術師だからといって、夜目が利くわけではない。何度か石畳の段差につまずき、そのたびにシルが肩の上で揺れた。
「ごめん」
ちい。
「今のは怒ってるね」
そんな小声のやり取りをしながら、リシアはガルドの工房の前に着いた。
昼間見た時よりも、その工房は大きく見えた。
扉は重く閉ざされている。
看板は煤で黒ずみ、窓の内側は暗い。
だが、完全な闇ではなかった。
扉の隙間から、かすかに赤い光が漏れている。
炉の火。
リシアは眉を寄せた。
ガルドは炉を閉ざしているはずだった。
誰も火を入れていないはずの工房で、なぜ光が漏れているのか。
その時、工房の中から低い声が聞こえた。
「帰れ」
リシアは驚かなかった。
気付かれていると思っていた。
「入ってもいいですか」
「駄目だ」
「では、ここで話します」
「話すことはない」
「私はあります」
扉の向こうで、沈黙が落ちた。
リシアは扉に触れないまま、静かに続ける。
「森の炭焼き窯に刻まれていた黒譜術は、町の炉にも繋がっていると思います。あの黒い歌は、痛みや恐怖を消すふりをして、想いごと眠らせようとしていました」
「……」
「それは、あなたの炉にもかかっているのではありませんか」
長い沈黙。
やがて、扉の向こうから鍵の外れる音がした。
扉がわずかに開く。
中から、煤と冷えた鉄の匂いが流れてきた。
「入れ」
ガルドの声は疲れていた。
リシアは一礼し、工房へ入った。
中は広かった。
壁には道具が整然と並び、使い込まれた金槌や火箸、やすりが月明かりを受けて鈍く光っている。長く使われていないはずなのに、埃はほとんどなかった。ガルドが毎日手入れだけはしているのだと分かる。
奥に大きな炉があった。
ラグナ工房町を支えてきた炉。
今、その火床には灰が積もっている。
だが灰の底に、小さな赤い光があった。
火というより、傷口のような光。
そして、その上に黒い譜面の線が巻きついている。
森の炭焼き窯で見たものと同じ。
いや、こちらの方がずっと古く、深い。
リシアの歌詞帳が強く震えた。
シルが肩の上で身を低くする。
「触るな」
ガルドが言った。
「歌うな。近づきすぎるな。あれは、火じゃない」
「黒譜術ですね」
「名前は知らん」
ガルドは炉の前に立った。
赤い光に照らされた顔は、昼間よりずっと老いて見えた。
「ある日から、炉の底であれが鳴るようになった。火を入れようとすると、声が聞こえる」
「声?」
「忘れろ、と」
リシアは息を呑む。
トマが聞いた黒い歌と同じだ。
「打った剣のことを忘れろ。戦場へ送った鉄のことを忘れろ。帰らなかった若者の顔を忘れろ。そうすれば楽になると、あれは歌う」
ガルドは炉の縁に手を置いた。
「最初は、悪くないと思った」
その言葉は、あまりにも苦しかった。
「眠れなかった。炉を見るたび、あいつらの顔が浮かんだ。剣を打てば、また誰かが死ぬ気がした。槌を握る手が震えた。そんな時、炉の底から歌が聞こえた。忘れればいい。痛みを灰に沈めればいい。夢も、後悔も、全部燃やしてしまえばいい」
ガルドは自嘲するように笑った。
「笑えるだろう。歌など嫌いだと言いながら、俺はその歌に縋りかけた」
リシアは何も言えなかった。
歌を憎む人がいる。
歌に救われた人がいる。
そして、救いに見える歌に縋りたくなるほど、傷ついた人もいる。
ガルドは炉の奥を見つめたまま続けた。
「だが、途中で気付いた。あれに耳を澄ませるほど、何かが薄れていく。悔しさも、悲しみも、あいつらの顔も、声も。俺が大事にしていたはずのものまで、全部ぼやけていく」
「だから、炉を閉ざしたんですね」
「そうだ」
ガルドは頷いた。
「火を入れれば、あの黒い歌が強くなる。俺が槌を打てば、町中に広がる気がした。だから閉じた。炉を閉じれば、町はゆっくり死ぬ。だが、あの歌に呑まれるよりはましだと思った」
リシアは炉を見る。
灰の底の赤い光。
その周りに巻きつく黒い譜面。
ガルドは逃げていただけではない。
町を守ろうとしていた。
ただし、その守り方が、町そのものを窒息させていた。
「誰の剣を打ったんですか」
リシアは静かに尋ねた。
ガルドの肩がわずかに揺れる。
「昼間の続きか」
「はい」
「聞いてどうする」
「歌にするためではありません」
リシアはそう言った。
「まず、あなたが何を閉じ込めているのか、知りたいんです」
ガルドは長く黙った。
拒絶されると思った。
だが、今度は違った。
彼は炉の横に置かれた木箱を開けた。
中から一本の剣を取り出す。
古い剣だった。
刃は半ばで折れている。
カイルの剣よりも、ずっと古い。
柄には焦げた革紐が巻かれ、鍔には小さな花の模様が刻まれていた。
リシアはその花を見た瞬間、胸の奥で残響が揺れるのを感じた。
「俺の娘の剣だ」
ガルドは言った。
声は静かだった。
静かすぎるほどだった。
「名はリナ。鍛冶師になると言っていた。女が槌を握るなと笑う連中を、全部腕で黙らせるような娘だった」
リシアは折れた剣を見つめる。
刃の根元に、丁寧な打ち跡がある。
実用一点張りではない。
使う者の手に馴染むよう、何度も調整された剣だ。
「戦争が始まって、あいつは騎士団へ志願した」
ガルドの手が、剣の柄を撫でた。
「俺は止めた。鍛冶師なら後方でできることがある。炉を守れと言った。だが、あいつは聞かなかった。自分が打つ剣を、誰かに持たせるだけでは嫌だと言った。守るとは何か、自分の手で知りたいと」
リシアの胸に痛みが走る。
夢。
鍛冶師としての夢。
守る者になりたいという願い。
それは、きっと美しいものだった。
だからこそ、残酷だ。
「出征前、リナは俺に剣を打ってくれと言った」
ガルドは目を伏せた。
「俺は断るべきだった。鉄など渡さず、泣いてでも止めるべきだった。だが……あいつの目が、炉の火みたいにまっすぐだった」
リシアは言葉を挟まなかった。
「俺は打った。父親としてではなく、鍛冶師として。最高の剣を打ったつもりだった。折れない剣を。守れる剣を。帰ってくるための剣を」
ガルドの声がかすれた。
「だが、折れた」
炉の火が、かすかに揺れた。
「戦場から戻ってきたのは、この剣だけだ。リナは帰らなかった。遺体も見つからなかった。折れた剣と、戦死の知らせだけが戻った」
リシアは息をするのを忘れそうになった。
アイシャ。
遺体の戻らなかった幼なじみ。
戦死したと記録され、名前だけが石碑に刻まれた少女。
ガルドの痛みは、遠いものではなかった。
リシア自身の傷と、あまりにも近い場所にあった。
「それからだ」
ガルドは言った。
「俺は剣を打てなくなった。町の若い奴らが冒険者になりたいと言っても、笑って背中を押すことができなくなった。夢を持つなと言いたくなった。剣を持つなと言いたくなった。守りたいものなど持つから、失うのだと思った」
その声は、昼間の怒鳴り声よりずっと痛かった。
「カイルも、ミラも、トマも。あいつらはリナのことを知らん。だが、あの目をしていた。外へ出たい。誰かを守りたい。自分の手で何かを掴みたい。そういう、若い火を持っていた」
「だから、止めたんですね」
「止めたかった」
ガルドは折れた剣を握りしめた。
「だが、止めれば止めるほど、あいつらは俺を越えて行こうとした。リナと同じだ。俺にはもう、何が正しいのか分からん」
リシアはガルドの心歌を聞いた。
今度は、無理に聞こうとしなくても届いた。
『夢など燃え尽きればいい。』
『だが、あの目を消したくない。』
『剣など打ちたくない。』
『でも、守るための鉄まで捨てていいのか。』
『リナ。』
『俺は、お前の夢まで憎んでしまったのか。』
リシアの胸が震えた。
ここで歌うべきなのか。
ガルドはまだ歌を拒んでいる。
彼の傷は深い。
綺麗な言葉で「娘さんはあなたを恨んでいない」などと言うことはできない。リナの心を聞いていない以上、そんな歌は嘘になる。
だが、残響歌なら。
この剣に残った想いを聞くことはできるかもしれない。
「ガルドさん」
リシアは慎重に言った。
「その剣に触れてもいいですか」
ガルドの目が鋭くなる。
「リナを歌にするつもりか」
「いいえ。リナさんを勝手に歌にはしません」
「なら、なぜ」
「剣に残っている想いを聞きます。ただし、聞こえたものが真実のすべてとは限りません。断片です。私が間違えることもあります」
リシアはまっすぐガルドを見た。
「それでも、聞きますか」
ガルドはすぐには答えなかった。
炉の底で、黒い譜面が静かに鳴っている。
忘れろ。
忘れれば楽になる。
その歌が、微かにリシアにも届く。
甘く、優しく、恐ろしい歌。
ガルドは折れた剣を見つめ続けた。
やがて、掠れた声で言った。
「聞け」
リシアは両手で剣を受け取った。
重い。
古い鉄の重み。
血と煤と、長い時間を閉じ込めた重み。
シルが肩の上で静かになる。
リシアは目を閉じた。
残響歌を開く。
瞬間、熱が流れ込んだ。
炉の火。
槌の音。
若い女性の笑い声。
『父さん、もっと軽くできない? これじゃ腕が先に疲れる』
『軽けりゃいいってもんじゃない。お前は力任せに振りすぎる』
『うるさいなあ。分かってるって』
明るい声。
リナだ。
ガルドによく似た強さと、まっすぐな熱を持った声。
場面が変わる。
出征の朝。
若い女性が剣を腰に下げ、工房の前に立っている。
ガルドは何も言わない。
言えば止めてしまうから。
リナは笑っていた。
『父さん』
彼女は剣の柄を叩く。
『この剣、絶対に誰かを守るために使うよ』
ガルドは答えない。
リナは少し困ったように笑う。
『帰ってきたら、今度は私が父さんを越える剣を打つから。炉、消さないでよ』
リシアの胸に、熱いものが込み上げる。
次の残響は戦場だった。
煙。
叫び声。
崩れる防壁。
リナは剣を振るっている。
強い。
けれど、圧倒的な英雄ではない。
怖がっている。
足は震えている。
それでも、彼女は誰かの前に立っている。
背後には、逃げ遅れた子どもたちがいた。
剣に亀裂が入る。
魔物の爪を受けたせいではない。
何度も何度も、限界を越えて受け止め続けたからだ。
『折れるな……!』
リシアの心が震えた。
カイルの剣に残っていた叫びと、同じ音。
守るために、折れないでくれと願う声。
けれど、剣は折れた。
甲高い音。
リナの腕から力が抜ける。
彼女は膝をつく。
それでも、折れた剣の柄を握ったまま、背後の子どもへ言った。
『走って』
子どもが泣きながら逃げる。
リナは笑っていた。
怖いのに。
痛いのに。
笑っていた。
『父さん、ごめん』
その声が、リシアの胸を貫いた。
『でも、この剣、折れたけど……負けてないよ』
景色が白く弾けた。
リシアは現実に戻った。
息が荒い。
頬に涙が流れていた。
剣を握る手が震えている。
ガルドが目の前に立っていた。
その顔は、今にも崩れそうだった。
「何が……聞こえた」
リシアはすぐに答えられなかった。
言葉にすれば、ガルドの傷に触れる。
でも、黙ればリナの想いが届かない。
リシアは剣を両手で持ち直し、ゆっくりと口を開いた。
「リナさんは、あなたの剣を恨んでいませんでした」
ガルドの顔が歪む。
「そんな慰めは――」
「慰めではありません」
リシアは静かに遮った。
「でも、これが真実のすべてだとも言いません。私に聞こえたのは、剣に残った最後の断片です」
ガルドは唇を噛む。
リシアは続けた。
「リナさんは怖がっていました。痛がっていました。死にたくなかったと思います。あなたに謝っていました。でも、その剣で守った子どもがいました」
ガルドの目が見開かれた。
「子ども……?」
「はい。リナさんは最後に、その子へ走ってと言いました。そして、こう言いました」
リシアの声が震える。
「この剣は、折れたけど、負けていない、と」
ガルドの手から力が抜けた。
彼はその場に立ったまま、折れた剣を見つめた。
長い沈黙。
炉の底で、黒い譜面がざわめく。
忘れろ。
そんなものは都合のいい残響だ。
痛みを手放せ。
夢など灰にしろ。
黒い歌が強くなる。
リシアの喉が痛んだ。
黒譜術が、ガルドの心を再び閉じようとしている。
ここだ。
ここで逃げれば、ガルドはまた炉を閉ざす。
でも、無理に歌えば、彼の痛みを押し流してしまう。
リシアは自分に問いかけた。
今、必要な歌は何か。
励ましではない。
夢を諦めるなという歌でもない。
娘は望んでいるという、都合のいい言葉でもない。
ガルドの痛みを消す歌でもない。
必要なのは、彼が灰の底に残してしまった火を、彼自身のものとして見つめ直すための歌。
リシアは歌詞帳を開いた。
火の印が強く光る。
黒い滲みがページに広がろうとする。
シルが歌詞帳の上に前足を置き、低く鳴いた。
まるで、その黒い滲みを押し返すように。
「シル……」
リシアは小さく頷いた。
そして、歌い始めた。
それは明るい歌ではなかった。
炉に火を入れる時のように、低く、静かで、灰の奥を探るような歌。
ガルドの心をこじ開けるのではない。
リナの想いを押しつけるのでもない。
ただ、折れた剣に残っていた熱を、彼の前に置く。
――折れた刃は、帰れなかった道を知っている。
――焦げた柄は、握った手の震えを覚えている。
――守れなかった夜もある。
――守れた命も、確かにある。
黒譜術が唸る。
炉の底の赤い光が黒く濁る。
リシアの声が一瞬、歪んだ。
喉に鋭い痛み。
歌が途切れそうになる。
ガルドが叫んだ。
「やめろ! 無理に歌うな!」
その声に、リシアは目を開けた。
初めてだった。
ガルドが歌を拒むためではなく、リシアを案じて声を上げたのは。
「……大丈夫です」
「大丈夫な声じゃない!」
「それでも、ここで止めたら、あなたはまた忘れようとします」
リシアは苦しげに微笑んだ。
「忘れた方が楽な痛みはあります。でも、忘れてしまったら、一緒に消えてしまう想いもあります」
ガルドが息を呑む。
リシアは歌を続けた。
声はかすれていた。
美しいとは言えない。
けれど、それでいい。
綺麗な歌でなくてもいい。
この歌は、灰の底を掘り起こす歌だから。
――夢は、叶わなければ無意味なのか。
――火は、燃え尽きれば終わりなのか。
――いいえ。
――誰かを照らした熱は、灰の底にも残っている。
ガルドの手が震えた。
リナの折れた剣を、彼は胸に抱いた。
「リナ……」
その名が、初めて工房に落ちた。
黒い譜面が大きく揺らいだ。
炉の底の赤い光が、一瞬だけ本物の火の色に戻る。
リシアの歌詞帳に文字が浮かぶ。
だが、まだ完成しない。
最後の一節には、ガルド自身の選択が必要だった。
リシアは歌を止めた。
喉が焼けるように痛む。
だが、これ以上は歌わない。
最後に火を入れるのは、リシアではない。
「ガルドさん」
リシアは掠れた声で言った。
「私は、あなたの代わりに炉へ火を入れることはできません」
ガルドは折れた剣を抱いたまま、炉を見た。
「……俺が入れた火で、また誰かが死ぬかもしれん」
「はい」
「俺が打った鉄で、誰かが傷つくかもしれん」
「はい」
「それでも、鉄がなければ守れない命もある」
「はい」
リシアは頷いた。
「決めるのは、あなたです」
ガルドの心歌が震える。
『怖い。』
『もう打ちたくない。』
『でも、炉を消したままでは、リナの夢まで灰にしてしまう。』
『俺は、何を守りたかった。』
ガルドはゆっくりと炉の前に立った。
壁に掛けられた火打ち具を手に取る。
何年も使っていないはずなのに、その動きは鍛冶師そのものだった。
リシアは一歩下がる。
シルが肩の上で息を潜めている。
ガルドは火打ち石を構えた。
だが、手が止まる。
「リシア」
初めて、彼は名を呼んだ。
「この火は、夢を叶える火ではないな」
リシアは静かに答えた。
「はい」
「死者を戻す火でもない」
「はい」
「痛みを消す火でもない」
「はい」
ガルドは目を閉じた。
「なら……残った者が、まだ何を守るのかを見るための火だ」
火打ち石が打たれた。
小さな火花が散る。
乾いた火口に、赤い点が宿る。
その瞬間、炉の底に巻きついていた黒い譜面が激しく暴れた。
忘れろ。
眠れ。
火を消せ。
その歌が工房いっぱいに響く。
リシアの歌術を妨害する黒譜術。
けれど今、火を入れているのはリシアではない。
ガルド自身だ。
彼の手が、彼の意志が、黒い歌を押し返していく。
火口の赤が大きくなる。
灰の底に眠っていた熱が、少しずつ息を吹き返す。
シルが高く鳴いた。
ちいっ!
リシアの歌詞帳が眩しく光る。
ページの黒い滲みが、火の線に焼かれるように退いていく。
炉に火が入った。
まだ小さい。
頼りない火だ。
けれど、確かに燃えている。
ガルドはその火を見つめ、声を震わせた。
「リナ。俺は……お前の夢を、憎みたかった」
火が揺れる。
「憎めば楽だった。剣が悪い。戦争が悪い。夢が悪い。そう言えれば、俺は鍛冶師でなくて済んだ」
ガルドの頬を涙が伝った。
「だが、お前は……折れても負けていなかったのか」
その問いに、死者は答えない。
けれど、炉の火は消えなかった。
リシアは歌詞帳を見た。
白紙だった部分に、文字が浮かんでいく。
今度はリシアが書いたのではない。
旅の中で拾った想いが、一節として形を持ち始めていた。
――怖くても、消さなかった小さな火は、
――灰の底で、次の手を待っている。
リシアは息を呑んだ。
火の断章。
完全ではない。
まだ断章の一部にすぎない。
けれど、確かに一節が生まれた。
炉の火がもう一度揺れる。
黒い譜面の線は完全には消えていない。炉の石の奥に、薄く焦げ跡のように残っている。
だが、さっきまでのように歌ってはいない。
眠ったのではない。
押し返されたのだ。
ガルドの選択によって。
その時、工房の扉の外から声が聞こえた。
「ガルド!」
カイルだった。
扉が開き、カイル、ミラ、トマ、そして数人の町人が顔を覗かせる。
夜の通りに、炉の火の光が漏れていたのだろう。
ミラはトマを抱え、驚いたように炉を見ている。
「火が……」
カイルは呆然と呟いた。
「炉に火が入ってる……」
ガルドは慌てて顔を拭った。
「見るな」
「いや、見えるだろ」
「見るなと言っている」
「無理だって」
カイルは少しだけ笑った。
だが、その目にも涙が浮かんでいた。
ミラが静かに言う。
「ガルドさん」
「何だ」
「剣を打ってほしいとは、まだ言いません」
ガルドが彼女を見る。
「でも、トマが怖がらずに持てる火掻き棒を作ってください。工房の火を、怖いものだけにしたくないんです」
トマがミラの腕の中で小さく頷いた。
「火、まだちょっと怖い。でも……シルといっしょなら見る」
シルがリシアの肩の上で、なぜ自分が巻き込まれたのか分からない顔をした。
「シル、頼りにされてるよ」
シルは少し考えたあと、胸を張った。
「褒められるとすぐ得意になるね」
カイルが短槍を持って一歩前に出た。
「ガルド。俺の剣は、まだ直さなくていい」
ガルドは目を細める。
「何だと」
「今の俺が持つには、たぶんまだ早い。森で分かった。剣が折れたのは、剣だけのせいじゃない。俺が無茶をしたせいでもある」
カイルは悔しそうに、それでも逃げずに言った。
「だから、まず短槍の使い方を覚える。守るために、突っ込むんじゃなくて、止まることも覚える」
リシアはカイルの心歌を聞いた。
まだ後悔はある。
消えていない。
けれど、その後悔は彼を死地へ走らせる炎ではなく、次に何を選ぶか考える火へ変わり始めていた。
ガルドは短槍を見た。
「……柄が歪んでいる」
「影狼にぶつけたからな」
「下手な使い方をする」
「悪かったよ」
「明日、直してやる」
カイルが目を見開いた。
「本当か」
「剣ではない」
「分かってる」
「戦うためだけの槍でもない」
「ああ」
「守るために使え。逃げるためにも使え。人を連れ帰るためにも使え」
カイルは深く頷いた。
「分かった」
そのやり取りを聞きながら、リシアは胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
全員が救われたわけではない。
ガルドの痛みが消えたわけではない。
リナは帰ってこない。
町の炉が再び完全に栄えるかも分からない。
黒譜術の痕跡も残っている。
それでも、一つだけ確かだった。
炉の火は、戻った。
誰かの命を戦場へ送り出すためではなく、残った者たちが何を守るのかを考えるために。
リシアは歌詞帳を閉じた。
その表紙が、ほんのり温かかった。
翌朝。
ラグナ工房町には、久しぶりに槌の音が響いた。
高らかな音ではない。
まだ遠慮がちな、確かめるような一打。
それでも、町の人々はその音に足を止めた。
誰かが窓を開ける。
誰かが通りに出る。
誰かが泣きそうな顔で笑う。
ガルドの工房では、炉に小さな火が入っていた。
ガルドはカイルの短槍を直している。
カイルは隣で真剣に見ていた。
ミラは椅子に座り、トマを膝に乗せている。トマは最初こそ火を怖がっていたが、シルが炉の近くで堂々と木の実をかじっているのを見ると、少しずつ顔を上げた。
「シル、そこは熱いから近づきすぎないで」
リシアが注意すると、シルは自分は分かっているという顔をした。
その直後、熱気に驚いたのか、尻尾を膨らませてリシアの肩へ逃げ戻ってきた。
「分かってなかったね」
シルは悔しそうに鳴いた。
トマが笑った。
その笑い声に、ミラの表情も和らぐ。
ガルドは槌を振る手を一度止め、工房の隅に置かれた折れた剣を見た。
リナの剣。
それはもう隠されていなかった。
壁に掛けられ、花の模様が朝の光を受けている。
折れたまま。
けれど、恥じるものとしてではなく、工房の一部としてそこにあった。
リシアはその光景を見つめる。
そして、歌詞帳を開いた。
昨夜生まれた一節が、はっきりと刻まれている。
――怖くても、消さなかった小さな火は、
――灰の底で、次の手を待っている。
その下に、小さな火の印があった。
火の断章の欠片。
リシアには、それがまだ大きな歌のほんの一部にすぎないことが分かった。
星詠みの歌。
失われた伝説の歌。
自分が集めている歌詞がそこへ繋がるのだとしたら、この旅はただ人々の想いを記録するだけでは終わらない。
黒譜術はそれを封じようとしている。
火の断章は、まだ眠らせておけ。
あの言葉の主は誰なのか。
なぜ、この町の火を狙ったのか。
リシアはページを指でなぞった。
「リシア」
ガルドが呼んだ。
彼は作業台から、小さなものを持ってきた。
金属で作られた小さな栞だった。
火と槌の紋様が刻まれている。
「これは?」
「余り鉄だ。礼には足りんが、歌詞帳にでも挟んでおけ」
「ありがとうございます」
「勘違いするな。歌を全部認めたわけじゃない」
ガルドはぶっきらぼうに言った。
「歌は怖い。人を酔わせることもある。痛みを綺麗に見せることもある。俺はまだ、歌が好きにはなれん」
「はい」
リシアは頷いた。
「でも、昨日の歌は」
ガルドは少しだけ視線を逸らした。
「炉を開ける前に、置いておくには悪くなかった」
それは不器用な感謝だった。
リシアは微笑んだ。
「それで十分です」
ガルドは鼻を鳴らし、炉へ戻っていった。
カイルが小声で言う。
「あれ、かなり褒めてるぞ」
「そうなんですか?」
「あの頑固じじいが『悪くなかった』って言うのは、王様が勲章くれるくらい珍しい」
ガルドの槌がカイルの足元に落ちた。
「聞こえている」
「わざと聞こえるように言った!」
「なら、その曲がった根性から叩き直すか」
「短槍だけでお願いします!」
工房に笑いが起きた。
小さな笑い。
戦争で失ったものを取り戻すには足りない。
町の未来を保証するにも足りない。
それでも、昨日までのラグナにはなかった音だった。
リシアはその音を胸にしまった。
旅立ちの準備を終えたのは、昼前だった。
町の出口まで、カイルとミラ、トマ、そしてガルドが見送りに来た。
トマはシルに小さな袋を差し出した。
「これ、焼き栗」
シルの目が輝く。
「シル、ちゃんとお礼」
シルは袋を抱えたまま、ちい、と鳴いた。
トマは嬉しそうに笑った。
「また来てね」
「はい」
リシアは膝をつき、トマの目を見た。
「でも、今度は森で迷わないように」
「うん。怖かったら、怖いって言う」
「それが一番大事です」
ミラが静かに頭を下げた。
「ありがとうございました。リシアさん」
「私だけではありません。カイルさんも、ドランさんも、ガルドさんも、町の皆さんも動いたからです」
「それでも、あなたが聞いてくれたから」
ミラは弟の手を握る。
「トマの小さな声を、消さずにいてくれたから」
リシアは胸が詰まりそうになった。
「……はい」
カイルは短槍を肩に担いでいた。
穂先は綺麗に直され、柄も調整されている。
「次に会う時は、もう少しましに扱えるようになってる」
「無茶はしないでください」
「分かってる。行くためだけじゃなく、帰るために使うんだろ」
「はい」
カイルは少し照れたように笑った。
最後に、ガルドがリシアの前に立った。
「旅を続けるのか」
「はい」
「歌が怖くてもか」
「怖いです。でも、怖いからこそ、聞き続けたいと思っています」
「そうか」
ガルドは頷いた。
「なら、覚えておけ。火は、人を暖める。鉄を鍛える。飯も作る。だが、家を焼くこともある」
「はい」
「歌も同じだ。使い方を間違えれば、優しい顔で人を焼く」
リシアは胸元の徽章に触れた。
「忘れません」
「忘れそうになったら、その栞を見ろ」
ガルドはそう言って、ぶっきらぼうに背を向けた。
けれど、数歩歩いたところで立ち止まる。
「それと」
振り返らずに言った。
「あの歌詞。悪くなかった」
リシアは目を丸くした。
カイルが小声で言う。
「二回目だ。明日は雪が降るな」
「カイル」
「はい、すみません」
リシアは笑った。
自然に。
胸の奥に残る痛みは消えていない。
アイシャのことも、進軍詩のことも、答えはまだどこにもない。
それでも、ラグナの町で一つだけ知った。
夢は、燃え尽きたら終わりではない。
折れた剣にも、消えかけた炉にも、誰かが守ろうとした熱は残っている。
それを未来へ渡すかどうかは、生きている者が選ぶことなのだ。
リシアは町を出た。
肩の上では、シルが焼き栗の袋を大事そうに抱えている。
「シル。それ、全部一人で食べないでね」
シルは目を逸らした。
「聞いてる?」
ちい。
「今の返事、信用できない」
シルは袋をさらに強く抱えた。
リシアは呆れながらも笑い、街道の先を見る。
歌詞帳の中で、火の断章の一節が静かに光っている。
だが、そのページの隅には、まだ薄く黒い線が残っていた。
完全には消えていない黒譜術の跡。
リシアはそれを指でなぞる。
すると、ほんの一瞬だけ、どこか遠くから冷たい旋律が聞こえた。
歌を、集めるな。
その声は男とも女ともつかなかった。
けれど、明確な意志があった。
リシアは足を止める。
シルも焼き栗を抱えたまま、同じ方向を見た。
西の空。
雲一つない青空の向こうで、見えない誰かがこちらを見ているような気がした。
「……黒譜の民」
リシアは小さく呟いた。
名前を知っていたわけではない。
けれど、その言葉が自然に口から落ちた。
歌を封じようとする者たち。
星詠みの歌の完成を止めようとする者たち。
彼らはもう、リシアの旅を見ている。
リシアは歌詞帳を閉じた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
それでも、ラグナで得た火は消えなかった。
「行こう、シル」
リシアは歩き出す。
銀色のリスが、肩の上で小さく鳴いた。
その声はいつもより少しだけ真剣で、でも焼き栗の袋だけはしっかり抱えたままだった。
リシアは空を見上げる。
旅はまだ始まったばかりだ。
歌は人を救えるのか。
その答えは、まだ遠い。
けれど、灰の底に残る火のように、消えていない音がある。
ならばリシアは、それを聞きに行く。
歌うために。
歌わないために。
そして、誰かが自分の手で次の火を選べるように。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
「夢の残り火編」は、消えかけた炉と、折れた剣と、それでも残っていた小さな火の物語でした。
リシアがラグナ工房町で受け取った歌詞は
『怖くても、消さなかった小さな火は、
灰の底で、次の手を待っている。
折れた刃が、終わりを告げても、
守った熱は、まだ消えない。
夢は叶うためだけにあるんじゃない。
誰かの明日を、少し照らすためにある。』
ガルド、カイル、ミラ、トマ。
それぞれの後悔と願いが、リシアの歌詞帳に一節として刻まれました。
けれど、黒譜術の影はまだ消えていません。
リシアとシルの旅は、次の町へ続きます。
次話も読んでいただけたら嬉しいです。




